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戦争 雑多2
126
:
WS
:2023/08/18(金) 20:52:18
連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信
https://www.nippon.com/ja/series/c073/
ソ連に幻想抱く日本の中枢に黙殺された和平工作:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(7)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c07307/
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小磯内閣崩壊で宙に浮いたバッゲ工作
スウェーデン駐日公使だったウィダー・バッゲは、日本を救おうと1945年4月下旬、帰国した。
外務省編『終戦史録』などによると、44年9月15日、近衛文麿元総理と知己のある朝日新聞専務の鈴木文史郎から、「戦争を終結させる工作を中立国スウェーデンの斡旋で英国に依頼してほしい。占領地域を全部返還し、満州国も放棄してもよい。責任者は近衛文麿」と要請されたからだ。
しかし、日本では小磯内閣が崩壊し、新外相に引き継がれる「バッゲ工作」が宙に浮いていた。東郷外相から岡本公使に5月18日届いた返電は、「前内閣当時に行われたことについては、とくと調査してみる必要があるから、本件は相当時日を要するものとご承知ありたい」と官僚的だった。5月14日の最高戦争指導会議で対ソ工作が正式に決まり、バチカン、スウェーデン、スイスで非公式に行われていた和平交渉を打ち切ったのだ。
1945年6月18日、岡本公使が極秘 館長符号で東郷外相に小野寺が進めた和平工作を非難して軍首脳に罷免まで要求した電報(外務省外交史料館所蔵)
戦後、小野寺の和平工作は「個人プレーであって、軍部外交の出先版の観が深い」(小林龍夫元国学院大学教授)と厳しく批判された。
ところが約1カ月経った6月24日、大本営から電報で、『和平工作などするな』と叱責された小野寺は、その時の心境を戦後、次のように語っている。
6月になって日本がソ連を通じて和平工作をはじめたと知ったとき、『ソ連を通じての和平工作はもっとも悪い。わたしはルートを持っている』と参謀本部へ打電したものだが、握りつぶされてしまった」(読売新聞『昭和史の天皇』)
不幸にも日本政府は、対日参戦を密約したソ連を介して戦争を終結させようと動いた。
バッゲがシベリア鉄道でソ連を通過中の4月22日、参謀次長の河辺虎四郎と情報部長の有末精三が東郷外相を外務省に訪ね、和平仲介は中立条約が有効のソ連に依頼と進言。
ソ連仲介による工作が本格化し、6月8日の御前会議で正式に決まる
英王室から届いた親電で昭和天皇ご聖断?:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(8)・最終回
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c07309/
「ソ連参戦で情勢は一変した。帝国政府は、国体護持を最後の目的として外務交渉を開始した。貴官は任地において最善を尽くせ」。
最後の拠り所にしていたソ連が中立条約を破って侵攻するどんでん返しに遭って参謀本部から、小野寺に8月10日付電報が11日来た。
小野寺は翌12日、プリンス・カールが国王への工作を快諾したと陸軍大臣あてに電報を打つと、「スウェーデン王室を通して工作せよ」。
参謀次長と陸軍次官から初めて工作を認める返電が届いた。
しかし、この電報は昭和天皇によるポツダム宣言受諾の玉音放送が流れた8月15日付で、届いたのは翌16日。すべては遅すぎた。
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