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75WS:2022/06/09(木) 08:53:34
悪書追放運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%9B%B8%E8%BF%BD%E6%94%BE%E9%81%8B%E5%8B%95
ある書籍や文書を「悪書」と定義し排除しようとする運動である。 権力者による言論弾圧の一環として行われる他、言論と表現の自由が保障されている社会においても市民運動としてなされる場合もある。

戦前の日本では、時の政権にとって都合の悪い内容であった美濃部達吉の天皇機関説やカール・マルクスの資本論などが悪書追放運動の対象となり、さらにはこれら書籍の単純所持も犯罪として特別高等警察に逮捕されていた。
戦後の日本では1963年と1965年に総理府が中心となって悪書追放に乗り出し、「世論」や「教育上」の理由として悪書追放運動が行われている。

日本で「悪書追放運動」と言えば、1955年(昭和30年)に社会問題にまで発展したマンガバッシング事件を指すことが普通である。

バッシングにあったマンガは新人マンガ家の作品が多かった[8]が、そればかりではなく「鉄腕アトム」(手塚治虫)「月光仮面」(川内康範原作・桑田二郎作画)「赤胴鈴之助」(福井英一・武内つなよし)「ビリーパック」(河島光広)など当時の人気作品もつるし上げの対象になった

1955年(昭和30年)の悪書追放運動が焚書までエスカレートしてから、その後どのように収束していったのかを明瞭に書いた文献は見当たらず、明快に説明することは難しい。
ただ、この悪書追放運動は、その後も止むことなく、1950年代の後半まで続いた。

1959年、佐藤まさあきの貸本劇画が主人公がアウトローであり暴力を肯定的に描くことを理由に山梨県の貸本組合で不買運動の対象に指定される。
この動きは群馬県、埼玉県にも波及し批判をおそれた貸本漫画出版社が同調、佐藤は一時期、漫画家としての仕事を完全に失う。
漫画家廃業を考えた佐藤であったが、貸本漫画出版に新規参入してきた高橋書店がそれらの事情を知らずに原稿執筆を依頼、九死に一生を得る。

1963年、出版社が共同で出版倫理協議会をたて、自主規制を行う事に決めた。

1966年、東京都の巣鴨母の会と巣鴨警察署が白ポスト運動を開始し、全国に有害図書廃棄用ポストが設置されていった。

一時クールダウンした漫画論争であったが1968年の永井豪『ハレンチ学園』の開始によって再び激化。
1970年には手塚治虫も『やけっぱちのマリア』を出し論争に参戦した。

2006年11月5日に放送されたNHKスペシャル『ラストメッセージ第1集「こどもたちへ 漫画家・手塚治虫」』[10][信頼性要検証]によると、手塚が受けた批判の中には、「『赤胴鈴之助』は親孝行な主人公を描いているから悪書ではない。」というものがあったが、手塚が回顧する処によると、「その様に主張した主婦は、実際には『赤胴鈴之助』を全く読んだり見たりしておらず、「ラジオでその様に聞いた」というだけ」の事であった。
高速列車や高速道路、ロボットなどの高度な発展の描写を「できるはずがない」「荒唐無稽だ」と批判した上、手塚のことを「デタラメを描く、子どもたちの敵 」とまで称した者もいたという。
この様な過激な焚書も含む運動は、 後に「漫画の神様」と称されるに至った手塚さえも大きく苦しめる事になった。
そんな苦境を救ったのがアニメ「鉄腕アトム」の放送で、全ての人の心を掴み、悪書追放運動も次第に沈静化していったという




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