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514WS:2023/09/02(土) 14:29:07
志村 けん (1950年〈昭和25年〉2月20日- 2020年〈令和2年〉3月29日) (70歳没)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E3%81%91%E3%82%93
ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、晩年まで自らが持つ番組でコントを披露し続けた。
2020年3月、当時パンデミック初期であった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去
本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。

来歴
小学校教諭だった父・憲司と母・和かず子この三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる
2人の兄は大学を卒業して公務員
志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えられないと思っていた
校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていた
1962年に父は交通事故にあった
その交通事故の後遺症で父はボケており弟子入りに関して両親の反対は無かった

加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度辞めて、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。
戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、
「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。
その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー

メンバー見習い
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した。
当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。

「東村山音頭」でヒット
ドリフメンバーとなり、ギターを担当するようになった。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、
ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。
転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。




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