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リレー小説・サクラ大戦乙女版〜新たなる夜明け〜

1名無しさん:2005/08/08(月) 20:24:02
設定スレに基づいて乙女版をリレーで書き寄せるスレです。
帝國華撃団若葉組の活躍を皆で綴りましょう。
設定に関する質問・相談は設定スレで。

乙女版の設定を考える
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/game/17167/1094779110/

2<削除>:<削除>
<削除>

3名無しさん:2005/08/10(水) 17:21:20
 太正の世に、人々が夢見、足を運び続ける所があった。
 東京は銀座にあるその名を、大帝国劇場という。


 不意に吹きつけてくる風に、少女は髪を押さえて顔を伏せた。止んだのを
待ってから、顔を上げる。
 目の前には、薄紅が乱舞していた。
 辺りには華やぐ季節に喜び、騒ぐ者たちの声が響く。空は青く澄み、争いや
悲しみなど、彼女を取り囲むどこにも見当たらない。
 全ては、一面に咲き誇り、舞い散る花の為に起きたことだ。
 花。そこまで思いを馳せたところで、少女は微笑んだ。彼女の名が、まさに
この花と同じ響きを持っているからだ。
 佐倉灯、それが彼女の名だった。
 自分と同じ名の樹に囲まれ、彼女は自然と華やいだ気分に包まれていた。
(良かった、早く来て、かえって正解かもしれない)
 彼女は、これから彼女が新しく過ごす場所へ向かっているところだった。
時間に遅れないようにと気が急いたあまり、思ったよりかなり早く目的地に
着きそうになっているが、そのおかげで思いもかけず、桜の花をゆっくりと
眺める機会に恵まれた。
 新天地に向かうにあたり、念入りに洗ってきた髪はいつにも増して一筋の
乱れもなくまとめ上げ、制服も折り目正しく汚れのないよう、丁寧に
手入れしてきたものを着ていた。いささか固い印象に整えた外見も、この宴の
中では無理なく溶け込んでいるのか、誰もが一人で歩いている彼女に優しい
まなざしを向けてくれる。
 そうして平和の中を進む内に、逆に灯の気持ちは、ここまで来る事になった
経緯と、これからの任務の重みとに、気が引き締まる思いでいた。
(新設された特務部隊の、隊長、か……)
 自分を任命した人は、彼女ならやり遂げてくれる、と強く主張してくれたそうだ。
(なら、私はそれに応えよう)
 この人々の喜びの為に。
 改めて気持ちと共に服を直した彼女は、その舞い散る花をくぐり抜けた先に、
目指す建物があるのを認めた。

4名無しさん:2005/08/19(金) 22:35:33
 そのたたずまいに、灯はしばし見とれていた。
(凄い……)
 今、通りを挟んだ反対側の歩道にいる彼女の位置からでは、ゆうに両手を
広げてなお余るほどの建築物である。しかしその姿は見る者を圧倒するのではなく、
どこか招き入れようとしているかのような優美さもまた持っていた。
 大帝国劇場。建築されて数十年、その開演される数々の演目の華やかさと
共に、東京の中心、名所の一つとされ続けている。
 門は大きく開け放たれており、人通りが絶えなかった。
(休演中なのに……そうか、売店や食堂は開いているんだ)
 車道を気をつけて渡りながら、彼女は現在の劇場の日程を思い返していた。
それを記憶から掘り返すのは、呆れるぐらい簡単だった。
 ずっと、憧れ続けたところだ。こんな形でその中に入るとは思っても
みなかったが。
 人々に混じって中に入る直前、もう一度、建物を見上げた。そして真っ直ぐ
前を向くと、その懐へと吸い込まれていく。
 ロビーはその広さにふさわしく、多くの人々が思い思いに行き交っている。
入り口の陰に立ってよく見ると、流れは出入り口へと去っていくもの、
売店らしき所へ向かうもの、通路の奥へと去っていくもの、に分かれていた。
 更に周辺を見回してみる。すると少数の人達が、ロビーの角へ向かっていた。
灯のすぐ側にあったそこは「受付」とあり、眼鏡をかけた男性が応対している。
穏やかで親切そうな声が、彼女のいる所からも聞こえている。
 あそこだ。灯が、客が礼を言いながらその前から去っていったのを見計らって、
次は自分が受付へと向かおうとした時だ。
「久木君、ちょっといいかしら」
 別の人が、先に受付の人に声をかけてしまった。思わずその人の方へ目を
向けた灯は、そのまま動けなくなった。
 柔らかそうな髪は金色に輝き、整った顔立ちの中でも青色の大きな瞳が
印象的な女性だった。すらりと伸びた背丈といい、まるで西洋のおとぎ話に
出てくるお姫様のようだ。
 しかし、灯が驚いたのはその容貌ではなかった。そんなに綺麗な人が
歩いているのに、灯の他に誰もこの人の存在に気付いた様子が、全くない事だった。
 二人はそのまま話を続けていて、その内に驚きもしずまった。次こそ声が
かけられるように、と、話が終わるまでともう少し近寄っていくと、女性の方が
先に灯の存在に気付いた。彼女の方を向くと、声をかけてくる。

5名無しさん:2005/09/01(木) 14:14:23
 久木、というらしい受付の人との話を手で止めて、その女性は灯の側まで
やってきて、微笑みかけてくる。そこではじめて、その人が誰なのかに気付いて、
灯は自然と直立していた。
「失礼。佐倉灯さん?」
「はい!」
 長年の癖で、声を張り上げる。
「召集により、本日、参りました、乙女学園卒業生、佐倉灯です。お手数ですが、
支配人にお取次ぎ願います!」
 言い切ってから、女性に視線に気付いて周囲を見回してみると、客達が
彼女の大声に目を見張ったり、「あの制服、やっぱり乙女学園の生徒さんのよ」
とささやいたりしている。顔に火が上った。
「はい、了解しました。元気な挨拶ね」
 何となく、「よくできました」とその後に続きそうだった。だが、不快ではなかった。
 女性は、その白い手を差し出した。
「ようこそ、帝国歌劇団へ。副支配人のアイリスです」
「よろしくお願いします。……あの、失礼ですが、花組にいらっしゃった
アイリスさんとは」
「同一人物よ、覚えている人がいたなんて嬉しい」
(覚えているも何も!)
 手を離しながら、余りの事に口が開け放しになりそうなのを必死でこらえた。
 花組団員としてをその初期から支え、帝都中、いや日本中に名を馳せ、
ほんの数年前、惜しまれつつ引退した人だ。灯はその時のプロマイドも持って
いるのに、側で観察するまで全く気付かなかった。
 容貌は大きく変わった様子はなく、むしろより花開いた印象があり、客の中には
灯どころではない思い入れを持つ人も大勢いるだろうに、本当に誰も気付かなかったのか?
 灯の驚きを感じ取ったのだろうか、かつてのスターは、茶目っ気たっぷりに
片目をつむって見せた。
「今の私は団員を支える役目ですもの、ならそれに徹しないとね。
では、そろそろ行きましょうか」
「どこへですか」
「もちろん、支配人室よ」
 ついてくるよう手で示され、灯はその後ろ姿を懸命に追いかけた。まず
アイリスは受付の人に、何事か話すと、
「灯さん、受付の久木君よ。久木君、こちらが佐倉灯さん」
「佐倉さんですね、初めまして、受付の久木です。大帝国劇場へようこそ」
 眼鏡をかけ直しながら、挨拶してきた。穏やかそうな眼差しに、今度は
落ち着いて挨拶を返せた。
「行き先で迷われたら私の所へどうぞ。また、後でお会いしましょう」
「ありがとうございます」
 そうしている内にまた別のお客が受付までやって来たので、二人は久木に
見送られつつ、人の絶えないロビーを後にした。

6名無しさん:2005/09/02(金) 13:50:43
 食堂の脇を通ると、そこもまた、人で賑わっていた。その先をもう少し進むと、
関係者以外立ち入り禁止の区画に入る。
 支配人室は、その区画に入ってすぐの所にあった。
「支配人、佐倉さんをお連れしました」
 アイリスがノックしてからそう呼びかけると、なにやら中から慌しい音がする。
緊張で全身が固くなっていた灯も、不審で思わず少し力が抜けた程だったので、
副支配人の抱いた疑惑は、彼女の比ではなかった様子だ。
「どうかしましたか?」
「いいや、どうぞ入ってくれ」
 返ってきた答えは、どう聞いても声が裏返っていたが、声の主の部下は
そんな事も全く気にした様子はなく、扉を開けた。
 通された部屋は、最低限の装飾が施されていた。とはいえ正面にある机を
はじめとして、一つ一つは重厚な造りのもので、主の確かな趣味のよさを感じさせる。
 その机の向こうに座している人の姿を確かめようとして、灯は唾を飲んだ。
ここへ来る前、その経歴は聞かされている。
 年齢は灯の倍はある筈だが、元来の顔の造作に内面から来るものが加わって
いるからなのか、ずっと若く見えた。とはいえ尋常の人ではない事は、その
顔つきと、服の上からとはいえ、体格を見れば分かる。
 この人こそが、大帝国劇場支配人にして帝国華撃団総司令長官、大神一郎だ。
 と、そこまで観察してから、灯は何かがおかしい事に気付いた。それが何かは
すぐに分かった。シャツの襟が曲がっており、ネクタイは一方の端が長く伸びすぎて、
机の上に載っている。
「支配人」
 アイリスが声をかけながら、首元で何かの仕草をしているのを感じた。横に
いたので灯にははっきりと見る訳にはいかなかったが、大神がそれにより自身の
首元に手を伸ばしたので、理由を掴むのは容易かった。首元のボタンも一つ、
はまっていなかったのだ。
 更に、灯からは、机の陰に隠れて床に落ちている物品に気付いた。先程、
それに似た服を着ていた久木の姿を見てきたので、劇場の従業員の制服らしい、
のは理解できた。できたが、
(どうして支配人が?)
「よく来てくれたね、佐倉君」
 声をかけられて、灯は我に返った。手が敬礼の形をとる。
「はい、乙女学園卒業生、佐倉灯です。帝国華撃団若葉組隊長の任を受け、
出頭いたしました」

7名無しさん:2005/09/09(金) 00:26:49
「着任を許可する。……ではすぐに任務についてもらおうか。内幕はおおむね
理解しているね」
「はい」
 灯は即答した。
 帝国歌劇団は、二十年以上もの間、少女歌劇団として、日本のみならず
世界中から逸材を集め、歌劇を上演してきた。その裏にはいくつもの秘密があるのだ。
 まず、歌劇団に集められる少女は、霊力という、精神的な力とでもいうべき
ものが、人より優れた者、秀でる可能性のある者が選ばれる。そして、そうした
彼女達の歌劇は神楽となって、魔の波動から帝都を防ぐ役割を果たすのである。
 そして、帝国華撃団だ。
 霊子甲冑による都市防衛、そして魔との戦闘を任務とした、陸海のどちらにも
属さぬ秘密部隊こそが、帝国歌劇団の真の顔だった。かつては。
 現在、帝国華撃団としての活動は、花組、風組、月組、夢組、雪組、薔薇組、
……いずれも行っていない。
 目の前の人、大神一郎が、凍結を命じたからだ、と聞く。
 日本においてこの十数年、魔のものは現われず、霊子甲冑の必要性は薄れて
いたからだ、とも、軍の上層部から圧力がかかったからだ、とも言われているが、
真相は灯は知らない。
 その凍結が、解かれた。それも新しい組を誕生させるという形でだ。
 新しい組の創設を灯が聞いたのは、灯がまだ乙女学園にいた頃の話だ。
それから、本当に遠い所へ来てしまった。
 灯の返答に、大神は満足そうに微笑むと、口を開いた。
「よし、では、早速取りかかってもらおう。はい、これを受け取って」
 渡されたのは、女物の服だった。広げるまでもなく、灯に合うものらしい
事は分かる。この服も見覚えがある気がしたが、畳まれたままでははっきりとは
思い出せなかった。
「まず、事務室へ行って書類上の手続きを行ってもらう。その後で自分の部屋へ
むかい、着替えたら食堂へ行って、担当の支持を仰いでくれ。担当には既に
話をしてある。何か質問はあるかな」
 今後、劇場に住み込む旨は事前に言い渡されていて、準備はして来ているので
その点に関する不安はあまりなかった。あるのはもっと他の、些細な事だ。
「劇場は初めてなので、まだ配置を把握していません。事務室と、私の部屋の
場所を教えていただけませんか?」
 そう質問したところで、背後でノックする音が聞こえた。

8名無しさん:2005/10/03(月) 16:00:38
「失礼します。支配人、先程頼まれた書類を持って参りました」
 入って来たのは、灯とほぼ同い年だろうか。厚手の書類を脇に抱えた様は
やや灯より背は低く、肩にかかる程度のところで切っている黒髪が、着ている
和装と相まって、可愛らしく装っている少女だった。大神に向けられていた
やはり黒い瞳が、灯をとらえるといたずらっぽく輝いて、親愛を示す風に
瞬いたが、すぐにまた大神に戻る。
「ありがとう、受け取らせてもらうよ。灯君、こちらは事務の春日みずき君だ、
開演時には来賓の案内役もしてもらっている。みずき君、そちらが新しく
入って来た、佐倉灯君だ。淡海君の下についてもらうから、君が案内してくれないか。
灯君もそれでいいかな」
「はい、お願いします」
「分かりました、お任せ下さい」
 挨拶を交わした後、では早速、という事になり、首を巡らすと、一緒に
移動するだろうと思っていた副支配人は、軽く手を挙げた。
「私は支配人と話さなければならない事があるから、ここで失礼させてもらうわ。
みずきさん、灯さんをお願いするわね。灯さんもしっかり」
「副支配人もしっかりお願いします!では!」
 灯の返答は、みずきのそれにかき消されてしまった。荷物を抱える灯の腕を
むんずとばかりに掴むと、部屋の外へ引きずり出されかけた。
「ちょっと待った、もう一つ、渡す物があった」
 大神が悠然と二人の前に進み出た。骨組みのしっかりとした手が、灯の一回り
小さい手を取り、丸い、金属製の物体を握らせた。
「この劇場が出来た時、記念に作られたものの一つだ。点検してもらっているから、
動作に心配はいらない。まず時間に正確であれ、だ、使うといい」
「はい、ありがとうございます」
 懐中時計には、直前に持っていた人の手の熱がまだ残っていた。近くで見る
支配人の顔は、ただならぬ生を送ってきた人の持つ何かが刻まれていたが、
それでも微笑んでいる。それは側にいたアイリスも同じだった。
(私もこの人達のようになるのか……)
 奇妙な気分だった。気分の高揚はないが、不安も消えてしまった。
 気分は、目の前に扉が現れた事で立ち消えた。腕を組んでいる人が部屋から
出してくれて、扉まで閉めてくれたのだ。そう気付いてそちらを向くと、
屈託のなさそうな笑みとぶつかった。

9名無しさん:2005/10/05(水) 21:36:02
「よろしくね、佐倉さん!近い年の女の人が入ってくれて嬉しい。良かったら
わたしのことはみずきと呼んで。佐倉さんはどう呼んだらいい?そもそも
こういう話し方、嫌かな」
 一度、腕を取られていた手が離れると、今度は手を握られ、勢い良く上下させられる。動作の一つ一つが見かけよりずっと力強いが、好意しか感じられない。こちらからも軽く握る。
「構わないから。では、灯、で」
「分かった、じゃあ灯、まずはこの建物の案内からね。大丈夫、面積は広いけれど、
配置は単純だから」
 では早速、と手がどこかを指し示そうとした矢先、
「何を考えているんですか!」
 と声がして、気をそがれたのか宙をさまよう結果となった。
「いけません、手伝うなら支配人としてやって下さいと約束したじゃないですか。
それを、わざわざこんな物まで引っ張り出して」
「ごめん、アイリス、体が勝手に……」
「私、怒らせてもらいますから。これは没収です!」
「それだけは後生だから許してくれ、俺の思い出なんだあ」
 自分でもそうと分かる程、灯がぎこちなく首を動かすと、みずきは目に見えて、
先程より笑顔が生き生きとなり、輝く瞳を支配人室へと向けている。
「うんうん、もっとやって下さいアイリスさん。でも、先々月のあれをもう一回
やってもらうには、支配人のおいたがあの時ほどじゃないからな」
「先々月、何があったんですか。……ではなくて、一旦ここを離れましょう。
盗み聞きはいけません」
「それもそうか。了解」
 ささやき合いながら、並んで、一目散に支配人室からの声が届かぬところまで
逃げ出した。角のところで一息つくと、気を取り直す。
 灯が、とりあえず、事務局、彼女に用意された部屋、そしてそして食堂へ
向かわなければならない旨を伝えると、みずきはすぐにそれに合わせた案内を
してくれる。その屈託ない話し方に、灯も自然とくつろいだ口調になることが出来た。
「舞台裏と地下へは今は立ち入り禁止だから案内は後日という事で。こちらは
見ての通り、中庭への入り口」
 廊下の片側は窓が連なっており、よく手入れされている草花がその向こうに
広がっている。
「綺麗に手入れされているのね」
「時々、職人の人に来てもらっているけれど、毎日の水遣りとかは皆でやってる。
ちゃんと分担をこなしていると慣れてきて、皆、自分の好きな花を植えたりする
ようになってね。ほら、そこのアラセイトウ、わたしが植えたんだ」
 八重の花が、すっきりと伸びた茎の上の咲いている。草も青々としていて、
生気に満ち溢れていた。みずきが丁寧に育ててきた証拠だ。
 灯がそう誉めると、元気の良い礼が返ってきた。
「灯も何か植えるといいよ。花以外にも、あちらの少し隠れた所に菜園もあるから、
野菜も植えられるし」
「そうね、まずは水遣りの手伝いかな」

10名無しさん:2005/10/27(木) 21:21:40
 そうこう言っている内に二人は事務局の前に着いた。扉は開け放たれており、
近づいていくと何か、声が聞こえてくる。しかもまた、事務的な口調のそれではない。
「そらシロザ、いい子だ、これが終わったらかまってやれるから、もうしばらく
大人しくしてるんだ」
 男性の声だが、まだ耳にしたことはなかったものだ。言葉は愛情に満ちたものだが、
どうして声自体は陰気なものに聞こえるのか。
 みずきはそんな声を全く気にすることもなく、さっさとその中へ入っていく。
灯も導かれるようにそれに続いた。
「さあ、入って!ここが私の事務局。整理整頓にうるさいのが三人もいるから
いつでもすっきりしてる。一人はわたしなんだけど」
 着物の揺れる裾がしずまる間も与えず、側のカウンターから身を乗り出す。
その向こうには、書類らしきものをめくっている一人の青年が居た。
 制服を正しすぎるぐらい折り目正しく着ており、背もぴんと張ったまま
微動だにしない。横顔を伺うと、なるほど、先程の声の主である事がすぐに
分かるぐらい、厳しい表情をしている。
 側には、白色の大きな犬が尾を振っていて、みずきの視線はその犬に向けられていた。
「シロザ、まーちゃんの相手をして疲れたでしょ、こっちおいで、陰気が
うつったら大変」
「その言い草は何だ、春日?そちらの人の前で今戻ったの一言もなしか、失礼だろう」
 手を止めると、その人は立ち上がってみずきを睨んだ。
「大体、まーちゃんなどと呼ぶなと、何度いったら分かるんだ」
「まーちゃんはまーちゃんでしょう、槇郎だからまーちゃん」
 まーちゃん、いや槇郎の一言も、さらりとかわす。そんな空気を読めていないのは、
一匹だけだった。みずきの声に反応するようにして、あっさりと大浦の下を
離れてみずきと灯の側へ来る。
「紹介するね、灯。こちら、歌劇団の職員からは一、二を争う人気者のシロザ。
それから事務を担当している大浦槇郎」
 灯も同じように紹介されると、槇郎は一瞬、片手を上げかけて、
また下ろした。代わりに角度も正しく腰を曲げ、頭を下げてくる。
「大浦だ。短い間の付き合いになると思うが、よろしく頼む」
 返礼しながら、灯は相手の視線がちらり、ちらりと別の方へ注目するよう、
支持している気がしてそちらを見ると、明かりの足下にシロザが寄ってきて、
彼女を見上げている。軽く目礼してから、灯はしゃがむとその頭を撫でた。
「佐倉灯といいます、仲良くしてね」
 心の底から嬉しそうに尾を振るシロザの姿を見ている槇郎の表情も、少し
和らいだように見える。もしかしたら、彼も見かけによらず話しやすい人
なのかもしれない。少なくとも、あんなに礼儀にはうるさいのに、自分より
先にシロザを紹介されても何の不満もなさそうな所を見るに、相当の犬好きである。
「じゃ、挨拶も終わったところで、手続きをしようか」
「書類を持ってこよう。ところで春日、水無瀬の姿が見えないんだが」
「また?見てない。みーさんというのは事務の新人」
 後半は灯に向かっての言葉だった。
「何で新人がさん付けで俺はちゃん付けなんだ」
 言いつつ、書類を持ってきた槇郎は、
「では、一通り読んでからこちらに署名してくれ。内容はきちんと読んでおいた方がいい」
 と説明してくれ、灯の理解しにくい書類上の言い回しも嫌がるでもなく、
みずきも加わり二人がかりで丁寧に教えてくれる。そのお陰もあって、心から
内容を理解して署名できた。
「では早速、淡海さんのところへ連れて行くから、もう行くよ。まーちゃんもお仕事しっかり」
「お前がそうやって茶々を入れない限り、俺は手を止めん」
 挨拶を交わし、出て行こうとして、また、シロザが足にじゃれついてきたので
立ち止まる。思わず、槇郎のほうを見ると、一瞬だけだが表情を変えたので、
「ほら、大浦さんの所へ行っておいで」
 するとシロザはあっさりとその通りに槇郎のところへ駆けていった。
何の未練もあったものではない。槇郎はシロザがまといついてくるままに
任せていたが、ふと灯の方に顔を戻すと、
「ようこそ、人外魔境へ」
 と言った。

11名無しさん:2005/10/29(土) 01:46:46
 灯は瞬きした。どういう事かと問い尋ねる前に、側の人が雷光の動きで槇郎の
懐へ飛び込んだ。その右手が腹へと吸い込まれていく。
「無礼はどっちだ」
 確かに灯は、槇郎の身体が数寸は浮いたのをその目で見た。
 その威力の程は、手を側の壁についたまま動かない姿からも明らかだった。
「……大浦さん、大丈夫ですか?」
「いいのいいの、加減はお互い分かっているから。だよね」
 それでも側までいくと、叩いた箇所を簡単に調べてから灯のところへ戻ってきた。
それでも心配だったので二、三、声をかけてみると、槇郎が早く去るようにと
言うかのように手を振ったので、
「やっぱり無理なようなら、診てもらって下さいね」
 とだけ声をかけてその場を去った。シロザも側にいるから、多分無事だろう。
 外へ出ると、再び長い廊下を歩き出す。みずきの様子を見てみると、
うつむきがちで、口を閉ざしている。やがて、灯が自分の方を伺っているのに
気付いてくれて、微笑みかけてくれた。
「まーちゃんの言ってた事、気にしないであげて。ちょっと今、いじけてるから。
言い訳にはならないか」
「気にしてないよ」
 嘘だった。というよりどういう意味なのか、全く分からない。気にはなるが、
深刻に考えてはいないのでそう返した。
 灯の真意に気付いたのかそうでないのか、みずきは急に話題を変えてきた。
「ねえ、お客さんに、素敵な人はいなかった」
「え……皆さん、素敵な笑顔だった、というのは駄目よね」
「駄目。今度から、見つけたら教えて」
 両手を握られて正面から頼まれたのでは、断りようがない。灯が「分かった」
と頷くと、「やった」と拳を握ってもいる。
 そうして階段を上り、二階の住居空間に入った。まず図書室を軽く見せてもらった。
小規模ながら、様々な国や種類の本が揃っていて、学習や調査には良さそうだ。
「で、あちらが今度入ってくる、若葉組の人達の部屋」
 みずきがそう言って示した、今は照明を落とされているその先の廊下に目を
凝らす。すると、自然と胸が熱くなる。
(これからここに人が来て……私の仲間になるのか)
「若葉組の人達は、いつ来るの」
「それは、わたしも良く知らされてないんだ。公演も近いからもうすぐだろうけど。
気になる?」
「気になる」
 冗談交じりで問われたのに、自身も思ってもいなかった位に真剣に答えると、
「行こう、次に案内して」
 と促した。みずきはどういうことか、より満面の笑みになって、二階客室通路と、
その手前のサロンへと導いてくれる。
 そして、その側の扉の前で、足を止めた。
「で、ここがお待ちかね、灯の部屋」
 取り出した鍵で扉を開けると、「どうぞ」と手で示す。
「最低限のものは一通り置いてあるけれど、何か足りない物があったら
遠慮なく事務に来て。まあ、装飾関係は皆、私物を勝手に持ってきて済ましてるか」
 鍵を受け取ると、中へ入る。既に雨戸は開けられており、一度、窓を開けたのだろう、
空気はこもっていない。
「じゃあ、わたしはそこで待っているから、荷物を置いて、着替えておいで」
 みずきは手を振って、扉を閉めてくれた。振り返しつつ、一人きりになると、
改めて部屋の中を見回し、
「よし」
 と、部屋に上がって、荷物を紐解いていく。

12名無しさん:2005/11/10(木) 16:42:54
 時間が無いので、本格的な整理は後回しにする。何を持ってきたかは
把握していたので、今後要りそうな物、欲しい物を手早く頭の中に叩き込む。
写真立てを机に置く。
「素敵な人、か」
 写真を眺めながら、ふと漏らす。
 灯にも一応、素敵な人というものがどういう人なのかは分かっているつもりだ。
故郷を離れて帝都まで来たのも、元はといえば近所にいた兄代わりの人が、
帝都へ去ったからだった。
 もう、随分と会っていない。上京した直後に送った手紙の返事で、人を守る
仕事に就くので時間が出来たら会おうとあったが、灯自身が寮暮らしということも
あって、結局連絡を取らずじまいだった。
 その人が上京した頃には幼いながらも憧れていたつもりだったが、時間が
経つにつれ、それが本当は家族への情だった事に気付かされた。だが、灯が
帝都を目指すきっかけになってくれたのは確かだ。それについてはとても感謝している。
 そして、分からなくなった。素敵な人は現れても、彼女の心を揺さぶるような人は、
存在するのだろうか。
 気付くと、畳の上に寝転んでいる。天井の模様が、そんな事をしている場合では
ないと教えてくれたので、慌てて身を起こした。
 最後にと取って置いた着替えに入る事にする。ふわりと、畳まれていた服を
広げると、「わあ」と、何とはなしに沈んでいた気持ちが華やいだ。同時に、
これを受け取った時の疑問も氷解した。
 食堂のウェイトレスの服だった。黒色の、飾り気の無いワンピースに、
白いブラウスと、エプロン、カチューシャと、全てが一揃えとして作られたのが
よく分かる。
「かわいい……」
 自然と顔がほころんだ。元々、綺麗なもの、かわいいものへの好きが高じて
帝国歌劇団の存在を知り、目指していたのだ。これから何をするのかは分からないが、
こんな服を着られるのならどんな事でもよろこんでやれそうだった。
 というところで、何かを聞き逃しているのに気付いたが、何だったか。
 気を取り直して身につけてみると、大きさも大体合っていた。姿見の前で
一回転して点検してから外に出る。
「お待たせ」

13名無しさん:2005/11/12(土) 00:31:52
「早かったね。あ、似合う似合う」
 駆け寄るなり、灯の周りを一周しながら、みずきはそう誉めてくれた。
「じゃ、食堂に行こう。場所は分かるよね。……あ、ちょっと待って」
 その目が、窓の外の何かに止まると、次の一呼吸の時にはその窓を開けて、
身を乗り出していた。
「みーさん!そんな所で何をしている、仕事に戻れ!」
 予想外に腹の据わった声に驚きながら、危ないので後ろから引っ張ろうと
窓の側に近寄ると、確かに中庭の木々の間に、男性らしき人が一人いる。
どんな人だろうと確認する間もなく、その人は建物の陰に入ってしまったので、
よくある黒髪の髪型と、男性としても中肉中背の背丈しか分からなかった。
「まあいいか、ふーちゃんがねちねち説教するだろうから。ごめんね灯、話を止めて」
「いいよ。あの人が、もう一人の事務の人?」
「そう、水無瀬柳二。入って来たのはこの前だから、灯が来るまで一番新人だった。
仕事はちゃんとやってくれるんだけど」
 だけど、時々、予告も無しに事務局を抜け出し、中庭をうろついているのだろうか。
無事床に着地したみずきがそれ以上、今は言う気はないようなので、灯も詮索しない事にする。
「食堂に行こう」
 と言うと、あっさりと頷いてくれた。
 食堂はやはり、先程目にしたときと同じく満席だった。遠方で、ウェイターと
ウェイトレスが一人ずつ、くるくると働いているのが見える。そちらへ行こうとしたところを、
「灯、そっちじゃない、こっちこっち」
 みずきに呼び止められた。その示しているのは、すぐ横にある厨房である。
そちらへ移動すると、入り口に一歩入っただけで熱気と怒号に近いぐらいの
声の飛び交いが彼女を迎えた。そうした空気もどちらかというと心惹かれるものを
覚える灯は、みずきの招くままに、厨房の奥へとワンピースの裾を翻らせる。
 みずきが止まったのは、コックの一人で、小鍋からソースらしきものを
皿にかけている人だった。その後姿が目に入った瞬間、我知らず、胸が高鳴って
いくのを感じた。はたして、その背にみずきが声をかける。
「あーさん、ちょっといい?新人の子連れてきた、支配人があーさんの下に
つけると仰ってる」
『淡海君の下につける』
 あーさん、という言葉に、灯は、支配人の言葉を思い出した。
(まさか……)

14名無しさん:2005/11/12(土) 00:33:29
「よし、五番テーブルの皿があがった。……新人寄越すならもう少し暇な時間に
しろって支配人に言っとけ。……ん?今日何日だ?」
 振り返ったその姿は、濃くは無いが定規で引いたように真っ直ぐな眉の下に、
やはり切り上がった様な一重の目を持つ、肩幅のしっかりした男がいた。
皿を渡している右手の指先に傷跡があるが、灯はそれが、剣を扱った時の事故に
よるものだという事をよく知っている。その現場に居合わせたからだ。
「蓬介兄さん?」
 灯がそう呼びかけると、男は灯の記憶どおり、大口を開けて笑った。
「灯じゃないか!前会った時よりまたでかくなったな、いい事だ」
 力強く、人の肩を掌で叩いてくれる。
「何だ、二人は知り合い?」
 みずきが問いかけてきたので、
「故郷ではご近所さんだよ。九九とオイチョカブを教えたのは俺だ。なあ?」
 と、男、いや蓬介兄さんこと淡海蓬介は、そう言って肩をぐっと握って
揺すってきた。しばしされるがままだった灯は、我に返るとその腕を掴んで止めさせた。
「待って、兄さんは人を守る仕事をするんだって手紙に書いていたじゃない、
どうしてこんな所にいるの?」
「気が変わってな、人の胃袋を守る方に興味が移ったんだ。それからはここを
任されるまで一直線だ」
「そんな……」
(兄さんの、夢を追う姿勢に憧れて上京を目指した私はどうなるの?)
 しかし、考えてみれば灯自身、その「こんな所」で勤めようとしている以上、
人の事をいえぬ立場である。それに、蓬介の生き生きとした表情を目の当たりにして、
何を言うというのか。
 蓬介は、灯の心境を、昔と同じく全く察した様子も無く、もう一度、肩を
叩いてからようやく解放してくれた。
「よし、俺の下につけたという事は好きにしていいんだろう。今からお前は
ウェイトレスとして働いてくれ」
「ウェイトレス……」
「何だ、嫌か」
「まさか」
 首を振りつつも、華撃団の任務はどうなるのだろう、という疑問は消えない。
(人外魔境)
 槇郎の言葉が浮かんで、消えた。蓬介は頷く。
「そうか。一つ言っておく、仕事中は公私は分けろ、兄さんはなしだ」
「じゃあ、お兄様?」
 茶々を入れたみずきの額に黙って手刀を入れると、「人の美点を傷ものにするな」
との抗議も無視して、
「といっても、料理長という言い方も仰々しくて好かない。淡海さんでいい」
「分かりました、淡海さん。よろしくお願いします」

15名無しさん:2005/11/12(土) 23:22:21
「ああ、頼んだぞ。それじゃあ早速、お前の同僚を紹介するか。八橋!来てくれ」
 食堂との境は、カウンターの状態となっている。その向こう側に姿を現した
黒い影に向かって、蓬介は叫んだ。影は、
「はい、何よ」
 間延びした声を返し、こちらへ回って来た。最初、声と影に違和感を覚えたが、
現れた姿を見て、その理由が分かることとなった。
 灯と同じウェイトレス姿のその人は、しかし背丈は全く彼女と違って女性と
してだけではなく、男性の中に混じっても突き抜けて高い。それなのに肩は
撫で肩で、足も長い。
(学園に来ていたら、男役として映えただろうに)
 はじめはそう考えていたが、近づいてくる人をよく見ると、自分の認識が
間違っている事が判明した。歩き方も一本線の上を滑るようだったので見逃していたが、
女性にしては腰の辺りがしっかりし過ぎており、他の骨格もたくましく、
顔の造作にしても眉は太く、他の各所も随分と大きい。
 しかし、薄く施された化粧も、立ち居振る舞いも完璧なので、ウェイトレス姿が
不思議と自然に思える。
「なあに?またすぐに注文が来るでしょうから、早くしてくれない」
 と言った声が、明らかに男性の低いそれだったとしても。
 蓬介は、その人の要望に応えて、極めて手短に済ませた。その人と灯とを手で示すと、
「佐倉、これはウェイトレスの八橋照葉。八橋、新しく入った佐倉灯だ。
うちでウェイトレスをやらせるから、名草と一緒に一通り教えてやってくれ。
では、俺は用事が出来たから」
 そう言って、三人に背を向け、側の別のコックに何事か告げるとさっさと場を去っていく。
「待ちなさい、あんた、人に仕事を押し付けるな!」
「まあ、頑張れよ佐倉」
「言い訳ぐらい言え!」
 そんなものはなかった。昔から、その逃げ足がとどろき渡る悪童だった蓬介である。
大人になって、歩きであったとしても尚、その早足は健在であった。厨房から
姿を消すのに、いくらもかからない。
 照葉は、そんな蓬介に向かって、灯には意味が分からないがその口調で
罵倒と分かる言葉をいくつかぼやいた後、その頭を勢いよく動かし、
「ほら、あんたもとっとと出てきなさい」
 大仰な動作で手を振る。自分に向けられたものかとひるみかけたが、
その手の先にいた人が、「そうだね」と相槌を打ったので、すぐに違うと分かった。
「そろそろ久木さんと交代の時間だから、一度事務に戻る。灯、また休憩の時にでも会おう」
「ええ、案内ありがとう」
 みずきは微笑みと共に数歩、去りかけた。が、そこで立ち止まり、こちらを振り返る。
「てっちゃんのごつさに負けないようにね」
 自身の足もなかなかのものである事を、みずきは壁の陰に入る数秒で証明してみせた。
横の人は側においてあったものを掴みかけたが、気を取り直したのか、
代わりに笑うのを隠さないコック達を睨みつけつつ、手を引っ込めた。
「まったく、皆、子供ばかり。大人の女はあたしだけね。さて」
 初めて、照葉の目が灯をとらえる。その視線が遠慮なく髪先から足下まで
向けてきたので、思わず学園で仕込まれた通りの直立を披露してしまった。

16名無しさん:2005/11/15(火) 22:02:41
 もう一度、見回してきてから、照葉は口を開いた。
「背筋は教える必要なしのようね。佐倉灯さん?給仕の経験は」
「ありません」
「発声も悪くない、と。見ていたから判ってたでしょうけど、今は基礎を
教えている時間がないわ。テーブルの清掃と設置をやってちょうだい」
「分かりました、八橋さん」
「違うわ!」
 手を大きく振って、こちらの返事を低く張りのある声で遮った。コックの
誰かが、「待ってました」と声をかける。
 頭上を見上げ、
「そこ、ずれてね、はいありがと」
 と光がもっとも当たる場所まで移動すると、照葉は大きく両手を広げた。
大ぶりの瞳が光に照らされて輝いている。
「あたしのことは、ね・え・さ・ん、と呼びなさい。それ以外は許さないわ」
「了解しました、姐さん」
 即答すると、厨房が一瞬、静まり返ってから、「おお」と何故か歓声が
上がった。全員が灯の方を見てから、またそれぞれの作業に戻った。
 最も反応が劇的だったのは、目の前の人である。
「まともな反応だわ……今までのここの馬鹿共の反応と来たら、兄さんじゃ
駄目なのか、やっぱり八橋さんと呼んでいいですかね、すいません聞き間違えました、
勘弁してください、挙句の果てにはでは間を取っててっちゃんと呼びましょう、
とか、そんな反応ばかり」
 一息で言い切りつつも、身体を大きく震わせている。
(最後のはみずきかしら)
 そう推測していると、照葉は懐から取り出したハンカチで、化粧が崩れないように
目元を拭くと、拳を握って二の腕を、服の上からでも分かるぐらいに盛り上げる。
「そこへいくと、あんたの呑み込みの速さは真っ当すぎて素晴らしい。
いいわ、あたしが責任もって、あんたを一流のウェイトレス、いいえ、
日本でも指折りの女にしてあげる。その代わり指導は厳しくなるわよ、覚悟はいい」
「ありがとうございます。できればウェイトレスを先にしていただけると嬉しいです」
 かなり成り行きで勤めることになったウェイトレスの仕事だが、どうせなら
より良く勤めたいものである。それに厳しい教えなら今までもそうだったので、
むしろ望むところだ。
 灯のはっきりとした返事に、照葉は更に気分をよくしたようだ。胸を大きくそらすと、
「遠慮しなくていいのよ、でもそうね、お客様があたし達を待ってるわ。ついてきなさい」
「はい、姐さん!」

17名無しさん:2005/11/22(火) 20:42:22
 こうして灯のウェイトレス修行が始まった。最初だけは照葉と共に行ったが、
以降は一人でテーブルの片付けに追われている。この食堂の客は、テーブル毎なら
ゆっくりと時間をかけて食事を楽しんでいるが、その分全体のテーブル数は多い。
ただ片付けるだけでも色々と手順や技術があり、従って、灯は常にどこかの
テーブルを片付けている事となった。かといって、
「ここはお客様が食べ物を召し上がっている場所。走るな、しかしのろのろ歩くな」
 と厳命されている以上、駆け回ることは出来ない。例え空でも食器は重く、
慣れない動作を強要されて瞬く間に筋肉が痛みを主張していく。
「注文したものはまだか、もう三分も待っているんだがね」
「はい、申し訳ありません。ただいまお持ちします」
 客からの苦情に頭を下げるのも覚えた。が、
(私、どうしてウェイトレスをしているのだったかしら)
 首を傾げてしまう。
 それでも、短時間で思っていた以上に片付け終えたテーブルへ、新しい客が
通されていくのを見ていると、ささやかな達成感が得られた。
 片付けたテーブルの数が、二十を超えた頃だろうか。健啖ぶりがテーブルを
飛び出す程の皿の量を運ばなければならなくなった。僅かな経験からして、
二往復はしないと全てを運べそうにない、と見当をつける。気分だけは優雅に、
だが実際は決死の覚悟で、運べるだけの皿を両手に並べていった時、次に取ろうと
した皿が、宙に浮かんだ。
「え……?」
 正確には、浮かんだのではなく、他の人に持ち上げられたのだ。皿の下から
生えている腕を追うと、一人の男性が傍らに立っていた。
 ウェイターの人だった。丁度、灯と照葉の中間ぐらいの背丈である。
地肌なのだろう、焼けた麦色の肌をしていて、顔の彫りはあっさりとしている。
なんともその容貌を特異なものにしているのは、その長い指で、尖るように先が細い。
「あの」
 声をかけると、三白眼気味の瞳がこちらに向けられる。
「ありがとうございます」
 何とかひるまずに言ってみたが、その人は、
(気にするな)
 とでも言うように首を横に振ると、残りの皿を軽々と持って、沈黙のままに
厨房へと去ってしまった。灯も慎重にその後を追う。
 厨房には皿を洗っているコックがいて、その人の所にウェイターが、続いて
灯が皿を持っていった。灯はそのまま片付けの作業をするため先程のテーブルに戻るが、
「15番テーブルの皿、あがったぞ!」
 戻ってきていた蓬介の言葉に、ウェイターの方は返事もせずにその皿を運んでいく。
 15番テーブルは食堂の中でも厨房に近い位置だ。厨房を出た灯は自然と
ウェイターがテーブルに着いた時に側を通り過ぎる形となったが、
「お待たせしました」
 と、言っているのが聞こえた。
 それ以前とは違って、それとなくウェイターの人に注意してみると、
接客では会話をしているが、厨房等の内部の人間には一切口をきいていない。
話を聞いていることを示す動作をするので無視している訳ではないようだが、
三十秒に渡る動作で返事をしている姿を見ていると、何もそこまで、と思ってしまう。
「まあ仕方ないわね、それが芝道の性格だから」
「名草のは性格じゃないな。もはや体質だ」
 お昼も大分過ぎて、ようやく客足もゆるんできてから、灯はウェイター氏について、
厨房で紹介してもらう機会を得た。
「名草芝道。ご覧の通りのウェイターよ。あたしより年季入っているから、
どんどん技を盗んでやりなさい」
 照葉の紹介に、芝道は深々と頭を下げてきたので、灯も丁寧に頭を下げた。
「言っておくけれど、喋らせようとしても無駄だからね、こいつ。喋るのは
お客様相手の時と、あの時か」
「あの時だな」
「あの時?何ですか」
 コックを順に休憩に出していたので、代わりに皿を洗っていた蓬介は、
照葉と苦笑いの顔を見合わせた。
「それが来た時のお楽しみだ」
 当の本人は、その言葉にこくこくと頷いていたと思うと、水差しを持って、
遠方のテーブルに行ってしまった。空になったコップを目ざとく見つけたらしい。
なるほど、盗むべき事は多い。

18名無しさん:2006/03/18(土) 22:56:16
「さあ、あたし達も休憩に入りましょ。灯、あんた、最初に行きなさい」
 照葉がそう声を掛けてきたので、灯は首を傾げた。
「私ですか?でも、私は後から入りましたし」
「いいの、慣れない仕事で疲れたでしょう。戻ってくる頃にはここも今よりは
暇になるぐらいの時間帯になっているから、他の作業を教えてあげられるわ」
 実はこの時点で、既に五回ほど軽い注意を受けている灯である。本音は
この辺りで少しぐらいは食堂の外の空気を吸っておきたいが、
「でも姐さん……」
「くどい」
 注意された数を一回増やしてしまった。そこで言葉に甘える事にする。
厨房の裏にあるという職員用の休憩室の使い方を教えてもらっていた所で、
蓬介が声をかけてきた。
「佐倉、休憩前にすまんが一つ、こいつとちょっと飯を運んでくれないか」
 その示す方向に、一人の少年がいる。癖っ毛の髪を乱れ放題にしている、
黒々として丸い瞳を持った、小柄の少年だ。身につけている服は制服ではなく、
厚手の作業用らしい服で、いくつも黒ずんだ汚れがついている。
「佐倉灯です、はじめまして」
 灯が一礼すると、少年は礼を返し、明るい笑みを見せた。
「入間麦太、いいます。よろしゅう頼みます」
(……関西弁、かな)
 声の抑揚が独特だったので、そう見当をつける。だが推定はしかねた。
今までに何人か知り合った、生粋の関西の人達のそれとはどこか違ったからだ。
 少年は灯の推測にもちろん気付かず、ただ、首を振った。
「そやけど、これは僕が持って行きます、佐倉さんに手間取らす必要なんてありゃしません」
 見ると、少年の横には食べ物があるらしい、大きな包みと籠が合わせて四つある。
一応数えてみたが少年の腕は二本で、全て一度に持って行くのは、重さよりも
かさの問題でまず無理そうだ。
 灯の考え、というより、場の人間がそちらを向いているのを察してだろう、
麦太は満面の笑みで、
「ええ、僕の力ではこないなもの、ほんまなら持てやしません。そこで!」
 いつの間にか、その両手には謎の物体がある。大きな鉄板が二枚、
重なっているだけという代物だ。ところがその物体を一旦床につけ、それぞれに
ついていた取っ手を、麦太が二枚を引き離すようにして引くと、二つの板は、
下に位置した板の中から現れた前輪と後輪、そして板と板の間から現れた、
二本ずつ交差する棒四本によって、それぞれ支えられた。
「多い荷物もこれで安心、ハコベル壱号です!後はこうして……」
 上の板と下の板、それぞれに包みと籠を置くと、何となく、灯も含めた
場の一同が拍手した。
 ……が、止んでも全く動かない彼の姿に、皆が首を傾げだした。
「……どうした?」
 そっと尋ねた蓬介に、麦太は取っ手に手を置いた。
「……重すぎて、よう動けません……」
「落ち込んでいる暇があったら、助けを借りろ。折り畳みはすごいが
ただの台車じゃないかとは言わないでやるから」
「言ってるじゃないの」
 照葉の言葉を気にせず、蓬介は灯に目の動きで「任せた」と伝えると、
自分の仕事に戻っていった。照葉もそれに続き、コック達も首を振ったり、
苦笑いを浮かべたりしてそれぞれに戻っていく。
(と、いう事は)
 自然と、灯の仕事ということになる。
 包みと籠と、うなだれた姿で台車、いやハコベルに手をついている麦太とを
見てから、おもむろに側まで行くと取っ手を掴み、
「じゃあ、せいので押すからそちらから引っ張って下さい。いい?せいの!」
 まずは自分ひとりでぐいと押す。恐らく動かせなかったのは最初の一押しが
上手くいかなかったと推測した通り、見た目から想像できる範囲の重さだったので、
最初の勢いさえあれば灯にも十分に動かす事ができた。後は、下手に慰めるよりは
今やる事を促した方がいいだろう。たぶん。
 麦太は少ししょぼついた目を灯とハコベルに載った荷物とに向けてきたが、
やがて腕で目を軽くこすると、
「はい、こちらこそ手間取らせます」
 と頭を下げて、自分も引く方の取っ手を掴んだ。そのまま厨房を出る前に、
灯は他の面々に軽く一礼する。その直後、皿を戻してきた芝道と目が合った。
『頑張れ』
 拳を振り上げて、そう伝えてくれた。満面の笑みで。
(悪い人ではないのは分かるけれど)
 同じように拳を上げて返した笑みが、多少強張ったのは否定できないのであった。

19名無しさん:2006/03/26(日) 16:33:14
 厨房を出ると、麦太はそこで灯に笑いかけた。
「じゃ、行きましょか」
「ええ」
 食堂の辺りは活気に満ちていても、ほんの数歩先には人気の無い廊下が
伸びているのを、改めて通りながら灯は面白く感じた。遠方の賑わいも、
ここでは空気をかすかに震わせているだけだ。
「取っ手」
「え?何ですか」
「押すのがしんどかったらいつでも言うて下さい、すぐ止めますから。
それから麦太、呼んでええですよ。僕より年上ですよね、もっと言葉もくだけて下さい」
 今ぐらいの荷物なら特に苦でもない。だが話している方が気も紛れるだろう。
首を横に振った。
「ありがとう、大丈夫だから。なら、私の事も灯でいい。そちらの言葉も
もう少しくだけてくれると嬉しいけれど」
「ああ、これは無理や思います。親方に、年上には礼を尽くせ、言われてますんで」
「親方」
「僕のいるとこの責任者です。すごい人ですよ」
 目を輝かせて言う。その顔を見ていると、気になっている事が口から出た。
「間違っていたらごめんなさい、関西の生まれなの」
「ああ、このしゃべりですね。ええ、そうです。でも小さい頃にこっちに移って
喋り方も抜けてきたとこへ、ちょい前、ある尊敬しとる人のしゃべりを
よう真似てみた時期があったりして、今はもうごった煮です。こないだ昔なじみに
会うたら、お前、どこの紛い物やとよう怒られました。灯さんはどこの生まれです?」
 自分の出身の話をしながら、事務局側の受付前を通ると、来客を応対している
みずきが小さく手を振り、シロザが千切れんばかりの力強さで尾を振ってくれた。
麦太は当然といえば当然だが両方を見知っているようで、手が塞がっているので
会釈と「後で」と口の動きだけを返している。
「そうだ、灯さんも、何か、こんなものがあったらええなあ、という物があったら、
言うてください。そういうちょっとした道具を考えるの、好きなんで。
このハコベルみたいなのです」
「灯さんも、という事は、他の人にも聞いているんだ」
「はい。久木さんや照葉さん達、立ち仕事の人の足の疲れを取る敷き物、
トルトルとかも作りました。『青竹の方が収納がきく』と一蹴でしたけど」
「分かった、考えておくね」
 熱心なその表情を前にすると、自然と明るくそう返せた。しかしどんな物が
仕上がるのか、いまひとつ不安である。
 脇に階段のある地点からも廊下は伸びているが、そこを塞ぐように
「危険、作業員以外ノ立入リヲ禁ズ」との立て札がある。先程、みずきに
案内された時は通れなかった所だが、麦太は足を緩めることなく立て札を
迂回して先へと引っ張っていく。耳にも、何やら叩く音や物が重なり合う音が
届いたかと思うと、人の声も混じって大きくなっていく。
(わあ……)
 その先へ入った時、彼女を包んだのは、建物の中を触っている時特有の、
鼻をつくような匂いだ。
 音楽室、衣装室、楽屋。どこも扉を大きく放たれており、人が行き交っている。
少し見えた内部は、仕上げの段階らしいが、まだそれぞれの入り口にかけられた
札の名とは程遠い様相だ。しかしその為に厨房とはまた違った熱気がある。
「おっと、ごめんよ」
 灯にはその用途がよく分からない、道具らしい物を抱えた男性が、彼女の側を
通っていく。「いえ、こちらこそ」と会釈しながら、胸が熱くなるのを感じた。
(私は今、大劇場の内部にいるんだ……)

20名無しさん:2015/05/27(水) 12:19:18
age


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