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神田カルチェ・ラタン闘争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%97%98%E4%BA%89
1968年6月21日に社会主義学生同盟(社学同。共産主義者同盟の学生組織)が東京神田駿河台の学生街で起こした解放区闘争。駿河台の明大通り2か所にバリケードを築いたが機動隊に突破された。
用語
カルチェ・ラタンはフランス・パリ市の地区名。パリ大学やグランゼコールなどの諸学校が集中しており、1968年にフランス学生のデモである五月革命の舞台となった。
概要
1968年8月にオーストラリアで、アジア太平洋協議会会合(アスパック)の開催が計画されており、日本からも外務大臣が出席の予定であった。社学同は、この会議が日本帝国主義のアジア再侵略への一歩であり、70年安保の実質化であると位置づけていた。
そこで1968年6月21日、アスパック開催抗議の実力闘争を組もうとして、この「神田カルチェ・ラタン闘争」を呼びかけた。各地から集まった社学同700名は、同日昼過ぎから駿河台の中央大学中庭で集会を開いた後、「神田を日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンで闘争を展開し、明大通りの明治大学記念館前(現在のリバティタワー前)と同大学院前(現在のアカデミーコモン前)の2か所に、中央大学や明治大学から持ち出した机などを使ってバリケードを築いた。
しかし機動隊がバリケード撤去に来ると、赤ヘルメットの学生たちは群衆を隠れ蓑にして投石し、さらに明大校舎内に逃げ込む戦術をとったため、機動隊は排除に手こずった[1]。結局、午後8時半ごろから雨が降り始めたため、社学同は明大大学院前で約3000人の学生を集めて集会を行ってから解散した[2]。
この騒動のため国電は御茶ノ水駅で1時間近くストップし、中央・総武両線で計40本が運休、76本が最高40分遅れ、約20万人の足に影響が出た[1]。
背景
1968年には、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がった。「沈黙することは戦争に手を貸すこと」という雰囲気さえ醸成されていた。ソルボンヌ大学(パリ大学の文学・語学部門)では、学制改革を要求する学生の激しい闘争で、カルチェ・ラタンやサンミッシェルで解放区を実現しただけではなく、労働者のストライキと工場占拠に波及し、フランスの5月革命と呼ばれる状況を引き出していた。イタリアの諸大学でも、ベトナム反戦運動から波及した学生による大学占拠が起きたり、ベトナム反戦運動はヨーロッパ各国に広がっていた[3]。
社学同は、中央大学(もちろん移転前であり、理工学部以外は駿河台にあった)と明治大学に多くの同盟員・シンパ(sympathizer)がいたことから、パリの学生運動の拠点であったカルチェ・ラタンになぞらえて、駿河台で解放区闘争を組もうとしたものであった。
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