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24大神殿脱出・4:2006/02/22(水) 16:40:42
 じゃあ、貴方も同じよね? あまり、苦しまないで。
 ふわりと微笑む少女の顔を見て、彼女は結局それが言いたかったのではないか、と思っ
た。自分はよほど辛気臭い表情をしていたのだろうかと考えると、少し(否、かなり)羞恥を
感じるが。
 きっと、そうなのだろう。
 奴隷として日の当たらない日々を送っていた中でも、どこへ流されているのかわからない
今この時でさえ、彼女は己にできる事、それを考える事を放棄しない。
 その決意が、生きた瞳という抽象的なものを体現する。
 自分の目に狂いは無かったことが彼は、無性に誇らしかった。

 己にできること。
 彼女のように、それを求めて迷わずに進む事が、自分にも出来るだろうか。
 そうありたいと願う。
 そうあり続けようと思う。
 それを求めるには、流石に今いるこの空間は狭すぎるが。
 どこかに辿り着いたなら――きっと。

 そして、自分には今一番しなければならない事がある。彼はその事にようやく気がつい
て、何となく緊張しながら、彼女に声をかけた。
 きょとんとした表情で、こちらを見つめ返す黒い瞳。
 彼は、自分が彼女の名を呼んだ事も初めてだと思い当った。

「助けに来てくれて、ありがとう」

 慎重に、ありふれた言葉をつむぐ。
 こんな当たり前のことを忘れるほど、自分は余裕がなかったのか。

 こちらこそ、
 ふっ、と口元をほころばせて、彼女は言う。
 ありがとう。私達を信じてくれて。
 過酷な年月を経ても尚、ひとつの曇りもない微笑だった。
 そして少女は――なぜか、そのまま笑い出す。
 何故この状況で。
 彼が眉を顰めるのも、しかたがない。
「……どうした?」
 だって、
 顔を上げて彼女は答える。
 私、『殿』なんて呼ばれたの、はじめてよ。

 …………。

 今までの習慣で、何の疑問もなくそう言ったが、言われてみれば、歳若い女性に対する敬
称ではなかったかもしれない。
「そ、それは……すまない」
 他に言うべき言葉も見当たらなかったので、彼は素直にそう告げた。
 謝らなくてもいいから、と彼女はますます明るい声を立てる。
 その声は、泣いているようにも聞こえた。

 敬称をつけて、自分の名前を呼んでくれること。
 人間として、扱われている証。

 ――そんな当たり前のことが喜びに繋がる、哀しみ。

 ひとしきり笑った後、彼女は呼吸を整えて大きく息を付く。
 二人とも、もうどこかに辿り着いているかな。
「ああ、きっとな」
 少女の呟きに、短く答える。
 今は、祈り、希望を持つ事しか出来ない。
 ……どこに、流れ着くんだろう。
 更に小さく呟き、彼女は膝を抱えて、気を失ったかのように唐突に眠り込む。
 緊張の糸が切れてしまったのだろう。笑うにも、生命力が必要なのだ。
 かすかに寝息が聞こえなければ、誰が見ても死んでしまったかと肝を冷やすだろう。
 無理もないことだと彼は思う。
 今まで休む暇も無い、劣悪な環境で過ごしてきたのだ。
 特に女の身であれば――容姿が優れているなら、男でも同じ事だが――安心して眠る事も
ろくに出来なかったはずだ。
 かすかな寝息。繰り返す呼吸、生きている音。
 遠くに聞こえる波の音。
 潮風に揺れる空間。
 この全身で、感じるもの。
 心の奥に刻まれた暗いわだかまりは、少しも消える気配は無いけれど、不思議と穏やかな
気分だった。
 彼は思い切って、重い兜を外して足元に置く。驚くほど頭がすっきりした。
 反面、その軽さが、亜麻色の髪に触れる冷たい空気が、頼りない。
 でも外気に曝しているうちに慣れるだろう。
 彼もまた小さく息を付き、瞼を閉ざす。

 ――不安になっている暇など無い。

 どこに流れ着いても、その先に何があっても。
 この繋ぎとめた生、肌寒い自由を、いかに意味あるものにするのか、
 それが、今の自分にできることなのだろうから。
 具体的には、どこかに辿り着いてから考える事にしよう。
 たぶん、人はそれを行き当たりばったりと呼ぶのだが、それは言わない約束で。
 とりあえず、まだあてもなく漂い続ける今は、願おう。
 彼女の、安息を。



(了)


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