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メモ

1メモ:2011/02/17(木) 16:52:40
メモ

2あろk:2011/02/17(木) 17:12:31
読書でも、対話でも、物事を読み解く時に大切なのは
「相手は、どういう行動基準や価値観を持って、行動や発言をしてるのだろう?」という点に注目する事かもしれない。

物事を読み解いたときに受け取る感情は、受動感情と能動感情の2つに分けられると考える。
受動感情は、ただ感情を思い起こすだけのもので、その場で終わる刹那的なものだ。
能動感情は、思い起こした感情を自分の行動基準に根ざして、能動的な行動のエネルギー源とできる感情だ。

また「パレートの法則」という物がある。
これは、全体のうち20%程度の優れた要素が全体を動かし、
残りの80%は全体の中枢的な働きに影響を与えていない、みたいな考え方だ。

このパレートの法則が、受動感情と能動感情に対しても言えるのではないか。
80%の賢くない人は物事に触れたとき受動感情しか呼び起こせない。
だから、考え方や思想によって行動を変えることができない。
残り20%の賢い人は、物事に触れて能動感情を呼び起こすことができる。
能動感情を呼び起こせば、その時に理解した考え方や思想を、自分の行動原理に根ざしやすくなり、行動を変えやすくなる。

そして、その能動環状を呼び起こすには
物事を読み解くときに「この相手の価値観はどんな物だろう?」という問いを自分の中に作り
その答えを探す事で、価値観の模索をする必要がある。
相手の価値観にまで問いを進めずに、相手の言う事を上辺だけでしか受け取れないと
受動感情しか呼び起こされない。

「何の話だろう?」や「どういう話だろう?」という問いだけではなく
それと同時に「どうして、こういう話をするのだろう?」という相手の価値観まで問い
そしてさらに、その答えを探さないと、能動感情は呼び起こされないのではないか。

この能動環状を呼び起こす事が賢さの鍵なのではないだろうか!!!
何をやっても芯を得ない人は、受動感情しか呼び起こされず
芯を得てる人ってのは、能動感情を呼び起こしているから、っていう説明は、うまくいってる気がするんだけどなぁ・・・
とりあえず、ここまで

3あろk:2011/02/17(木) 17:33:16

せんせいあのね。

そもそもね、ぼくは人に優しくしたとき、
その見返りがない事に注目したの。
(っていうか、注目せざるを得なかったの)

そんで思いついた考え方が
人に優しくした時、相手が受け取る感情は
「能動感情」と「受動感情」に分けられるんじゃないか、って事。

どんだけ優しくして、相手から浴びるほどの「ありがとう」を貰っても、
どんだけ仲の良い友達がいて「オレはオマエが好きだから」って言葉を貰っても
どんだけ相手を信じて、相手から「あなたにしか話したことがない」と言われる話を教えてもらっても
これらの全てが「受動感情」の延長線上にあったら
それはボクにとってプラスにならないの。

なぜプラスにならないのか。
それは「受動感情」によって、その相手が能動的に動くことはないから。
「能動感情」でしか行動は変わらないの。
相手の感じているものが「受動感情」であったら
どんだけ相手から感謝されたり、10年来の付き合いがあっても、
親にも今までの彼氏にも誰にも話したことのない話をオレにだけ教えてくれたとしても
相手の人生にぼくが関わる、という能動的な行動や決断を迫られると
「それは話が別」となる。

なぜ話が別になるのかというと、信頼にみえているソレは「受動感情」による「親しみ」だからだ。
相手の受動感情が求めてる親しみは「受動的に話を聞いてくれるぼく」であって
「能動的なお付き合いのできるぼく」ではないのだ。

そしてもう1つ特筆すべき点は、
これら「受動感情」によって行動する人には
ぼくなりに感じる「芯を得る感覚」がない事だ。

「芯を得る感覚」は、感覚的な物だからうまく表現できないけど
もしかしたら、「相手とフェアでいられるかどうか」という事かもしれない。
「受動感情」の人は、どこかしら結局のところ
相手に「自分にとって都合のいい面」だけを感じている節がある。
そして、「自分にとって都合のいい面」をくれる相手には
最大限の賛美と、秘密話とかをくれたりするけど
能動的な「信頼」には結びつかない。
秘密話は「自分にとって都合よく、受動的に話を聞いてくれる」から話してるだけであって
おそらく、そこにある計算は
「この人に、この秘密を話しても、私は傷つかないで済むだろう」という計算意外の何ものでもない。

さらに言えるのは、この「受動感情」を刺激する事で相手に与えているものは「安心感」かもしれない。
相手は、自分を受け入れてもらえる安心感を覚えて、親しくしてくれるが
それは、あくまで受動的な安心感なんだ。
ぼくが、万が一にでも「一緒に向上心を持って活動をしよう。お互いのために」という事を提示すると
意見には賛同するが、能動的活動はしない。
なぜなら「今は、こう考えたほうがベストだから、この考え方を採用しよう」と言っても
「受動感情」がベースの人は、「受動感情」によって「行動」が変わることがないからだ。
「能動感情」を持ってる人じゃないと、「能動感情」による行動の変化は起こらない。
そこが、ぼくが「受動感情」者に対して献身しても報われない
一番の原因なのではないだろうか?

4あろk:2011/02/17(木) 18:14:56
有力な自分を変える方法として、3つの方法があるという話がある。
「時間配分を変える」 「住む場所を変える」 「付き合う人を変える」の3つだ。
「決意を新たにする」ことは意味がなく、意志だけでは自分を変えられない、というのだ。

ぼくが思うに、
この3つの方法と
「決意だけで行動をかえる」事の共通点は
「能動感情」を呼び起こせるかどうか、だと思う

時間や場所や人間関係は、他者の影響によって自分の存在を認知し
尚且つ行動までも強制的に変えなくてはならない条件だ。
自分の身に差し迫って、態度や行動を変えないといけないとき
人はイヤでも「能動感情」を呼び起こされる。

この「能動感情」の一番のポイントは「能動」でありえるかどうか、だ。
能動的ではない「**だったらいいよね」だとか 「**になりたいな」だとか
そういった、ありとあらゆる受動的な感情では呼び起こされない感情だ。

そして、自分がいくら相手に尽くしても、相手が「受動感情」しか呼び起こされない場合には
「優しく話を聞いてくれる人」や
「なんでも受け入れてくれて安心感をくれる人」が
相手の「受動感情」の刺激にしかなっていないからである。もしくは、
献身を理解して「能動感情」を呼び起こすだけの能力が相手にないからだ。



ぼくが、ありとあらゆる手法で相手に干渉しようとしても
相手がこの「能動感情」と「受動感情」の違いを理解していてくれないと
いくらぼくが、相手の「能動感情」を引き出そうと企てた所で、
相手が一方的に「受動感情」を呼び起こすだけで
ぼくの干渉が、全て無駄になる。
むしろ逆に、ぼくの干渉は相手にとって、煩わしく、無視に値する物になるのかも知れない。

じゃあ逆に、「受動感情」だけで一般的な「お付き合い」が成り立つのは、どうしてだろうか。
それは「共通行動」を繰り返す事で、限定的な擬似「能動感情」を呼び起こすからだ。
「共通行動」をするには「現実」で近ければ近いほうがいい。
同じ行動を共にする回数が多ければ多いほうがいい。
現実で同じ行動を共にしていれば、行動を共にしている間だけ、お互いの「能動感情」が合致する。
深く理解しあおうとしなくても、思考停止したまま行動さえ共にしていれば問題ないということだ。

旅行やデートやチョメチョメなどの、定型化された行動をお互いに”こなして”いれば
それだけで、ある程度の一体感が得られる。
なぜ一体感が得られるのか?は、
おそらく、強制的な定型的行動によって、僅かながらの「能動感情」が引き起こされるからだろう。
こういう、決まった行動を繰り返す恒例行事を「リチュアル」というらしい。
「リチュアル」とは儀式という意味らしい。

つまり、これは逆にいえば
「お付き合い」を「儀式化する」という事は
「受動感情」しか呼び起こせない80%の人たちをまとめる上で
すごく有効な知恵でもあった。という訳だ。

5あろk:2011/02/17(木) 18:15:14
ぼくが、相手の受動感情に振り回される理由は、おそらく
ぼくが相手を信頼するのは、相手がぼくに「能動感情」を向けてくれたら、という条件付をしているからだろう。
ぼくは最初、相手への行為を「受動感情」を刺激する事で、つまり
相手を受け入れ続ける事で、相手からの信頼を得ようとする。
その信頼によって、相手の「能動感情」が呼び起こされる事を期待していて、
それによって、ぼくへの見返り(積極性)が現れたら
それがボクにとっての「信頼」になる。
そして、相手の「能動感情」に、ぼく自身「能動感情」で答える
というプロセスでありたいと思っているのだと思う。

さらに、ぼくが「男性の扱いになれた女性」に弱い理由も、これで説明ができる。
「男性の扱いになれた女性」とは、自分がどういうエッチな仕草をすれば、
相手の男性が、どう戸惑い、どう行動してくれるかを「仕組化」できている。
つまり、こういう女性は、男性を誘うことに於いてだけ「ブリーフ」と呼ばれる
「行動の手順を形式化したマニュアル」のような物を持っていて、
その「ブリーフ」を引き出し、相手へ誘いをかけるときだけ「能動感情」が活性化しているのだ。
そしてぼくは、相手の女性が「能動感情」(積極性)をぼくへ向けたことで
それが「信頼に足り得る」と判断してしまう。
ここでのポイントは「能動感情」は、お互いを理解し噛み合う行動をするのに
欠かせない要素ではあるが、
「能動感情」そのものが「信頼」と直結するわけではない、という事かもしれない。



今回、ぼくがどんだけ尽くして、相手の「受動感情」を受け入れ続けても
ぼくの欲しい「能動感情」が呼び起こされない、という事でジレンマを感じ、
それが結果的な”見返りが無いことに注目せざるを得なかった”理由だ。

6あろk:2011/02/17(木) 18:35:51
テレビや映画で感動するだけのが、受動感情
本や相手の価値観を問い、「これを、同理解したらいいだろう」とか
「どう活用したらいいだろう?」って考えるのが、能動感情
と言えるかもしれない。まだまだ不完全だけどね。

7「問と答え」と「連想」と「if」:2011/02/19(土) 23:58:56
「予測」で読解に強くなる!ちくまプリマー新書 を見てて気づいた点がある。
この本では、本とは書き手と読み手の擬似対話である、としている。
これは、小飼弾も苫米地英人も同じことを言っている。
擬似対話とは、どういう事か。
それは本の中に問いの手がかりと答えのヒントが入っていて
読み手は、書き手が示すヒントを読み取り、自ら問いを作り、答えを探す。
この過程が擬似対話なのだと。本をヒントにした自問自答のようである。

そこで、活字による対話という事で、掲示板をすぐに連想した。
しかし、掲示板と本では決定的に違う所がある。
それは本が”擬似対話”なのに対して、掲示板は”実際の対話”である、という事だ。

掲示板への書き込みに本的な読み物としての問いと答えのヒントを一方的に書き記すのなら、
掲示板の「返事ができる」という機能が活用されていない。
掲示板では、書き手が問いを投げかける事で
そして読み手が実際に答える事で、本物の対話ができる。

しかし、掲示板に於いても「文章の予測」という意味合いでの「問いと答え」は健在でもある。
まわりくどい説明になってしまうが
掲示板の書き込みに、書き手は問いと答えのヒントを書く。
読み手は、その問いと答えのヒントを元に、書き手が示したい問いを予想し、そしてその答えをも自分で予想する。
そしてさらに、その「問いと答え」の擬似対話で得た、書き手が示す内容に対して、読み手が新しい「問いと答えのヒント」の入った返事を書きこむ。
そのなかで、書き手の予測していないであろう問いや、読み手がわからなかった答えを、保留状態で書きこむ。(これが質問にあたる)
そして、その答えが帰ってくる事が”実際の対話”という事になる。
答えとは、質問の答えや、書き手と読み手がお互いに示す「問いと答え」が一致できている、と確かめ合える事だ。

ここで思ったのは、本の擬似対話と、掲示板の対話を見比べても、
対話において、問いと答えというやりとりがとても大きい割合を占めている、という事だ。
一時期ぼくは、会話に置ける質問の割合をあまり増やさないようにしたほうがいいのかな?と考えた事がある。
それは自分の会話を省みた時、あまりにも「**ってなに?」っていう類の、単純な質問が多かったから。
質問の連続じゃ、話し相手もうんざりしちゃうはず。
だから、質問の数は少なめにするとした。
でも会話から質問の要素を減らしたら、どうやって会話したらいいのか?
自分の感想を述べて、相手の感想を聞く。これがベースになるのかな? とか思っていた。

そして今回わかった面白い点は、その「自分の感想」の中に既に「問いと答え」という形での「質問」が入ってる事だ。
「問いと答え」を自分の中で繰り返した上での「全体像」が感想になるわけだから、「感想」そのものに、既に質問という要素が内側に入っていたのだ。

質問の重要性からもう1つ連想したのが”if!だ。
プログラムの最大の基板はifによって結果を変えられる点にある。
これも、ある種の”言語”に置ける中枢を担う要素だから、会話か、もしくは検証か、いや具体例はともかく、質問に並んでifは会話の中枢であるはずだ。
実際の対話に於いても、しばしば会話を新しい展開へと進めるのは「もし**だったら」という仮定じゃないだろうか。

あとはまぁ、何気ない会話から、まったく関係ない事を思いついたりする連想も、会話の中枢と言えるだろう。
連想は、これまた文章理解の「予測」に必要な「フレーム」という概念を創り上げるのに必要なものだ。
会話の内容から連想して、使える「フレーム」を引き出す、という事らしい。
フレームについては、「予測」で読解に強くなる!を読んでね!
そして、実際の対話の中でうまれる「もし**だったら」という仮定も、会話の「問と答え」から連想される、新しい「問いと答え」という事になる。


質問(問いと答え)と、if(仮定)と、連想。
これらは、会話の中枢要素ではないだろうか。

質問は質問で、子供の頃から「なんで?」を繰り返すと相手を閉口させられるとかで、その要素の重要性を実感していたし
ifだって、ドリフやお笑いにみる「もし、**なお風呂屋さんがいたら」とかで、その重要性を実感してる。
連想は、あの一時期はやったマジカルバナナや連想ゲームは、「連想」という行為がそれだけでゲームになるほど重要な要素だ。
やっぱり、こういった私生活でむき出しに使える要素は、元素的な、物事の中枢となる、キーポイントなのかもしれない。


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