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おちゃめくらぶ掲示板

610御茶目菜子:2011/06/05(日) 15:10:11
オタクとコミュ力
私は根っからのオタク気質にょ。
好きなことにはすごく入れ込む反面、そうでないことには全く興味を惹くことはないにょ。
これは別にオタクではなくても普通にありえるけど一定以上の入れ込みを見せているものを
オタクと考えるとオタクと一般人の違いというのは分かると思うにょ。
例えばアニメのグッズは一般人が買うことはあまりないのでそれを買うのはオタクと
いえるし、アニメ声優について語ったりすることも一般人はあまりしないのでそれも
オタクといえるにょ。
見ているアニメに関してもジブリアニメのように一般的な知名度が高いものやサザエさんや
ドラゴンボールのように国民的アニメといっていいレベルならいいけど一般への知名度が
低いものを見る(しかも、1、2本ならまだしも平均を大きく上回る本数を視聴)というと
見ているだけの人もアニメオタク扱いとなってしまうにょ。
ジブリアニメにおいても一般人ではあり得ないような入れ込み具合を見せていればそれは
「ジブリアニメオタク」となるかもしれないにょ。

このように特定のものに関して一定以上の入れ込みを見せるのがオタクだと私は思って
いるのだけど「オタクはコミュ力が無い」とされていると思っている人も少なくないにょ。
確かに周囲から見ると「コミュ力が無い」と感じられることが多いのは否定できないけど
それは必ずしも正しいとはいえないにょ。
「オタクはコミュ力が無い」とされている主な要因は下記の2つにあるのではないかと
思われるにょ。

 (1)自分だけの価値観の確立
 (2)その価値観の共有が難しい

(1)多くの人が自分の趣味を持っているし、その趣味に関しては何らかのこだわりを持って
いるという人は少なくないと思われるにょ。
そうすれば趣味を持っている人は多くがオタクとなってしまうにょ。
しかし、それは正しそうだけど間違っているにょ。
というのも、普通の価値観というのは一定ではないからにょ。

「名探偵コナン」に登場するシャーロック・ホームズにハマっている工藤新一(=江戸川
コナン)は推理オタクと毛利蘭に言われているけどシャーロック・ホームズを全巻読破する
推理好きが必ずしも「推理オタク」とはならないにょ。
それはシャーロック・ホームズというのは非常に社会的にも認知度や地位の高い書籍で
あり、上記のアニメで言えばジブリアニメのようなものに相当するからにょ。
アニメというのは日本においてはそれなりの地位と築いているとはいえ、世界的に見ると
「漫画やアニメというのは子供が見るもの」という認識が強くそれに大人が入れ込んでいる
という時点で「オタク」と周囲からは認識されてしまう可能性が非常に高いといえるにょ。
したがって、趣味で一定以上特定のものに入れ込んでいるからといって必ずしも客観的に
見た場合にオタクとなってしまうというわけではなく別に大して入れ込んでなくても
オタクと判断されてしまうという場合があるというわけにょ。

しかし、客観判断と主観判断は異なるというのは当然起こりうることにょ。
したがって、ここでは「一定以上自分が入れ込んでいる=オタク」として進めていくことに
するにょ。
どんなものであっても、特定のものに夢中になる際にはそれに惹きつける何かというものが
あるわけであり、その「何か」というのは当然のことながら人によって異なるにょ。
それは言い換えると「価値観の違い」というものにょ。
入れ込めば入れ込むほど、言い換えればオタクになればなるほどその価値観というものは
はっきり見えてくるようになるにょ。

(2)オタクにとってはその価値観というものの存在は非常に大きいものにょ。
「自分の人生そのもの」というレベルの認識の人も中には存在するわけだからね。
つまり、その価値観を否定されるということは自分自身を否定されるというのに等しいと
いうべきものになっているにょ。
これは私自身がオタクだからよく分かるため「否定意見は意見ではない」という認識を
持っているにょ。

「価値観の相違」という言葉を知っている人であれば本来ならば否定するというのは肯定
するより何倍も難しいことなのだけど多くの場合は否定は「自分が気に入らないから」と
いうただの主観的理由で行われてしまっているにょ。
また「世間ではそうだから」ということで否定する場合もあるにょ。
上記のように世間では「漫画やアニメというのは子供が見るもの」という認識が強いため
「アニメを見る→オタク→人間性を否定」という短絡思考の考えの人も中には存在するため
厄介にょ。
この辺の考え方は2ch発祥の詭弁のガイドラインにも含まれており「4.主観で決め付ける」
「5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる」というものがそれに相当するにょ。


こうしてみるとオタクにコミュ力が無いのではなく周囲がそのようにさせていると考える
こともできるにょ。
6月3日深夜にNHK総合で放送された「MAGネット」6月号の特集「アニメとSNS」では
アニメとSNSとの関わりについて放送されたけど今はアニメとSNSは切っても切れない
ものになってきているにょ。
アニメというのは放送する側から視聴する側への一方通行(≠アクセラレータ)の場合が
多かったけどネットの普及によってそれを発信するというものが急速に増えてきたにょ。
それは単純な感想だけに留まらず、各自の考察、それをモチーフとした二次創作など
非常に様々にょ。(MAGネットでは視聴者のTwitterでのつぶやきがアニメの制作の現場
でも生かされているということが紹介された)

これらはネットが普及前から存在しそれはアニメ雑誌や同人誌即売会を中心として存在
していたにょ。
これがネットの普及によって誰でも気軽に個人サイトを運営できるようになり、ブログを
開設できるようになり発信というのは簡単にできるようになったものの個人サイト、
個人ブログでは集まる人というのはごく限られた身内に留まってしまうにょ。
そういう意味では2chのように匿名で誰でも気軽に書き込める匿名掲示板の存在は非常に
大きかったにょ。
オタクというのは自分の価値観を伝える(自分語りをする)というのが好きな場合が
多く入れ込んでいるものにおいては相手が望んでいなくてもどんどん語り続けることが
あるにょ。
この辺が「コミュ力が無い」とされる1つの要因ではないかと思われるにょ。

さて、その2chの人口も近年減少しつつあるにょ。
それはSNSの影響だと思われるにょ。
SNSというのは人と人とのつながりを促進するコミュニティーサイトであり、単純に自分の
意見を書くだけの個人サイトやブログとはそこが決定的な違いといえるにょ。
オタクというのは自分の価値観を理解している人を求めているにょ。
したがって、「コミュ力が低い=人を疎遠にしている」というわけではなくむしろその
逆ともいえるにょ。

mixiをはじめとするSNSではコミュニティというものがあり、同じ嗜好を持つ人が集って
価値観の共有を行おうとしているにょ。
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」に出てくる高坂桐乃(HN.きりりん)、五更瑠璃
(HN.黒猫)、槇島沙織(HN.沙織・バジーナ)の3人は某SNSのコミュニティ「オタクっ娘
あつまれー」(管理人は沙織・バジーナ)に属しているのだけど3人とも三種三様のオタク
であり、価値観の相違によってぶつかり合っているにょ。
お互いの価値観を許容している沙織はともかくとしてなかなか引かない黒猫と桐乃は
頻繁にぶつかり合っているものの今ではそれによってお互いを理解しあっているにょ。
これは、ネットという垣根を越えてリアルで接しているというのが大きいにょ。
ネット上でのコミュニケーションというのはほぼテキストだけで行われるため相手の真意を
汲み取るなんていうのは難しいことにょ。
また、ネットでのコミュニケーションの場合は紙ベースとは異なりリアルタイムで行われる
というメリットがあるものの短文のテキストで行われることが多くそれが更なる認識の
誤解を産む要因となっているにょ。
私は相手に要らぬ誤解を与えぬようにテキストサイズがどんどん大きくなる傾向があるにょ。
私が短文で済ませられるのは本当に気の知れた親しい人だけに限るにょ。

オタクというのは人との繋がりを疎遠にしているのではなくむしろ逆というのは上記の
通りなのだけど私自身もそれが言えそうにょ。
しかし、特に親しくも無い人から長文であれこれ言われるとウザイと感じてしまうかも
しれないという認識があるため新たな人間関係を築くのを躊躇してしまっているにょ。
このことから私はSNS自体に向いてないといえるかもしれないにょ。
まぁ単純にコミュニケーションの取り方が下手なだけ・・・なんだけどね。
これは私の場合の例にすぎないけど「オタクはコミュ力が無い」というのは正しくなく
単純に「コミュの取り方が少し下手なだけ」というだけと考えられるにょ。




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