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乱取り
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A
戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。
一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取・乱捕)と呼称された。
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人身売買目的での誘拐は「人取り」と呼ばれ、戦後に物と同じく戦利品として市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。
凶作・水害・疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下克上の芽を摘み取った。その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、農民をさらい売り払うか奴隷にするかした。人身売買の相場は、通常2貫文であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文に急落した。
文禄・慶長の役
文禄・慶長の役では首をそのまま持ち帰ることが難しいことや、人身売買目的での誘拐(人取り)の抑制として、豊臣秀吉が耳や鼻の量が一定に達した者(一定の戦功を挙げた者)から人取りを許可したため、耳削ぎが大規模に行われた。
桶狭間の戦い
織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。勝因について、明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、近年では『信長公記』に基づいて正面攻撃説が主流である。だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、また別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。
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