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若狭 (八板清定女)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E7%8B%AD_(%E5%85%AB%E6%9D%BF%E6%B8%85%E5%AE%9A%E5%A5%B3)
日本の戦国時代の女性。種子島の刀鍛冶八板金兵衛清定の娘である。
天文12年(1543年)の鉄砲伝来の際、ポルトガル人に嫁いで金兵衛の鉄砲国産化に寄与したという伝承がある。
「女子 若狭 大永7年(1527年)4月15日生まれ。母は楢原氏の娘。天文12年(1543年)8月に牟良叔舎(フランシスコ)に嫁いで外国へ行った。
(中略)天文13年(1544年)に外国船(ポルトガル船)に乗って帰って来て、父子は再会を果たした。
それから数日経った時、若狭が大病にかかって死んだと偽って、棺に入れて葬儀を行った。
外国人(ポルトガル人)はこの様子を見ても涙を流さなかった。」という意味になる。
伝承
天文12年(1543年)、種子島に南蛮船が漂着し、日本に鉄砲が伝来する。種子島氏第14代当主・種子島時尭はポルトガル人から2挺の火縄銃を2,000両で購入し、射撃術を習った。
時尭は家臣の篠川小四郎に火薬の調合と製法を、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲製作を命じた[3]。
火縄銃の国産化には、ねじの技術が最大の難関となった[4]。
金兵衛の製作する銃は尾栓(銃身の底を塞ぐ部品)を鍛接して固定したため、発射すると尾栓が吹き飛んだり破損したりして、失敗の連続であった。
南蛮人の火縄銃は銃身の内側と尾栓にネジ切りをして、尾栓をねじ込んで固定してあったのだが、当時の日本にはネジの概念がなく、金兵衛には銃身の底を強固に塞ぐ方法が判らなかった。
思いあまった金兵衛は時尭に銃を壊して調べることを願い出るが許可されず、苦悩する父のために、娘の若狭はネジの秘密と引き換えに、南蛮人に嫁いだとされる。
ただし、この若狭とネジの話は口承のみで、立証する資料や記録が残っていない。
『鉄砲伝来記』[5]
1968年製作の大映映画。八板金兵衛を東野英治郎、若狭を若尾文子が演じている。あらすじは以下の通り。
八板金兵衛は、時尭から火縄銃を渡され製作を命じられたが、銃の破裂で重傷を負った上、火縄銃を盗まれてしまう。
ポルトガル船の船長ピントオが護身用の銃を持っていることを知った若狭はピントオを訪ね、ピントオはその熱意にほだされて銃を貸し与える。
やがて若狭とピントオは恋に落ち、若狭は子を身ごもる。しかし、ピントオがポルトガルに帰国する際、若狭は父の反対にあって種子島に残ることになる。
翌年、ピントオは若狭を迎えに種子島を再訪するが、すでに、若狭は息子をかばって崖から落ち、亡くなっていた。
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