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水戸黄門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E9%BB%84%E9%96%80
権中納言である江戸時代の水戸藩主・徳川光圀の別称かつ、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直し(勧善懲悪)を描いた創作物語の名称。
かつては専ら『水戸黄門漫遊記』(みとこうもんまんゆうき)と呼ばれていた。
講談、歌舞伎、演劇、小説、映画、テレビドラマ、漫画、アニメ等において描かれている。
水戸黄門の人気や知名度は高く、水戸市で開かれる水戸黄門まつり、水戸黄門漫遊マラソンのような行事名などにも取り入れられている。
物語の背景
実在の水戸藩主である徳川光圀は、国史編纂(『大日本史』)の為に史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、
光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と、藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという記録は一切確認されていない。
作中では徒歩で移動しているが実際の光圀は馬などで移動していた。
光圀は同時代の伝記資料において名君と評され、庶民の間でも知名度は高かった。
亡くなった時には「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が流行った。
水戸黄門漫遊譚の成立には、この様な名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われる。
光圀の伝記資料としては、正伝である『義公行実』をはじめ『桃源遺事』『久夢日記』など様々なものがあり、宝暦年間にはこれらの伝記資料を基に実録小説である『水戸黄門仁徳録』が成立し、黄門漫遊譚の起源となっている。
また史実の光圀は、家臣の佐々十竹(佐々宗淳)らを各地へ派遣しており、彰考館総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が、後の助さん・格さんのモデルと見られている。
講談『水戸黄門漫遊記』
幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。
内容は、「天下の副将軍」こと光圀がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをするというもので、大変な人気作となった。
副将軍職は幕府の職制にはないが、水戸徳川家には参勤交代がなく江戸定府であったことから、家臣の中には「いったん将軍にことあるときは、水戸家当主が代わって将軍職を務める」と思いこんで「副将軍」という者もいたという。
この講談話の始まりについては、一橋慶喜を将軍職に就けるため、父である水戸斉昭が裏で動いて、水戸徳川家は「天下の副将軍」であるという話を世間に広めようとしたのだという説がある。
明治になると、大阪の講釈師玉田玉知がお供を俳人ではなく家臣の佐々木助三郎(介三郎、助さん)と渥美格之進(格さん、または厚見角之丞など)の二人とする話に膨らませて、さらに人気の題材となっていった。
戦後は占領期の剣劇禁止を経た後に、東映が市川右太衛門に続いて月形龍之介を主演にシリーズ化。
初期の月形黄門はB級作品であったが、好評のためオールスターキャストの大作が作られるようになり、題名も従来の『水戸黄門漫遊記』から単に『水戸黄門』が主流になっていった。
テレビ時代になると、TBSがやはり月形を主演にブラザー劇場にてテレビドラマ化した。
さらに月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用したナショナル劇場シリーズ『水戸黄門』は更なる人気を博し、黄門ほか数役の俳優を幾たびか変更しつつ長寿番組化。
レギュラー番組としては2011年12月まで続いた。
このナショナル劇場版では脚本家の宮川一郎の案により、ドラマの毎回の佳境で三つ葉葵の紋所(徳川氏の家紋)が描かれた印籠を見せて「この紋所が目に入らぬか!」と黄門の正体を明かすという筋書きがある。
八兵衛が入るとシックリするのは、『西遊記』のキャラ構成に似るからかねぇ
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