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「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった
https://toyokeizai.net/articles/-/159191
織田信長は「部下に嫌われる鬼上司」の典型だ
https://toyokeizai.net/articles/-/156244
希代の天才であり残虐な危険人物
当時、日本に滞在し、信長に謁見した南蛮人宣教師の記録には、下記のような人物像が描かれています。
・ 相手が誰であれ、見下すような態度で居丈高に語りかける
・ 彼はほとんどまったく家臣の忠言に従わず、諸人から極度に畏敬されている
・ 困難な企てに着手するにあって、はなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した
・ ほとんどすべての人を「貴様」と呼んだ
部下たちはどう接していたか
まさに「滅私奉公」で、彼の言葉には絶対服従でした。
あるとき、現在の和歌山県北部にある根来(ねごろ)を訪れた信長に対し、寺の僧侶たちが歓迎の意を込めて餅をつき、適度な大きさに丸めたものを大皿に盛って献上しました。
彼は2〜3個を頬張り「うまい」と褒めると、家臣に向かって「お前たちも食え」と、その餅を、なんと馬糞が転がる路上にぶちまけます。
すると、家臣たちは「泥だらけの餅」を争うようにむさぼり、あっという間に平らげてしまったというエピソードも残っています。
「桶狭間の戦い」
前日からの長い軍議において「結論として、今日は何もしない」と解散しておきながら、その深夜、突如ひとりで出撃します。
それを知った部下たちが慌てて彼の後を方々から追いかけ、そのまま今川本陣への突入作戦が決行
増水で渦を巻くほどの濁流となった川を「早く渡れ」と命じる
安土城が完成しても家族を呼び寄せずにそれまでの岐阜に住まわせていた家臣120人に対して、もれなくその家を放火、強制的に安土へ引越しさせた
あの秀吉でさえ、信長には「厳罰」を下されています。
1577年、越後から北陸へ進軍してきた上杉謙信を迎え撃つため、信長は柴田勝家らを派遣し、秀吉にも出陣を命じました。しかし、柴田勝家との作戦をめぐる意見対立が高じ、秀吉は勝手に戦線を離脱して帰還してしまいます。
そのときは秀吉の「必死の弁解」が実り、危うく「死罪」は逃れたものの、秀吉は「信長の許し」を得るまでの数カ月間、自宅謹慎を余儀なくされました。
「織田家躍進の原動力」として40年余りにわたって信長に従い、数々の戦功をあげてきた最有力家臣のひとりに「佐久間信盛(のぶもり)」がいます。
しかし、佐久間信盛は「合戦での積極性がまったく見られなかった」という「罪」により、突如、家禄を没収されます。そして家中から追放され、その後の赦免も一切ありませんでした。
1578年10月、信長の家臣だった荒木村重(むらしげ)は突如、敵対する石山本願寺の顕如(けんにょ)に内通し、謀反を起こします。
彼のこもる伊丹城は信長によって包囲されますが、翌年9月、村重は単独で脱出に成功。しかし、城に残された村重の家族36人や、上級家臣の妻子122人が信長に捕われてしまいました。
信長はその全員を処刑すると、さらには下級家臣と妻子合わせて五百数十人を古民家4軒に押し込めて放火し、全員を「焼き殺し」ました。
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