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557WS:2019/12/05(木) 23:36:26
>556続き

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、
とにかくキリスト教に改宗しない領民(奴隷として海外に連れ去られた者の数は数千人とも数万人とも言われている)を奴隷として輸出する港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった
豊臣秀吉による九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿寺炎上」など)、
さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、
秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、これらの行為をスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと考えた豊臣秀吉は、博多においてバテレン追放令を発布し、1587年に長崎を直轄領とした。
最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。

また秀吉が危惧したように実際にイエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。
サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった

宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。
たとえば1603年に発行された日葡辞書 (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。
ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。

ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。
イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。
列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。
だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。
このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。

イエズス会への批判
イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。
さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇とバチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた。
フィクションの中でも、陰謀の枢軸としてのイエズス会がしばしば強調される。
デュマの『ダルタニャン物語』では、イエズス会の管区長となるためには、世界を揺るがすほどの秘密を持っていなければならないとされ、フランス王ルイ14世に瓜二つの双子の弟がいるという重大な秘密を握っていた三銃士のひとりアラミスが管区長となる。
管区長アラミスは、その秘密を用いてフランス王を双子の弟と取り換え、自らの傀儡にしようとするのである。
イエズス会が陰謀の首謀者とされている代表例の一つと言えよう。




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