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HB大学
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>>830
翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。
コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、
歌劇『魔弾の射手』等の作曲で知られるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。
1783年、このころ『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる
1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。
4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。
10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。
モーツァルト自らが指揮をとる。
しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。
1787年5月28日に父レオポルト死去。
父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い
8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。
翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。
フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。
モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、
モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。
1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。
2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。
モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。
1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。
この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。
7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。
9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。
9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、
9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。
体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。
35歳没。
死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。
成人した2人の男子はどちらも子を残さなかったため、モーツァルトの子孫はいない。
モーツァルトの死後、コンスタンツェは、彼女の多大な借金を返すために予約演奏会を開いた
そして数年の間に、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽会で、後援者たちから多額の金額を集めている
死因
症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。
実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている
葬儀と墓
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。
遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。
誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。
この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる
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