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時をかける嵐

22_:2002/04/17(水) 05:08

-10-

昔だったらきっと途中で下駄の鼻緒は切れる筈だった。
そんな人生を歩んできた俺は、今日という日に突如舞い下りた都合の良い変化に未だ
馴染めずにいる。突然のバイトの誘い、そして法子、もうあれ以来ずっと何年も会って
ない、そしてこれからも一生出会う事は無いと信じていた法子が俺の前にふわりと現れた。
肌に纏わりつく湿気を払い除ける様に大袈裟に腕をぶらぶらと振りつつ道端を歩く。
俺の汗に寄ってきたのか、小さなヤブ蚊が耳元で気持ちの悪い音を出して飛んでいた。

──・・こんなのきっと夢だ、暑いから俺バカんなってんだよ。

そう思いながら中居君の店に押されるように歩く俺がここにいる。夢じゃない、どこかで
そう信じようとしている俺がいる。これは夢じゃない現実だ、現に俺は見たじゃないか、
さっきのは絶対に法子で中居君は絶対にここで働かないかと誘ってくれた。いつの間にか
俺の頭の中は幸せな理想の俺、かつての俺を取り巻く世界が広がり悪夢の様な現実の世界は
遥か遠くの向こう岸に淡くぼやけていた。

「おい坊主ッ!どこ見てやがんだ馬鹿野郎!」
「わっ・・」

物凄い風圧と共に体を吹き飛ばされると同時に右肘にガツンと衝撃が襲い、俺はそこを
押さえて蹲った。ポケットから小銭が舞い飛びチャリンチャリンと道路に散らばる。
「・・・った・・」
住宅路の遥か向こうには剥げた水色の軽トラックが土煙の尾と共に走り去っている。
右側の車窓からは太い右腕が生えていて、こちらに向かって勢い良く中指が立てられていた。
「こんなの轢き逃げじゃんかよ・・」 ギッと遠方を睨みナンバープレートを読み取ろうとするが
それは土煙で所々隠れており最後の“92”しか識別出来なかった。いくら目を細めて何かの
手掛かりと見付けようとしてもそれ以上何の情報も得られそうではなく、仕方無く俺は数箇所
部分的に痛む体に鞭打ちのろのろと立ち上がった。
「・・・ってぇ・・もーツイてねーな・・もう・・毎日だけど・・」
ブツブツと呟きながら道端に飛び散った小銭を拾い集める。いくら入っていたかは知らないので
大体千円集まったら諦めようと自分の中で決まりを作った。


「村田工務店」

背後から突然男の声がし、ビクリと俺は肩を震わせた。
振り返った先は夜のせいか俺の気分のせいか、とても暗くて数メートル先は闇だった。目が
未だ暗闇に慣れていなかった事に驚きつつその存在をただ見つめる。漸くそいつの目鼻の
位置が分かりかけた頃にそいつは言った。

「さっき、君をはねた車、水色のきたない車、“村田工務店”って書いてあったよ」

「え・・・」
「轢いた男の名前は村田長助、面長で唇がビローンってなってる人、変な顔」

努力のせいかそいつの顔はもうはっきりと俺の前に浮かんでいた。
小ぶりで黒目がちの人懐っこそうな瞳は俺の姿をきっちりと捕らえている様で、そいつが話す
のを俺は黙ってただ聞いていた。誰なんだろうという疑問は不思議と出なかった。

「家族がいるからね、だから轢き逃げがこわかったんじゃない?」
「・・・・・・。」
「でもね、ごめんなさいって謝るべきだよね、君にケガさせちゃったんだから」

何なんだろう、数秒・・・いや、数分前に現れたこの存在に抱く懐かしさは。
声を荒げる事もなくこんなにも和やかな表情で、炎の様な熱く鋭い怒りを体中から放つこの男。
これがデジャヴだとしても俺はそれを信じない。こんなにも現実的な既視感なんてこの世に
存在しない。そして今の俺は何かを酷く恐れていた。

「ねぇ、君はこれからどうするの?」
「え?」
「俺と一緒に来る?」
「・・・え、あの」
「楽しいよ、君が来てくれたら3on3が毎日出来るから来て欲しいな」

目の前で優しく微笑むこの存在、彼が持つこの力──・・これを見るのは多分初めてじゃない。
.

23_:2002/04/17(水) 07:56

-11-

「今日は、今日は遠慮しとくよ」

精一杯の笑顔でそう返すとその男のキラキラとした瞳が一瞬曇った気がした。
「ご、ごめんね、でも次はきっと・・」 と付け足すと
「次は約束だよ、ぜったいに約束、それじゃばいびー!」

そう愛敬のある笑顔でまくし立てると、彼は踵を返して点滅する街灯の向こうに消えて行った。
俺はただそこに立ち尽くしまだ千円に満たない小銭を握り締め行く先を見失っていた。お互いの
名前も尋ねなかったこの自然な空気空気、それはどこか懐かくそれは俺に彼を知っていると
思い込ませる要因になりつつあった。徐々に2、3向こうの大通りから聞こえる雑踏の音が
小さく鼓膜を叩き始める。

「あ、飲み物・・」

目的が目の前に甦った俺は、薄く血が滲んだ膝小僧を軽く唾をつけた指で擦ると急いでコンビニ
へ向かった。夢かもしれないけど法子が俺を待っている。たった一人、あの汚いアパートで。
一気に体内が暖かいオレンジ色になる。地面を蹴る速さは自然と増して行った。

「お、おめーもう弁当食っちったかァ、やっぱ食い盛りは違・・」
「ねぇ中居君、桃の天然水ちょうだい!」 入り口をくぐってすぐ中居君に飛び付く。真ん丸い
目がギョロギョロと俺の顔を捕らえかねている。そりゃそうだ、さっき来たばっかりなんだから。
「ねぇ中居君急いでるの、ごめんあの甘い飲み物あるかな?」
点滅する蛍光燈の下軽く駆け足をしながら中居君になおも詰め寄る。その俺の眼差しで察したの
だろう、中居君は何かに気付いた表情でひとつため息をつき「冷えてるのあんまないべ」と
勿体振って店の片隅を指差した。俺はすぐさまそこに駆け寄り扉を開く。
「ねぇ中居君、桃の天然水ないじゃん!」
「家には女の客少ないからな〜仕入れて無いんだべ」 ボリボリと首の付け根を掻きながら中居
君は言い残し、そのまま奥に入って行ってしまった。俺は自ら消し去った思い出を懸命に記憶の
隅から引き剥がし、法子が好きだった飲み物が何であったかを知ろうとしていた。昔は知って
いた筈、たとえ時が流れようとも嗜好というものはそう滅多に変わらないものだ。俺の中に
答えがある。

「あー・・どうしようリンゴとかでいいのかな?でもリンゴ・・・あーどうだったっけ・・」
「女って何でいつの時代も甘いの好きなんだろなァ、二宮」
奥から出て来た中居君がこっちに歩いて来る。スリッパみたいなのを履いているらしく
ぺッタンぺッタンと呑気な音が耳に入る。俺の手には甘さ控えめリンゴジュースとカロリー
ゼロのスポーツドリンクがある。スポーツドリンクは好きだっただろうか?思いっ切り甘い
ネクターは確か駄目と言ってなかったか?自身の記憶力の無さ、或いは記憶を消去する力に
敬意を払いつつその場に座り込んだ。彼女に関するデータは4年の間に曖昧な意味の無い
物に成り下がってしまった。そしてそう願ったのも俺自身だ。

「なァ二宮ァ、おめー聞いてんの?ほれ、奥に一本だけあったんだよ、桃天」
頭頂部に刺すような水滴を感じ俊敏な動作で振り返る。そこには優しい笑顔の中居君が居た。
さっきの男の姿が一瞬ダブった様に感じたがそれは妄想だと知る。
「・・・あ・・」
「ほれ、カノジョかぁー?羨ましいねェ」 そのまま中居君は手を離し汗をかいたボトルが
両腿の間に滑り落ちると、俺は慌ててそれを両手で受け止めた。一瞬桃色に装飾されたその
白濁色のボトルを見つめながら呆けていたが、俺はまるでポップコーンが弾ける様に飛び
起きると後ろ手でポケットを探る。

「いいべ、ここは俺がオゴっちゃる」 中居君はいつの間にかパン売り場で食パンを並べていた。
「駄目ですよ、ちゃんと支払わな・・」
「おっ」 中居君は何か面白い物を見付けた時の子供の様な表情で顔だけこっちを向けた。
「あの、じゃあこれ置いときますんであの急ぐんで・・あ、ありがとうございました!」

一刻も早くアパートに帰らなければと自身に急かされていた俺は、そのまま硬貨をレジの机の上
に置くと出口へ走った。「ゴムはいいのかー?数十種類揃えてんべー!」なんて声が追って来た
けど敢えてそれは無視した。夜の風はほんの少しだけ冷たくなっていて、掌中のジュースが
ぬるくならなくて丁度いい、と思った。
.

24_:2002/04/17(水) 07:57

-12-

喧しくドアを開けると彼女はいた。

弾む息を目立たない様に落ち着け、法子が座る布団の対角線上に黙って腰を下ろした。
「遅かったね、ちょっと・・心配しちゃったよ。」 法子は笑っている。
「あ、うんゴメン・・あ、はいこれジュース、これしかなくてほんとゴメン」
俺はそう言って法子にさっきまで握り締めていた冷たいボトルを放り投げた。両手で受け取った
法子はラベルを見る前に俺に向き直り、「嬉しい、私がこれしか飲んでなかったの覚えてて
くれたんだ」と微笑み目の前で軽くボトルを揺らせた。チャプン、と心地良い音が響く。俺は
幸せな粒子に包まれ「偶然だって」と答えた。4年の間隔が一気に縮まった気がした。

彼女が白い液体でチビチビと紅い唇を濡らし一息ついた頃、俺は彼女に夢中になっていた。
法子の全てが魅力的で、あどけない仕種は保護欲をかき立て、時たま出る関西弁は幸福を帯びた
驚きだった。4年の月日が一気に溯る。あの頃、俺達は出会い、そして別れた。どうして俺は
あの時法子を信じてやれなかったんだろう。結局ろくな話もせずに俺達は別れ、卒業と同時に
音信不通になり、それから法子の噂が耳に入る様な事はなくなった。だがあれはあそこで終わる
筈じゃなかった。これは運命かもしれない。法子はわざわざ俺を訪ねて来てくれたじゃないか。

「ねぇナリ、私・・たち、やり直せるかな?サイショから・・」

帰り際、頬を赤くして言った法子を俺はその日腕の中にきつく抱いて眠った。
玄関に揃えられた赤い靴はまるで毒の実の様に妖しく光り、そして俺を狂わせた。中居君に
言われた言葉がポンと浮かび、「さすが先輩、よく分かってらっしゃる」と俺は心中彼の
城の方向に手を合わせた。

次の朝、予想通り俺は機嫌が良かった。
登校してすぐ纏わりついて来る松本も目を丸くし、その理由を何度も聞こうと試みた。俺は
それを軽く流し昨日の欠席の為生じた遅れを埋めるべく、珍しく休み時間にも机に向かって
いた。松本はそんな俺の態度の変化をずっと難しい顔で見つめていた。

「ねー二宮、今日の帰り時間ある?」
俺の機嫌が良かったのに胡座をかいてか、松本は妙に馴れ馴れしい笑顔でそう訊いた。コイツは
いつも何かあるとすぐ調子に乗る悪い癖がある。今だってそうだが言い方が上手いせいか誰も
その図々しさに気付かない。
「な、ちょそこどいて机後ろ流さなきゃ」 俺は無視を決め込み清掃の時間に入った直後の
ざわついた教室で、懸命に作業に取り組む振りをする。机を後ろに運んだらそのまま逃げて
帰ろうかと思っていたのに、松本のせいで何かさせられては堪らない。
「ねぇ、ほんとちょっとでいいんだけどさ〜・・」 と松本は笑顔で俺の肩を揉んでいる。俺は
その手を払い除けて鞄を手に取って教室を出ようとした。実際ちょっと痛かった。

「あー!二宮ぁ帰っちゃうのー!?ダーメなんだサボっちゃってー!」

突き刺さる数十本の視線の中、俺は松本に従わざるをえない状況に陥った。こういう時
俺は頭が回らず元々損をする役目なのかもしれない。顔の形が歪む程ニマッと笑った松本の
後ろに黒い尾を見た気がした。
.

25_:2002/04/18(木) 05:35

-13-

放課後はいつも憂鬱になる。

「ねぇ、さっきから聞いてるけど何かいい事あった?」
電車に揺られながらボーッとしているとまた松本が同じ質問を繰り返す。俺は顎にあてていた
手を耳に移動させつつ視界から松本を遮断した。窓の外に何が見えるという訳でもないが
このままの状態に甘んじるよりはいくらかマシだ。
「ねぇ、教えてよー」 始めは隣に座っていただけだったが、徐々に松本の体はこちらに角度を
変えて行く。俺はその度にそれから目を逸らせ、下車間近になるとお互いかなり苦しい体勢に
なっていた。それでも松本が諦める様子は無く、しつこく言い方を変えつつ俺から答えを引き
出そうとしていた。

「お前、それにしても何で雑貨屋なんて行かなきゃならねーんだよ」 矛先を逸らそうとしても
「もーどうせ分かっちゃうんだから!教えてよ!」 と中々粘り強く、俺はその度ため息をつく。

“次は渋谷、渋谷──お降りの際はお手荷物をお忘れなく・・”

待ちに待ったアナウンスが聞こえたと同時に俺は荷物を纏め席を立った。
渋谷なんて何年ぶりだろう。前来た時は中学を卒業する前だ。


「実は昨日来たばっかなんだよね〜」 漸く諦めたのか後ろで松本がはしゃいでいる。
「なら昨日の時点で買っとけばいいじゃん」 憎まれ口を叩きつつも俺は胸を撫で下ろした。
それからは松本の姉の婚約祝いのプレゼントを探し、足が棒になるまで人ごみを歩き回った。
松本に姉がいるなんて放課後告げられるまで知らなかったし、正直興味も無かった訳だが
ずっと想っていた人とやっと婚約出来たと嬉しそうに話す松本の笑顔にほだされてか今俺は
ここにいる。普段なら嫌だの一言で断っていただろうが今日の俺は人の幸せを一緒に祝って
やってもいいかな、などと考えてしまっていた。かなり機嫌が良かったのだと思う。


「ねぇ、二宮は今度の社会科研究の発表どうするの?」

もう空も薄暗く鳴り始めた頃の洒落たカフェの中――空に煙で潰れたドーナツを作りながら
松本は問う。制服なのによくここまで堂々と煙草がふかせるなと俺はちょっと感動した。
こいつはもしかしてかなり根性の座った奴なのかもしれない。

「あぁ、アメリカの歴史のグループに名前書いた」
「あぁ俺と一緒!資料館に今度一緒に行こうよ!ね、明日なんてどう?」
「あんで休み前に提出すりゃいいのに明日なんだよ、まだ1ヶ月くらいあんじゃん」
「でもさー、アメリカん所なんて俺と二宮しか名前無かったしあんまり手分けとか出来そうも
ないじゃん?範囲広いからメインのテーマも決めなきゃならないし・・・」
「だったらお前だけで行けよ、俺適当に一人でやるから」
「え、何それ・・」

松本が眉間に皺を寄せ反論しかけた時、丁度頼んでいた和風パスタが来た。
俺はウェイトレスに割り箸を頼み、フォークでグチャグチャとそれをかき混ぜる。カフェオレを
すすっていた松本は俺の手元を憮然とした表情で見つめている。

「じゃ俺さ、別の余ってるテーマ選ぶからお前それやれな」
「・・・・・・。」

俺がそう言っても松本は口をへの字にしたまま何も言わなかった。
双方が食べ終わるまでその静寂は続いた。
.

26_:2002/04/18(木) 05:35

-14-

もう一生足を踏み入れないであろう洒落たカフェから出ると、もう外は暗闇の寸前だった。
雨でも振り出しそうな限りなく黒く蠢く空に俺は身震いし、シャツのボタンをひとつ上まで
とめた。

「あ」 突如先を歩く松本が立ち止まる。
「何だよ、まだ買い忘れたもんでもあんのかよ」
「・・・何でもないよ、大丈夫、早く帰ろっか」 そう言うとさっきより早足で松本は駅に向けた。
「何だよ、変なやつ。」

地下鉄渋谷駅前の交差点で信号待ちをしていると、俺はふいにある事を思い付いた。
「なぁ松本、俺寄ってくとこあるからお前先帰れな」
「えっ」

俺はそこから離れ、大勢の人がごったがえす建物――俗に言う“109”に向かった。
人混みは嫌いだ、息が苦しくなるし充満している無機質な空気に吐き気がする。人間とは
こうもただの物体になれるのかといつも思う。俺は人混みをかき分け、舌打ちされながらも
最も人が流れているその建物の入り口へと辿り着いた。

ここ、法子が好きだと言っていた。
きれいな髪飾りのひとつでも買ってやろう。

法子の顔を思い浮かべながら人を押し退け、眼球の動きだけで目当ての物を探し当てようと
するがこうも人と品物が多いとどうも上手くいかない。かと言ってこういう事に詳しそうな
松本に頼るのも嫌だったし、その松本はさっきの交差点に意図的に置いて来た後だった。
後ろを振り向いてみてもどうやらついて来ていない様だ。

――まぁこう言うのは好みがあるしな・・

自分にそう言い聞かせつつ人の流れに押されるままに建物内を進む。
周りは赤やピンクの派手な色がギラギラと煌いている。見渡す限りのその世界に目眩を覚え
ながらも法子の顔を思い浮かべどんなのが似合うか考えた。

「あっ」

つい声をあげた。
右後ろに位置する売り場にあるバスケットの中、綺麗な色の貝殻をモチーフにした髪飾りが
あった。体はぐいぐいと前方に押されていたが懸命にその流れを逆行する。鼻ピアスをした
恐ろしい顔の男に死ねガキ、と頭を数回小突かれた。その男と腕を組んでいた女は俺の顔を
見て「あ、ボクお姉ちゃんのおっぱい吸っちゃうー?」と耳を劈く高い声で笑っていた。
その二人は数秒もしない内に俺の視界から消えて行った。もう一生会う事も無いだろう。

“ 70% OFF☆★☆現品のみ→今すぐゲット☆★☆ ”

と書かれた派手な原色のバスケットからその貝殻の髪飾りを掬い取る。
裏を見ると¥2200と書かれていて、案外女ってのは金がかかるなと改めて思った。
まぁ値引きされてるから大丈夫だろうとレジに持って行こうとした瞬間館内放送が入った。

“ ・・――区からお越しの二宮和也様、二宮和也様、お友達が4階喫煙場でお待ちです、
繰り返します・・ ”

顔が痙攣を起こした。


あいつ――・・

貝殻をバスケットに放り込むと、俺は持てる力を全て出し切りエスカレーターを駆け上った。
.

27_:2002/04/18(木) 05:36

-15-

「ちょっとアンタ何考えてんのよバーカ」
「おいお前」
「いった!誰よ!」
「あんた頭おかしいんじゃないの?」
「おいお前ちょっと来い、コラ」
「足踏まないでよ!死ね!」

エスカレーターを駆け上る俺に数々の罵声が浴びせられる。
まあ当然の事をしている訳だが、あまり言われて気分のいい言葉じゃないだけに
ほんの少しだけ胸の中心が痛む。それよりその時の俺は迷子放送をしやがった奴を
一発ぶん殴ってやりたい気分で体の中を充満させていた。


そして案の定そこに居たのは──・・

「まっつも・・え?」

その光景を誰が信じるだろう。
さっきまでカフェで呑気に煙草をふかしていた松本が、傷を負いボロボロに裂かれた制服で
立っていた時の衝撃――松本のデカい両目からは涙が溢れ、同時に深い怒りを顕にしていた。
人混みの中、血をドクドクと流す松本だけがそこの世界に属してなかった。

「ど・・お前ど、どうしたん・・」
「二宮ここ出るよ、急いで!」

俺が最後まで言い切らない内に、怪我をした松本は俺の二の腕を掴みエスカレーターに走った。
先を走る松本の背中には真っ赤な十字傷が見えそこからは鮮血が溢れ出している。白いシャツは
真っ赤に染まり、それは松本が通った後に道を拓いて行く。これは重傷だ。

カンカンカンカン・・と騒がしくエスカレーターの階段を駆け下りる俺達に誰一人として文句を
言う者はいなかった。松本の大怪我を恐れてか、それとも今まで俺も見た事が無い程の緊迫した
表情を珍しく思ってか、それは分からなかった。だが確かな事はこれは何かの緊急事態だという
事、それだけは間違いがなかった。松本の姿を見た瞬間、何かの前触れを感じていた。どうか
これが夢であるように・・そう願いつつ、時たま小さな呻き声を挙げながらも出口を目指す松本を
見る。


――ピンポンパンポーン

館内放送の合図だ。
そこで松本の足はピタリと止まった。
そしてゆっくり振り返り、微かな笑顔を作るとこう言った。

「屋上へ行こう」


“ な、何者かがここに爆発物を仕掛けたらしいです・・皆様、一刻も早く正面玄関から避難
して下さい、慌てずに、ゆっくりここから全員避難して下さい・・く、繰り返します・・ ”


凄まじい悲鳴と困惑と泣声が噴火するその場所に、松本と俺は向かい合ってただ立っていた。

松本は涙を流しながら力無く笑っていた。
俺は松本に腕を掴まれたまま、さっきの貝殻の事を想っていた。
.

28ななし姉ちゃん:2002/04/18(木) 22:11
職人様、祝再開でございます。なんかすごい話だ・・・・

続きが楽しみです。

29_:2002/04/19(金) 03:02

-16-

俺達は火山のマントルの中にいる。
どの位そうして立っていたのだろう。気付くともう周りに人はおらず、館内放送の女性も
どこかへ避難してしまった様だった。俺達は床に商品や靴が散らばった2階エスカレーター前
でただ佇んでいる。ただお互いを眺め、一言も発さずにいた。いつの間にか松本の両目からは
涙は止まり、紅潮した頬の上に跡を残している。表情はとても複雑なもので、そこから感情を
読み取る事はとても難しく、俺は松本の胸に刻まれた傷に目を落とし息を呑んだ。

「大丈夫、早く行こうよ」

松本は襤褸切れの様になったシャツを手繰り寄せその赤い文字を隠すと、今度は俺の左手首を
掴み音も無く動くエスカレーターに乗った。誰もいない建物がこんなにも静かに感じるとは
今の今まで知らなかった。暫くするとエスカレーターからはわずかながら機械音が聞こえ、
俺はそれを底恐ろしい音色だと思った。まるでこの世の悪い存在へと向かう階段が立てる音、
もしくは全能の神がいる天国への聖なる道が立てる音――どっちだろうか、ふと考えたが
答えは出そうもなかった。
「なぁ、ここ屋上あんの?」 一番最初に訊かなければならない質問は避けた。
「どんな建物にだって一番上はあるよ、大丈夫」 そう言いながら松本は俺の利き手にグッと
力を入れる。こいつ、何か言いたいんだろうか?そう感じた。

繰り返す動作に目が回りながらもどうにか最上階に着く。
「なぁこれ以上エスカレーター無いぜ、やっぱ下行こう、爆弾あんだろ?」
俺の問い掛けを擦り抜けると、松本は黙ってひょろ長い首を伸ばし何かを探しているようだった。
やがて何かを見付けると俺をその方向に引き連れて行った。俺は抵抗せずにただ歩く。
どうしてかは分からない。ただその時はそんな気分だった。

「あ・・・」 松本に手を引かれて辿り着いた場所には白いドアがあった。
そのドアは目立たないようになっていて一見しただけではその存在に気付かない。どうやら
これが屋上に続く扉らしい。この様に作っているのは飛び下り自殺者を遠ざける為だろうか。
そこで俺はある事に気付く。
「おい、手離せよ馬鹿」 ギロッと睨みそう言うと
「あ、ごめん・・」 そう言ってパッと手を大袈裟に離した松本だったが、その間際
「でも絶対俺から離れないで」 と言い残す。
ドアを目の前に二人立ち尽くす。
この様な使われないドアは鍵が掛けられているのが普通だからだ。俺達は鍵を持っていない。
俺は目でそれを松本に伝えたが、松本はコクリと頷くと取っ手に手を掛けた。意志が伝わって
いるのかどうか怪しい。
「おい開いてねーんじゃねーの?」
俺がそう言うと同時にその鉄の扉はスッと動いた。
顔を見合わせると松本は喜びより驚きの方が勝っている様子で、金魚の様に口をパクパクと
している。俺はその様子がおかしくてつい頬を緩めてしまう。
「・・開いてる、何で?」
「開いてるから開いてるんじゃん」
まだその感情が消えない松本を押しのけると俺はその向こうに足を踏み入れた。
松本が後ろから「ま、待って」とついて来る。さっきとは立場逆転だな、と思うと何だか
愉快な気分になった。

白い扉の向こうは、今までいた賑やかな空間とは全く異なる空間が広がっていた。
無機質な、何の飾りも施されていない四方、そこには螺旋を描く白い階段があり、その上には
屋上に続くドアを想像した。
「行こうぜ、屋上行きたいんだろ」 そう促すと松本はコクリと頷き階段に足を乗せる。
後ろから見たその十字傷は胸のそれと比べてかなり深いもので、ピンクの肉が見えていた。
顔を顰める。この様な大怪我を松本は一体どこで負わされたのだろう。
そんなに無闇に喧嘩をふっかける性格でも無い筈なのにどうして、一体誰が――

カンカンカンカン・・

階段はどこまでも続いているようだった。
靴の音が寂しく響く。

「お前さぁ、その傷・・」
「あれ」 言いかけたと同時に先を歩いていた松本がピタリと歩を止める。
「何だよ」

「何かいる・・・。」

松本の向こうを覗くとそこには子供がいた。
想像していた通りの屋上へのドアの前、子供がひとり。


それは、泣いていた。
.

30_:2002/04/19(金) 03:04

-17-

「・・・・・・」
その少女はこちらに気付き、顔を覆っていた小さな紅葉を漸くどけた。
涙と鼻水と汗と・・全てで汚れてしまったその丸い顔には驚きと恐怖と、多分少しだけ喜びの
表情が混ざっていた。
「困ったな・・」 松本は柔らかそうな黒髪をかき上げるとため息とともにそう言う。
女の子の表情はそれを見ると怯えに変わり、それを見た俺は思考より先に体を動かせていた。

「ねぇ、どうしたの?」 女の子の前にしゃがみ頭を撫でながら言う。
「・・・・・・」 何も喋らない。まあ当然といえば当然だろう。
「名前、何て言うの?俺はね、“にのみやかずなり”って言うんだ。」
「・・・・・・?」 俺の顔を無垢な表情で見つめている。茶目がクリクリとしていてとても可愛い。
「ここで何をしてるの?」
「・・・・」 肩まで伸びた栗毛を指先で弄びながら聞くと、その子は口を微かに動かせた。
「なぁに?ごめんね、聞こえなかった。もっかい言って?」
「・・かくれてるの。」
「へぇ、かくれんぼしてんの?いいねぇ。」 頭をグリグリ撫でると女の子は声を立てずに
笑い、下の歯が数本抜けているのがちらりと見えた。

「ねぇ、二宮・・時間がそんな無いんだけど・・」 松本の苛ついた声が背中に刺さったが
それを無視して続ける。後ろ手で待て、と合図を送った。

「・・きたがわももかです。」 女の子はちょっと恥ずかしそうな笑顔でそう言った。
「そっか、ももちゃんって呼ぶね」 俺がそう言うとももかちゃんは嬉しそうにコクンと頷く。
なんてかわいいんだろう。純粋にそう思えた。だがその暖かな空間は階下から噴き出す轟音で
いともあっさりと崩れた。


――ゴガァアン

確かそんな音だったのを覚えている。
それが響いたと同時に昇って来た階段が崩れ、松本が傷口を押さえながら俺を目の前のドアの
向こうへ押し出した。ももかちゃんは、そう思って白煙の中必死で目を凝らせたが存在は確認
出来なかった。松本は俺の手首をガッシリ握ったまま離さない。

「おい何だよ今の!」
「知らないよ早く来て!」
「あの子どーする気だよ、ほっとく気か?そもそもこんな所から逃げらんねーよ!」
「あの子は多分もう駄目だからいいよ!」
「馬鹿かお前は!!」

ゲホゲホと咽ながら怒鳴りあう。
松本は声を出すのさえ辛そうだったが、その真剣な眼差しからは何かに執着する魂が垣間見れた。
だけど俺はこのまま行く訳にはいかない。

「お前だけ先行ってろ!」

そう言い残すと先程くぐったドアの向こうに大声を張り上げて飛び込んだ。
こんな事が昔あった。同じ過ちを繰り返してはならない。
俺はどこかでそう誓っていた。
.

31_:2002/04/19(金) 03:05

「ももかちゃん!ももかちゃん!ゲホッ・・もも・・」

落ちなかった階段の部分と最上階の床の間には、襤褸切れの様になった少女が引っ掛かっていた。
今にも階段の残骸は外れて下に落ちそうだ。数メートル下に落ちてしまったらもう救けられない。
元々、屋上に出た所で助からないかもしれないがそれでもここで死ぬよりはマシだ。
俺は咳き込みながら手を伸ばし、少女の体をきつく掴み引き上げた。階下からは火が上がって
いて、それはもうじきここに届きそうな勢いだった。煙を吸い込ませないように少女の口の辺り
を押さえ、引き返そうとするとそこには松本が呆れた表情で立っていた。その格好をつけた様に
見えるポーズに虫唾が走った。
「何してんだよ、もうその子死ぬんだよ」
「そこどけよ馬鹿!この子の前にお前が死ねよ!」
「とりあえずかしな!」
松本はそう言うと強引に少女を俺から奪い取った。
その瞬間鋭い怒りが込み上げ俺は松本から少女を取り返そうとした――その時見えた。
少女の顔は砕けた鉄の階段の破片でボロボロに崩れ、あの愛らしい瞳は位置さえ分からなかった。
掴んだその手首には爛れて黒くなった掌が皮一枚で繋がっている。胸には太い鉄パイプが
刺さっていて、そこからは黒い血と赤い血がドロドロと噴き出していた。少女はピクピクと
今にも消えそうな痙攣を繰り返している。もう人工呼吸なんかしてもどうにかなる状態じゃない。
目の前に真っ黒なカーテンが引かれ、俺は「あぁ・・あ・・あ・・」と力無く呻き声をあげる。
「二宮、この子もう死んでる!見るな二宮、俺を見て!」 遠くから松本の咆哮が聞こえた。
「・・――お前・・うな・・体がヤ・・――・・!!」
「から――・・力使・・――・・死・・!!」
「・・――――・・・・――・・!!!」
「・・・・・・・・・・!!!!」

何も、聞こえない。



・・ドォォオォオオオオンン・・


まるで線香花火が地面に落ちた時のような遠い衝撃が鼓膜の上でうねると同時に、松本は
少女を力無く抱えた俺をきつく抱き締めた。


その日、109の上で俺達は死んだ。
.

32_:2002/04/21(日) 03:16

-18-


天井にはいくつも十字が走っていて、それは正方形を作っていた。
もう暫くずっとこのままだったのだろう、瞬きをする事さえ億劫に感じる。それでも何度か
瞼をしばたたかせると表面が潤い、視界がはっきりとして来るのが分かった。
俺は、どうなったんだろう・・ここは一体――ぼんやりと思考を巡らせていると右斜め前辺り
からバタン、と扉が閉じる音がした。誰が入って来たのか、それとも出て行ったのかは
分からない。ただ音がしたのに気付いたのだ。

「おはよ」聞き慣れつつある声がすると同時に額にひやっと冷たい指がピタと当たる。
慣れない動作で目線を上げるとそこには松本がいた。透けるような真っ白の肌で黒く少し
ウェーブのかかった猫毛、西洋人形の様に長くカールした睫に縁取られた零れそうに大きく
濡れた瞳はこの上ない喜びを表していた。
「二宮、お前2日間も寝てたんだよ」そう言いながら枕元に薔薇の花が生けられた花瓶を
置く。どうやらここは病院らしく、辺りからはその様な匂いが立ち込めていた。
「・・・・・っ」声が出ない。
「無理に声出そうとしないで、ずっと高熱出して寝てたんだから。喉もやられてたみたいだし」
「・・・・・・ぁ・・」
「無理、しないで。」焼ける様な喉の痛みを何とか堪える。
「・・・・・・」
「ねぇ二宮、2日前の事・・覚えてる?」
その松本の問いに俺は首を振った。嘘じゃない。記憶が途切れてしまっていた。
.

33_:2002/04/21(日) 03:17
.
松本の話によるとこうだった。
2日前の夕方、俺と松本は渋谷に買い物に出掛けた。松本が雑貨屋で姉の婚約祝いに輸入物の
鏡を買った後俺らは近くのカフェで夕飯を食った。その後、帰る前に俺は一人で109に行き
松本はそれを追った。俺がビルの中にいる時、ある男からそこに爆弾を設置したという電話が
入る。人塊が我先にと避難する中、松本は入り口で俺の姿を探したが出て来る様子はなかった。
それで松本は建物の中に入り俺を探した。俺を見付けた松本は俺を担いで屋上に上がり
機動隊の救助を待った。そして爆発後、炎上するビルの屋上の上から俺達は機動隊のヘリ
に乗せられ見事難を逃れた。1階の入り口でごった返していた大勢の客は間に合わず、崩れる
ビルの下敷きになって死んだ。死傷者の数は推定1200人、7時前の渋谷は突然の惨事による
混乱で交通は数時間ストップしていたらしい。依然その爆弾を仕掛けた男は掴まっておらず
警察は今この事件の原因の究明を急いでいる。テロの疑いもあると先程のワイドショーで
流れていたらしい。

そこまで話すと松本はフゥッと息を吐いた。
俺がまだ聞きたそうな顔をしていると、ふっと笑って口の端を指先で擦る。
「二宮、明日退院だそうだから今日はちゃんと休めよ。」
そう言って部屋から出て行った。出掛けにポンと枕元に雑誌を置く。
一人になった病室の中、漸く俺は半身を起こして体をゴキゴキと鳴らせる。何年も使って
いない包丁の様にそれは鈍く感じた。運動しなきゃ、そう思い足をベッドの下に垂らすと
置かれていた足立総合病院と文字の入ったスリッパに爪先を入れる。中々思ったように
動かず少し苛々した。

(そう言えばあいつ怪我無かったんだな・・・)
院内の廊下をペタペタと歩きながら考える。周りには老若男女の患者が行き交っており
笑顔の見える患者もいれば全てを諦めた様な表情の患者もいた。まぁ俺は熱出した位で
済んでラッキーだったよな、そう思いつつふと窓の下に目を遣るとそこには車椅子に乗った
少女がいた。どうやら膝の上にあったうさぎのぬいぐるみが地面に落ちてしまい、それを
取るのに四苦八苦しているらしい。見渡しても周りに人がいる様子はない。
(よし・・)
俺は大分軽くなって来た体をフルスピードで中庭に急がす。
2、3度看護婦さんに走るなと怒られたけどあの子が困ってるんだから野暮な事言うなよと
それを尽く無視した。「もうっ!」と彼女達はヒステリックな金切り声を発し怒っている
様だったが関係無い。
東側出入り口を走り出るとそこはすぐ中庭で、少女はまだ同じ体勢でぬいぐるみに手を
伸ばしているようだった。今にも車椅子から落ちそうだ。
「・・・・・・ぁ・・あ・・」走りながら声を出そうとするが、激痛が走りそれが無理だと分かる。
少女の指先はうさぎの耳に届こうとしていた――その瞬間、車椅子がガタンと傾いた。
「わあッ!」
「・・・・・・!!」
俺は車椅子を手で止め、もう片方の手で少女を抱きとめる事に成功する。
フーッと大きくひとつ深呼吸する。少女はどこもぶつけた様子は無く、泣くかなと思ったが
幸いにもそうはならなかった。地面にその子を立たせ、ポンポンと頭を軽く撫でた。すると
その子は最初吃驚した顔だったが、次第にそれは少し照れを含んだ微笑みに時間をかけて
変化し、俺達は暫くその状態のまま柔らかな時を楽しんでいた。

少女は喋らなかった。
俺も喋らなかった。
.

34_:2002/04/21(日) 03:18
.
俺は熱と煙のせいだったが、女の子の理由は分からない。
しかし同じ目線で微笑み合うこの瞬間にはそんな理由は必要ないのかもしれない。
どのくらい時間が経ったのだろうか、向こうから紺のカーディガンを羽織った看護婦が
かけて来て少女はそれを俺の肩越しに見付けると手を振った。そしてそのまま「ごめん
なさいね、ごはんの時間だから」と謝る看護婦に車椅子を押されて行ってしまった。
女の子はこっちを時たま振り返り、俺の顔をじっと見ている。

その日の飯は酷いものだったが、よく眠れた気がする。何の悪夢も見なかった。
松本から聞かされたような恐ろしい事件に自分が関わっていたという事さえ信じられない。
溶鉱炉の真ん中に位置していた筈なのに、その恐怖はどこかに気化してしまったみたいで
どうしても思い出せない。崩れたビルの中にいたという事さえ朧げな事実になりつつある。
あれは起こるべくして起こった事件――そう考えると何故かしっくりくる。


んなわけねーよ、と薬臭漂う暗い病室の中一人噴き出す。
自分で自分が滑稽で、そしてとても歯痒かった。
おかしくておかしくて仕方無かった。
.

35_:2002/04/21(日) 09:47
この話はかなり長くなります。
このままだと読みにくいので縦読みソフト等使うと良いかもしれません。
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/util/se064241.html(お試し期間1ヶ月)

変換ミスや脱字が幾つかありますが脳内修正お願いします。
それでは最後までよろしくお付き合い下さい。

36ななし姉ちゃん:2002/04/21(日) 19:26
職人様、再開ありがとうございます。
先の展開が全く予想つかず、すっごく楽しみです。
長丁場になるとのことですが、頑張って下さいませ。

37ななし姉ちゃん:2002/04/21(日) 23:44
職人様、お疲れ様です!
いつもドキドキしながら読ませていただいてます。
一体この先彼等がどうなってゆくのか??
楽しみでございまつ〜

38_:2002/04/22(月) 12:47

-19-

朝、俺はある事で頭を掻き毟っていた。
それに気付いてしまってからは朝飯も喉を通らず(殺人的に不味かったせいもあるが)少ない
荷物を片付ける手も目的を失ってしまった様だった。昨日までは4日前の事で頭を一杯に
していたが、現実世界に戻ってみて肌に染みて分かる事――そう、入院費。
「あぁ・・どうすっかな・・逃げてもあいつ俺の名前とか住所とか言ってるよな・・バカが」
雑誌を足元のごみ箱に放り入れ、シーツの剥がされた丸裸のベットに腰掛けると頭を抱える。
預金通帳には数万円しか入っておらず、それはあと半月分の食費に充てる金だった。
「マジどうしよー・・中居君トコで働かして貰うとか・・病院ってツケとかあんのかな・・」
「何一人でぶつぶつ言ってんのさ」
「うるせー・・あ。」
戸口には松本がファッション誌に載っている様なデカいサングラスをかけて立っていた。
いつの間にか独り言を言っていたらしい、頬がみるみる赤くなるのを感じる。
「仮面ライダーは帰れ」 それに背を向け剥がしたシーツを畳む。
「これ一応Diorのなんだけど・・あ、退院おめでとう、あのこれ・・」
「・・・・・・。」 デカいシーツが上手く畳めず苛々する。
「二宮あのさ、あのこれ退院祝いなんだけど、聞いてる?」
「いらない」 シーツは畳まずにベッドの下に置く事にした。
「そ、そんな!」
「色々世話になったな、じゃ。」
「待ってよもう!」
待てと言われて待つ馬鹿がどこにいんだよ、と思いつつ病室を出ようとしたその時、足元に
明るい黄色の花束が目に入った。勢い良く振り返り松本の顔をギロリと睨む。
「てめぇ・・」
「お、俺じゃない俺じゃない!」 松本は目の前で手をブンブンと振る――その瞬間手に
持っていた物が視界に飛び込んだ。それは小さな箱。いやに見覚えのあるような。
「何だよそれはよ・・」
「あ、気に入ってくれた?」 両手で差し出されたそれを全体重をかけて叩き落とす。
ギャーギャーと煩い松本を後ろに俺は戸口の花を拾う。コイツじゃないとしたらきっと
これは部屋番号を間違えた人が置いて行ったに違いない。どうせならこれから行くついでに
ナースセンターに届けておこうと親切心が顔を出したのだ。
白いレースに包まれた小さな花束はとても可愛らしく、その差出人が女性である事が伺えた。
花束は意外と新しく、細かな水滴が表面を慎ましく飾っている。これは何の花だろう。
そう花束を覗き込んでいると、レースの隙間から小さな紙がひらひらと舞い落ちた。
いけない事と知りつつもそれを拾い表面を視界に晒す。それは知った字だった。

ナリへ

いきなり入院してしまったので驚きました
ひどいケガじゃないみたいでとても安心しました
今日はよく寝ているみたいなので帰ります
よくなったらまたデンワください
TEL番号は090-436-0923です
じゃあまたね

のりこ
.

39_:2002/04/22(月) 12:47

涙が零れると思った。こんなに暖かい気持ちになれたのは何年振りだろう。
一瞬で目の前が曇り、その膜の出現は止めようも無く俺はそれに全てを任せる。
今まで一人で生きてきて、泣くとか怒るとか、感情を顕にするのを避けて来た。両親も
いつの間にかいなくなっていたし、その記憶もかけら程しか残っていない。信用出来る
友達もいないしこれから作る予定も無い。そういう柔らかい全ての物を避けて生きて来たし
これからもそうするつもりだったのにこの涙は何だ。忘れた感情の結晶なんだろうか?
気恥ずかしくも懐かしいこの感情、これは俺に必要なものなんだろうか?こんな花束
ひとつで自分を護る壁を溶かされそうになる事実に驚きを隠せない。一体この気持ちは
何なんだろう。俺は何を欲しがっているんだろう。何も欲しがっていなかった筈なのに。
自分の感情がどこから来てどう解釈すべきものなのか分からない。俺の内部はその鮮やかな
黄色にかき乱され、脳の機能が全停止しているようなそんな感覚に陥った。

――分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない――・・

「二宮ァお前酷いよ、これ一応昨日あれからわざわざ一人で買いに行ったんだけど!」
そのままそこに佇んでいると――気付くと覚えのある風景が目に飛び込んだのでそのままの
状態でそこにつっ立っていたんだろう――クレッシェンドのかかった松本の鼻詰まり声が
聞こえて来る。それをうざったく思ったので、そのまま松本をそこに置いて病室を出た。
一度振り返ると戸口には名前がひとつしか書かれていなかったので、それは先程まで俺を
悩ませていた入院費を彷彿とさせた。憂鬱にはなったが、胸に抱えた小さな花束が何とか
なるよと気を楽にさせてくれる。事情を説明して支払いを待って貰えれば、バイトでも
何でもしてどうにかなるだろうと何とか気を落ち着かせた。

「お前なぁ、態度悪すぎんだけどオイ!」 と松本の粘った声が後ろから駆けて来る。
こいつもこんだけ冷たくされてよくやるよなぁ、と感心しつつも「早く来い馬鹿!」と
怒鳴った。喉はもうちっとも痛まない。


「病院内では静かにして下さい!」 と目のつり上がった看護婦がとんでもない金切り声を
あげる。太陽の色をした花束は俺の胸の中ふるふると揺れた気がした。
.

40_:2002/04/22(月) 12:53
>>38
番号はデタラメです。念の為。

41_:2002/04/23(火) 02:46

-20-

病室を出てから続く松本の“その花彼女から?”攻撃は凄まじく、俺は陥落を目の前に
しながらそれでも何とか中央地点に留まっていた。“いる”と言っても“いない”と
言ってもその後の詮索は免れられない。それなら黙秘を貫いた方が幾分かマシだろうと
思ったからだ。

驚いた事に入院費は支払う必要が無いらしい。
ナースセンターに行くと白衣の医師(当たり前だが)が裏から現れ、看護婦に何かを
耳打ちすると、さっきまでふてぶてしかった看護婦は急に畏まった態度で「結構ですから」と
言った。内心はガッツポーズだったが、そうですかとそのまま立ち去る訳にもいかないので
数分理由をねだったが、結局その時間は無駄となった。

病院の前にあるバス乗り場で俺はある事を思い付く。
「先帰ってろ」 とそれに従いそうもない松本に言い残し敷地内に駆け足で戻ると、そこには
思った通りの存在があった。昨日は喉の痛みのせいで声が出ず、自己紹介も出来なかったので
せめてさよならの挨拶だけでもしておこうと思ったのだ。
「こんにちは」
「・・・・・」 昨日と同じぬいぐるみを抱いた少女はこちらを驚いた表情で見つめていた。
「散歩してるの?俺の事覚えてる?ほら、昨日の・・」 と言い終わる前に
「・・・」 少女はコクコクと頷いて見せた。よかった、と胸を撫で下ろす。
「お兄ちゃんね、“にのみやかずなり”って言うんだ、長い名前でしょ。」
「・・・・・」 今度はフルフルと首を横に振る。
「ほんとは君と話せたらいいんだけどまだ早いみたいだよね。」
「・・・・・」
「二宮、行こうよ。」 後ろには案の定松本が息を弾ませつつ立っている。
「おめーうるせーよ馬鹿、先帰れっつったろ」 と頭を小突く。
「・・った!バス来るから呼びに来てあげたのに!これ逃したらもう1時間無いよ!」
「マジで?あ、ごめんね、お兄ちゃん達もう行かなきゃなんだー」
「・・・・・・」 途端にその子の表情のトーンはガクンと落ちた。何か罪深い事をしている様な
気になる。松本は時計を気にしつつ心ここにあらず、といった感じだ。でも俺はどうしても
その子をこのままここに置いて行けず、どうしたらこの子にさっきの様な笑顔を取り戻せる
だろうと必死に考えていた。そして閃く。

「あ、お前さっきのかせって」
「へ?」 目を大きく見開いている松本の鞄をひったくりゴソゴソと中を探る。そして
目当ての物を探り当てると引き摺り出し、女の子の目の前に差し出した。
「これあげるよ」 差し出された小さな箱。彼女はそれを不思議そうな顔で受け取る。
「・・・・・・・・。」 小さな手によってふたつに割られたその中には銀色に輝く指輪があった。
「お、お前それ酷過ぎるって!お前ホントに人間なの?一体幾らしたのか分かってんの?」
「それ、将来のお婿さんにあげなよ、君可愛いし引く手あまただよ」
「・・・・・・」
「大体ねーその内側にはロサンゼルスで銀細工の修行をしてた古屋銀二による“二宮和也”
って刻印がされてるの、特注でわざわざ本人にやってもらってさー!それにそれは俺と
お揃いのやつで・・」
「何かほら、俺の名前なんか入ってるみたいだからさ、俺のお嫁さんになってくれても
いいし・・」
「・・・・・・・」少女の頬にパッときれいな桜が咲く。
「それじゃ、早く良くなってね。ばいばい。」
「・・・・・・」 キーキー煩い松本にヘッドロックをかけながらひらひらと手を振ると、指輪を
手にした女の子は名残惜しそうにニコッと笑った。何か見た事がある笑顔だな、と思った。
前も可愛い、と思った気がする。7、8歳かな、とふと考えた。
.

42_:2002/04/23(火) 02:49

バスに揺られ50分、漸く駅前に辿り着くと俺はバスを降りようとした――が、松本の手
によってそれを遮られる。「何だよ」と言うといいからいいからと松本は俺を座席に戻した。
そのまま出発してしまったバスがもう20分程走ってから松本が吐いた台詞は「資料館
行こうよ」だった。すぐ逃げようと思ったがそれはもう後の祭りで、現金を殆ど持たない俺が
タクシーで駅まで戻れる訳もなく、ただ呆然と抹茶色をした座席に沈んでいた。窓の向こうに
微かにぶれながら流れる景色が物悲しい。やられた。
「ね、そんな怒んないで。ほら、俺達知り合ってまだ一年も経たないけどさーこれはチャンス
だと思う訳よ、チャンス!」
「・・・何のチャンスだよ」 自分でもこうまで低い声が出せるものなのかと驚く。
「親友になるチャンス!」
「死ねや」
右人差し指をピンと立てて可愛げに言う松本に右ストレートを食らわせてやった。
ギャアギャアと騒ぐ松本にバスの運転手がマイクを通しくぐもった声で“車内では静かに
して下さい”と注意する。どうせ乗客なんか俺達しかいないんだから少しくらいいいのに、と
思いつつ慌てて口を押さえる。松本は赤くなった頬をブツブツと摩りつつ鞄からプリントの
束を丁寧に出した。
「ほら、これプリントアウトして来たから」 と俺の膝の上にポンと置く。
「何だよこれ」
「アメリカの歴史、面白そうなテーマだけちょっとだけ調べてかいつまんで来た」
「だから俺は違うのにするっつったじゃん、別のグループ行くから」
「そんな事言うなよー、ほらこれ見て、ケネディーの暗殺なんて面白そうでしょ?」
「どこが」 プリントを突き返し、窓の外に目をやる。
「元々ケネディー家ってのは呪われてるって言われてるんだ。一族の中で事故だったり
殺されたりで死亡するケースが異常に多い。この間も将来の大統領にと期待されてた
息子が操縦してた小型機の墜落で亡くなったよね。遺体は公開されなかったけど。」
「ただ間抜けなんじゃんそれ、お前いきなり説明始めるなよ」
「だって面白いと思わない?」
「思わない」
「俺は思うな、アメリカ史上でも中々面白い部分だと思う。」
「だから思う存分一人でやれ、俺中国史グループ行くから、な?」
「二宮お前さ――」

“お客さん、次終点だよ、降りてくんないと困るんだけど”

ボソボソと耳につく声で運転手が呟く。バックミラー越しに目が合うと彼の目に生気が無い
事に気が付く。何か、生きていても仕方ない、面白くないからいつ死んでもいい、そんな
瞳をしていた。幽霊バスってよく会談番組とかで言ってるけど運転手ってきっとこんな
感じなんだろうな、と思った。

「すみません、降ります!」
小銭を急いでポケットからかき集めようとした時、松本が「大丈夫、あるから」と俺の分まで
キッチリと支払った。値段を確認していた様子が無かった事からするときっと前日に調べて
いたのだろう、若しくは以前ここに来た事があるのかもしれない。運転手は俺達が小銭を
誤魔化していると思ったらしく、暫しの間バスの扉を開けてはくれなかった。漸くピッタリ
ある事を確認した彼は扉を開け俺達を降ろすと、そのまま乱暴に走り去ってしまった。
あんな大人にはなりたくないな、とただ漠然と思ったのを覚えている。
.

43_:2002/04/24(水) 05:37

-21-

目の前には小さなギャラリーみたいな建物がある。
周りには何も目立ったものは見えず、細い道に沿って今はもう珍しい木の電柱がぽつんぽつんと
立っている。ここはきっと都内でも位置的に人気の無い場所なんだろう、そんな雰囲気が
どことなく漂っていた。ガラス張りの建物の中を覗いてみるが、資料の様な物が並んでいる
訳でもなく真ん中にひとつだけアンティークと思われる椅子が置いてある。

「じゃあここで、また明日」 道の反対側にあるバス停に向かう。
「ここまで来て帰るっての?待ってよもう!」 松本は俺の袖を掴んだまま離さない。
「だって俺グループ違うしこんな所来ても意味無いじゃん、離せよ。」
「お茶くらい出すからさ!退院してすぐで疲れたでしょ?ね?ほら外は暑いし!」
「ん?」 お茶くらい出す?
「ここの資料館俺がやってんの!」
「・・・・・・」

促されるまま中に入るとそこには不思議な空間があった。
もう茶色くなった古いアメリカの国旗が天井に貼られていて、四方の壁には埋め込み式の
本棚にかなりの年代物だと思われる本がぎっしりと詰まっていた。その殆どは厚い洋書で、
手に取るのも申し訳無い気分にさせる立派な物だった。資料館と言ったら写真や何かの古い
手紙みたいな物がガラスケースに入れられているのを思い描いていた俺は肩透かしを食らう。
それともこんな資料館は珍しいんだろうか。まぁ20畳程しか無い高校生がやってる資料館
なんて資料館の内に入らないのかもしれないけど。そんな事を考えていると奥から松本が
お茶とケーキと共にやって来た。
「モンブランと紅茶でいい?日本茶と食べるタイプ?」
「いいよ、そんなのいらない」
「ここ座って、遠慮しないで」 空いた片手で中央にある椅子を俺に勧める。
それに座って出されたケーキのクリームを舐めていると、松本は次に小さなテーブルを
運んで来る。これもまたよく分からないデザインの高そうなアンティークで、それは松本に
よく似合っていた。
「お前ん家ってこの前ん所だろ?あのマンションの」
「そうだよ、この前一回だけ来てくれたよね」 松本は変な機械でアイスティーを作っている。
「お前の父ちゃんはここやってないの?」
「あぁ、言ってなかったっけ?うち両親共いないんだ。」
「・・・え?」 口の中の栗を吐き出しそうになった。
「気にしないで、だって二宮もでしょ?一緒じゃん」 そう言って松本はクスクスと笑った。
「そうだけど」
「まぁさ、ほら時代が時代だから、はいこれ」
カロン、と涼しそうな歌を歌っている澄んだ色のアイスティーが目の前に差し出される。
表面にはミントの葉が浮かべられ、円柱型のグラスは冷たい汗をかいていた。黙ってそれを
一口飲む。今までマロンクリームと唾液で粘ついていた口内に、すっきりとした心地良い
甘みが染み渡った。
「おいしい?」 一息ついていると松本が訊ねた。
「・・あんまりこういうの分かんないんだけど」
「そっか、でも甘くし過ぎないように気を付けたんだけ・・」
「あ、丁度いいそれは」
「そっか、良かった」
そう胸を撫で下ろすと松本は自分のグラスにも紅茶を注ぎ、机の上に腰掛けた。
小さく冷房の音が聞こえ、室内から湿気が無くなっていくのを肌で感じる。ガラスを隔てた
外は太陽の光に照らされ、ほんの小さな小石でさえ喉の渇きを訴えている様に見えた。
もう夏はすぐ側まで来ている。
.

44_:2002/04/24(水) 05:39

暫くすると、また先程の言葉が引き返して来る。
興味心を何とか引っ込めようと何度も押さえつけたがそれは上手くいかず、それは
干渉となって表れた。
「お前さ、何で今まで黙ってたの」
「え?」 上品そうにケーキを突ついている松本は斜め上から俺を見下ろす。
「家族がいないこと、あ姉ちゃんはいるけど」
「あぁ、それ」 松本はまたクスクスと笑う。何がおかしいんだろう。
「笑うとこじゃねーだろ、アホ」
「ううん、ゴメン、だってさ、二宮だって俺に言わなかったしもう知ってるのかと思って」
「普通人の家の事なんか知らねーだろ」
「だって俺知ってたもん、二宮が一人暮らししてるの」
「・・何で知ってんだよ」
「いや、何となく分かるじゃん、親がいる人といない人の違いって、それに一緒に帰ったりも
..してたしさ。あケーキも一個食う?」
無言で差し出されたケーキを断ると松本は続ける。そして俺も今日は無性に松本の話を聞きたい
気分だった。話の先を強請る前のめりの姿勢に気付き、それとなく椅子に座り直す。

「俺の場合はさ、別にいいと思うんだ、元々両親いないんだから。あ、捨て子って訳じゃ
..ないけど生まれた時から知らないって感じ?実際はちゃんといるんだけど」
「どっちだよ」
「うーん、いないのかもしれないね。」
「訳わかんね」
「ふふ、でも隠してた訳じゃないよ、二宮が俺の事別に興味ないの知ってたから言わなかった
..だけ。それに俺の場合特殊なケースだと思うしさ。」
「特殊?」
「うん、俺“完全試験管ベイビー”てやつなの」
「は、ふざけてんじゃないよ」
「はは、ふざけてないよ。でもこれ誰にも言わないでね、まだ違法だから。」
「意味分かんねーよさっきからよー」
「意味分かんない方がいいよきっと、これって悲しい事だと思うし」
「・・・・・・」
「二宮にはちゃんとご両親いらっしゃったんだろ?それって幸せだよ。」

そう言うと松本はまた奥に入って行ってしまった。
何か肝心な所だけ逸らかされた様な気がする。何かの歯車が噛み合っていない、そんな感じが
した。それが松本との温度差であり、どこか信用し切れないそんな空気の存在の理由だと
思った。胸に何かが引っ掛かったままずっと取れない。これが無ければ、もっと何もかもが
きちんと見渡せるはず。まるで鳴らない踏み切りの前で立ち竦む子供の様に俺は動けない。
ここから一歩踏み出せば、全てが躍動し始めもう元には戻れなくなる。

自然と溶かされる壁の外側から音量を増して近付いて来る“見えない圧力”、もうそれは
すぐそこにある。震える手で氷を喉に押し込んだ。
.

45_:2002/04/24(水) 06:10
>>9 >>10 >>11 >>15-17
>>19 >>21 >>28 >>36-37

感想ありがとうございます。参考&励みになります。
なるべく毎日更新しますので、良かったらたまに覗いてやって下さい。
格好悪いですが、敢えて超亀レスさせて頂きました。

46ななし姉ちゃん:2002/04/25(木) 00:22
ちょっと、世界観の端っこがめくれてきた感じかしら?
職人様の「ヒキ」の強さには脱帽します。
つーか、さっき「ごくせん」見たばっかで、
歪様にちょっとやられぎみの私・・・松本カコイイ(ぽ

47_:2002/04/25(木) 05:45

-22-

戻って来た松本が手に持っていたのは今時珍しいカセットテープで、それはかなり古く
表面に貼られたラベルの文字は掠れてしまっていて読み取れなかった。
「これ、一緒に聴こうよ」 松本は部屋の隅にあるコンポにそれを入れ再生する。
するとブツッという耳に障る音のすぐ後に、聴いた事があるような無いような、どこか
懐かしい前奏が流れる。それは俺の内部に旅愁に似た匂いを沸き立たせたが、それが
どうしてだかは全く見当も付かなかった。ギターの音に乗せて何人かの男が歌う。
耳が記憶しているその声が重なり離れ、それでも共に一つの歌を構成している。


小さな肩にしょい込んだ僕らの未来は
ちょうど今日の夕日のように揺れてたのかな
いたずらな天気雨がバスを追い越して
オレンジの粒が混じり輝いている
遠回りをした自転車の帰り道
背中にあたたかな鼓動感じてた
さよならと言えば君の傷も少しは癒えるだろう
会いたいよと泣いた声が今も胸に響いてる
不器用過ぎるふたりも季節をこえれば
まだ見ぬ幸せな日々巡り合うかな
何となく距離を保てずにはにかんでは
はがゆい旅路の途中で寝転んだね
さよならと言えば君の傷も少しは癒えるだろう
会いたいよと泣いた声が今も胸に響いてる


「あれ」 黙って聴いているとそこで歌は途切れた。
実際途中で切れてしまった訳でも無くきちんと終わりまで流れたのだが、どこか物足りない。
何かが欠けている様に感じた。
「いい歌でしょ?」 壁に凭れて松本が言った。
「・・あぁ、誰の歌?」 本当にいい歌だと思った。
「SMAPってグループの歌、全然有名じゃないけどね。」
「ふぅん」 スマップ・・聞いた事が無い。
「このテープ、ある所で見付けたんだ。ビニールでぐるぐる巻きにされて、どこだと思う?」
そう言うと松本はクイズ番組の司会者が問題を出す時の様なポーズを取る。正直苛ついたが
答えが知りたかったので適当に相手をする。
「え、ゴミ捨て場とか」
「ブッブーはーずれー!」
「どこだよ言えっていいから」
「・・・白崎小学校の運動場。」
「え」 それは俺の卒業校だった。
.

48_:2002/04/25(木) 05:51

「黙っててゴメンね、この間さ、水野とか溝端達がさ、タイムカプセル掘り出すとかって
言ってたの知ってる?それであいつら自分らの学年のタイムカプセルかなりフライングして
掘り出したんだよな、しかも真夜中に、バカでしょ。」
「・・・・・」 タイムカプセル、そんなのあったっけ?
「で、でさ、これが二宮のタイムカプセルってわけ、取り返しといたから。勝手に開けちゃって
ごめんね、でも手紙は読んでないから。久し振りにこの歌聴きたかったから勝手にテープは
かけちゃったけど、ふふ。」
松本は眼前の机上にその黒いテープと、昔は白かったであろう茶色い封筒を丁寧に置いた。
小学生だった頃の記憶を殆ど持たない俺に取ってそのテープは未知の存在であり、今現在
18になった俺が見た事も無い完全体になれる必要不可欠な物体として映った。手紙の
封を切る。カサカサと乾燥したその封筒を開くと、中に薄い紙が一枚だけ汚く折り畳まれて
入っていた。力の無いひょろひょろとした文字を懸命に繋げて読む。それにはこう
書かれてあった。


『 20さいのおれへ 』
白崎小学校6年2組 二宮和也

もう元気になりましたか?
いのちをかけて、たいせつなものをまもれるような
そんな大入になって下さい
みんないっぱいであそんでけんかしたり、そんなことが
まいにちあったらとても楽しいと思います。
みんな、ぜったいぜったいまた会おうな!!!
たき沢君、ごめんなさい


違和感があった。
それは12歳の自分が書いた事へのむず痒さではなく、読んだ瞬間に感じる事実と記憶との
不一致、それに等しく思えた。小学生の自分、自分の中に刻み込まれている幼い自分、
加減を知らない乱暴な問題児――だがこの文章から感じる空気は何だろう。何かを悟った
人間の書く文章だと思った。何か俺の知らない事を知っている・・それも何か大切な事を。
幼い自分自身と対峙したくなったが、記憶が曖昧な今これを書いたのが自分だという確証が
無い、信じられない。
「何て書いてある?」 松本は首を傾げる。
「お前もうこれ中身見てたんじゃないの?」 と意地悪に返すと
「それは見てないよ、誓える。」 と意外にも真剣な面持ちで松本は答えた。
「そっか」
「あ、珍しい、信じてくれた」
「・・・・・」
何だか全てを受け入れられる気持ちになっていた。
数え切れない程沢山のイベントが暴走する車の様に俺の目の前を通り過ぎ、俺は人生の半分
以上を生き切った気持ちになる。中学の頃はあれ程ゆっくりと過ぎていた退屈な時が、今に
なって速さを変え、それはまるで伸びていたゴムが一気に元に戻り始めている感じだった。
もういっそ目の前の松本も、帰って来た法子も、109での事故も、この間の進路相談でさえ
嘘なんじゃないかと疑いたくなる。このスピードに俺はついて行けない。全て投げ出し
真っ白になってから考えたい。でも一度生まれた以上それは不可能な事をきちんと理解して
いたし、時間を止めるなんて芸当が出来る超人なんて存在しないという事も知っている。
要は分からないのだ。今の俺が、どこにいて、何を考えて、何をすべきなのかが。

アパートの流しで頭から水を被った事なんて、もうとっくの昔の出来事なんだろう、と
頭の片隅では同時進行で考えている。何一つ理解出来ない投げやりな自分を押し潰して
消してしまいたい。それは過去の遺物が喚起した感情に違いなかった。
.

49_:2002/04/25(木) 06:06
>>46
歪様には私も殺られています。
松本カコイイ

50ななし姉ちゃん:2002/04/25(木) 10:06
>>48の手紙の内容ですが、「大入」になってるのは
二宮の字が汚いってことを表してるのでしょうか?
スイマセン…気になってて。

51_:2002/04/27(土) 02:03

-23-

それからは何かを避ける様に他愛の無い話しかしなかった。
迫り来る圧力のカタチが掴めない俺はただ黙って松本の話に耳を傾け、たまに相槌を打ったり
して帰りのバスを待っていた。信じられない事だがここへのバスは一日午前と午後の2本しか
無いらしく、それであの時病院の中庭で松本があんなに焦っていたのかと心の隅で納得する。
松本の話はと言えば、もうすぐ校舎の窓が修理されるとか古典教師が同じシャツを3日間
着ていたとかしなくても別に困らない内容だった。話の節々に今度映画に行こうとか面白い
クラブがあるから行こうとか至極自然に誘って来たが聞こえない振りをした。そして話を
流しながら考えていた。俺は何なんだろう、と。考えるつもりは無かったが頭からそれが
離れなかった。
「――でさ、それで俺言ったのね、お前ムカツクんだけどって、そしたらさ・・」
(こいつ、何考えてんだろ・・・考えそうな顔してないか。)
「で、定規あるじゃんあの前にあるデッカイやつ、あれがドカーン落ちてきてー・・」
(そう言えば記憶の真ん中が抜けてるっておかしくないか?)
「チョー笑ってんの皆、篠崎なんて笑い過ぎて腹筋つっちゃってさ、何かコントみたいで――」
(何かあった事とか納得出来ないしホント苛つくんだよな、いまいち分かんないって言うか)
「で、でね、そんで俺言ってやったの・・・」
(こう、ズレてんだよなー、ズレたまま時間が経ってるって感じで)
「したら何言ったと思う?あ、あれ、そうそう水野、あいつとかね――・・」
(俺の知らない内に全部決められてるって感じするし何がおかしいんだろう)
「水野―とか皆追っかけまわしてもうその辺すっげー汚れちゃって、人ん家じゃん・・」
(・・何か、さっきのとか読んで思ったけど何かほんと絶対おかしいんだよ)
「――てなってホント・・あれ、二宮聞いてる?」
「あ、うん。」
「どう思う?これってヤバくない?放っといてもいいもん?」
「・・・・・」 感想を求められるとは思わなかった。手の平にじわっと嫌な汗が滲み出る。
「ほんと明日までに何とかしないとやばいよねー、どうしよっか。」
「まぁよく考えてさ、決めたら?」
「うん、そうだよね・・」

無難な回答を返すと、松本はそれを受け止めそのまま唇を触りながら黙り込んだ。
ホッとしつつちらりと外を覗くがバスが来る様子は無い。どうせアパートにテレビも無いし
早く帰る理由も無かったが、何となく急いた気分だった。脳裏に法子の顔が見え隠れして
いたのもその理由だ。部屋の入り口に置いた黄色の花束――松本が気を利かしてそのまま水の
入った花瓶につけておいてくれている――をチラリと見遣る。良かった、まだ萎びていない。
「なぁ二宮、その花誰から?」
「え?」 つい上ずった声が出てしまう。
「さっきからずっとちらちら見てるじゃん」
「え、あ、別に」
「やっぱり彼女からなんでしょ?」 松本は口を押さえてニヤニヤと笑っている。
「だからさっきからしつっこいよお前、違うって」
「よかったじゃん」
.

52ぐーぱんちだ!:ぐーぱんちだ!
ぐーぱんちだ!

53_:2002/04/27(土) 05:04

そう言うと松本は俺の反応をはね返すように「そろそろバスの時間だ」と荷物を纏め始めた。
考えてみたら明日は学校だ。入院していたせいか時間の感覚がずれてしまっていたのかも
しれない。松本は奥に入ると冷房を切り電気を落とした。少し肌寒かった気温がまたぐっと
上がった様に感じた。もう4時だと言うのに外の景色はうだる暑さを匂わせていた。夏と
いうのは一年で一番力強い季節だと思う。凍る厳格な冬があって、柔らかく暖かい春、そして
その春の後に絶対的な明るさと輝きを持つ夏が来る。俺は6月生まれだからなのかもしれない、
夏の強さはどうも苦手で、それがただの空騒ぎで見せかけだけの強さだと思ってしまう。
一年の中で対極に位置する夏と冬、その間にどちらでもない春と秋がある。冬から夏へ
上手くバトンを渡すのが春の役目で、秋はその夏と冬の間を繋ぐ掛橋の様なものか。
そうすると俺は――

「何考えてんの?」
「え」
「ゴメン待たせて、バス停行こっか」
松本はドアを開けて先に俺を通すと後ろで鍵を閉めた。やはり予想した通りの熱気が肺を襲う。
少しだけ咳き込んで道に踏み出すと、どこまでも続く細く長い道路の向こうにはうねる蜃気楼が
浮かんでいた。首を動かせ肩をゴキゴキと鳴らすとなるべく息を押さえてバス停に向かった。
もうここには二度と来ないだろう。今日来たのは不本意だったが中々不思議な空気が漂う
いい所だ。辺鄙な場所は嫌いじゃない。
.

54_:2002/04/27(土) 05:06

「はいこれ」
手渡されたのは細長い紙だった。切れ目が入っていて“蜃気楼寺─都立日暮高校前”という
文字が縦に何個も印刷されている。いわゆるバスの回数券だ。
「何だよこれ」
「これから使うかと思って買っといたんだ」
「これ“しんきろうじ”ってどこ」
「あ、ここここ」 松本は靴底で地面をパンパンと叩く。
「え?」
「だってほら、世界史同じグループだし、ねぇ」
「え、あ、お前俺この前グループ変えるって言・・」
「あ、バス来た、お〜い!」 わざとらしく近付いて来るバスに両手を振っている。
「お前人の話・・」
土煙と共にバスが乱暴に停車した。大きく口を開けていた俺はそれをモロに吸い込んでしまい
ガハガハと吐きそうになりながら咳をする。さっき食べたケーキが今にも出てきそうだった。
3つも食うんじゃなかったと今頃後悔してももう遅い。さっきの後部座席に座ると松本は
楽しそうに背伸びをした。俺は暫く痛む喉を落ち着けて話し始める。
「お前な、俺言っただろ、俺は中国史のチーム入るからもうお前とやらなくていいの」
「何でー楽しいよ、アメリカ史はさ、こうダイナミック?憧れちゃう!」
「だーかーらー」 手を少女漫画に出て来るヒロインみたく組んでいる松本を見て顔を顰める。
「それにさ、お前入院してたし締め切り過ぎちゃったよ」
「えっ・・」
「いやー、先生も2人だけだけど頑張れよって言ってたよ、応援されちゃってんの」
「や、ほんとマジでこれはいらないから返す、はい」 回数券を突き返す。
「いいっていいって、取っといてよ、俺からの気持ちだから」
「その気持ちが迷惑なの!」
「俺頑張るからさ、一緒に“優”取ろうぜ、な!」 そう言いながら俺の肩をオヤジの様に揉む。
「さわんなってもう!」 すぐさまそれをはね除けた。
「おいおい二宮さん!俺とあんたの仲じゃないですかー!」
「何がだよアホ!めちゃくちゃ仲悪ぃじゃねーかよ触んなコラ!」
「もー二宮ちっちゃくてか〜わ〜い〜い〜!」
「何だとオラー!」


“ ――車内では静かにして下さい、他のお客様の迷惑になります。”

苛立ったその声には聞き覚えがある。行きのバスの運転手のものだ。
口を噤み顔を見合わせそのまま黙り込む。行きと同じく乗客は俺達だけで、車内はまた重い
エンジン音と外界からの騒音に包まれる。少なくとも俺はその運転手の態度に腹を立てたが
我慢出来る範囲内だったのでそのまま怒りを押し込めた。それにバスの中で騒ぐのはいい事
じゃないもんな、自分で自分を窘める。こんなの大した事じゃない、気にするだけ無駄だ。
松本は暫く運転席を睨んでいたが、やがて不機嫌そうな顔でこちらに向き直ると何か言いたげ
な顔で黙っている。
「なに」 と聞いてやると
「二宮、あいつ腹立たないの?」 と口元を隠して松本は言う。
「別にいいじゃん、ほっとけば」
「でもほんとムカツクよ、あれ」
「気にしてる方が馬鹿なんじゃない」
俺がそう言うと、松本は不本意そうな表情で唇を歪め黙り込んだ。5分程揺られただろうか、
冷房が効いて涼しい車内でウトウトとしていると突然松本が俺の肩を揺らした。着いたん
だろうと思い反射的に荷物の紐を手繰り寄せていると嬉しそうな顔で松本は言う。
「さっきはゴメン、大人げなかった」
「は?」
「ほら、あの・・ゴメンねさっき、あの運転手の事、俺見苦しかったでしょ」
「ああ・・」 その事か。外を確認すると俺はそのまま目を閉じた。
「何かアツくなっちゃって鬱陶しいよね、俺。二宮嫌いでしょそういうの」
「・・・・・・」 頭蓋骨に俺の寝息だけが木霊している。松本の声は届かない。

バスの振動、いつの間にか振り出した汚れた雨、内に渦巻く粘る糸を引く泥の様なもの――

そのどれもが俺を侵食し、交互に心臓を舐めている。
吐きそうになりながらも俺はふと松本の事を思い出し、間に滑り立つ半透明の壁を認識する。
その壁が今、音も無く厚みを増した。壁の姿を目に焼き付ける。

吐き気がした。
.

55_:2002/04/27(土) 05:30
-23-
>>51 >>53-54

コピペ失敗しました、すいません。
逝って来ます・・・

56ななし姉ちゃん:2002/04/29(月) 01:10
職人様、戻ってござらしゃれ〜(叫

57ななし姉ちゃん:2002/04/29(月) 21:02
職人様、いつの間にやら再開されていたのですね。
これからどんな展開になっていくのか予想も出来ず、
続きが大変楽しみです。

58_:2002/04/30(火) 03:53

-24-

暫く経ちバスを降りるとじとっとした雨は止んでいた。
雨止んでて良かったね、と松本は俺の先を軽い足取りで歩く。俺はただ松本のひょろ長い
影を踏みながら、ほんの少しだけ涼しくなったアスファルトの道を辿る。周りはいつの間
にか終業後の学生が屯していて、それはこの間行った109を彷彿とさせた。
「じゃ俺こっち方面だからここで」
「あ、うん」
「・・あの、待って」
そのまま背を向けて歩き出そうとした俺を松本を松本は呼び止める。それは単に言い忘れた
事ではなく随分前から言わなかった事を伝える為だと肌で感じた。唇が動くのを待つ。
しかしその二枚の紅い柔肉は若干震えが見えるだけで肝心の音はなかなか出て来ない。
大勢の人が行き交うバス停のある通りで向かい合いただ佇む。迷惑そうに、はたまた
物珍しそうに通り過ぎる個体が視界の隅にちらつく。松本は背負っていた鞄を肩から
下ろし地面に置くとこちらに向き直って言った。

「あの、話したい事あるんだけど・・二宮ん家お邪魔してもいいかな?」
「・・・・・」 松本の声は人波から発せられた騒音のせいだろうか、所々弱くなっていた。
「あの、あ、駄目なら俺ん家とかでいいんだけど、何なら明日とかでも・・」
「ここじゃ言えないのかよ」
松本はコクリと遠慮がちに首を縦に振った。
俺はまた苛々している事に気が付く。なぜこいつと喋っていると腹が立つんだろう。
知り合って2ヶ月と少ししか経っていないこいつを一体何と定義付ければいいのだろう。
「あの、駄目なら・・別に二宮の都合のつく時でいいんだけど・・」
相手の気持ちを第一に優先したようなその喋り方に苛立ちが増す。こいつはいつだって
そうだ。相手の見えない内心をいつも伺っている。万一、咎められた時の為に“俺は
ちゃんとあの時相手の事を考えていました”と逃げ道を作っているかの様な振る舞い、
天真爛漫に見せかけて臆病な性格、それでいて滲み出る何か強い意志、その全てが
色を混ぜ弾き合い、その全てが俺の胸をじりじりと焼く。俺は鼻の先に干し肉を
ちらつかされた小犬の様にただ落ち着かず、すぐ目の前にあるものに噛み付いて
しまいたい衝動に駆られる。
「いいよ、俺ん家来いよ」
「ほんとに?」
パッと松本の表情が明るくなった。下唇を舐めながらぺロッと舌を出した松本は
そのまま嬉しそうに切符をポケットから差し出した。それは俺の最寄り駅までの
切符で、改めて用意周到だと目を見張る。全てが計画されていたのか、それとも
ただありとあらゆる可能性をがっちりと必死で掴もうとしているのか、それは
分からなかったが悪い気はしなかった。黙って切符を受け取ると、改札口へ向かう。
中に入れてくれるの初めてだよね、今度は入れてくれるよね、とはしゃいでいる
松本を目にすると案外壁は薄いものだったのかもしれないな、と実感する。
こんなにも急激に厚くなったり薄くなったりするこの壁――実態は掴めないもの
なのかもしれない、とふと思った。西の空がまたぐずついている。俺は目を
逸らさずにずっとそれを見ていた。
.

59_:2002/05/01(水) 00:07

-25-

ビルが勢い良く生えている都心から随分離れると、そこには俺の住むアパートがある。
右、右、左、右、とまるで迷路のように細い路地を分け入り目的地へと進む。大方後ろの
松本は驚いているんだろうと振り向いてみたがそうでも無いらしく、ただ物珍しそうに
ひょいひょいと俺の後ろを歩いていた。
「いい所だね」 絶対嘘だろ、という台詞を松本が吐く。
「お前な、ここら辺がどんな所なのか分かって言ってんの?」
「え、さぁあんまりこの辺は来ないけど、ほらだっていつも向こうの角で別れるじゃない」
そう言って松本は心許ない仕種で遥か向こうを指差した。指先はあさっての方向に向いて
いて、俺はそれを見て何故だか微笑ましい気分になる。聡明な優等生でも間違う事もある、と
誰もが知っている事を改めて実感した。松本はそのまま俺の後ろを歩く。

「ねぇ二宮」

暫くただ歩を進めていると松本が声を掛けた。
名前を呼ばれるのはもう何度目だろう。少しだけうんざりしながら黙って振り向く。すると
松本がある所を指差していた。その方向へ視線を向けると赤い塊が地面にくっついていた。
そしてそれが人間であると気付いた時にはもう体が動いていた。

「法子!」

駆け寄った先には赤いTシャツを着た法子が地面に蹲っていて、それを抱き上げようと
している俺に漸く松本が追いついて来る。狭い路地にボロい玄関が立ち並んでいるせい
だろうか、全速力で走る事は憚られたのだろう。それは松本の臆病な理性を表している
と眠っている法子を背に歩きながら納得した。松本はまた御決まりの何か言いたげな
表情でただ俺の後ろをついて来ていた。
松本に手伝って貰いアパートのドアを開けると、むわっと立ち込める湿気に眉を顰める。
たった数日帰らなかっただけなのに、そこからは人の存在しない独特な空気が感じられ
何となくその空気の癒着を恐れた俺は、慌てて木の枠で出来た窓を力いっぱい押し開けた。
血の色を彷彿とさせる色をした夕日が目に入ると共に、少し澱んだ空気がヌルっと侵入する。
後ろで布団に寝かされた法子の側に行儀良く座っていた松本が漸く口を開く。
「この子、二宮の彼女?」
「ん」 目に沁みる赤のせいだろうか、俺はごく自然にそう頷いていた。
松本はそのまま黙り込んでしまい、それを何となく居心地が悪く感じた俺はゆっくりと振り返る。
するとそこにはいやに不安気な顔をした松本が居た。その表情をどう表せばいいのか分から
ないが“不安”という単語が一番似合っている気がした。そしてその気持ちはすぐさま
俺にも伝染した。今思えば、どうしてこの時に決断出来なかったんだろう――そう悔や
まれて仕方無い。

その日、松本が核心に触れる事は無かった。
結局何も肝心な事は話さないまま時間が過ぎ、月が空に目立つ頃に松本は帰って行った。
すぐ側に法子が寝ていた事もあるかもしれないが、一度法子が目を覚ました時、寝惚けて
呟いた言葉を耳にすると同時に松本を覆う空気が変化した気がする。

「にのみやかずなり」

法子はそう呟いた。
俺はかなりはっきりと名前を呼ばれたので驚き、法子を見た。すると半分だけ瞼を上げ
もう一度はっきりと俺の名前を呼んだ――いや、呼んだと言うより“言った”と表現した
方が正しいのかもしれない。その名前の連呼には何の感情も感じられなかったからだ。
前々から法子は少し変わった子だったから、俺はただの寝言かとそのまま気にせずにいた。
だが松本の表情はそこから変わり、いやに落ち着かない仕種で取り留めもない事を捲し
立てる様になった。松本は焦っていた。やがてその直感は松本が部屋を出て行く時、靴の
踵を踏んだまま出て行った事から信憑性を増した。確かに松本は焦っていたのだ。そして
その焦りは下世話なものでは無く、根本を覆すような焦り、俺の知らない何かに対する
焦りだった。引っ掛かるものを感じながらそのまま俺は畳の上で朝まで眠り、翌朝法子
手製の朝飯の匂いによって起こされる事となった。行ってらっしゃいと玄関で俺を送り
出す法子の笑顔には何の曇りも無く、昨日の不安はやはり霞の様なものだったと納得
しながら学校までの道のりを急いだ。

俺の足取りはとても軽く、いつもより澄んだ空気はむず痒い幸福をより一層はっきりと
際立たせていた。
.

60_:2002/05/01(水) 04:06

-26-

「二宮おはよ」 席につくと早速松本がやって来た。
「おう」 と鞄から教科書を出しつつそれに応える。
始業前の慌ただしい教室は入院前と変わらず浮ついたもので、それを俺は受験前の学生の
持つ独特の空気だと勝手に予想していた。俺の右の席に座る松本は椅子をこっちに寄せ
ニコニコと笑っている。教室の隅に塊を作っている女子のグループの目線が痛い。
「ねぇ二宮、喉の調子はどう?」 と喉仏を押さえ松本が訊く。今更な質問に眉を顰めた。
「お前な、昨日っからずっと一緒だったじゃねーかよ」 と返すと、教室の隅からは
キャーというバカ高い嬌声があがった。それの意味をすぐさま感じ取った俺は頬を紅く
して俯いた。それでも松本は機嫌よくカラッとした笑顔を浮かべている。
「お前な・・」 口を開くと同時に教室のドアが勢い良く開き、担任の伊藤が入って来た。
「ゲ、伊藤だ」 と呟くと同時に松本は椅子を元に戻し机の中から学級日誌を出す。
どうやら松本は日直らしく、伊藤が淡々と口にする必要事項を慌てて記入し始めた。
黙って頬杖をついてだるいホームルームの時間を過ごしていると、クラス全体の目線が
こちらに向いている事に気付き、伊藤が俺に何か訊ねたのだと我に帰る。しかし質問の
内容が分からなかったのでそのまま黙っていると松本が横から「いえ、もう平気です。」と
落ち着いた声で答えた。伊藤はそうか、と頼りなさそうな笑顔を浮かべ、そのまま近々
あるらしい防災訓練の説明などをし始めた。ホームルームの後、今まで溜まっていたノート
なんかをダラダラと写していると、目の前に伊藤が立っていた。彼は大学院にこの間まで
通っていたらしく、27歳の新任教師だ。その甘いルックスは女子生徒の間で高い人気を
誇っていたがやはり新任に受験クラスの受け持ちは無理なのではないか、と教師やPTAの
間では囁かれていた。その理由は彼の柔らかい物腰や自身の無さそうな目線から来ている
のではないか、と推察していた。

「二宮、松本、お前ら大丈夫か?」 泣きそうな笑顔で伊藤は訊ねる。
「あ、大丈夫ですよ先生、だってテレビで見たでしょ俺達がヘリで脱出するとこ!」
「そうだけど・・本当に大丈夫なのか?」 伊藤はまだ立ち去らない。
「大丈夫ですよ、ほんとスターになっちゃったみたいでチョー気分良かったですよ。」
「・・なら、ならいいけど」 何か言いたげな顔、全てを悟られた気分になり俺は俯く。
「伊藤ちゃーん!ここゼンッゼン分かんないんだけどー!」 女子生徒の元気の良い声に
教師は慌ててその体を動かす。去り際にこちらに向けられた何かを意味しようとしている
瞳がそのまま鮮明に残った。それから数分経ち一限目が始まると、伊藤は教卓に戻り難解な
数式を次々に展開する。それはどうやら前回の復習らしいが、ここ数日学校を欠席していた
俺にはただの数字と記号の羅列に過ぎなかった。そのまま暖かな日の照る窓の外を眺めて
いると50分が経ち、チャイムが鳴ると同時に辺りは騒がしくなった。ノートを机の中に
しまいそのままそこに突っ伏して短い睡眠を取ろうと試みる――が、それは伊藤の声に
よって遮られた。

「二宮、ちょっと教員室まで来て貰えるかな?」
「・・・・・」 顔をあげると伊藤が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「いや今回の所、結構大事なんだ。昼休みとか放課後でいいから一緒に復習しよう」
「あ、いや、自分でするから大丈夫です」 適当にやり過ごそうとした俺に伊藤は
「それに少し話もあるから」 と付け加えた。

それはちっとも意外では無く、こうなるべき運命であったと思う。
動き出したものは簡単には止まれないし、その軌道を変えてしまったものは簡単には
戻れない。今の俺はまるで次々とかたちを変えるレールの上を走るボールのようで
その行き先は誰にも分からない様な気がした。

「はい」 と俺は答える。
伊藤は少しだけ歯を見せ、恐らく精一杯であろう笑顔を返した。
.

61_:2002/05/01(水) 04:12

-27-

「分からないんだ」
教員室に入るなり伊藤が発した言葉はそれであった。俺は放課後の誰もいない教員室で
担任教師と向かい合って座っていた。伊藤は理系人間特有の匂いをあまり感じさせない。
いつも小奇麗なスーツ姿で縁無し眼鏡をかけていて、決して威圧感を感じさせる事が無い。
今日も同じ様な格好で目の前に行儀良く座っている。まるで学生の様だな、と思った。
「何がですか」 そう言えば伊藤とちゃんと喋ったのは初めてだった。
「いや、あの渋谷の事故の事なんだけど・・少し気になる事があって」
「・・・・・」 黙って伊藤の顔を見つめる。教師は思い切った表情で切り込んだ。
「二宮、お前らどうして屋上へ向かったんだ?」
「え?」 伊藤の質問はえらく新鮮で、俺はつい声を上げた。彼は続ける。
「助かったのは本当に、心底嬉しいと思ってる。でもどうして大勢の人間が出口に向かう中
敢えて屋上へ行こうだなんてあの状況の中考え付いたんだ?」
「それは・・」 答えようとして、納得出来る答えが存在しない事に気がつく。
「爆弾が仕掛けられていたのは1階だったそうだよ、爆発は上に衝撃を与えるって事を考えた
上でのプロの仕業らしいと言ってた。」
「プロ・・」
「何の後遺症も無く助かったのはお前と松本だけだったらしいよ」
「うそ」 知らなかった。家にテレビは無いしあってもそんなもの見ないから。
「・・・二宮」 伊藤は苦しそうに顔を顰めている。毒を飲んだ様な表情だった。血が零れそうな。
「はい」
「・・これ、見てくれるか?」 そう言うと伊藤は鞄から大事そうに長方形のビニールを取り出す。
それを手に取り軽く観察するとその中には和紙の様なものが入っているのが分かり、その上には
丸い文字がコロコロと整列していた。その文字には確か見覚えがある。だがすぐには思い出せな
かった。どこかで見た気がするんだけどそれがどこからであると特定出来ない。伊藤の顔を見る
と、コクンと頷き俺はそのままその文字が意味する所を探ろうとする。

-----

愚かな者へ告ぐ

さぁ 思い知れ
灼熱の炎に巻かれ 塵と化すがよい
愚かな者よ 命乞いはもう遅い

闇の覇者 松本 潤

------


――心臓が痙攣を起こした。

呼吸が上手く出来ない。この毒霧の様に漂う予感は事実となってしまうのだろうか。俺は縋る
様な思いでその紙から伊藤の顔へと目線を上げた。
「俺の父があの事件について今調べていてね、これがあの瓦礫の山の中から何十枚も出て来た
みたいなんだ、これはその中の一枚・・ごめんな、退院したばっかりなのにこんな事・・」
「いえ」 無機質な声が治ったばかりの喉から這い出て来る。
「俺はこれ、ただのタチの悪い悪戯だと思ってる・・でもきっと近い内に父は参考人として
松本に事情聴取すると思う。」
「・・・・・・」 もう声も出ない。あの時のぼやけた松本が見え隠れする。
「松本はいい子だし、俺は無実だと信じてる。でも――・・」
「・・・・・・」
「いい子だって証拠が・・無いんだよ・・」

伊藤は泣いていた。
あぁこの文字はさっき写していた古典のノートの文字だ、とようやく思い出す。教師が泣くのを
見るのも初めてだなぁなんて呑気な事を考えつつ、ただ俺は乗せられたレールが音を立てて
かたちを変えて行くのを感じていた。足元の鈍い振動を実感する。全てはとっくの昔に始まって
いたんだ。もう逃げ道なんて残って無いのかもしれない。
.

62ななし姉ちゃん:2002/05/02(木) 01:32
!!!!!
ドキドキの展開ですね!
職人さま、いつもごくろうさまでございます。
続きを楽しみにしてます!

63_:2002/05/02(木) 09:23

-28-

伊藤は声も無く、赤くなった目からただ涙を開放している。
そこには何の感情も含まれていない様に映ったが、やがてそれは怒りや悲しみや、悔しさ
なんかのたくさんの感情がごちゃ混ぜになっている――膝の上で組まれた震える指先が
目に入りそう確認する。そのまま押し黙ったまま恐らく数分が流れただろう、そして
伊藤が漸く口を開いた瞬間、俺は自分でも信じられない様な事を言葉にした。

「俺が調べます」

それは自分自身でも理解出来ない言動で、そんな事ちっとも思ってはいなかったし、逆に
そういう考え方もあるのかと驚いた。でも確かに今のは俺が口にした言葉でそれに意志が
あるのかどうかははっきりとしないが、どこかでそう思ってはいたんだろうと心のどこかで
他人事の様に考える。それはただの思い付きだったのかもしれないが、やけに現実味に
満ちていた。まるでそれが決められた台詞だったかのように。

最初はポカンと口を開けてこちらを見ていた伊藤だったが、やがてその驚きの表情は
ゆっくりと笑顔に変化した。目尻に皺を寄せ薄い唇を舐め、ただ嬉しそうに微笑む。それは
中居君の笑い顔を彷彿とさせたが、それらは絶対に相容れない水と油の様なものだと思う。
「・・・そっか」 伊藤は胸の前で、組んでいた指をバキンと鳴らした。
「はい」 そう返事する事で水滴の様に散っていた俺の決意がかたちになる。
「何かさ、それ俺、すっごい嬉しいよ」
「え?」 目の前には向日葵の様な伊藤の眩しい笑顔がある。2つか3つ上の兄ちゃんに見えた。
「だってさ、ほら二宮って何か他人の事興味ないヤツなんだって今までずっと誤解してたからさ、
ほんと何かダチが困ってる時に助けてやれる奴なんだって知ってさ・・」
「と、友達じゃないですけど別に!」 慌ててそう返すと
「だって今お前が言ってる事ってダチしか言わない事だよ?」 と伊藤は悪戯な表情を浮かべた。
口を押さえププッと笑う伊藤の笑顔は放課後の橙色の教官室に映え、額に生ぬるく感じる汗から
漸く今まで体を緊張させていた事に気付く。鎖が解かれた体にはぬるい空気がじっとりと纏って
いてシャツの首をバタバタと引っ張り空気を入れる。
「あ、悪い、クーラーつけんの忘れてた、ちょっと待ってて」
「あぁいいっすよ別に、もう帰りますから」 席を立とうとした丁度その時、教員室のドアが
ガラっと音を立てた。

「失礼しまーす、日誌持ってきましたー・・あれ、二宮?」

暑さのせいか間延びした松本の声に2人して驚く。
硬直したまま松本を見つめていると、松本は口を押さえてクスクスと笑いこっちに近付いて
来る。伊藤はいつの間にかさっきの紙は隠した様だった。
「あ、もしかして俺の噂とかしてたでしょ?なにー悪口ィ?」
「ちっがうよ松本ーお前の悪口なんてなー・・そんなに言ってねーよ」
「ひっどいなそれ!そんなにって何だよおい!」 松本はケタケタと特徴のあるあの鼻っ詰まり
な声で笑う。両者の間には明るい空気が流れていて、俺はただそれに浸っていた。普通の人間
ならこんな空気をいつも発しているんだろう。それは俺には多分一生出せない空気だろうけれど。
暫く目の前で展開される空気を眺めていると、伊藤が帰り支度をしているのに気が付く。
「あ、じゃあ俺これで・・」 急いで席を立ち教員室を出ようとすると、戸口で松本が待っていた。

「カバン取りに行く?今日俺ん家おいでよ、新しいゲーム買ったんだ。」
「え、ああ、あ、じゃあ失礼しました・・」
「失礼しましたーじゃヒデ君また明日ねー!」
「フハハハお前キモいよ!じゃーねジュンたん!」
「キッモー!」
「アハハハハ」

伊藤はグッと親指を突き出し俺らを見送った。出る間際一度だけ振り返ると、松本には見えない
様にガッツポーズをして笑っていた。俺もほんの少しだけ笑った。
.

64_:2002/05/02(木) 09:24

長方形の夕日が所々覆う放課後の廊下を何となく一列で歩いていると、前を歩く松本がウウンと
背伸びをしながら長い首をゴキゴキと鳴らした。
「ねぇあいつウザいよね」
「え?」
「伊藤」 自虐的とも取れるその笑顔を、さっきのドアの方向に一瞬だけ向ける。
「・・・・・・」 ドキリとした。
「俺、何かあいつ嫌いなんだよね」
「・・・・・・」 返事をしない俺に構わず松本は続ける。
「あぁいう人の良さそうな奴に限って笑顔で人を傷つけるんだ」
「・・・・・」
「後の事考えないで“正義の味方”気取っちゃっててさ、周りの事なんて考えちゃいない」
「・・・・」 松本はどこか焦っている様に見えた。
「あんな大人・・信用なんて絶対出来ない。」

その決意を感じられる呟きは叫びに聞こえた。
人当たりの良い松本が発した言葉だとは信じられなかった。かける言葉も無くただ無言で歩く。
教室に着くまでの間、俺は自分よりずっと上にある松本の華奢な背中をただ見ていた。何を
考える訳でも無い、ただずっと長い廊下を踏み続けていただけ――その背中をどこか自分と
重ねほんの少しだけ哀れむ。


――コの字型の校舎の向かい側、ある少年が手摺りに顎を乗せその様子を眺めていた。
赤茶色の少し伸びた髪が鬱陶しいらしく、何度もかき上げては元の体勢に戻っている。そこを
通りかかった女子生徒はピンクのパーカーに身を包んだその少年を見付け、頬を赤らめ俯き
急いで通り過ぎようとする。すると少年が声を掛ける。

「あ、ねぇ君」
「え・・?」
「そう君、カワイイね」 長い前髪から覗くクリクリとした瞳が笑う。
「・・えっあ、え・・」 少女は自分でも意味が分からないであろう言葉と共に慌てた。
「あのさ、ひとつ聞いてもいいかな?」
「あ、は、ハイ」 体を硬くした少女を優しく脇に引き寄せる。息がかかる距離に少女は慌てた。
「あそこ、あそこ歩いてる人の名前教えて、背の高い方」少年は長く綺麗な指を一方向へ向ける。
「・・・あぁ、あれは3年の松本先輩です、松本潤先輩」
「へェ、あの一緒にいる人とは仲いいの?」
「え・・あぁ、ワンコとは・・」
「ワンコ?ニノのこと?」 少年は目をクリッとさせて驚く。
「え、ニノ?」
「そう、にのみやかずなり、ニノでしょ?」 首を少しだけ傾げて自慢気にそう言う。
「あ、あの・・二宮先輩とは、えーと、その・・」 女子生徒は言葉に詰まる。
「なに?教えて?」 低く掠れた声でその少年は少女の手を優しく握った。
「・・・あの・・」 すぐ目の前にある少年の顔がいたく魅力的らしく、少女は逆に言葉を失う。
「誰にも言わないから、ね?」
「・・・えーと、松本先輩と二宮先輩は・・」 甘い感覚に少女は包まれ、突如その堰が切れる。
「・・・・」 少年の表情は変わらない。
「・・デキてるってウワサです。」
「へ?」 面食らったであろう少年は目を丸くした。
「あたし、あたしは知らないですけど何か“イカガワシイ”ってみんな言ってるから・・・
ウワサだけど!あ、あたしが言ったんじゃないですよ!」
「・・・・・・」 その少年が何かを考える様に黙り込み手が離れた隙をついて、女子生徒はそのまま
元来た方向に走り去ってしまった。もう向かいの校舎には2人の姿は無いが、その少年はじっと
先程の方向を見つめている。手摺りにもたれ掛かり首を傾げ呟く。

「イカめし・・?」

やがて少年はグフフと笑うと、その場所を後にした。
.

65_:2002/05/03(金) 04:11

-29-

帰り道、ポケットから携帯電話を取り出した俺に松本は目を見張った。
それもその筈、今までずっと持たない主義だった俺が携帯電話のボタンをもどかしい手つきで
一つ一つ押していたのだ、驚いても何ら不思議は無い。
「二宮、お前いつからケータイ持ってたの?」 と松本が聞いたと同時にダイヤルし終わる。
「え、今日から」 慌ててそれを耳に当てるとプルルル、と聞き慣れない呼び出し音が聞こえた。
「酷い二宮、何でケー番教えてくんないの!」 悲痛な叫びが刺さらないよう片方の耳を塞ぐ。

“ はい、もしもし―― ”

「あ、もしもし?今日さ、帰るのちょっとだけ遅くなるから先寝てていいよ。」
「え゙ぇっ!!」
「うん、うん、分かった、フフじゃあなるべく早くに帰るね、うん」
「に、に、二宮お前それマジすか!マジすか!えぇ!」
「フハハハ!・・好きだよ、へへ」
「おいおいおいおいおいおいおいおい!!」
「・・・うん、ありがと、じゃあね後で、うん」

携帯をパタンと閉じて振り向くと、松本が近くの電柱にしがみ付いていた。
目鼻立ちのはっきりした松本の顔は、グロテスクだと感じる程その部分部分が同時に主張
していてそれは少しだけコミカルだった。
「・・お、お前、もしかしてど、同棲してんの・・?」
「そんなんじゃねーよ、ほら離れろ」携帯をポケットに戻すと電柱から松本を引き剥がす。
「だれ、それ誰なのよ、受験生なのに受験生なのに!誰なのよ!誰!誰!」
「うるせーよ、ほら行くぞ」
「・・うそだ・・うそだろ・・・」 ブツブツと呪文の様に呟いている松本を放って歩き出す。

松本のマンションは駅から歩いて2、3分でとても便利な場所にある。
殺風景な俺の崩壊寸前のアパートと違い、周りにはスーパー、本屋、カラオケボックス、
コンビニ、レストランにカフェ、古着屋、生活に必要な全ての物がすぐ側で手に入る
いわば一等地に位置している(もっとハイソな所もあると思うけど、こっちの方が住むには
便利だ)立派な高級マンションは見上げるだけでも首が痛くなった。前来た時は部屋には
上がらなかったから分からなかったが、部屋に辿り着くまでに数回違った種類のカードキーを
通さなければならないらしく、いくつもの防犯カメラに囲まれたそのシンとした空間はセキュ
リティーの方も万全みたいだった。

(俺ん家なんてこの前天井から猫落ちて来たよ?この前なんて隣のオッサンが間違えて俺の
部屋で寝てたしな。それにしてもすっげーなここ・・)

カメラの数を数えながらこの状況に慣れた様子の松本の後ろをキョロキョロと歩く。
大理石の床のエレベーターに乗るまでの短い間にも、その数は10を超えていた。まるで
見張られているかの様なこの場所はどうも落着かない。エレベーターに乗ると松本は変わった
形の鍵を出し、ボタンの下にある鍵穴に突っ込むと90°右に回した。
「お前何してんの」
「あ、いいのいいの」
何がいいんだかさっぱり分からないが、松本が鍵を引き抜くと同時に足元に重力がかかった。
外は見えないがエレベーターは凄い速度で上に上がっている事を感じる。松本はドアに向かって
立ち、鏡張りの側面で髪を直している。鏡に囲まれたこの場所はまるでラブホテルみたいじゃ
ないか、と作った人の美的感覚を疑う。やがてチン、と音を立てるとエレベーターは上昇を
止め、目の前のドアが滑らかに開いた。目の前には一個のドアしか無い。松本は漸くこちらに
振り返るとここだよ、と笑いまた違った種類のカードキーをそのドアに通す。
.

66_:2002/05/03(金) 04:13

ドアの向こうはこれまで見た事も無い程の豪華さで、暫く靴を脱ぐのも忘れ立ち竦んでいた。
松本はそのまま中に入ると制服のズボンからシャツを出し鞄を床に放り投げた。そのドスンと
いう音に我に帰り慌てて靴を脱ぐ。
「あ、いいよいいよ靴脱がなくて、そのまま上がって」
「あ、うん・・」 見ると松本も靴を履いたままだ。そのまま松本は脇へと消えて行った。
「何飲む〜?えーとね、今あるのはペプシ、コーク、ドクターペッパ、シャンパン、オレンジ
ジュース、ミルク、あ、アップルジュースもでしょ、えーと・・あとカクテルもちょっとだけ
あるかな、あぁ、あとドイツビールに・・」
「ぎゅ、牛乳、牛乳!」 慌ててそれを遮る。
「うぃーッス」
暫く経つと綺麗な色のガラスコップに入ったミルクを持って松本が戻って来る。キョロキョロと
見回し玄関に俺を見付けると、はいとそれを渡し奥へと誘導した。
「あがってくれててよかったのに、遠慮すんなよー」
「・・・・いや、いいって別に」 7分目まできれいにミルクが注がれたそのコップはとても冷たい。
「奥、どうぞ入ってよ」
「あ、うん」 後に続く。

その廊下の向こうはまるで子供の時見た金持ち自慢の番組みたいだった。
広い事もあるが置いてあるソファーやテレビ、それに調度品なんかからも高級感が漂っていて
俺はまるでパーティー会場の様なその部屋の入り口でグラスを持ち佇んでいた。凄い、その一言。
「今日片付けしてなくってさ、ほんと汚いんだけど・・あ、ゲームゲーム・・」
「あ、いいよゲームあとで」 大型テレビの脇に置かれた新発売のゲーム機を接続しようとして
いた松本を引き止める。今日ここに来たのは目的があったからだ。何も用が無かったらこんな所
絶対来ない。松本は一瞬眉を顰め淡い碧色のソファーに腰を下ろした。
「あ・・えぇと、あー」 上手く切り出せない。目線は天井をなぞり続ける。
「なーに?」 松本はバチバチと瞬きをしながらこっちを見ている。腹立つ位長くて濃い睫毛だ。
「あ、あそーだ、お前俺に話あるって言ってたじゃん、なに?」
「あぁ、うん、そう、あれね、うん・・」
「先言っていいよ」 一口牛乳を飲む。それは逃げだったのかもしれない。
「あ、うん、えーと、あ、その前に質問があるんだけど・・いい?」
「ん?ああ、いいよ何」 じっと松本の顔を見る。松本は暫く窓の方を見て何か考えていた
様子だったが、手元のオレンジジュースをグラスの半分程勢い良く流し込むと何か決意の
固まった様な顔でこっちに向き直り言った。


「・・俺の事、友達だって思ってくれてる?」

突然の事で上手く言葉に出来なかった。松本はいたく真剣な顔でこっちを睨んでいる。本人は
睨んでいる自覚は無いんだろうが、その表情は真剣過ぎてそれ以外の表現の仕方が見付から
なかった。一体いきなり何を言い出すんだろう、それが聞いた瞬間感じた事。そしてこれが
ずっと前からこいつがため込んでた事なのかもという考えがその後をついて来た。
.

67_:2002/05/03(金) 04:13

「ストレートにしか思った事言えなくてごめん、回りくどいの苦手なんだ」
「・・・・・・」 こいつは勇気を出したのに俺はここで後込んでいる。
「俺はもう二宮の友達のカテゴリーに入れてる?」
「・・お前何、何言ってんだよ」 後脚の間に尾を入れた犬みたいだ。
「冗談じゃないんだ、本気なんだ。まだ最初に喋った時から2ヶ月と12日しか経ってない
けどほんと二宮の友達になりたいんだ、変な意味じゃなくて。」
「でもお前」
「俺こんな性格だから誤解受けやすくて知らぬ間に敵作ってるんだけど・・でも二宮が友達に
なってくれたらいいなって思ってた、だから今こうやって許可取ってるんだけど・・」
「許可って何だよお前」
「あ、ごめん許可じゃなくて確認・・」

「・・お前な、間違ってるよ!」

自分でも良く分からなかったが、その時俺は床に叩き付けられたグラスの中から溢れたミルクが
靴の裏にじわじわと侵入している光景の中に居た。俺は持っていたグラスを床に叩き付けた。
人の家で、突如噴き上げた激情に駆られて。特に激しい運動をした訳じゃないが俺の息はえらく
乱れていて肩は小刻みに上下していた。
「お前さ、お前友達になりたくて俺につきまとってたのかよ・・それとも、それとも面白がって
俺につきまとってたら友達になりたくなっ・・」
「面白がってなんかないよ、真剣だし俺は!」 松本も立ち上がった。激高している。
「だったらキモいよお前!大体お前友達ってもっと自然になるもんだろーが!」
「待ってたって友達なんか手に入らない!こっちから頼まなきゃ・・」
「手に入るってモノじゃねーだろ!」
「二宮また倒れるから落ち着けよ・・」 松本は赤くなった俺を宥める。


「逃げんなよ!」


――遂に言ってやった。松本に、俺自身に。
そうだ、俺はずっと逃げてたんだ。辛い事や汚いものからずっと顔を背けてこれまでやって来た。
それは自分自身への叱咤でもあり激励でもあった。今までの自分と比べてその言葉はご立派過ぎ
て耳が痛かった。でも謝らない、絶対に謝らない。目の前に立っている俺より10センチも背が
高い松本の顔をキッと睨み続ける。たった2ヶ月ちょっとの間にこの顔に随分慣れていたんだ
と気付いた。松本は漸く口を開く。伸びた黒髪をかき上げる。

「じゃあ言うけど友達ってなに、二宮」
「・・いた事ねーからよく分かんないよ」
「俺もいたことないから分かんない、初めてだから正直どうやったらいいのかさえ知らない」
「・・・・・」 松本は冷静だった。よく考えて、でも心から喋っているのを肌で感じる。
「ずっと・・考えててさ、友達のなり方とか研究してて、周り観察して・・」
「・・・研究って何だよ」
「バカだって分かってる、フフ、そんでほんと分かんなくてさ、辞書とか調べたりして・・」
「・・・・・・」 愕然とした。
「したら『【友達】・・・勤務先・学校、あるいは志などを同じくしていて、親しく交わって
いる人。友人。』ってあってさ、それで余計ワケ分かんなくなって・・」
「・・辞書なんて見るからだろ馬鹿」
「物足りないんだ、いつも」
「・・・なにが」
「分かんない、いつも考えてるんだけど」 松本の笑顔は今にも壊れそうだった。
「わかんねぇよ」
「・・やらなきゃいけない事が山程あってさ、俺はただそれを済ませようと必死なんだけど
いつも変に引っ掛かってさ、誘惑みたいなモンなんだけど」
「・・・・・」
「その目的にさ、別の存在が割り込んでも許されるんだろうかって・・それはただの甘えなん
だろうかって、ううんただの蜃気楼みたいなものなのかもしれない。」
「・・・・」 頭の中にはこの間行った資料館が鮮やかに浮かび上がる。
「それでいつも何もかも俺が弱いからだって結論に辿り着いて、それでまた空回りする・・
ずっとそれの繰り返しでこのまま消えるのかなぁなんて考える。」
「・・・・・・」 松本の話はちっとも分からなかった。
.

68_:2002/05/03(金) 04:15

そのまま一緒にグラスを片付けると、俺は家路につく。
松本の言葉は何度頭の中で反芻してもぼやけたままで、考えれば考える程その霧は濃くなった。
帰り際、マンションの前で松本は言った。

――そのままずっと我慢して生きてるのって、思ったより勇気がいるよ。

ずっと意味を考えたが分からなかった。何で松本の言葉はいつも不明瞭なんだろう。どうして
松本はいつも何かを隠す様に明るく生きてるんだろう。裏を隠す為には表を派手にして目立たせ
れば良い。それで裏の毒が消える訳じゃないが少しは覆い隠す事が出来る。放課後、伊藤に見せ
られた紙を思い出す。あの字は確かに松本のもので、伊藤の言葉を信じるならばあれが崩れた
109の中に散らばっていたのも事実だ。あれは本当に松本の仕業なんだろうか。1400人に
まで膨れ上がったという死傷者の数、死体の山――松本がその地獄を創り上げたのだろうか。
ふと足を止めるとすっかり辺りが暗くなっている事に気付く。耳元に纏わりつく蚊の羽音で
松本にあの事件の事を聞き忘れた事や、理解出来ない松本の言葉について考える事からいつの
間にか逃げていた事を思い出す。バチンと耳元を叩くと、上手くそれをすり抜けた蚊はどこかへ
飛び去った。ジンジンと響く感覚をそのままに俺はいつものコンビニにふらふらと向かった。

何を相談する訳でも無い、ただそんな気分になっただけだ。
.

69_:2002/05/07(火) 02:36

-30-

コンビニ中へ入るとべたついていた肌は急に乾き始め、レジでおでんを頬張っている中居君の
元へ辿り着いた時にはすっかりさっきまでの湿気は消えていた。中居君は必死で卵を咀嚼し
飲み込もうとしているが、どうやらそれは難しいらしく表情で俺に挨拶する。
「俺もおでん貰えますか?」 そう言ってプラスチックの容器におでんを詰めて行く。別に
欲しかった訳でも無い、そこに参加したかっただけだったと思う。こんにゃく、卵、餅巾着と
片っ端から詰めるとそれをレジに置く。その頃には中居君の口の中は空になった様子で安っぽい
湯飲みでお茶を流し込んでいた。
「おっめーどうしたのよ?珍しいじゃん3日も来ないなんてよー、え?」
「いや、何か色々あって・・」
「何?テスト・・なわけねーべな、あ、こないだの女か?ん?ずっとヤッてたの?」
「・・あ」 すっかり忘れていた。急に周りは現実味を増す。
「ん、何?何よ二宮ァ?」
「あ、いえ」 まぁ10分位の寄り道だからいいか、と首を振る。粘ついた罪悪感が圧し掛かる。
「何だオメー、病気でもしてたか?顔色悪いべ?まぁ白いのは元からだけど」
「あ、俺入院してたんスよ、昨日まで」
「ウソッ・・だ、だーいじょうぶかオメー?どこ悪いの」
「ほら、渋谷の・・何だっけ、109の爆発の時俺中にいたんですよ、それで。」
「ウッソー!奇跡の無傷の2名のうち一人ってオメーかよ!テレビでガンガンやってんぞ?」

そう言って中居君はレジの後ろにあるテレビをつけニュースを探す。真面目そうな七三分けの
男性アナウンサーが淡々とニュースを読み上げている。それはその爆発事件についての話で
ばら撒かれていた紙についての言及は無かったが、“テロの疑いがある”という言葉は聞く
事が出来た。いつの間にか胸は締め付けられ鼓動を増す。この気持ち悪さは何だろう。まるで
消化し切れない固い肉が胃の中で渦巻いている様な、そんな気分だった。何もかも吐いてしまい
たくなるがそれをグッと我慢する。その内治るだろう。深く深呼吸する。
「あ、悪ぃ」 俺が俯いているのに気付き、中居君が慌ててテレビを消す。
「あ、いえ・・」
「ゴメンな、恐かっただろ、すまねェ」

――何かを思い出した気がした。モノクロの画面に、針で突いた様な色がポッと現れた。

「でもほんとお前無事で良かったべ」
「・・・・・」
「いやマジでほんと良かった、でもヘリから救出される所なんて多分日本人全員とか見てんぞ」
「・・・・」
「そう言やもう一人の長髪、あいつカッコ良かったな、ハーフか何かか?あ、そう言やよ、最近
俺コンピュータってやつ買ったのよ、中古だけど、でな、でな、大型匿名掲示板とかだっけ?
名前忘れたけどそこ言ってみたらなァもうスッゲーの!助かった高校生チョーカッケーて
騒がれててな・・ん、二宮?気分悪ィの?」
「・・あ、いえ大丈夫です」
「あ、そうか?そんでな、2人いんのは分かったんだけどよ、そのもう一人の奴がさ、ヘリから
こうビローンぶら下がってるハシゴみたいなロープこう持ってよ、シュワちゃんみたいに!」
「・・・・・・」
「いやーけどあのカゲになってた奴がオメーだったとは!」
「・・・・・」
「あれぞまさしく“灯台暗い”ってやつだな!」
「“灯台下暗し”です。」
「アハ、まぁいいべ、そんでよ、ワイドショーとかスッゲーのマジで!芸能なんとかの梨本
とか言うオッサンとか“不謹慎ですが彼にはカリスマ性がありますね”とか訳分かんねー事
言ってやがんのよ!テメーなんぞ脱税サッチーの臭いケツでも舐めてろって感じだべ?」
「・・・中居君」 無性に聞いてみたくなった。頼りになる回答なんて返っては来ないだろうけれど。
「ん?何だ?どしたのそんな真剣な顔してよー、あ、おでんここで食え食え」
「あ、どうも」 差し出された割り箸を割り、もどかしい手つきで大根を2つに割る。
「んで何?」 中居君は俺にレジの中にある椅子を勧め、向かいに座った。
「・・あの、事件の事、教えてくれませんか?」
「え?」

「俺、あんまり覚えてないんです。」

彼に聞いても満足な答えが返って来るとは期待していなかった。
だけど抱え込んだ重く壊れ掛けた荷の中身を一緒に覗いてくれる誰かを俺はただ欲していた。
見てはいけないものだったのかもしれない。でもそこに何か隠されている様な気がしてならな
かった。膨れ上がった欲求をどうしても押さえ切れなかった。全てを放したのは俺自身。

「いいべ」

紐はハラリと解かれた。
.

70_:2002/05/07(火) 02:38

◇◇◇


「マズイな」

大きなスクリーンがいくつも並ぶ暗闇の中、一人の少年が使い古したペンで頭を掻いていた。
その空間はどの位の広さなのかも分からず、角があるのかどうかも分からない程だだっ広い。
ただそこが外であるか内であるかはプシッという微かなドアの音と共に足を踏み入れた
少年の存在によってやはり“内”であったと理解出来る。
「あ、おかえり」 大きな椅子に埋もれた様に見える華奢な少年がそう言った。
「うん」 ドアの向こうからやって来た少年がそう答えるとフッと部屋が明るくなった。
入口にあるセンサーにひらひらと手を翳して電気を点けたのだ。今まで輪郭しか捉えられ
なかった少年達の姿がはっきりと浮かび上がる。

一人はパリッとしたシャツに臙脂色のネクタイ、クリーム色のベストにグレーのズボン、と
まるでどこかの名門私立高校の制服の様なものを身につけており、目の下にうっすらと浮かぶ
隈と、頬に点在しているニキビは彼の生活が規則正しいものでは無い事を表していた。
それでもきちんとした印象を受けるのは彼の内面から滲み出る真面目さのせいであろうか。
その少年はニカッと白い歯を出し爽やかに笑うと、「今日も駄目みたいよ」とその愛らしい
笑顔に付け加える。少し伸びたフワフワと空気を含んだアッシュブラウンの髪の毛は彼を
少女の様に見せ、同時にむき出しの危うさを隠している様でもあった。

入り口で佇むボサボサの栗毛の少年は相当くたびれた濃紺色の着物を着ていた。どうやら
着道楽では無いらしく、所々その着物には大小の綻びがある。特に右胸には長い破れ傷があり
それは太く赤い糸でザクザクと乱雑に縫われ、逆にその傷はその無地の着物の柄となっていた。
優しげな目をしたその少年は、暫くただ目の前の存在を見下ろしていたがやがて「ふぅん」と
いう溜め息とも取れる相槌を打つと、またその伸びた髪をボリボリと掻く。その返事にはどの
様な意味が含まれているのかはっきりとはしないが、辺りを漂う気だるい雰囲気からそれが
彼が出来る最高の相槌であったと伺えた。

両者はただ見つめ合う。それには何の意味も無い様にも見えたが、何か重大な事が隠されて
いる様にも捉えられる。2人はやがて目線をゆっくりと逸らすと、備え付けられている簡易
キッチンから流れて来るヤカンの音に反応する。制服の少年が慌ててそこへ向かう。コポコポと
もう随分長い間使われているカップに熱湯を注ぎながら少年はその湯気を吸い込む。2つの
カップを手にさっきまでかけていた自分専用の大きな皮椅子に戻ると、スクリーンの前に
着物の少年はふらりと立っていた。コトン、とコーヒーの香ばしい煙が立つカップを机上に置く。

「待つしか無いよな」 制服の少年が己を戒めるかの様に呟くと
「ん」 と着物を着た少年は興味なさそうに頷き、取っ手が欠けた青いカップを取った。
.

71ななし姉ちゃん:2002/05/08(水) 13:55
メンバーがこれで出揃ったのかな?なんか、みんなそれらしくて
ワクワクします。続きも期待してます。

72_:2002/05/08(水) 16:35
皆様、いつもレスどうもありがとうございます。今日は更新無しです、すみません。
代わりといっては何ですが全然関係無い所にネタ書いて置きました。
お暇ならどうぞ。

http://jbbs.shitaraba.com/game/bbs/read.cgi?BBS=493&KEY=1014229573
>>324から

73ななし姉ちゃん:2002/05/08(水) 22:05
わはは、ヤパーリあれは職人様でしたか!藁わせていただきました。
俺様な小僧がえもいわれずステーキでした。
いろんなジャンルで遊べるのですね、うらやますぃ〜限りです。
ココのスレも、更新楽しみにしてますです。とはいえ、職人様のペースに合わせての、
マターリな期待ですので、どうぞゆっくりお休みくださいね。

74_:2002/05/11(土) 05:54

-31-

「二宮これ」
いつもならば毎朝元気が良過ぎる挨拶にうんざりさせられるのだが、この日の松本はやけに
よそよそしく拍子抜けしてしまった。目も合わさないし態度もやけにそっけなく感じる。
昨日もそうだったが、学校へ着くとすぐ松本は女に囲まれる。松本の顔だけ事件の時に
テレビに映ってしまったせいでもあるが、それは俺に纏わり付く時間が大幅に減少した
せいでもあるだろう、ここぞとばかりにキャーキャーと黄色い声を出しながら大勢の女
が松本の周りに輪を成していた。
「ねぇ潤君あの時の事教えてよ!」
「そうそう、中って一体どうなってたの?テレビの人とかもう家に来たりした?」
「昨日もね、ワイドショーとかでガンッガンやってたよ、うちのお母さんとかも潤君連れて
来なさいってもーチョーうるさくってぇ!」
「あ、うちもうちも、何か笑えるよねー!あんな息子が欲しいとか言ってて」
「ねぇ潤君ってマンション持ってるってマジ?今度家行っていい?」
どうやら彼女達は“待つ”という事を知らないらしく、次々と松本に質問を浴びせ掛けている。
松本は嫌な顔ひとつせずにそれをさらりと受け流している所を見ると、こういった状況には
慣れていると伺える。先程手渡された白い封筒の中身を見る。
「・・・んだコレ」
そこには独特の丸い文字が並んでいる。内容を一二行読むとそれはアメリカ史についてだと
容易に想像出来た。松本が何故これにここまで執着しているのか分からなかった。女に囲まれた
松本にこれを叩き返すのは困難だったのでそのままそれを机の上に置き、教室を出る。始業前の
数分だったが、伊藤にもう少し事件について詳しい事を聞こうと思ったのだ。それとも別に何か
隠れた感情があったのかもしれない。

教室を出るとすぐ、日誌を持った伊藤がこちらに歩いて来ているのが見えた。
よ、と右手を挙げてこちらに合図する伊藤に俺は目線で会釈を返した。どうやら向こうは俺の
意味する所を知っていたらしく、目の前に立ち止まると「昼休みに数学教官室に来てくれ」と
意味深に言い残しドアの向こうに消えて行った。頼りない伊藤の背中を見送ると、後ろのドア
から教室に戻る。もう殆どの生徒が席に着いていて、ドアを開けた時数人の注目が突き刺さった。
松本は前を向いたまま行儀良く座っていた。
「――で、近々避難訓練があるのでちゃんと焼け死なずに皆逃げるんだぞ、いきなり来るから
ビビるんじゃないぞー、あと今日から学校の窓枠の修理のため・・」
朝の通達事項がこれ程頭にじわっと染み渡るのは初めてだった。伊藤の一挙一動をふらふらと
ぶれる目線で何とか捕らえて行く。向こうは何の意識もしていないのだろう、生徒の横槍を
爽やかな笑顔でかわしていた。そしてそのまま朝のホームルームは終わり、1時間目の英語に
なった。英語教師が入って来る直前にその喧騒からするりと抜け出し、秘密基地に向かう。
それはただの思い付きで、でも後ろは振り返らずそのまま歩いた。窓の向こうからは湿気を
含んだ風がじわじわとにじり寄って来ていた。

第1化学室はその位置からかいつも心なしかひやっと涼しく、隠れ部屋には最適だった。思えば
暫く来ていなかったので、隅に置かれたゴザも少し埃を被っている様に見えた。また新しいのを
盗んで来ないとな、などと考えつつバサバサとそれを叩くと地面に広げその上に横になる。久し
振りのその感触に懐かしさすら覚えた。そのまま目を閉じるとただ呼吸を繰り返す。最初はただ
眠るつもりでいたのだが、次第に今まで起こった事がまるで昔の映画の様に眼前を流れて行く。
そしてその映像を眺めている内に、俺はそのまま深い眠りに堕ちて行った。
.

75_:2002/05/11(土) 05:55

――バス乗り場に俺はいた。
ここはどこだろう、見た事がある。無音の世界、呆れる程鮮やかな色。
ただその世界、たったひとりで俺は不安な気持ちに包まれていた。周りに人はいない。
広い駐車場の様なアスファルトの上、バスが数台停まっている。音がしない。どうしよう。
向こうにある赤いバスに駆け寄った。地面と靴底がぶつかる音はせず、音量をゼロにした
アクション映画の様な世界に俺はいる。そのバスの乗車口をドンドンと叩く。中は暗くて
誰もいない。叩き続ける。長崎行きのバスですか、長崎行きのバスってこれですか、俺は
込み上げる不安と絶望を押し込めてそう叫んでいた。あぁ、これはこの間の修学旅行だ、
そこで漸くそう気付く。叩く、叩く、叩く、叫ぶ、叩く、叫ぶ、叩く、音がしない、
誰もいない、どうしよう。そうだ、向こうの黄色いバスにも聞いてみよう。全速力で走った。
上がった息の音さえしない。そのバスも同じだった。霞んだバスの中身は外から見えない。
凍ったように動かないドアを叩く手の鋭い痛みだけが感覚として鮮明に残る。気付くとさっき
後ろにあった赤いバスは消えていた。やっぱり中に誰かいたんだ。知ってて開けてくれなかった
んだ。暫く俯きただ目の前の水溜まりに映る色の無い青空を見ていた。顔を上げると目の前に
あった黄色いバスまで消えていた。今まで数台並んで停まっていた明るい色のバスは全て
消えてしまっていた。バス乗り場を突き抜けて向こうに見える緑の茂った公園の上空には
小さな鳥が悠々と飛んでいる。振り返る、それは同じだった。それでも俺はバスを探そうと
固い地面をさ迷っていて、だんだんと膝に圧し掛かる足の疲れが時間の経過を知らせていた。
涙を出すという事も思い付かずただフラフラと何かを探し歩き続ける。バスは無いのに。

『 あ、二宮ここにいたぁ!もぉ探したよぉ〜 』

突然右肩をぽん、と叩かれる。誰かの感触、俺は感動に打ち震えた。
振り返るとそこには予想通り松本の顔があった。この誰かは完璧に信用出来る別の誰かで
あって欲しかった、だがそれは叶わなかった。それを悟られない様に黙ってその音に耳を
傾ける。何と音というものは心地良いものなんだろう。

『 ねぇ二宮、こんなつまんない所じゃなくてもう移動時間だからバス乗り場行こうよ。
俺二宮と写真撮りたくてずっと探し回ってたんだからぁ!それともまだここの公園に
居たい? 』

黙って首を振る。松本はニマッといつもより崩れた笑顔を向けると俺の手を取り、誰もいない
その場所を走り出た。握られた手はひやっとしていて、それはそんなに悪くなかった。
そこと外を区切る鎖を跨ぐ瞬間後ろを振り向くと、そこにはやはり何も無かった。だけど
騒がしい音だけはずっと響いていた。
.

76_:2002/05/11(土) 05:56

『 ・・・なぁ、お前こんな所で何してるんだよ 』
(え?)
『 ちょいコラ、駄目だろこんな事してちゃ 』
(何だ?何だよいきなり)
『 おい! 』
(は?)

――ガツン


「いってぇ!」
鼻の頭にカラシを塗られた様な感覚に顔を顰め、そこを手で覆う。その動作の新鮮さによって
俺は今まで自分が寝ていたという事に気が付いた。鼻を撫でると同時にしばしばする目を擦る。
「いい加減目ェ開けろ馬鹿が!」
――ゴツン
「いてッ!ま松本何すんだよー!」
今度は額に飛んだ火花に驚きつつガバッと上半身を起こすと、いつもは薄暗いその場所がやけに
明るい事に気が付く。窓に目をやると閉められている筈のカーテンが全て取り外されていて、
それがその理由なんだと理解した。
「お前、授業フケてこんなとこでグーグー寝てちゃ駄目だろ!え?」
「・・え?あ、え?な何?」
「まァだ寝惚けてんのかコラ?今度は腹に一発食らわしてやろうか?」
「い、いやいいです・・」
相手の喋り方からして、どうやら初対面だという事に気付く。コイツは誰だ?逆光に邪魔され
ながらもまじまじとそいつの顔を見る。上手く焦点が合わない。
「お前、名前は、何年何組だオイ?」
「・・・・・」 色黒いその男は30歳位に見えた。
「言わねーのか?お前な、親に高い金払ってもらって学校来てんだろーがよ、あ゙?肝心の授業
フケてどーするよ、わ・か・っ・て・ん・の・か?」
――ゴツゴツゴツゴツゴツゴツゴツ!
「い、いたたたすすいませんでした!」
「分かればよーし!さぁ行け!」
「は、はぁ・・」 仕方無く立ち上がる。最悪の目覚めだ。誰だよコイツ。
「男だろ!返事は腹から声出せや!」
「ははい!」
「よーし!満点!行け!」

そのまま関わり合いにならないよう急いで壊れた窓から外へ転がり出た。
天井からぶら下がっている時計は丁度1時間目終了時間の5分前を指していて、それでも45分
はきっちり寝ていた事を表していた。後の5分を潰す為、秘密基地のすぐ側で暫く佇む。すると
中からワクがどうの寸がどうのと言った会話が聞こえて来て、さっきの男は窓枠工事に携わって
いたんだと漸く理解した。寝起きだったせいかあまりはっきりとは覚えてはいないが、どこか
気持ちいい男だった。

寝覚めの悪さのせいか殴らせたせいかガンガンと痛む頭を押さえつつ騒がしい教室に入り
席に着くと、松本が何も言わず2つに折り畳まれた藁半紙を机の上に乗せて来た。
「・・ンだよコレ」 それを開こうとすると
「それ学年末範囲のプリント、さっきの英語、単語テストあったけど、気分悪いって保健室
行ったって言っといたから。」
と松本はたどたどしい喋り方で答え、そのまま席を立った。さっきと同じくこっちを見ないで
喋っている松本にさっきの男の事について話そうかとも思ったのだが、背中を追う女共に巻かれ
てしまいそのままそれはドアの向こうに消えて行った。その日何故か松本は昼休みに教室には
おらず、俺は一人で昼食を取った。そして素早くパンを食道の向こうに押し込めると、急いで
数学教官室へ向かった。ふと見遣ったペンキの付着した窓枠の上では、カラカラに乾燥した
蝉がただひっそりと死んでいた。
.

77ななし姉ちゃん:2002/05/11(土) 20:54
職人様、いつも産休でございます。
いつもほとんどレスもしておりませんが、
続きがあるのを心待ちにしながら、読ませて頂いております。
とても大作のようで、これからも楽しみです。
頑張って下さいませ。

78_:2002/05/14(火) 04:11
>>76
すいません訂正です
「 × 学年末」→「 ◎ 学期末」

>>77
レスありがとうございます。
感想頂けてとても嬉しいです。気に入って頂けた様で良かったです。

79_:2002/05/14(火) 04:12
間違ってageてしまいました。
他をageて来ます。ヘマしてしまってすみません。

80_:2002/05/14(火) 04:24

-32-

ゴンゴン、と少し立て付けが悪いドアを叩くと、中からどうぞという声が洩れて来た。
そのまま中に入るとそこは少し外より乾燥していて、ウィンウィンという鈍い音からも冷房が
入っているらしい事が分かった。中には伊藤しかいない。書類に埋もれた机の向こうから
ひらひらと少し骨張った手が覗いていた。
「よっ、何か飲むか?つってもお茶くらいしかないけど」
「あ、はい」
正面に座るとすぐに伊藤は席を立った。何だか酷くもどかしい。数学教官室の壁にかけられた
時計を見ると昼休みはあと20分程残っていたが、それが十分な時間なのかどうかは分からな
かった。妙に急いた気分に襲われ、慌てて核心へと切り込んだ。
「あの、い・・先生」 出掛かった言葉を丸呑みする。癖とは恐ろしい。
「アハ、“伊藤”でいいよ。お前らいっつも俺の事伊藤伊藤言ってんじゃん」
「あ、いや・・あ・・あ、はい。」 向日葵の様な伊藤の笑顔にほだされ、ついそれを認めてしまう。
「ま、途中経過から聞かせて貰おうかな、どう、松本とはうまくやってんの?」
「あ、はぁ・・・」 うんともいいえとも取れる言葉を吐き出す。
「そっか」 伊藤は座っていた回転椅子をまるで子供がする様にグリンと回すとそう呟いた。
「・・・・・・」
部屋で反射し続ける冷房の音が耳に刺さる。お互い黙り込んだままずっと向かい合っていた。
緩んだその静寂が苦痛に感じ始めた頃、伊藤が口を開いた。

「なぁ二宮、今日の放課後ちょっといい?」

ニヤッと笑う伊藤の歯は少しだけ歯並びがガチャガチャで、それが整った彼の顔に愛らしさを
加味していた。俺は黙って頷いた。確かにこんな誰が聞いているかもしれない場所で、あんな
特殊な話をするのもどうかと思ったからだ。これは秘密裏に取り扱われるべきだ。
「じゃ、放課後裏門の辺りで待ってる。今日は職員会議無いから掃除が終わってすぐくらいに
そこで会おう。」
「はい」

そのまま部屋を出ると、またさっきまで肌を覆っていたじめじめとした空気が全身に被さった。
すぐに教室に戻るのも退屈だったので、暫くそこで数人の生徒が戯れている校庭を眺めていた。
キャーキャーと遠い楽しげな声が聞こえて来る。輪になってバレーをする女子の横で黙って自主
練をしている陸上部員、その隣では大勢の男子が野太い声を挙げながらサッカーに興じていた。
どうやら接戦らしく、両方のチームがそのお遊びの試合に熱中している。審判のいないその
ゲームはとても楽しそうで羨ましく、同時にそこに居ない事を悔しいと思う自分を他人事の様に
哀れんでいた。そのまま窓にもたれ掛かり、数分賑やかなその試合を見ていると自分が世界で
一番惨めな人間に思えて来るから不思議だ。昔絵本で読んだ様な、暗いお城に閉じ篭っている
恐ろしい怪物が脳裏に浮かび、そして風に吹き飛ばされた砂の様に消えて行った。

教室に入り空いた右隣の席を見るにつれ、その気持ちはぐんぐんと深みを増して来た。
(珍しい、コイツが授業フケるなんて・・)
5時間目が始まり、まだ空いたその席をぼんやりと眺めつつそんな事を考えている自分に気付き
そしてまたその考えを無理矢理押し払う。少し伸び掛けた前髪を息で払いのけると、そのまま
授業に集中した。考えるべき事はあったのに、その時はただ一つの事に集中する事を優先した
かった。ちょうど運動会でスタートの合図が鳴る前みたいに。狂った様にノートを取り、右に
空いた穴を視界から遠ざける。やけに虚しく感じる。そしてそれはそのまま放課後まで続いた。
松本は気分が悪いからと昼休み後に早退したんだそうだ。それに感付いた時やけにほっとし、
同時に上手く言い表せない感情が滲み出たのを覚えている。その日の松本はとても元気そう
だったから。
.

81_:2002/05/14(火) 04:27

適当に掃除を済ませ裏門に着くと、紺色の国産車から手を振る伊藤が目に入った。
まさか車で来るとは思わなかったので少し意表を突かれつつも何とか平然を装い、そのまま
助手席に乗り込んだ。皮のシートがギュッと気持ち悪い音を立てる。
「じゃ腹減ったろ、取りあえずどっかに何か食い行こ」 ハンドルを捌きながら伊藤が言った。
「あ、はい」
「何食いたい?て言うか定食屋でいい?ウメーんだよそこ!」 伊藤は明るい。
そのまま車は細い道路を縫いながら走り続け、少し外れた場所にある商店街に辿り着いた。
“おいでませ商店街”と派手に銘打たれたその商店街は見るからに寂れていて、人通りも少なく
その趣味の悪さが際立っていた。心なしか少しそこだけ薄暗い気がする。道路に車を停め外に
出て伊藤と並んで歩く。まさか担任とこんな風に接する事があろうとは、と人生の不思議さを
心の中で笑い飛ばす。
「二宮お前ここきったねぇとか思ってんだろどーせ」 頭をガシガシと揉まれる。
「い、いて思ってませんよもう!俺ん家辺りもこんなんスから」
「汚いトコだからこそ味があるんだぞ、これ俺いい事言ったメモっとけ二宮!」
「メモりませんよそんなの」
「まぁ見とけって、お前絶対驚くから!」
「・・・・・・」 伊藤は楽しげに歩を速める。

連れて来られた場所はむしろ“廃虚”と呼称されるに相応しい傾いたプレハブ小屋で、それには
看板も付いていなかった。思わず顔を顰めてしまい、それを見た伊藤は見てろと言わんばかりの
表情で開いているのか壊れているのか分からない入口らしきものをくぐった。崩れそうなその
廃屋の中には案外清潔な空間があった。伊藤は置いてある埃だらけのテーブルを指差し、俺は
それに付属している椅子に腰掛ける。伊藤はそのまま奥に歩いて行き、数分すると2つのグラス
を持って帰って来た。濃いオレンジ色のテーブルに置かれたそれには手を付けずにそのまま店内
を観察する。部屋の隅々には蜘蛛の巣が張っていて、その中には餌食になった茶色い虫が引っ掛
かっていた。だが不思議と不快感は覚えず、メニューも何も無いこの空間が徐々に当然の事に
なっていた。伊藤と向かい合って座っているこの瞬間も自然な事だと思えて来る。
「・・ここすっげ汚いッスね」
「うん、まぁな、いいだろ。」 喉仏を上下させつつ伊藤はグラスの中の水を飲む。
「・・・ここ、誰がやってるんですか?店の主人は何で出て来ないんですか?」
「あぁ、面倒臭いらしいよ、わざわざ出て来るの。」
「へぇ」 納得はしなかったが取り敢えず頷く。コッチコッチと懐かしい音を立てながら木の
壁時計が2時を知らせている。狂ったまま直されていないらしい。
.

82_:2002/05/14(火) 04:27

「・・あ、あのそうだ松本の事なんですけど」 急に今日の目的が浮かび上がった。
「あ、そうだそうだ松本な、ちょっと俺も話したい事溜まってて・・」
「何かアイツ言ってる事とかちょっとおかしくて・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・。」
「あ、先どうぞ。」 暫くお互い畏まっていたが、俺が譲ると伊藤はぼつぼつと話し始めた。
「あのな、あの109の事もなんだけどちょっと気になる事があってさ・・今日松本早退
しただろ、昼休み中に。そん時俺に知らせに来たんだよアイツ、でな、そん時な・・
あいつ口の端思いっきり切っててさ、誰かに殴られたみたいに青黒くなってて・・」
「え・・マジで」 ついテーブルに身を乗り出す。
「うんこれマジ、で俺聞いたのな、『お前それどうしたの?』って、そしたらヘルペスです
とか言ってたんだけどでもな、あれ絶対喧嘩か何かだと思うんだ俺。何か分かんじゃん、
殴られた傷と普通の傷の違いってさぁ」
「はい」 ガキの頃よく怪我させたりしていたのでそれには確信があった。
「で、二宮それについて何か知らねぇ?あいつの事スッゲー嫌ってるやつとかそういうの
周りにいない?ほらあいつ成績いいし裕福だしルックスもいいからさ、そういうの妬む奴
絶対いるだろ」
「・・・妬むやつ・・」 思い浮かばない。
「もうさ俺心配なんだよ、あの109の事件の疑いとかさ、松本何か凄いでっかい事隠して
そうな感じして仕方ないんだよ。本人は完璧な優等生だろ?だからその反動もデカいのかな
とか思うんだ、あいつ多分危ないよ。」
「・・・・・」 伊藤はそのまま溜まっていた事を吐き出し続ける。
「あの事件の事でさ、俺色々親父に探り入れたんだ、そしたら近々犯人の逮捕があるとか
酔った勢いで言ってたしもう不安なんだよ、松本なワケないよな?」
「わ・・からないです。」 完全に否定出来ない自分が情けない。
「お前友達としてどう?あいつさ、あいつ最近変じゃない?」
「・・・・・・」 昨日の事が思い浮かんだ。いやに焦ったあの真剣な眼差し。
「俺松本と接すれば接する程何かさ、嘘臭い感じするんだ・・いくらこっちが本気でしがみ付い
ても笑顔でかわされそうな感じ・・なんて言ったらいいのか分かんないけど」
「分かります、俺もそう・・思います。」 それは返事ではなく同意だった。それは随分前から
同じ事を感じていた。作られた何かがある事、松本が嘘をついている事――それらは事実として
俺の中に深く根を下ろしていた。

暫く経つと会話の間に忍び入る様にチーンとベルの様な音が奥から響き、すると伊藤は席を立ち
奥へ入って行った。再び静寂が場に満ちそれに慣れ始めた頃、彼は盆を両手に戻って来る。
「ほれ、うまいぞ」 目の前に置かれた盆の上には豚肉の生姜焼きが乗っていた。
「あ、はい」
「ここのはホントうまいんだ、はいいただきます。」
「いただきます」
それからは盆の上に乗っていた極上と言える味の料理が全部片付くまで、ただ無言で箸を進めた。
どうやら腹が減っていたらしい、目の前に担任がいる事を忘れてただ食べ続ける。量も丁度良く
食べ終える頃には何とも言えない心地良い達成感に包まれていた。そしてそれは目の前の伊藤
にも言える事らしく、彼は眠そうに目をゴシゴシと擦り欠伸をしていた。
「・・それで、お前どうすんの」
「はい?」 急に声がしたので驚く。
「二宮の進路、この前の進路希望用紙もさ、何か白紙だったじゃん。何か俺ちょっと心配だよ」
「はぁ・・」 そう言えば何も書かずに提出した朧げな記憶がある。今日は聞かれないであろう
話題だった為少なからず驚いた。首をゴキゴキと鳴らしながら時が過ぎるのを待つ。
「何かさ、二宮とゆっくり話すのって今日が初めてじゃん。だから松本の事もそうだけどお前
将来どうすんのかなぁなんてずっと聞きたくてさ」 伊藤は持っていた鞄から黄色の書類
ケースの様な物を徐に取り出す。
「・・さぁ、まだ考えてないです」
「ほれ、これ、もっかい考えて来いよ、な?・・自分の人生だから真剣にならないと。」
目の前に置かれた進路希望用紙を見下ろす。出席番号を間違えて記入している事に今更ながら
気が付いた。
「・・・・・。」 ただ空欄を眺める。
.

83_:2002/05/14(火) 04:29

「――なぁ二宮、お前って多分優しすぎるんだよ」
「へ?」 唐突な言葉に耳を疑った。
「俺は今年教師になったばかりであんまり経験とか無いけどさ、お前が俺のクラスで一番
優しいってすぐ分かった。あ、体弱いとかそう言うので言ってんじゃないぞ」
「何言ってるんですか」
「なんって言うかな・・凄い優しくて柔らかいから壊れやすくて・・何て説明したらいいんだろう」
「キモいですよ」
「あ、そうだこれ見ろって」 そう言うと伊藤は鞄から赤のマジックを取り出しキャップを
取り、俺の目の前に突き出した。理解出来ない伊藤の行動をただ見続ける。

「これが・・お前、キャップが無い状態。」
「・・・・・」 伊藤が何を言おうとしているのか分からなかったが最後まで聞いてみる事にした。
「キャップ無いマジックってすぐインク出なくなって駄目になんだろ、だから他の奴はさ、
何でもいいからキャップ探してそれで自分をガードして生き延びるんだ。」
「・・・・・・」 伊藤は外したキャップをポンと元に戻す。目はじっとこっちを捕らえて離さない。
「だけどお前は、それをしない――そのままボーッと・・死んで行くんだ。」
「何か失礼ですね」
「誉めてるんだよ、かなり」
「・・そうは聞こえませんけど」
「何かさ、全てを受け入れてるなコイツって思ったんだ、最初お前見た時」
「意味が分かりません」
「ゴメンな説明下手で、でも何つーかさ、諦めって言ったら言い方悪いと思うんだけど変に
逆らって生きてないだろ?こう何かムカツいた事とか嬉しかった事とか、もう全部の出来事
を同列で受け入れててさ、たとえお前が傷ついても。」
「・・・・・・」 分かった様な分からない様な変な感じだった。
「何かさ、お前のその姿勢って人の為にそうなってるって気がする・・他人を傷つけない様に
敢えて自分が平静を保つ事でクッションになってるって言うか、傷つけないように」
「何か哲学的ですね」
「フハハ、俺ほんっと説明上手くないから伝わってないと思うんだけど・・・でも思うんだけど
お前、もっと人に寄っかかってもいいと思うぞ。案外周りそれで嬉しかったりするし俺だって
二宮に頼られたりしたらほんと教師になって良かったと思えるよ」
「・・・・・・」 何て答えたらいいんだろう。
「ほんと情けないよな人間って・・・俺今だって二宮が怒ってないかビクビクしてんだぜ?」
「別に怒ってないですよ」
「そっか」 そう言うと伊藤は複雑な表情でフフッと笑った。今にも壊れそうな笑顔だ。

狂った時計は4時を指していて、もう随分暫くの間ここに居たんだなと思う。
伊藤はひとつ深呼吸をすると、先程出した書類ケースから別の紙を数枚を取り出した。それを
目の前に一枚ずつ順番に並べて行く。その書類には黒板で見る伊藤の汚い文字が並んでいる。
「こんな事別の生徒に見せるべきじゃないんだけど・・」 纏められたそれが目の前に置かれる。
促されそれに目を通しながら一枚ずつ捲って行くと、それは松本に関しての書類だと分かった。
1983年8月30日生まれ、北海道出身、姉一人、今年の4月から東京都立立志社高等学校
3年5組に転入――・・
「え?」 そこまで読んでつい声を上げてしまう。
「ん、どうした?」
「これ、両親と姉は札幌で暮らしてるってどう言う事ですか?」 耳元がざわざわと音を立てる。
「いや転入して来た時の資料にそう書いてあったぞ」
「――あいつ、両親はいないって言ってた。」
「え、でもでもほらここ見ろちゃんと生きてるぞ、ご両親揃ってえーと、札幌に住んでる、ほら
ここに書いてる、離婚もされてない筈だぞ。」
「でも俺も両親いないから一緒だねとかって言ってた・・」
「・・・東京にはいないって意味か?」
「いや、そんな言い方じゃなかった」
「でも松本のご両親はちゃんと生きてらっしゃるしお姉さんも・・て言うか松本一人だけ何で
東京に出て来たんだろう?前の学校はかなり有名な進学校だし・・」
「・・・・さぁ・・」 散らばったジグソーパズルの完成予想図がチラリと浮かび上がりすぐ消える。
一瞬だけ見えたそのビジョンを必死で呼び戻そうとするが、まるで無かった事の様にそのまま
無の世界が広がっている。伊藤も眉を顰め何かを考えている様子だった。この気持ち悪さは
何だ、目の前にとてもよく目立つ間違いが転がっている様な気がする。その正体は何だろう。
.

84_:2002/05/14(火) 04:29

「・・なぁ二宮、今晩ちょっと電話していいか?遅くなるかもしれないけど」
「え?」
「今晩親父早めに帰るって言ってたからちょっと酔わせて事件の事詳しく聞いてみるよ、
連絡網の電話番号にかけたら繋がるよな?」
「あ、いやあの電話誰も出ないッスよ、アパートの管理人いつも寝てるから。」
「え・・て事はアレか、連絡網いつも止めてんのお前かコラ!」
「イタタタ痛い痛いもう!」 伊藤のデカい手で頭を思いっきり掴まれる。マジで痛い。
「お前はほんと提出物も滅多に出さないしテストもたまに白紙だし週5で授業フケるし
この前だって俺の車に“マユゲの国へようこそ”って落書きしただろ!」
「いた痛いちが、違うあれやったの松本!俺見てただけイタタタ!」
「ウソこけお前!松本も眉毛スッゲーのに人の事書く訳ねーだろーがよ!」
「い゙っでー俺違ーう!」
「岐阜人だからってナメてんじゃねーぞこれだから東京モンはよーコラ!」
「関係無いだろそんなのー!マ、マジいってー頭めり込む中身出る!」
「鷹爪のヒデをナメてんじゃねーぞコラァ!」
「いったーいー!!」

圧縮されたその空間にボーンボーンと時計の音が響く。
頭に加えられていた圧力がふっとなくなり、俺ははぁっと胸を撫で下ろす。時計の針は4時
23分を指していて、改めてそれが正しく機能していない事を実感した。パッと横を見ると
伊藤も同じ事を考えていたらしく、自分の腕時計と何度も見比べている。やがて一息つくと
鞄から財布を取り出し帰るかと出口の方向を顎で撫でた。ポケットから金を取り出そうと
腰を上げると伊藤はいいよとそれを制止した。
「何か遅くなったな、帰り送ってくから」
「いいッスよ別に」
「いや、どうせ車だから一緒だし送らせてくれよ」 伊藤は立ち上がり財布をしまう。
そのままそのボロ食堂から足を踏み出した。先を歩いていた伊藤に見付からない様に、先程
伊藤が勘定を置いていた机上を興味心から見てみると、そこには一万円札が3枚置いてあった。
思わず声が洩れそうになったがそれを飲み込むと伊藤の後を追った。何故か干渉すべき事では
無いと思ったからだ。

そのまま車は数十分程走り、アパートの近くまで送って貰った。
アパートの前まで送ると言って伊藤は聞かなかったのだが、道が狭すぎて車が入らないのと
コンビニに寄りたいからと丁寧に説明すると、渋い顔でコンビニのすぐ近くで降ろしてくれた。
法子がくれた携帯の番号を罪悪感に押し潰されそうになりながらも伊藤に手渡すと、後で電話
すると言って彼はそのまま行ってしまった。蒸し暑い路上で、遠ざかって行く紺色の車を暫く
見送る。そう言えば飯の礼を言うのを忘れていた、ハッと思い出し申し訳無い気持ちになる。
少しの間俺はそこに佇んでいたが、後でかかって来る電話で言えばいいかとそのままいつ
行っても客がいないコンビニに入って行った。明日からバイトとして働かせて貰うので、その
前にちょっとした挨拶をしておきたかったのだ。それに家で俺の帰りを待っている法子の為に
ちょっとしたお菓子でも買って帰ろうと思った。
.

85_:2002/05/17(金) 19:28
>>83
訂正です。

「 × 東京都立立志社高等学校 」 → 「 ◎ 東京都立日暮高等学校 」

高校名間違えました、すみません。
今週中に“二宮映画主演のお祝い”の為、いつもより多く更新する予定です。
ところで蜷川って誰ですか。

86ななし姉ちゃん:2002/05/18(土) 01:45
姉ちゃん、長編にもかかわらず頑張って更新されてますね。
お話自体もぐいぐい引き込む力があって、とても楽しみにしています。

ところで蜷川幸雄氏についてですが、演劇ヲタではないので一般的なこと
しか知りません。とりあえず、日本のみならず世界でも活躍する主に舞台
中心の演出家であることは確かです。
大御所から若手まで幅広い役者さんを起用し、ギリシャ悲劇やシェ−クスピア
はては近松ものまで手がけます。
最近では藤原竜也を発掘しました。姉ちゃん的には「若かりし木村拓哉を
泣かせ、お芝居に目覚めさせた人」という印象が強いです。
下記がプロフィールです。興味があれば覗いてみてください。
ttp://www.my-pro.co.jp/ninagawa/ninagawa.html

87_:2002/05/19(日) 21:42

-33-

「しっかしよォー!オッメーも礼儀正しい奴だなァおい!」

よろしくお願いしますと頭を下げると同時に中居君から飛び出た言葉はそれだった。ある程度
予想出来た反応だが、ここまで予想通りだと微笑ましいとさえ思ってしまう。いつものおでんを
頬張りながら笑っているその中居君の眼差しはまるで年寄りが孫を見るそれの様で、それを
経験した事が無い俺に取ってはとてもくすぐったいものだった。ただ無表情を装うだけで
何も言えない。こういう時は何を言ったらいいんだろう、ふと考えたが全く分かりそうも
無かった。

子供っぽく囃し立てる中居君を何とか振り切りお菓子片手に外に出ると、空に浮かんだ
月がその輪郭を一層濃いものにしていた。交じり合わないその二色はとても物悲しく優しい。
まるでお互いの存在に気が付いていないかの様に見えるその対照的な色は、常にはっきりとは
しない何かを意味している。白と黒では無い、お互いを牽制する様に混ざった微妙な色。
そのままチラチラと夜空を仰ぎながら家路に着いた。荒んだ雰囲気に似合う連なったトタン
屋根が目に入ると、あぁ帰ってきたんだという気分になる。それはある種類の諦めに押し
負けてしまった証かもしれない。

“ オメーって何か信用出来る奴だな、感心したべ ”

さっきの中居君の台詞がポンと頭に浮かぶ。ついくふふ、と頬が緩んでしまう。
正直今までマトモなバイトはした事が無かったし職場にも恵まれていたとは思えない、でも
今回のバイト先はどこか暖かくていじけた自分に覇気を与えてくれそうな予感に包まれていた。
空がグンと低くなり今にも微かに見える星が掴めそうだ。小さなダイヤが散らばった宝石箱の
中の様な夜空を見て、この新鮮な気持ちがずっと続けばいいなと思った。どうか心が上手く
安定しますように、と空に強く願った。

かなり左に傾いたボロアパートの表玄関をくぐると、2階の部屋までゆっくりと歩いた。
鼻の粘膜がとても懐かしい匂いを捕らえる。それは歩を進めると共に強くなって行き、部屋に
辿り着いた頃にはそれはここから逃げ出たものだと断定するのに時間は掛からなかった。

「ナァーリお帰り!」 ドアのノブに手を掛けるより先にそれは開いた。
「あ、ただいま・・あコレお菓子買ってきたよ」
「ひゃー!ありがと!うちめっちゃお腹空いててんよ!あ入って入って!・・・はは、うちん家
ちゃうやんってな、あイチゴポッキーや!プチもあるやん!」
「ふはは、法子何か飯作った?」 法子の関西弁はとても心地良い。心が柔らかくなる。
「あ、親子丼やで今日は、うち特製や!ゴメンなぁ、今日ちょっと出掛けてたからちゃんと
したモン作れへんかってん」
「そっか、今日暑かったけど大丈夫だった?」 部屋にはピンクの花が飾られているのに気付く。
「ウンうちこの辺結構好きかも、下町って何か性に合うてるって言うんかなぁ?」
「マージで?この辺家賃もスッゲー安い貧乏街だよ?」
「貧乏はえぇよ、金持ちより100倍マシや!」 おどけた表情でそう言うと、法子は白い
ワンピースの裾にヒラリと風を含ませ流しに戻って行った。何だかそれが今にも壊れそうな幸せ
に思え、粘膜の様な感触の不安に囚われそうになる。しかし1分と間を置かずに目の前に丼が置かれると(この器も法子が買って来たのだろう)、それはまもなく跡形も無くどこかに消えて
行った。正直さっき伊藤と食べた豚肉の生姜焼きがしばらく胃の中を占有していたが、無理矢理
詰め込んでいる内にその感覚が麻痺して行くのが分かった。1時間程法子と向かい合って語らい
ながら夕食を取り、その後お菓子の袋を空にした頃にはすっかり意識が朦朧としていた。たった
4枚半の畳の上に寝転びそのまま精神を沈め、そして数時間後には視界の上隅に朝日を迎えた。
とても短い様で長い夜だったと思う。寝惚け眼で携帯を探り当て、慣れない手つきで着信履歴を
見てみたが特に何も見付からなかった。そんなもんか、と再びきつく目を瞑りそれを放り投げた。
ピンク色の小さな画面はピカピカと甘過ぎる毒のように暫く点滅していた。

88_:2002/05/19(日) 21:43

(・・・行ってきます。)

珍しく隣で眠ったままでいる法子を起こさない様に部屋を出ると、そのまま学校へ向かう。
そう言えば今日はまた英語の単語テストがあったな、などと考えつつノロノロ歩いていると
すっかり遅くなってしまい、走る気力も体力も持ち合わせていなかった俺はそのままホーム
ルームを飛ばす事に決めますます歩速を緩めた。どんどんと散歩中の老人や通勤途中のデブの
OLに追い抜かされて行く。何をそんなに急いでいるんだろうと思ったが、まぁ大人には大人の
事情ってモンがあるんだろうと他人事の枠にそれとなく押し込めた。昨日は変な体勢のまま
寝てしまったせいか、少し首がニシニシと痛む。左右に動かすとそれはゴキ、と鈍い音を立てた。

漸く学校に着きいつも少しだけ開いている裏門から入ると、遅刻届を取りに教員室へ向かう。
書き慣れたそれに遅刻理由なんかを適当に書き込むと(今日は“寝違えました”と書いてみた)
学年主任と教頭に判を貰う。こう言う時大人は親のいない子供に同情するらしく、うざったい
と頻繁に耳にする学年主任でさえも、早目に床に就きなさいの一言で遅刻常習犯を開放した。
最後の砦である担任がいる数学教員室へ向かおうと教員室を出る間際、「あの生徒は・・・」と
言う教師の会話が耳裏を擽ったがそのままドアを閉めそれを遮断した。

「失礼します」 3階の数学教員室のドアを開けるとそこには誰もいないようだった。
「・・・失礼しました。」 そのままそこにまた空間を作ると次は教室へ向かう。手続きってやつは
本当に面倒臭い。いつもよりたった10分遅れただけなのにこの始末だ。少し痛む首を軽く摩り
ながら教室のドアを開けた。するとまだそこに伊藤はいた。少し早かったか、と思いつつ静かに
席に着いた。右に座っていた松本の方は見ない様にしていたので、彼がどんな表情でいたのかは
分からない。席に着き鞄を下ろすと同時にホームルーム終了のチャイムが鳴り響き、それと同時
に教室はやけに騒がしくなった。それはいつもとは違う何かを醸し出していて、それがどうして
も気になった俺は仕方無く隣の松本の方に向き直り何があったのか訊ねようとした。

「――なぁ、何か・・」 少し痛む首を捻ったまま言葉を失う。
「・・あ、おはよ二宮、寝坊?」

――ビクンと身体が反応するのが自分でも分かった。
視界の中心でいつも通り笑っている松本の口元には大きなガーゼが貼り付けられていて、左目は
眼帯で覆われている。笑ってはいるがもう片方の口端も青黒く切れてしまっていて、表情を作る
事により鋭く痛むであろうそれだった。松本の顔を黙って凝視していると、昨日の夕方あの食堂
で伊藤が話していた事が脳裏を過る。切れていた糸が一本に繋がった様な気がした。いや、
とてつもなく長い糸の端っこを偶然見付けた様な感じに似ているのかもしれない。

「結構コレ酷いでしょ、昨日チャリでコケちゃってさ」 松本はどこかまだよそよそしい。
「・・お前チャリ乗れねーの?カッコ悪。」 だから毒づいた。
「いやぁ」 松本はヘラッと笑ってそのまま授業の準備に取り掛かった。

おかしい、何かを感じ取った。
この向こうにはもっと大きい何かが根付き始めている、そう思い教壇の辺りを見ると案の定
伊藤が手持ち無沙汰な様子で佇んでいて、いつもよりほんの少しだけ険しく感じる目線で手招き
しているのが分かった。

これは緊急事態だ、背筋が震えるのを感じながら喧騒の残る教室から抜け出た。
.

89_:2002/05/19(日) 22:46
少し手直ししたい個所が見付かりましたのでまた後でコピペしに
参ります。>>85で言った通り、本日中に大量更新出来なくて
申し訳ありません。浅はかでした。

>>86
蜷川さんについてどうもありがとうございます。
何かかなりの大物みたいで吃驚しました。周富徳に似てますよね。

90_:2002/05/21(火) 08:35

-34-

教室を出るとすぐにこちらを気にする様にゆっくり廊下を歩く伊藤が目に入る。
あまり目立たない様に後を追うと、そのまま彼の背中は何度か角を曲がり階段を上がって
屋上へと消えて行った。屋上に出るのは初めてで少し戸惑ったが、開いたドアから射し込む
太陽の光はとても強く美しく、それはまるで楽園へ続く階段の様で、その先を確かめたい
衝動に駆られた俺は躊躇しつつも足を踏み出した。とても朧げな、そして揺るぎ無い既視感を
覚えながら。

「お前昨日の晩電話何で出ないんだよ!」 青空の下に出るとすぐ伊藤の声が左耳に届く。
「へ、あぁ・・」 今くぐった扉を後ろ手で閉めながら伊藤の姿を視角の隅に捕らえる。
「おっまえ昨日俺電話するっつったじゃん、何でお前が出ないんだよ」
「え、昨日かかって来なかったッスよ、だって・・」 尻ポケットの携帯を手に取る。
「ウソこけよ!だって昨日教えてくれたやつオンナが電話出たぞ?」
「え、ウソ?だって着信履歴無かったもんホラ!」 お互い慌てているせいかどうも会話が噛み
合っていない。携帯を伊藤の目の前に突き出すと彼はそれを奪い取り、慣れた手つきでそれを
弄り始めた。普段なら触っていいかどうか許可を取るのが彼の性格であろうが、今はお互い
そんな事はまどろっこしくて仕方無かったのでその無礼は丁度良かった。1時間目の世界史を
生徒に抜けさせてまで伝えたかった大事な事があったのだ、俺は一刻も早くそれを聞きたくて
じっとしていられなかった。無意識に足元が落着いていない事に漸く気付く。

「――お前これ着信履歴消してんじゃんよ・・だって絶対この番号だもん俺かけたの!」
「え、消すって俺何もやってないッスよ!大体それ貰ったばっかで電話出るのと掛けるのしか
やり方知らないもん俺!絶ッ対やってないってマジで!」
「じゃあ一体誰が一人暮らしの二宮ん家まで行って携帯の着信履歴わッざわざ消すんだよ!」
「知らねーッスよ!俺が聞きたいッスよ・・」 ふと法子の顔が浮かんだ。でもまさか。
「じゃ何だよお前俺信じてないっつーの?俺携帯からと自宅の電話からと両方試したんだぞ?
どっちから掛けても同じ女が出てさぁ、『坂口よ!』とか『清水どすえ』とかフザケた事
言いやがんの!もーそれがまたすんッげームカツいてさぁ・・」
「・・い、先生・・」 まるで苦い薬を一気に流し込まれた様な気分だ。凄く嫌な予感がする。
「何だよ、伊藤でいいっつったじゃん」 伊藤は太い眉毛を顰めて膨れっ面をこちらに向ける。
「その子・・もしかしてちょっとだけ訛りありませんでした?関西系の・・・。」
「あー何か訛ってた、関西かどうかは俺分かんないけど、それが何だよ。」
「・・・・・・」 軽い目眩がした。これをどう取り繕うか言葉に迷う。
「・・・何だよ、言えよ。」 伊藤は腕組みしたままこちらをギロリと睨んでいる。
「あのー・・」 行き場の定まらない人差し指がユラユラと宙を舞う。
「何だよ、カノジョかよ、お前すげーナマイキ。」
「・・・・・」 チラリと見上げると伊藤は鼻の穴を広げて仁王像の様な顔をしていた。たまらず
ブハッと吹き出す。伊藤は逞しい眉をつり上げてブツブツと言っている。
「お前さぁ受験生なのにカノジョと夜イチャイチャしててさぁ、俺なんか学期末のテスト問題
徹夜で作ってたってのにお前そりゃないよ、いやカノジョがどうとか言ってるんじゃなくて
もうちょっと受験生としての気持ち?やる気?心構え?そんなもんを――」
「カノジョいないの?」 伊藤の顔がサッと真顔になる。
「・・・いるよ」
「あ、うそだ」
「・・ウソだよ?」
「フフハハハハ!」
ゲラゲラと声を立てて思いっきり笑った。伊藤は顔を真っ赤にして怒っていたがそれが俺の
笑いのツボにどんどんと油を注ぎ、暫く俺は笑いを止められないでいた。その日の天気が
とても良かった事やそこが屋上だった事もあるかもしれない、俺は脇腹が痛くなる程笑った。
夏前の太陽は俺の甲高い笑い声を吸い込みつつも勢いを増し煌煌と輝いている。そのまま
大笑いしていると視界の隅に入っていた白い炎の塊は土煙の立つあの道を彷彿とさせた。
.

91_:2002/05/21(火) 08:37

「――まぁいいよ、許してやるよ」 何を許すのかさっぱり分からないが伊藤がそう口にした。
「へ?・・ククッ・・」 笑い涙が滲む目を擦りながら伊藤の方に振り向いた。
「松本、思い出した俺ら松本の事話す為にここ来たんだよ、お前授業サボって」
「あ、はいはい」 ついでに出かけていた鼻水を手の甲ですすると漸く目的を思い出した。
「昨日の晩な、あ、お前が女と夢のような時間を過ごしていたあの時間な、俺は親父と一緒に
飲んでたんだよ、色々聞き出す為にな、まぁお前は女と・・」
「あ、それで親父さん何て言ってました?」 後半は聞かなかった事にしわざと言尻を奪い取る。
「あぁ、それで大変だぞ二宮、松本ホントヤバいかもしれない、あいつ今度重要参考人とかで
警察連れてかれるかもしれないって言ってたよ」
「何で?あんな紙ばら撒かれてたってバカの悪戯かもしんないでしょ」 興味なさそうに呟く。
「俺もそう思ったんだけど違うんだよ、まぁ座れって。」 そう言うと伊藤は屋上のドアから
少し離れた所に俺を呼ぶと、建物の陰になった場所に座らせた。黒いコンクリートの地面は
ひやっとしていて少しだけ寒気がした。


「――で、俺さりげなく色々親父が捜査してる事件について聞いたんだけど」
伊藤は漸く真剣に喋り始めた。俺はグッと身を乗り出した。

「お前あの日109に入った時間が何時だったかとかそう言うの分かる?大体でいいんだけど」
「え・・多分買い物して、それでちょっと飯食っての帰りだから・・夜の6時とか7時とかその辺」
「そっかじゃあ松本と一緒に渋谷行こうって話になったのは?」
「えー放課後の掃除の時・・」
「その前にそう言う話は?」 まるで尋問みたいだ。
「無いよ、何で?」
「そっか・・。」 伊藤は赤いネクタイを少しだけ緩めると、いつもの縁無し眼鏡を外しポケット
に突っ込んだ。何か考えているのだろう、その顔は無表情でもほんの少しだけ険しく映った。
「何でそんな事聞くんスか?時間とか結構重要だったりするとか?だったら俺腕時計持って
ないしそういうの確かじゃないんですけど・・」
「違うんだよ、ゴメンあのな、あの日な、昼の2時4分に『109に爆発物が仕掛けられ
ました、屋上に避難するので今すぐヘリで救出お願いします』って110番があった
らしいんだ。」
「え?昼の2時って・・」
「でな、取り敢えずあそこ人通り凄いしホントだったら困るだろ?だからパトカー何台かが
念の為って109行ってみたらしいのよ、で何も無くてそのままになったらしいんだけど」
「それってただの・・」 悪戯じゃん、と口を開こうとすると伊藤がその言葉を〆た。
「――で、その日の夜8時24分に本当にそこで爆発があったんだよ。」
「・・・・・・」
「今犯人とされる人物と関わり合いがあるとされる証拠品って、この前見せたばら撒かれた紙と
その電話の声だけなんだ、だから親父が今その110番で録音された声の声紋確認と筆跡鑑定
みたいなのに躍起になってる。」
「・・・え、でも」 俺はさっきから何を必死に否定しようとしているんだろう。
「その電話が掛けられたのは109の屋内、通報者は若い男性、ボイスチェンジャーは使用して
おらず、荒い息や呻きが録音されていた事からその人物は怪我をしていた可能性がある・・」
「・・待てよ」 ――血、切り裂かれた傷、破られたシャツ。
「それは公衆電話では無く携帯からの通報で、その電話番号は・・」
「やめろよ!」

“ 二宮これ俺の番号だから着信拒否とかしないでよー?メルアドはねー・・ ”

「09・・」
「やめろっつってんだろ!やめろ!嘘だ!やめろ!」 俺は何を叫んでいるんだろう。
「俺は松本はただの被害者だと信じるよ、だって2時なんてお前らまだ授業中だもんな」
「・・・・・・」 肩で息をする俺の頭を荒々しく撫でながら、伊藤はそう言い聞かせるように言った。
「俺は、松本がやったんじゃないと思う、絶対。」
「・・・・・・」 (あの怪我は何だ。チャリでこけたなんて絶対嘘だ。あの日何があった?)
「・・・でも親父、ほんと今日にでも松本に話を聞くつもりだって言ってた」
「・・・・・・」 (何で事件について松本は話さない?何で俺を避けている?どんな顔だった?)
「通報された時間が時間だから松本にはアリバイがあるって有利になるかもしれないし――」
「・・――・・ ・」


“ 屋上へ行こう ”

時計の針がスローモーションで左に回り続ける。
これが記憶か――勢いを増し続ける太陽を直視していると、もう自分が生きているのか死んで
いるのかどうにも分からなくなった。
.

92_:2002/05/21(火) 11:59

-35-

久し振りに真っ直ぐに伸びた廊下を全速力で突っ走って教室のドアを開けると、そこに松本の
姿は無かった。代わりにあったのは2時限目開始後に騒々しく入って来た俺に対するクラス全体
の冷たい目線で、英語教師は腐乱した肉を見るような蔑んだ眼差しで俺に単語テストの解答用紙
を乱暴に手渡した。

“ ・・俺の事、友達だって思ってくれてる? ”

この間の言葉が頭の中を巡りに巡って何も他の事を考えられない。
伊藤が与えた情報と俺が知る松本は違い過ぎていた。あいつは嘘でガッチリと固められていた。
まるで俺が周りに張っている予防線の様な壁とは違いそれはあまりに強固で罪深い。松本は
どうしてこうなんだろう。過去何か大変な事があったからだろうか?


“ 過去 ”


――そのフレーズが通り過ぎると共に妙な胸騒ぎが鼓動を速める。
俺が持つそれにはかたちが無い。所々欠けていて、寧ろ全体のかたちを想像する事さえ難しい。
そう、俺のそれは部分部分が失われ過ぎているのだ。通常言われる昔の思い出の数も他の人に
比べ圧倒的に少ない、そして俺は自分があった事をきれいさっぱり忘れてしまえる程潔い人間
では無いと自負している。小学校の時にタイムカプセルを埋めたかどうかさえ覚えていない。
記憶の大元が操作されている様な、理不尽だと思える程の記憶の欠如――
.

93_:2002/05/21(火) 12:00

「はいじゃ後ろから集めて」 気付くともう数分は経過していて、目の前の白紙の答案用紙に
気付き慌てて問題を読んだ。するとゴチンという音と共に目の前に火花が飛び散る。
「二宮君、あなたテスト中何してたんですか」 英語教師が右脇に立っていた。松本の空いた
机が見え、つい教師の向こうを見てしまう。
「聞いてるんですか二宮君!授業に遅れて来るわテストは白紙だわアナタやる気はあるん
ですか!」
「あ、すいません」 どうやら虫の居所が悪いらしいその女はヒステリックな声で喚いている。
「あなたみたいな人が松本君と友達だなんて松本君に迷惑です!この前のテストだって隣の
松本君の答案を覗いたんでしょう!」
「・・・・・・」 何を言っているんだ、この人は?
「こんな簡単な単語テストで0点を取る生徒がいるだなんて我が校の恥曝しです!あなたなんて
人間、どうせ大学に進学する気も無いんでしょう!そのやる気のない態度じゃ何をやっても
駄目ですよ!」 しんと静まり返った教室は緊迫した雰囲気だ。あぁついてない。
「・・すいません」
「あ・・あなたねェッ!!」 俺の冷めた態度が気に触ったらしい、その女は見事に爆発した。
「・・何ですか」 チロッと教師の顔を見上げるとものの見事に赤くなっていて、それはまるで
猿山で芋を取り合って喧嘩している猿の顔みたいだった。唇をきつく噛みプルプルと震えて
いる。本気で腹を立てているんだろう、そう思った。

「・・・出て行きなさい、今すぐ、出て行きなさい。」

今にもはちきれんばかりに膨張している英語教師の怒りはまるで風船の様で、破裂を恐れた
俺は黙って鞄を手に取りそのまま教室を後にした。やけに押さえつけた様なその女の声が
気味悪かったのもその一因だった。

考える事が沢山あって、その全てに上手く対処出来ない。その苛立ちをどこにぶつければ良い
のか分からなかったが取り敢えず目の前の問題を片付けようと思った。どうせ大学になんて
行く気はさらさら無い。金も無いし学力も足らない。将来はどうするんだろうなぁなどと
他人事の様にふと思い付くのが今の所の俺の将来像と言うものだった。白紙のテスト用紙を
昇降口の脇に置いてあるごみ箱に投げ入れるとそのまま学校の門をくぐり出た。まだ昼前の
通学路はとても静かで人通りも少なく、警官に補導されるのを恐れた俺は脇道に入りそのまま
辺りに神経を向けながら目的地に向かった。
.

94_:2002/05/21(火) 12:01

“ ピンポーン ” ・・・とドア向こう側では鳴っている筈だった。
前来たばかりの高層ビルの入口に備え付けられているインターホンのボタンを適当に押す。
だが何分待っても何の反応も無く諦めて帰ろうとした瞬間、ポケットの携帯の着信音が響いた。
画面には見慣れない番号があり、恐れを抱きつつも法子に教えられた通り電話に出る。
「・・・もしもし」 出来る限り耳を押し当てる。
『おいッス、オーレ俺、中居だけど――』
「あ、え?あ・・あぁこんにちは・・」
あまりに意外な相手だったせいか、つい声が上擦ってしまう。だから電話は好きじゃない。
そう言えばこの間挨拶に行った時にこの番号を教えたかなと思い出し、改めて携帯電話の力に
畏敬の念を抱く。こうやって現代の人と人の関係が作られ、そして保たれているのかと思うと
今左手に持っているこれはかなりの権力者だと言えると思う。中居君の電話は野暮用ってやつ
で、新しいバイトがもう一人入ったから出来たら今日は少しだけ早目に来て欲しいという内容
だった。そう言えば今日から中居君の店で働くんだと思い出し、武者震いにも似た感情が骨髄
の辺りからじわっと滲み出た。

それから何度かボタンを押しても松本からの返事は無かった。
寝ているか出掛けているかしているんだろうと決め付け踵を返すと、そのまま都内でも洒落た
場所であると知られるその場所を立ち去った。そのまま歩いているとまたけたたましく電話が
鳴り、今度は偉く呆れた様子の伊藤の声が耳に突き刺さった。その電話で伊藤は放課後少しだけ
時間が欲しいと告げ俺がバイトがあるから駄目だと答えると、彼はそのバイト先に少し寄ると
言い場所を聞きそのまま慌ただしく電話を切った。そう言えば4時限目は数学だったなとふと
思い出す。ポケットに携帯を仕舞い煙草を1本取り出すと、昼前の空いた公園のベンチで一服
した。やはり湿気がムシムシと気持ち悪かったが、開放的な校外は清々しく気持ち良かった。
そのまま夕方まで家の近くの寂れたゲームセンターにある一昔前のゲームでだらだらと時間を
潰すと、いつも通りコンビニへ向かった。ただ今日は違う目的の為だったが。

まだまだ明るい夕暮れの空の下、ほんの少しだけ高鳴る胸を宥めつつ俺はコンビニのドアの
取っ手に手を掛けた。手を掛ける瞬間、この前松本が言っていた言葉を急に思い出したが
その意味なんて分かるワケ無かった。

“ ・・やらなきゃいけない事が山程あってさ、俺はただそれを済ませようと必死なんだけど
いつも変に引っ掛かってさ・・ ”

でもこのまま生きていれば、いつかきっと分かるような気がした。
.

95ななし姉ちゃん:2002/05/23(木) 04:01

-36-

コンビニに入るといつもより店内が慌ただしいのが分かった。
「あ、いらっしゃいませー!」 青いエプロンをした男が店内を忙しく歩き回っている。俺は
一瞬来る所を間違えたかとちょっとした不安に包まれたが、そこがいつものコンビニだと確認
するとそのままレジの方向へ歩いて行った。
「すいません、中居く・・さん、いらっしゃいますか?」 その店員だと思われる男に訊ねる。
「あー、あ、中居君?中居クーン・・は、あぁさっきどっか出掛けてったよ、何友達?」
「いえ、そんな訳じゃないんですけ・・」
「あー中居君友達少ないから!仲良くしてやってよ、はい奥入って入ってお茶どうぞ!」
「え・・いやあの・・」 そのままその男は俺の手を取り、いつも右奥に見えていた錆びた様な
銀色のドアの中へ俺を引き摺り込もうとした。さっきまで流れていた粘った様な鈍い時間が
急に流れ出し、それは溜まりに溜まった水が一気にどこかへ動き出すのに似ていた。
「ま、待って下さい!」 肩を後ろに引き、軍手をしていたその男の手から逃れる。
「・・ん?痛かった?ゴメンゴメン」 少し長目の前髪を左右に分けたその男は柔らかい表情で
そう笑った。丸い鼻と犬の様な目は周りの人をほのぼのさせる力を持つ。微笑みで割れた口の中
には、少し小さ目の歯が並んでいた。何だか守ってやりたくなるかわいい人だな、と思った。
どうせ制服なんて着ている俺の方が随分年下なんだろうけれど。

「――あの、俺今日からここでバイトさせて貰うにの・・」
「あぁー!二宮君?ゴメンゴメン待ってたよー!」 何かこの人、落着かない小犬みたいだ。
折角随分息を溜めてから切り出したのに最後まで喋らせて貰えず、でも人を苛立たせないこの
少し変わった男に俺は何故か好感を持ち始めていた。(黄色のTシャツに青いエプロンなんて
身につけていたからかもしれないが)
「あの、制服とか貸して頂けるって聞いたんですけど・・」
「・・・・あっ」 その男は軍手に包まれた左手を口に当てると、俺の後ろ辺りに目線を移す。
振り返っても誰もいない、周りを見回しても2人だけで何も見当たらなかった。でもその男は
そのままの状態で動かず俺がこの人が考え事をしているかも、と気付く頃入口のドアがギィと
音を立てて開いた。そちらに振り向かなくても中居君だ、と分かっていたので敢えて目の前で
カマッぽく突っ立っている男を睨んだままでいた。

「・・・あ、ゴローと二宮」 街で偶然芸能人を目撃した様な声で中居君がそう呟くのが聞こえた。

「・・・・・・・」 その“ゴロー”だと思われる男はまだピクリとも動かない。
「・・・ゴロー?え、二宮何やってんの?」 中居君はすぐ側で俺達2人の顔を交互に見ている。
「・・・・・・・」 ――まだ動かない、銅像みたいだ。
「え?何なの?何かのゲーム?」
「・・・・・・・」
「・・・え?どしたべ?」
「・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・」
そのまま店内にかかっている昔のアイドルがどこから出しているか分からない様な声で
歌っている曲をたっぷり2曲は聴いた頃、漸く目の前の男がホォ・・と風音を立てて息を
吸い込むのが分かった。

――動いた!


「・・・中居くぅん、オレ二宮君の制服、どっこにあンのか・・・分かんないんだわぁ。」

そう言うと、そのままそのゴローは首を傾げながらさっさと仕事に戻った。
そこに魂を抜かれた様な顔で立ち尽くす俺の肩を、まるでスイッチを入れるように中居君は
ポンポンと叩くと
「あいつ、稲垣吾郎ってんだ。ちょっと変わってるけど・・・まぁヨロシクな。」
そう言ってそのまま手に持っていた車のキーをチャラチャラと回しながら奥へ入って行った。
気になってふと振り返ると、やはりゴローは忙しそうに弁当を並べていた。

俺はもうその頃には英語教師の事などすっかり忘れてしまっているのに気が付いた。
.

96_:2002/05/23(木) 06:32
【 時をかける嵐 】

プロローグ >>1-2

第一部 夏の再会

◆ 第一節 梅雨明けの保健室
>>4-8 >>12-14
◆ 第二節 白い訪問者
>>18 >>22-24
◆ 第三節 いやな買い物
>>25-27 >>29-31
◆ 第四節 買い物のあと
>>32-34 >>38-39 >>41-44 >>47-48
>>51 >>53-54 >>58-59
◆ 第五節 マグマ
>>60-61 >>63-70
◆ 第六節 怪我をした罪人
>>74-76 >>80-84 >>87-88 >>90-95 ...

只今第六節の途中です。
分かり難いのでまとめてみました。
最初に「第一章〜」と書きましたが、「第一“部”」の
間違いでした。すみません。

97_:2002/05/24(金) 07:36

-37-

制服と言っても簡単な物で、白いTシャツの上にゴローと同じ青いエプロンをかけるだけだった。
ズボンは無いと言われたので(あると言ったのに、中居君超テキトー)、仕方無く家まで普段着
に着替えに帰る。帰ると電話を入れていなかったからだろう、照り返しが厳しく湿気に苛付いて
しまう部屋には誰もおらず、そのまま

-----

今日バイトだから晩ごはんはだいじょうぶ、ごめんね
先に寝ててくれていいから おやすみ

かずなり

-----

と法子の目に付きやすいであろう流し台の上に置き手紙を残すと、ジーパンのボタンを急いで
留めながら部屋から駆け出る。うるせぇぞガキ、と隣のアル中の怒鳴り声が聞こえたがそれを
無視してそのままコンビニまで立ち止まらずに走った。目の前に伸びた前髪がチラチラ踊って
いてそれを息で吹き上げつつ走る。最近身体の調子いいよな、とコンビニのドアを開ける直前
ふと思った。身体の調子は良くても運は最悪じゃないかと分かってはいたが、それをそのまま
押し込めつつただいま戻りましたと声を張り上げる。
「あ、早かったじゃんにのみぃ、若いな!」
「お帰りにのみぃ!」
いきなりの事で耳を疑ったがどうやらこの人達は今日から入るバイトの渾名を今まで考えて
いたらしく、俺がドアを開け空間に走り入る瞬間同時に出来て間もないその名前を呼んだ。
そんな漫画のキャラクターの様な渾名で呼ばれた事が無かった俺は入口で佇立してしまう。
中居君は情けない表情で突っ立っている俺には構わず、そのままゴローと顔を見合わせると
首を傾げ嬉しそうにこう言った。
「俺ら今まで話してたんだけどなー?今日はァ店閉めてバイト君歓迎パーチーやんべェ!」
「イェーイ!」 パチパチパチパチとゴローが子供の様に顔前で拍手している。
「いやァ、最初が肝心って言うべ?俺は店長として思うわけよ、バイト君と言えど同じ店員、
大事にしないでどーすんべ・・・てな。」 中居君はフッと格好をつけ遠い目をする。
「な、中居君・・あなたいいヒトねぇ」 ゴローが素っ頓狂な声を上げまた口元を押さえる。
「・・だべ?」 そう答えると中居君はヒャヒャヒャと下品に笑った。
.

98_:2002/05/24(金) 07:37

――な、何の為に俺はわざわざ家まで着替えに帰ったんだろう?

ふとそんな思いが胸中をスルリと過ったが、折角の好意だしと大人しくそれに甘える事に決めた。
そして立っていた場所からレジまで歩こうと脳が身体に伝達しようとした時、ポケットの携帯が
高い声で鳴いた。すみませんと誤魔化し店の外に駆け出る。そう言えば伊藤がコンビニに寄ると
言っていた事を思い出すと画面を確認せずに電話に出た。
「・・・はーい、もしもし――」 何故だかこの前の生姜焼きの味が口内に広がる。
『――のみや?』 何かを押し殺した誰かの声が鼓膜を揺らせた。この声、この息吹。
「・・もし、もし。」 あぁ何て間抜けな受け答えだろう。
『・・・・・・・。』 電話の相手は押し黙っている。ただ押さえつつも荒い息だけが薄く響いている。
この向こうに誰がいるのか、そんな野暮な事は訊くつもりは全く無かった。ただ黙って相手が
喋るのを待ち続ける、その相手は用があって俺にわざわざ電話を掛けてきたのだから。ほんの
少しだけ薄暗くなり始めた空をぼんやりとした視線で舐めながらただ時の経過を忘れ立ち尽くす。
電話の相手はそのままずっと切らずに、ただコンビニの前に何もせずに立っている俺と繋がった
ままでいる。俺はこちらから何も訊ねる気は無かったし、向こうが電話を途中で切ってしまって
もそれはそれでいいとさえ思っていた。向こうは見えない、だったら無理に見ようとする必要は
無い、不確かなものを勝手に想像するしかこちらには手は無いのだから。
『・・・・・・・あっ・・』
少しずつ濃くなり始めている夕焼けで頭蓋をいっぱいにしていると、その相手が漸く声を上げた。
でもそれは会話への糸口になる種類ではなく――生憎、その人物が苦痛で吐いてしまった音だと
瞬時に理解する。所謂悲鳴だ、それもかなり深刻な。
「おい、どうした・・」 格好悪いが干渉する、もう随分前からしていたのかもしれないけど。
『・・・・・・・』 再び静寂が重く肩に圧し掛かる。俺は間違い無く苛立っていた。
「どこにいンだよお前、言えよ!」 怒鳴ってる、なんでだろう。
『・・・・・』
「おい!返事しろ!」 さっき考えていた事と違うじゃないか。自虐めいた笑いが込み上げる。
『・・ん・・、二宮んちの前・・いる・・』 どうにか言い切ったといった様子で、言葉の後には数回
激しい呼吸音が続いた。 咳もしている――嫌な咳だ、液体を含んだ様な。

「すいません、ちょっと急用が入ったのでちょっと出て来ます!すぐ戻ります!」

真後ろにあるコンビニの入口のドアを勢い良く開きそう怒鳴ると、俺はさっき来た道をまた
引き戻した。自分でも信じられない程全速力で走ったせいか胸がチクリと痛んだが、そんな事は
気にせずアパートが見えるまでひたすらボコボコの地面を蹴り続けた。
.

99_:2002/05/24(金) 07:38

-38-

ポケットに突っ込んだ携帯の通話ボタンが光ったままだと気が付いたのは、薄茶けた建物と建物
の隙間にゴミの様に横たわっている松本の手に携帯を見た時だった。
「おい!」 急いで自分より背丈がある松本を起き上がらせようと左腕を取る。
「・・あ、二宮ゴメンねバイト中・・」 さっきまで聞こえていた声が妙に近い事に安堵を覚える。
「いいから、おい立てるか?」
「・・何とか、はは今日暑いから汗かいちゃった・・」
どう見ても汗だけとは思えない松本の額に流れるその液体を手の平で撫で付けると、松本の左を
取り、出来るだけ急いで自室まで歩かせる。救急車を呼ぼうかと電話を取ったのだが、血相を
変えた松本が必死で止めに入ったのだ。うわ言の様に見付からないように部屋に入れてお願い、
それだけを何度も繰り返す松本を見ていると嫌とも言えず、こうして今この狭い部屋にいる。
薄く湿った布団に松本を寝かせると、松本は余程体力を消耗していたのかそのまま寝息を立て
始めた。部屋が少し暗いという事に気が付くと、電気を点ける為に腰を上げた。スイッチを
触る瞬間流し台に目を遣ると、まだ先程の置き手紙がそのままの状態でそこにあった。まだ
法子は帰って来てないんだろう、松本の事は何て説明しようかな、などと考えつつさっきの
方向を見ると自分でも信じられない程、手が冷たくなって行くのが分かった。

――松本は大怪我をしていたのだ。

今朝見た怪我なんてもんじゃない、それより一層酷くなっていた。本人は死んだ様に眠って
いるが痛みは相当酷い筈だ、それが証拠に寝息は時折少しだけリズムを崩していた。音を
立てない様に布団の側に歩み寄り、制服では無い高そうなブランド物の白いシャツの裾を
少しだけ捲り上げて中身を覗く。それが見えた瞬間、反射的に血と穴だらけのそのシャツを
さっきより下の辺りまで下ろしそれを視界から遠ざけた。目蓋を閉じ、呼吸が落ち着くまで
そのままの状態でただ佇んでいた。しかし暫く経ちまた眼前に横たわるものを見付けると
それが決して夢では無い事を再確認する。何とかしなければ、何かしなければ、あまりに
忙しく思考を巡らせたせいか俺はパニックに陥りかけていると気付くまでにしばらくの
時間を要した。落ち着け、落ち着け、落ち着け、呪文の様に唱え続けた。
.

100_:2002/05/24(金) 07:39

そんな時、まるで七色の光が天から降りて来るみたいな音色で携帯が鳴った。
松本になるべくその音を聞かせない様に急いでそれを手にとり耳に押し付けた。誰でも良かった、
この電話番号を教えている相手なら誰からの声でも良かった。
「はい、もしもし」 案外冷静な声が出るもんだ、と自分でも驚く。
『あ、モシモシ俺俺伊藤ですけど、お前今どこ?バイト先?』
「あいや、今家なんですけど・・」 目の前でシャツに広がった赤い地図がぐんぐんと面積を増す。
『そっか、なぁもう飯食った?今日職員会議で遅くなってまだ俺食ってないんだわ、これから
どっか一緒に食い行かない?もっちろん俺オゴるから。』
「いや、飯は多分・・無理なんですけど」 どうしよう、伊藤にこの事を言ってもいいんだろうか。
『どしたの二宮?元気無いじゃん・・あ、あの英語のババァの事なら気にすんなよ?な?』
「いえ、そんな訳じゃ」 松本の両目蓋はどこからともなく流れた血で固まっている様に見える。
『あのヒト更年期障害ってやつだよ多分、もうババァだから』
「いやぁ・・」 どうしよう、嫌っている伊藤にバラせばコイツは怒るだろうか?
『――二宮、マジでどした?何かあったの?』 声のトーンが変わる。どうしよう。
「・・・・・・」 松本の血で濡れたシャツを目の前に携帯を握り締める。震えているのが分かった。
『・・二宮?』 どうしよう、伊藤に助けを求めれば絶対に助けてくれる。伊藤は頼れる。
「・・・・・」 なのにどうして声が出ないんだろう。
『二宮・・何かあったのか?』
「・・・・・・」

“ 俺だって二宮に頼られたりしたらほんと教師になって良かったと思えるよ ”

この間聞いた筈の台詞がふと聞こえる。頼っていいんだろうか、寄りかかっていいんだろうか?
でも松本は誰にも知られたくないとさっき俺に懇願した。その必死の頼みを無下にしてもいいん
だろうか?いつの間にか俺の布団にも鮮やかな色をした体液が侵食しているのが目に入る。
それはとても綺麗な色で、そして哀しい感情を思い起こさせた。ギュッと空いた右手を出来る
だけ強く握り締める、何度も何度も痛みを感じる程そうする事で正しい答えを引き摺り出そうと
試みた。
『二宮?どうしたお前大丈夫か?何があった?』
「・・・・・」 伊藤は俺以上に真剣だったかもしれない。その声には凝縮された感情が詰まっていて
俺の胸を打っていたから、だからこそどうするべきなのか見当が付かなかった。松本は目を覚ま
さない。俺は医者じゃないからどの位松本の怪我が酷いのか分からない、松本はもしかしたら
死んでしまうかもしれないのだ。背筋がスッと凍るのが分かった。

「伊藤・・」 初めて伊藤をいつもの呼び名で呼んだ。
『どうした?』


“ ・・俺の事、友達だって思ってくれてる? ”

「寝起きなんです、何か寝惚けてて――」
『・・なァんだ、そっか』 伊藤は素直だ、それを知っていたから嘘をついた。
「今からバイトなんで話は後で電話で大丈夫ですか?」
『そっか、分かった・・じゃまた後で電話する』
「はい、飯次楽しみにしてます」
『ハハハ期待すんなよ』

――信じていなかった訳じゃない、嫌な予感がしたからひとつだけ嘘を付いた。

どこかで見た様な松本の腹の十字傷が、俺にそうしろと告げていたからかもしれない。
伊藤だけは巻き込んではいけないと何故だかその時俺は強く思っていた。何も知らなかった
訳じゃない、ただ俺はその時何か大切な事を思い出しかけていたんだ。

「それじゃバイト遅れるんで」

そう言って電話を切ると、急いで元来た道を駆け戻った。本日これで2回目だ、なんて
のんきな事を考えつつ俺は歓迎パーティーの用意をしている中居君の所に急いだ。どうして
中居君に助けを求めたのかは分からない、だけど俺の中を満たす空間のどこかでそれは
間違ってはいない事だとされていたからこそ俺はそうして息を切らせて走っていた。
.

101_:2002/05/29(水) 05:25

-39-

目的地に着くまでの道程では何故か松本の傷痕と伊藤と中居君の顔が交互に現れた。
多分火事とかの第一発見者ってこんな感じなのかな、などと思いつつ直線を突き抜け角を
出来得る限り無駄無く曲がる。1回、2回、3回・・と続き7回目で漸くコンビニの光が
目に入った。多分無我夢中で走って来たのだろう、前髪は汗で額にぴったりとくっ付いて
しまっていて気持ち悪かったがそのままドアを力の限り押し開ける。

「中居君、救急箱ある?」
売り物の惣菜をプラスチックの皿に並べ替えていた中居君とポッキーを色気の無い紙コップに
刺していたゴローがこちらを振り返る。
「ど、どーしたにのみぃ?用事終わったか?」 彼らが理解出来ないのは当然だ。
「・・・どっか怪我したの?」
「馬鹿ゴロー、こいつ多分コンドーム探してんだべ、察してやれってブヘヘ」
「え、救急箱にコンドーム入ってんの?」
「いや俺ん家の入ってんべ」
「それは中居君がぁ・・」
ゴローの言葉を聞き終える前にレジの後ろの棚に緑色の十字が入った白い箱が目に入る。
カウンターを飛び越えると素早くそれを掴んでまるでラグビー選手が楕円のボールを抱えて
走る様な格好でそのまま元来た道を戻ろうとする。喉の奥は血の味だった。
「おい待てって二宮!」
「・・・中居君シッペ一回、にのみぃって言わなかった」
「るっせー!とにかく追うぞ!」
.

102_:2002/05/29(水) 05:26

そんな会話はもう随分背中の後ろに遠ざかってしまったみたいで、いつの間にかキリキリと
痛み始めていた胃をちょっと気にしつつも来た道を戻る。いきなり運動したせいかさっきから
何度も喉の奥から何かが込み上げるのを感じたが、吐くのは好きじゃないからそれを無理矢理
飲み込む。最後の角を曲がると同時に薄いブルーの夜空の端に傾いたボロアパートが見えると
俺は安堵の表情を滲ませそのまま階段を駆け上った。腿の裏が痺れているのが分かった。

鍵のかかっていないドアを押し開け松本の側に靴を履いたまま駆け寄る。
まずは頭の怪我が第一優先だろう、と救急箱の蓋を開け消毒液だと思われるビンを取り出す。
いや先に水で洗うのが先か、それとも血は拭いた方がいいのか、何通りもの自分流の手当ての
仕方が脳内をメリーゴーランドの様に駆け巡る。あぁやっぱり中居君も連れてくれば良かった、
でももう全てが遅い。もう一度戻っている内にコイツ死んじゃうかも。中居君にあの時素直に
助けて下さいって言えば良かった、迷惑掛けるからなんて救急箱だけ借りて来たけどこんなの
バカの俺には猫に小判だ。
「おいお前大丈夫か?医者ホントにいいのか?」
松本から返答は無い、寝ているのだから当然だ。揺り動かそうにも傷が痛むといけない、
取り敢えず俺はガーゼを取り出し流しで水を含ませると額の傷の血を拭いた。ゴシゴシと
擦り傷口を探すと案外それは小さなもので、それが頭部の傷だから出血が酷かったんだと
胸を撫で下ろす。想像ではもうパックリザクロの様に割れた傷が赤黒い血液の向こうに
現われるんだと思っていたからその安心も一入だった。多分ただぶつけたであろう
1センチにも満たないその傷に消毒液をかけ新しいガーゼを押し当てると、そのまま
クリーム色のテープでそれを固定した。血はもう止まっていたから縫わなくて大丈夫
だろうし傷痕がもし残ったとしても目立たない位置だから問題は無いだろう。

問題は体の傷だ。
頬や目の辺りにある殴られた様な青痣はもう前に治療されたものであったり、そんなに
深刻な傷ではないであろうと素人目から見ても分かるちょっとした傷だった。だけど
白いシャツを真っ赤に染め上げたこの腹の傷、これはどうしようもない。ボタンを外し
開くとそこにはさっき見たのと同じ傷があった。まるで十字架の様に刻まれた縦25センチ、
横15センチのその傷――見るのは初めてではないのにさっきより酷い寒気が身体を襲う。
さっきと同じ様にガーゼを手に取り、無言でその傷口を洗い流しているとふと嫌な考えが
頭を過る。そんな筈はないと頭を振り作業に戻る。いくら拭いても血は枯れそうもなかった。
みるみる内に赤いガーゼが床に散乱し、地面に咲いた赤い花に囲まれ俺は吐きそうになり
ながらもそこで花の種を植え続けていた。

――なぁ松本、俺お前が何やってんのかサッパリ分かんねぇよ。

黙って湧き出て来る赤い水をずっと浴びていると目を閉じたまま松本が何かうめいた。
白い腹からまたドクッと血が噴き上がる。松本は苦しそうな表情で2度咳き込んだ。
俺は新たな血を拭き取るのも忘れて松本が呟いた言葉を頭の中で何度も巻き戻していた。

“ アンタら絶対殺してやるよ ”

決意の塊の様なその宣言を今でも俺は忘れる事は出来ない。
それを呟いた松本の瞼は閉じられたままだったが、その瞳を見る事が出来たならばきっと
それは恐ろしくも美しいものだったと思う。松本はまた眠りについたようだった。

「・・ユガんでるよお前。」
俺は悲しみとも哀れみとも分からない表情で、白く華奢な身体を見つめながらそう言った。
.

103_:2002/05/29(水) 05:28

◆ 第六節 怪我をした罪人
>>74-76 >>80-84 >>87-88 >>90-95 >>97-102

104_:2002/05/29(水) 17:36

読みにくいのでまとめました。
一時的に作ったサイトなのでいつ消えるか分かりませんが良かったらどうぞ。
一節終了する毎に更新出来ればと思っております。

http://arashi.s13.xrea.com/arashi.htm

105_:2002/06/09(日) 05:44

◆ 第七節 傷痕のこころ
.

106_:2002/06/09(日) 05:45

-40-

地下水流の様な色の青い静脈が白い皮にうっすらと透けている。
その中心には十字架のかたちの泉があり、そこはいやにジクジクとした液体が湧き出ている。
汲んでも汲んでも止まらないその液体の色はとても鮮やかで美しく、見る物を気付かぬ内に
見惚れさせてしまう魅力があった。そして俺もその中の一人なのかもしれない。
「おい、起きろよお前」 もうすっかり真っ赤に染められた指先で額を拭いた。
確か保健体育の授業でやってた。半分寝てたけど確か病人や怪我人を応急処置する時には
耳元で話し掛けながらの方がいいって体育教師が言ってた様な気がする。あぁ何でちゃんと
聞いてなかったんだろう、俺。脱力感が歯痒い。
「なぁお前このケガどうしたんだよ、何で病院駄目なんだよ?」 当然返事は無い。
震える指先で赤く開いた傷口の周りをなぞった。松本はピクリともしない。ほんの少しだけ
その中心をグッと押したがすぐ手を引っ込める。また新たな血がじわっと滲み出して来たから。
松本はその目蓋を開ける事は無かった。

何分たったんだろう、ここに駆け込んで来た時より涼しくなった様な気がする。
俺専用の布団はいつの間にか深紅へと変色しており、その中心に横たわる松本はまるで昔
聞かされた様な絵本の世界を彷彿とさせた。あまりにも幻想的な風景だったから。いつの
間にか俺はすっかり作業を停止してただ目の前を焦点の定まらない目で見つめていた。
説明出来ない内に蠢くこの気持ちを知らない誰かに整理して欲しかった。やがてその
ぼんやりとした思い付きは確かな願望となり、どこかに粒の様に残っている良心に人任せ
にしてはイケマセン、と窘められる。そしてまた俺はフリダシに戻る。ずっと前からその
繰り返しだ。何があっても、どんな風に自分が扱われても今までずっとこんな事ばっかり
している。目の前に横たわる知り合いの為にさえ何もしてやれない。ただ絶望の眼差しで
それを眺めているだけだ。達観している訳じゃない。
「殺してやるって誰をだよ・・」
優等生である筈の松本。勉強もスポーツもこなせて顔もいい。性格もどちらかと言うと
明るくて人望もある。机の中から松本がコソッとラブレターらしき物を取り出している
のも何度も見かけたし、目の前で女に好きですと告白されているのを見た事もある。
そんなヤツが何で殺してやるとか言うんだよ。アンタらって誰だよ。

「二宮ァ〜!」
「あ、中居君はい一回!」
「い゙ッで!だってよ、恥ずかしいべ?『にのみぃ』とか言うの・・ココ住宅街だべ?」
「この辺なのは確かなんだよね?」
「オメー放置かよ!」
「覚えたての『2ちゃん語』使用は恥ずかしいよ中居君。」

この声・・・。
汚い畳の上から飛び上がって窓に駆け寄って網戸を押し開けて叫ぶ。
「中居君!こっち!」
周りの事なんて何も考えず喉が痛くなる程叫んだ。こっちが明るくて向こうが暗いから、簡単
には2人の姿を捕らえられなかった。目を凝らしてもう一度同じ様に叫ぶ。まだ答えは無い。
もう一度。更にもう一度。もう一度だけ。もう一度。
「にのみぃ、開けてくれ〜」
目眩がする程ずっと叫び続けていると、ゴンゴンと背後で木製のドアがノックされる音がした。
倒れそうになりながらも堰を切った様に溢れ出すこの感情を押え込めてドアを開ける。薄暗い
廊下には中居君とゴローが苦笑いしつつも立っていた。
「お前、どしたんだよ、ん?」 中居君が俺の頭をポンポンと叩く様に撫でた。
「・・・・・・・」 何か言いたかった筈なのに、言うべき筈なのに言葉は出て来なかった。
「取り敢えず中入れてくれよ、な?」
目の前で中居君が優しい目をして笑っている。頭に乗せられた手の平の感触を確かめる様に
俺は神経をそこに集めた。そんなに大きく無い手がそこにある、ただそれだけで救われた気に
なる。何から話せばいいのか分からなかった。どんな顔をすればいいのかさえ分からなかった。
「ほれ」
すれ違う時顔に当てられたタオルの感触で、どうやら俺は泣いていたらしいと言う事が
自分でも分かった。
.

107_:2002/06/10(月) 05:30

-41-

流れ出した感情はまるで破れてしまった盾の様で、俺はそのまま何色だか分からないタオルに
それを押し付けてままでいた。ちょっとゴワゴワするタオルからは何の匂いもしない。多分
新品のタオルだったんだろうと気付くまで落ち着いた時、俺はやっと顔を上げた。
「・・・かい君・・」
中居君は立ったまま松本を見下ろしていた。こっちに背を向けていたから表情は読めなかった。
でも声を掛けても中居君は動かなかった。多分ビックリしているんだろう。
「なか・・」 足を踏み出そうとした途端、肩に重力がかかる。
「ねぇにのみぃ、コンビニ帰って飯、飯取ってきてよ、ホラ」
ゴローは俺の肩を掴んだままそう言って鍵を手渡した。出会ったばかりなのに今のゴローの
笑顔は作られたものだとすぐに分かった。それはどこか松本の笑顔に似ていたから。今にも
溶けて腐りそうなその表情に気付かぬ振りをして、俺は鍵を握り締めて笑顔を返した。
「・・ソイツ、怪我してんだ」
「みたいだね」 ゴローの表情は穏やかだった。
「腹ン所・・スゴくて」
「分かった」
「松本って言うんだけど、ソイツ・・」
「そっか」
「・・・・・・」
「にのみぃ、取り敢えず俺ら今から応急処置して、それから病院行って来るから・・」
「駄目!」
目の前には目を丸くしたゴローの顔があった。急に大声を出したせいもあるだろうけれど
鼻水を垂らしながら叫んだ俺のグシャグシャの顔のせいなのかもしれない。でも相手が
どう思っているだろうなんて事その時は気にならなかった。あの必死の松本の頼みには
何か重いものが隠されている様な気がしたし、交わした約束の様なものを破るのはどう
しても嫌だった。
「なぁ」 そこに突っ立っていた中居君が漸く口を開いた。
「・・え、はい」
「コイツ、俺らに任せといてくれよ、なぁゴロー?」
やっとこっちを向いた中居君の顔は、どこか苦虫を噛み潰した様な顔でとても苦しそう
だった。一人だけ見えない敵が見えているみたいな、そんな顔だった。
「うんそうだね、じゃにのみぃ飯、頼むよ。」
「はい・・。」
どこかそれは引っ掛かったけれど、どうやら強力な助っ人が現われたみたいな気がして
だから俺はそのまま鍵を握り締めその空間から足を踏み出した。もう何回曲がったかなんて
覚えてられない程往復した角をまた通り過ぎながら、俺はある事について仮定していた。
それが合っているなんて思いたくはなかったが、それでもその考えを拭い去る事は不可能で
そうじゃないと信じ込める程俺は子供じゃなかった。

「ゴロー、始めるぞ」 照らされた赤い溝に手を当てて中居は言った。
「ほんと応急処置にしかならないね」
「いいべ」
「ねぇ中居君・・」 稲垣の表情はとても儚いものと変わる。
「今回だけは頼む、悪いようにはなんねぇから。」
「・・・・・・。」

狭い部屋の中、縦に伸びた2つの影は距離を縮め暫く揺らめいていた。
空にはいつの頃からか今にも消えそうな星が今出来た腫瘍の粒の様にばら撒かれていて
それはどこかその影に似ているようでもあった。
.

108_:2002/06/13(木) 07:25

-42-

いくつかの弁当と飲み物を無地のビニール袋に入れ、無言で家路を急いでいると道の
向こうに小さな影が静止しているのが見えた。目を細めてみてもそれが何であるかは
分からないので暫くそれに向かって歩いていると、急にそれがパッとそこから消える
のが分かった。あれ、と目を凝らす。
「おこーんばーんわ!」
「ヒッ」
耳元で響くダミ声と両肩が捕らえた衝撃に小さな悲鳴をあげると、目の前の影は大袈裟に
首を傾げて陽気な声をあげた。
「ビックリしたぁ?ゴメンねー」
「・・・・・」 驚いてしまって声も出ない。
「バスケの話、考えてくれた?」
「え?」
一瞬耳を疑ったが、人懐っこいその顔が目に入ると漸く今自分がどんな状態にあるのか
ぼんやりと理解する事が出来た。目の前の少年は(俺より大分背が高いから青年と言った
方がいいのだろうか)この前車に轢かれかけた時に話し掛けて来た彼だった。どこか
懐かしいと感じた事をどこかで覚えていた。
「ねぇニノ」
「え?」 無意識に顔をあげる。
「また一緒にバスケやろうよ」
「・・・・・・」 この人はどこか危うい雰囲気を漂わせている。今この瞬間も。
「やろう」
「急いでるから・・ゴメン。」
もう既に日は落ちているから相手が何色の服を着てただとか、どんなアクセサリーを
つけてただとか、そんな細かい事は気にも止まらなかった。だけどその相手の怖さが
はっきりとその瞬間に伝わってきたからわざとそこから立ち去った。何も弱みを握ら
れている訳じゃないし相手の事をそこまで知っている訳でもない、でも仄かに漂う
懐かしさの奥に隠れている恐怖を俺は確かに感じ取っていた。
.

109_:2002/06/13(木) 07:26

「ねぇニノ!」

(何で俺の名前を知ってるんだ?)
黙ってまたボロアパートに向かって歩を進める。その人は後ろから距離を取って追い
掛けて来ているみたいだ。足音がいつの間にか重なっている。
「ねぇニノったら!バスケ!」
(気付いてない、何も知らない、コイツの事なんて何も知らない。)
どんどんと視界の隅に流れる景色がかたちを崩して行く。まるで滝の様に流れていた。
俺はさっきみたいに泣いていた訳じゃない。だが胸の奥は濃い何かが溜まっていて
今にも爆発してしまいそうだった。
「ニノ!俺の方が足速いんだから逃げてもムダだよ!」
気付くと全速力で走っていて、耳の後ろまでそいつのダミ声がにじり寄っている。
でも止まる訳にもいかないので走る。両手に抱えたビニール袋が腕に食い込んでいて
痛かったけどそいつに捕まるよりマシだと思った。中居君達に届ける飯だから放り出す
訳にもいかなかった。
「ニーノ!ねぇ!」
そいつの声はこれを楽しんでいる様に聞こえる。とても真剣なそれには聞こえなかったから。
猫が鼠を甚振る様なそんな声。

角もあとひとつという所で、やっと身体に衝撃が走った。
腕に掛けていたコンビニ袋が、反動でグワンとブランコの様に前方に舞う。またチリッと
皮が捩れる痛みが走る。掴まれた場所は耳だった。痛い。
.

110_:2002/06/13(木) 07:27

「いってーよ馬鹿!」 頭を振ってその手を振りほどいた。
「だってニノが悪いんだよ、逃げるから。」
そいつは自分のした事を肯定する様に肩を竦めて見せる。何の悪気も無いその表情は
人の心を鷲掴みにする力があった。あどけない、とでも表現すればいいのだろうか。
まだちっとも汚れていない無垢な笑顔だった。
「何で俺の名前・・知ってんスか?」 多分赤くなっている耳を撫でながら訊いた。
「相葉雅紀、よろしくね。」
「ハァ?」
目の前ではそいつがニコニコと右手をこちらに差し出している。
質問の意味が分からなかったんだろうか、それともただ無視しただけなんだろうか。
俺が呆気に取られたままそこに佇んでいると、間を埋める様に(多分本人にはそんな
意図は全く無いんだろうけど)そいつが口を開いた。
「松本君、ケガしてるでしょ。」
(・・・何で知ってるんだ?)
「俺、見たんだぁ」
「え・・」 そう答えるだけで精一杯だった。
「誰がやったのか教えてあげよっか?」
朗らかにそう言うとまたそいつはグフフと笑う。どこの誰とも分からないこいつが言う
事なんて信憑性が無い。ただのハッタリかもしれない。
「あ、イニシャルトークにしよっか、えぇとね・・あれ?名字が前だっけ?名前が後?
ねぇニノどっちだっけ?それともぶっちゃけ本名でいく?」
「そいつの事・・知ってるんスか?」 息を落ち着かせる。
「知ってるっていやぁ知ってる、でも知らないっていやぁ知らない。」
「じゃあ松本の怪我、あれは誰かにやられたんですね?」
それ以前に聞きたい事が山程あったけど、それを払拭して一箇所だけに固執した。何より
先にまず松本の怪我の事を知らなければならない。病院にも行けない傷を誰に負わされた
のか、それをどうしても知る必要があった。
「ニノがまたバスケしてくれんだったら全部教えてあげる。」 答えは意外な物だった。
「しますよ、だから教えて下さい。」 自分の順応力に半ば敬服しつつもなおも食いついた。
「いいよ」
そう言うとそいつはヒラヒラと手招きをした。
警戒しつつも耳を寄せる。そいつの息がかかるまで近付くと耳元で低い声が響いた。

「松本君と早くなかよくなって、それで逃げちゃえばいいんだよ。そしたらもう松本君は
ケガしない。」
「・・へ?」
「その人、ニノを狙ってるから松本君がジャマなの。嫌いなのかもねー。」
「ちょっと言ってる意味がわか・・」
「北海道には行かないのが吉。」
「え・・」
「じゃね、ばいびー。」

急に耳の側から気配がフッと消えた。
顔を上げるとさっき曲がった角の向こうに影が消えていくのが分かった。そいつは、
相葉は行ってしまったんだと漸く理解する。まるで悪戯な風のようだとも思った。

「・・・あいば・・・まさき・・。」

――聞いた事がある名前だった。
最後の角をノロノロと曲がると電気の点いたアパートの窓に2つの影があるのが見えた。
窓際で動かない所を見るともう松本の治療は終わって俺を待っていたのだろうか。
スゥッと息を吸い込むとアパートの階段を喧しく一気に駆け上った。
.

111ななし姉ちゃん:2002/06/20(木) 15:06
職人様、ご苦労様です。
ぐぁーーーー!!!っと一気に読んで どきどきして、なにがなんだか、
うまく説明ができないのですが
何故か涙が出てまいりました‥‥
つづき、楽しみにしてます!!!!!!

112_:2002/08/01(木) 13:47
長い間お待たせしております。
何だかよく分からない話なんですけど最後まで書ききりますので
どうぞ長い目で見て頂ければ嬉しいです。削除依頼はどうか勘弁
して下さい。では、本日中に貼り付けに参ります。

レス
http://arashi.s13.xrea.com/res.htm

113ななし姉ちゃん:2002/08/05(月) 12:20
職人様キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!!!!!!!!!

114_:2002/08/06(火) 11:36
手直ししてたら遅くなりました。
ウソついてすいません。(>>112

115_:2002/08/06(火) 11:38

-43-

赤い布団はもうすっかり浄化されていて、松本の周りだけやけに清潔に整えられていた。
腹や額にある傷口に巻かれた包帯はやっぱり痛々しかったが、それでも松本の寝息が
さっきより随分規則正しくなっている事からしても中居君達が施した治療は適切な
ものだったと思えた。窓の所で片膝を立てて座っているゴローと床に寝転んでいた
中居君の間にコンビニから持って来た食料をドスンと置いた。ちょっと量が多すぎた
かもしれない。
「ンがと。」
「あの、ありがとうございました。」
「ビールある?」
「あ、ハイ」
ゴローに良く冷えた(さっきの足止めでちょっとぬるくなってしまったかもしれない
けど)ビールを手渡す。ゴローの手は手術用の薄いゴム手袋が覆っていて、その所々に
血がこびり付いているのが目に入りちょっと生々し過ぎて胃の辺りがざわつく。
「あ、流しあっちスから手洗って下さいよ」 流しの臭い生ゴミを片付ける為腰を上げる。
「あぁ、いいんだぁ・・俺。」
「でも・・」
「いいべほっとけにのみぃ、そいつちょっと変わってるから気にすんな。」
寝転がったままの体勢で中居君はそう言うと、だるそうに漸く起き上がった。案外華奢な
首をゴキゴキと鳴らしつつさっき置いた弁当を手に取る。中居君が割り箸を袋から出し
几帳面に割ってみせるのをぼんやりと眺めているとゴローがやっぱお茶、と促した。
ゴローの手にはシルクか何かの高級な布で出来たみたいな真新しい手袋が嵌められていた。
見た感じ普通の安い生地じゃ無いと分かる。
「お茶ッス」
「俺これ大好き」 ペットボトルを手にすると、ゴローはまた小犬みたいな顔で笑っている。
「あぁ、そいつ潔癖症なんだ。ま、気にすンじゃねーべ。」
「はぁ」 聞かされた答えは、納得出来る様な出来ない様なそれだった。
「にのみぃも食べなよ」 屈託の無いゴローの笑顔はどこかさっきのアイツのそれに似ている。
「あ、そだそだ遠慮すんじゃねーべ、今日は歓迎パーチーなんだからよ・・あゴロー、それ
うんそこの弁当取ってやって、ハンバーグ弁当・・好きだろにのみぃ?まだ若いんだから。
なァ?あ、飲み物はオメーのカノ・・」
「あの!」
目にキッと力を入れる。いつもちょっと垂れ気味の目尻だから、ちょっと目の周りの筋肉を
動かすのはキツかった。眉間の辺りが攣るかと思った。でも今ここで訊かなければきっと
後は無い。

116_:2002/08/06(火) 11:39

「な、なんだべ?」 中居君の方向に向き直る。
「松本の事なんですけど、あコイツ・・この傷やったヤツどんなヤツか分かりますか?
こいつの事、俺良く・・・分かんないんですけど、見た感じコイツの事ジャマとか思ってる
ヤツって結構多そうな感じですか?あと傷はどうでしたか?」
一番先に来るべき筈である質問が尻に回った事に自分でもちょっと驚きつつまだ続ける。
中居君なら何か俺らの年代じゃ分かんない様な事とか、絶対気付かない様な事とかをポロッと
何気無く教えてくれそうな気がする。年は幾つだか訊いた事は無いけれど10は離れてそう
だし、何か中居君からはオトナの匂いってヤツがしていたから。だから無意味と思われる
質問を敢えて浴びせた。
「ねぇにのみぃ」 意外にも先に口を開いたのはゴローだった。
「吾郎」
中居君の真剣な声が畳の上を飛び跳ねて、やがてどこかで虚しく止まった。
投げたボールがテンテンと音を立てて跳ねて壁にぶつかって、ゆっくりと静かに跳躍を停止
するイメージを頭に浮かばせるその声――中居君の声は聞いた事が無い程真剣だったのだ。
そのままその2枚の唇が動くのを俺は見ていた。

「オメー・・コイツの事どう思ってんの?」
「え」 中居君、何でこんなに真剣な目をしてるんだろう。懐かしいものを見ている様な瞳。
「どう思う?」
「・・・そんなの普通考えないッスよ。」 嘘をついた。恥ずかしかった訳じゃない。
「そうか」
「考えないです。」 自分に言い聞かせた。

――考えるな、考えるな、絶対に考えちゃいけない。
俺は窓際でゴロンと寝転がりあっちを向いてしまっている中居君をじっと見据えた。中居君は
開けっ放しの窓からかすかに聞こえるどこか鈴虫のそれに似た虫の声に耳を傾けている様に
見えた。でも実際中居君が何を聞いていたか、考えていたかはボロボロの畳の上に投げ出された
四肢と体からは想像もつかなかった。顔が見えないってなんて心もとないんだろう。目を見るっ
て何て大事なんだろう。

やがてそこからは何も見出せない事を渋々理解すると、俺はゴローが遠慮がちに右後ろに置いて
いたハンバーグ弁当を手に取り松本の脇に重い体を引き摺り座った。まだほんの少しだけ赤黒い
血が張り付いたままの頬に手を当ててみると、微温がじんわりと伝わって来た。もしかして
こんなにじっくり近くで顔を見たのは初めてかもしれない。少し離れて座っていたゴローが
紙コップに入ったお茶を音を立てず俺の目の前に置き、躊躇いつつもゆっくりと口を開いた。

「・・・にのみぃ、松本君さ、さっきまでずっと泣いてたんだよ。」
「・・・・・。」

リーリーリー、と窓の外では名も知れぬ虫が鳴いていた。
万能な松本ならその虫の名前も知っているだろうか、とふと思った。

117ななし姉ちゃん:2002/09/23(月) 00:46
職人様キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!!!!!!!
松本君の涙‥‥!
続き楽しみに待ってます(ワクワク

118ななし姉ちゃん:2002/10/31(木) 22:19
職人様はお元気なのでしょうか?

119ななし姉ちゃん:2003/07/05(土) 20:59
久々に読み直したけど続きが気になって仕方ないでつ。
職人様、どうか続きを!

120ななし姉ちゃん:2003/07/06(日) 11:12
今初めて読みますた。おもろい!
禿気になる木。

121_:2004/04/08(木) 11:23
お久し振りです。
自分でスレを立てておきながら長い間留守にしていて本当に申し訳ありませんでした。
ある区切りまで書けましたら貼りに来ますから、もう暫くお待ち下さい。
妙な話で引かれているかもしれないんですが、場所を貸して頂いている以上
きちんとやりますので皆さんもお暇な時があれば暇潰しにでも覗きに
いらっしゃって下さいね。

では今日はこの辺りで失礼します。
本当にお待たせしてしまってすみませんでした。

http://arashi.s13.xrea.com (※res : http://arashi.s13.xrea.com/res2.htm


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