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【2020】 クソゲーオブザイヤーinエロゲー板 総評審議所

143総評5:2021/06/21(月) 00:22:33 ID:???0
さて、結果発表は終えたが、ここでひとつのやり残しと向き合わねばならない。
それは、Loseの炎上騒動後に届いた選評で提示された、
「盤外要素でも作品本体の評価に影響を与えうるのではないか?」
という問いかけである。
そこで返答を兼ね、KOTYeのコンセプトと理念を再確認しておきたい。
まず、KOTYeはゲームの出来の悪さで雌雄を決する戦場である。
よってメーカーの言動が俎上に載るのは、ゲーム内容の欠点に紐付いた原因として、でなければ余談として、このいずれかに限られる。
これを踏まえて一連の騒動を振り返ってみると、内容は悪化していないどころか、結果的には一定の改善に繋がっている。
にもかかわらず不平不満の抜本的な解消に繋がらなかったのは、炎上の主たる原因がゲームの内容ではなくメーカーの言動にあったからにほかならない。
メーカーの意図はどうあれ、「都合の悪い批評は強制削除し、旧来の支持者を養分の絞りカスとして切り捨てようとしている」と判断されたことが根源であり、問題の本質はオタクの権利と誇りの両方を侵害した点にこそある。
ゲームの「出来」が本件に及ぼした影響は限定的である一方、メーカーに対する反発や怒りといった悪感情は創作物にまで流入し、ゲームの「印象」をも著しく悪化させた。
つまり「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のことわざ通り、「作者が嫌いなので作品も嫌い」になったのである。
これは社会心理学においてバランス理論とも呼ばれ、認知の不均衡を解消しようとする自然な心の動きとされる。
「作者と作品は別」だと理屈ではわかっても、感情はそう簡単に割り切れるものではない。
それでも、KOTYeが「ゲームの出来がすべて」という基幹コンセプトを掲げている以上、そこには理性に基づいた断固たる線引きが必要なのである。
メーカーが史上稀に見る大失態を犯したとしても、ゲームの内容と固く結びついていないのならば余談であり、評価に際して重視されることはない。
これを曲げる行為は、感情に任せて自己満足のために行動し、自ら掲げたコンセプトを歪めることを意味する。
それはクソゲー誕生の構図そのものであり、まさしく怪物と闘う過程で自らも怪物と化した姿ではないか。
ハンターとは、復讐や快楽のために虐殺を行う者ではなく、怪物と合体して勃ったまま死ぬ弩級変態でもない。
罪も業も覚悟も背負い、敬意と感謝を抱いて怪物と闘う者のことである。
作品と真摯に向き合い、本質を探って解体し、咀嚼して味わい、腑に落として血肉に変え、止揚に至りて供養と成す。
そのための標として、「クソゲーを掴んでしまった怒りや憎しみを笑いに昇華する」というKOTYeの理念は存在する。
ユーモアとは、理不尽や不条理を寛大な心で眺め楽しもうとする精神の発露である。
嫌う対象を笑いものにしてやろうと画策するのではなく、哀しき怪物の顛末を、まとわりつく負の感情ごと、どうにか笑い話に着地させようと足掻くのだ。
たとえ今が、後に黄昏期と呼ばれる痩せた時代なのだとしても。
終わったあとでくだらなかったと笑い飛ばせる、愉快な旅をするために。

最後に、自ら排出した大賞作をコメディと称したJADE御大に対抗し、ハンターなりの喜劇論を提示してKOTYe2020の結びとする。

「負の中に正を求め、悲劇の先にユーモアを見出す。それこそ我々が目指す“愛ある旅路の果て(LOVE・デスティネーション)”である」


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