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518WS:2018/12/12(水) 22:32:37
レーベンスボルン: Lebensborn
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%B3
ナチ親衛隊(SS)がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設。
一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。
ユダヤ人絶滅のために強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための収容所である。
未婚女性がアーリア人の子を出産することを支援し、養子仲介なども行なっていた。

ドイツの年間出生数は1920年には894,928人にのぼったが、第一次世界大戦に敗戦し200万人の戦死者が出たことで1932年には年間出生数は512,793人に激減した。
また、大戦後の世界恐慌による生活苦によって堕胎施術が流行し、1937年には出生数を超える60万から80万の堕胎が行われた。

こうした事態から1934年3月、ナチス福祉局(NSV)は、母子援助制度を開始し、女性の出産育児に対する経済支援を展開した。
父親が十分な養育費を支弁できない家庭への経済援助策として、ドイツ児童手当制度(Das Deutsche Institut fur Jugendhilfe e.V.)も同時期に開始された。
人口政策的な目的を有する「児童扶助(Kinderbeihilfe)」が導入されたのは、ドイツにおいてこれが初であった。


1935年12月、SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、母子家庭の支援団体であるレーベンスボルン(別名生命の泉協会)を首都ベルリンに設置した。
1936年8月15日、レーベンスボルンは、最初の母子保護施設「高地荘」をバイエルン州エーベルスベルク郡シュタインヘーリンクに開設した。
高地荘は設立当初は母親30人・子ども55人を常時受け入れ可能な規模の施設であったが、1940年までに受け入れ可能人数が倍増され、SS医官グレゴール・エープナー(de:Gregor Ebner)が運営責任者として任についていた。
レーベンスボルンは親衛隊本部のひとつであるカール・ヴォルフ親衛隊全国指導者個人幕僚部の隷下にあったが、自立的に運営されており、SSとは無関係の母子も利用できたが、入所要件として人種的、係累的条件を満たす必要があった点はSSと類似していた。
施設の維持は「民族的義務」と喧伝され、運営費用の多くはSS兵士からの寄付でまかなわれていた。

高地荘の成功を受け、レーベンスボルンの母子保護施設は国内外の各地に続々と設置されていった。

子どもたちは、親たちの戦争犯罪とは無関係だが、第二次世界大戦後、親世代の戦争犯罪を理由に非難されると、自身の出自を意識するようになっていった。
1960年代に入り、当時の子どものたちの多くが思春期、青年期を迎えると、子どもたちの多くは罪の意識を感じるとともに、社会に拒絶された自分たちの親を恥じるようになった。




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