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人知れない(??)頂上超常対決…?

40ダイオウ王国…?:2015/04/16(木) 20:14:02
>仏教の瞑想は二種類あります

>仏教の瞑想修行・修習は二種類あります。止(samatha)と観(vipassanâ) です


>観(ヴィパッサナー)は自分の心身や外界の絶え間ない変化を観察し、その、一瞬ごとに絶え間なく変化生滅し続けている現象を、そのスピードのまま、ありのままに捉えるものです。

>と言いましても、実際には物質の変化は光のスピードで、心の変化はその十七倍のスピードとも言われるほど速いものですから、その変化を始めからありのまま捉えることは到底無理です。始めは必死で変化に追いつこうとして、一つ一つの動きを気づく片っ端から確認、確認、確認していくのです

>アニメを見るようなものです。始めはただ画面が実際に動いているようにしか見えませんし、それによって感動して泣いたり笑ったりしますが、真剣に観察し続けて一コマずつしっかり捉えることができるようになると、生き生きと動いているように見えた現象が、実は止まっている絵を一つずつ見せてくれているだけだと分かるのです

>実在すると思っていたものごとが全て無常で、絶え間なく変化生滅している断片の繰り返しだけだと分かると、頭は冴え、感動して心が揺れ動くようなこともなく

>いつでも平静、冷静でいられます。事実をありのままに捉えて分かってしまうので、観察を終えて日常生活に戻っても「あっ、それはもう分かっていますから結構です」という感じで、無執着・平静でいられます

>この観(ヴィパッサナー)瞑想は、その座ったり(座禅)歩いたり(経行)する作法が「禅定」と呼ばれる瞑想と似ていて、しかもどちらも集中力を要するものですから、観瞑想がよくできる人は一般の禅定もよくできることが多いのですが
>その内容は、視点が全く違うものです。観(ヴィパッサナー)は釈尊が発見・開発された、仏教オリジナルの瞑想法で、瞑想対象の本質を「絶え間なく変化生滅し続ける現象」と捉えます。そこが既に、「全ては無常」と発見した釈尊ならではのものです。釈尊以前の人々には思いもつきませんし、発見もできなかったものです

>仏教以外にも知られている、いわゆる「禅定」瞑想は、止(サマタ)瞑想と呼ばれます。観と同じく必死に集中してものごとを観察しますが、視点が観(ヴィパッサナー)とは全く異なります

>止(サマタ)では、絶え間なく変化生滅し続ける現象を、その生滅する一つずつを次々に観察するのではなく、現象を「変化しないもの」と仮定して
>何か一つの対象だけに集中し続け、そこに心を「留める」のです

>何か一つのものであれば何に集中してもよいのですが、仏教ではその場合も、集中する対象が善いこと・善いものか、欲や怒りを起こさないものであるようにと工夫して、集中してもよい対象を四十種類だけ選んでいます。地要素に集中して土の壁の一ヶ所だけを見つめ続けたり
>慈悲の瞑想をして「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと頭の中をそれだけで一杯にして念じ続けたりします

>集中している間は他の出来事に気を取られていませんので、頭は冴え、心も平静でいられます。でも止瞑想を終えて座から立ち上がり、日常生活に戻ってしまうと、その時の集中感覚もなくなってしまいますので、頭も心も、結構日常レベルに戻ってしまいます。観が一緒に具われば、その心配はありませんが

>止(サマタ)は三昧(samâdhi)とも言われます。止が文字通り「止、滅」を意味するのに対して、三昧(サマーディ)は心を「統一」して「止めること」、また止まった状態を維持する「定」の意味がより強く感じられます。でもどちらもほぼ同じ意味で使われます

>ポピュラーな「禅定」という言葉は、主に禅定全体を一般的に示す場合が多いのですが
>釈尊による禅定の九種類の分類の中では、特に最初の四つ、第一禅から第四禅の禅(jhâna)を指す場合もあります


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