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民明書房〜FF編

208(・ω・):2004/06/24(木) 08:35 ID:4ZAYL0jc
長いけど投稿してみる。つまらなくても石投げないで('A`)

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久里尼印度(くりあまいんど)

 三蔵法師・玄奘の生きた、唐の太宗皇帝時代のとある歴史書は、異聞として若かりし日の
玄奘が大変な放蕩者であり、天竺(印度)には行ったが、唐には戻らなかったと伝えている。

 修行僧の玄奘は、法力が尽きても座禅を組まず、自ら仕込んだ夜具酒を鯨飲し、女の尻を
追い掛け回すのを日課としていた。そのくせ、法力は寺の高僧をもしのぐほどであったという。
 対応に苦慮した僧たちは一計を案じ、「天竺の麗しき姫君が高僧を婿に探している」という
うわさを広めた。考えれば拙い嘘だが、真偽を確かめる術のない当時、姫君に目が眩んだ
玄奘は修行に出ると告げ、早々に寺を去ったのである。

 当時の唐は、隋が滅んでから日も浅く、野盗賊や追いはぎが蔓延っていた。玄奘も例外
ではなく、最初のうちこそ派手な法力で野盗を追い払っていたが、幾度とない戦いで夜具酒も
底をつき、精根尽き果ててしまった。一歩も動けなくなった玄奘は、死を覚悟して初めて身を
正し、座禅を組んで仏に祈ったのである。
 起こるべくして起きた奇跡だが、玄奘の法力はすっかり回復し、仏への信心を日に日に高めた
という。仕舞ったままだった経典もすべて読破し、立派な僧として成長を遂げていった。

 そんな玄奘が天竺についたとき、二度目の奇跡が起こった。なんと、天竺には本当に麗しき
姫君がおり、信心深い高僧を婿にと探していたのである。すでに当初の目的など忘れていた
玄奘だが、唐から来た立派な僧の話が広まるや、姫君の方が捨て置かず、玄奘を見初めて
国を挙げての婚礼の儀となったという。
 ふたりは、世の人が「永」遠に「栄」え「富」めることを願い、仏舎利で清めた白装束を一生
身に纏って過ごしたという。ちなみに、「おしゃれさん」とは、ふたりの装束を「お舎利さん」と
民衆が褒め称えた故事に由来することは言うまでもない。

 その後、印度までの久里の道のりをものともせずに結ばれた愛の話は、若干美化されて
唐にも伝わり、座禅こそ僧侶の基本として、「久里尼印度」の名で語り継がれることになった。

 なお、己の「永・栄・富」のみを求める還暦女丈夫を、一般に「趣味が高じた廃人」と蔑むが、
本来は「仏典世界の中心である須弥山が、どれだけ高かろうとも這いつくばって進む人」を
褒める言葉である。正しき言葉が正しく伝わらないところが、廃人の廃人たる所以なのであろう。

                            (民明書房刊 『艶姿阿弥陀娘』より一部抜粋)


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