遭難に至る経緯
1996年、ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社(英語版)は、1人65,000ドルでエベレスト営業公募隊を募集した。探検家のロブ・ホールが引率して、世界中のアマチュア登山家と共に5月10日に登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった。日本人の難波康子も参加した。他にもスコット・フィッシャー(英語: Scott Fischer)が引率するマウンテン・マッドネス社(英語版)公募隊も行動を共にすることになった。参加者の中には、本来登山には必要ない大量の資材を持ち込んだり、不適切な性交渉を行う参加者がおり[注釈 1]、ガイドやシェルパの負担は小さくなかった。荷揚げの時点でマウンテン・マッドネス社の主力シェルパ、ナワン・トプチェが高所性肺水腫によって重体となり、この処理にシェルパ頭のロブサンが当たったため負担はさらに増加した。
スコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフ(英語: Anatoli Boukreev)が初参加した。ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず[注釈 2]、隊長のスコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプに送り返す等の労働に従事することになり、登頂前すでにスコット・フィッシャーは疲労困憊となっていた。また、顧客の一人レーネ・ギャメルガードが数度にわたり無酸素登頂を要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気が醸成されていた。