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828WS:2024/05/14(火) 21:00:07
秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく、関白を選んだか
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/122600033/010800002/

 ことの発端は、1579年(天正7年)、織田信長がそれまで就任していた右大臣兼右近衛大将の官職を辞任したことに始まります。このことは朝廷を困惑させました。天下統一を間近に控えた信長に官位を与えないということは、朝廷の権威を損なうことになり兼ねないからです。
 そこで1582年(天正10年)5月、朝廷は信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち、いずれか好きな官職を与えるとメッセージを発します。ところがその翌月、信長は「本能寺の変」で亡くなってしまいます。このことは「三職推任問題」といわれ、信長が朝廷の申し出をどう受けるつもりだったのか、未だ謎とされています。

 この状況でいきなり次の天下人に名乗りを上げたのが秀吉でした。秀吉は一気に従三位から内大臣まで上り詰めます。同時に大坂城を築城し、家康とも和解した秀吉は現実的に天下人になっていきました。
 そんな秀吉に朝廷は、内大臣では不足と考え、信長と同じ「右大臣」の職に就くことを打診します。
 しかし秀吉は、「信長は右大臣を辞したまま光秀に討たれたので縁起が悪い。できたら左大臣に任じてもらえないか」と朝廷に申し出たというのです。

 ここで朝廷内に混乱が生じました。秀吉を左大臣に任じれば、今、左大臣の職にある近衛信輔を辞任させなければならないからです。それを聞いた秀吉は、朝廷が信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち、好きな職に就かせると打診した「三職推進」を根拠に、「征夷大将軍」を除いた「関白」と「太政大臣」になると伝えたのだそうです(秀吉の官位名は「関白太政大臣」です)。
 このとき、「征夷大将軍」を除外したことについて「関白」の方が、位が上だからとも言われていますが、征夷大将軍になるためには相応な家柄が条件になることから、「百姓出身の秀吉は『征夷大将軍』にはなることができなかった」という説も囁かれています。そうだとすれば、同じ百姓の出である豊臣秀次が関白に任じられたことも腑に落ちます。
 また秀吉は、自分や秀次が「征夷大将軍」になれない身分であることをなんとか乗り越えたいと強く思ったことでしょう。そんな気持ちの象徴が幻の城「聚楽第」だったのではないでしょうか。




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