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オナ禁 禁欲

8祈るHegel:2015/02/04(水) 00:42:20
24 :ヘーゲルの祈り:2015/02/02(月) 04:32:51.30 ID:XhnwB0BVエオン・エキス著/竹内健訳『強姦の形而上学』(現代思潮社)

 本書は匿名で書かれた1冊であるが、タイトルどおり「暴力」によって、女性を「支配」することの正当性を叙述した1冊である。
ただし、これを馬鹿正直に何かのマニュアル本のように考えられては困る。もちろん本書は、ニーチェが『善悪の彼岸』のなかで「女性」を「真理」の比喩として思索を展開していることを受けてのものである。
したがって、この本は「対話」によって「真理」を「表象」させるというプラトン主義批判、もしくは「対話」を通じて「合意」を形成するというハーバーマス批判を遂行した書物といってよい。
 さて、本書は「真理」は論証されることがない、ということを男性の権威の確立という観点から叙述している。
「権威」とは潜在的な「真理」であり、「女性」がそれを享受することで「真理」は開示される。
つまり「対話」による性関係の合意とは、権威を論証もしくは「対話」によって証明し生産することであり、実証されるはずのない「真理」を論証しようとする、虚偽の手法である。
なぜならば、両者において何らかの「真理」≒「合意」が形成されるならば、その時点で「わたし」と「あなた」とは、同一の「表象」「代表」=‘representation’のもとに差異が抹消される。
簡単にいえば、彼らは「他者」であることを忘却して、あたかも「合一」したかのような錯視に陥っている。
 それに対し「強姦」は、相手を「対話」不可能な物体に還元することで「真理」を実現しようとする運動であり、その意味で真理の獲得が可能であるとする様々な思想に対しての大いなる皮肉なのである。

25 :ヘーゲルの祈り:2015/02/02(月) 04:33:37.52 ID:XhnwB0BV「対話」によって「真理」の共有が不可能であるならば、一方の抱く「真理」は、もう片方に対してあくまで暴力など「力の福音」が行使されることで刻印せざるをえない。つまり「真理」とは実現しようとするならば、「他者」を尊重するといった倫理とは無関係なのであり、
本書における「倫理」があるならば、それは「真理」とは暴力とともに存在するという以上のことではない。
したがって「対話」において「真理」がなされる「他者」なき思想に対して、「物体」として女性=「真理」を扱う「強姦の形而上学」は必然的に唯物論に移行せざるをえない。
とまあ、作者が様々に「強姦」を語る裏側を読解するとこのようになるのではないだろうか。
端的にいってニーチェばりのアイロニーを使い、オリジナルとその写しがあるというプラトニズムを茶化しまくった1冊なのだが、いくらなんでもこのタイトルと内容は酷い。
原書:Eon Ekis“De L'Homme, De La Femme Et De La Violence Dans Leur Comportement Amoureux”

なおHegelの『精神現象学』にも「主人と奴隷」の関係が話題としてとりあげられている。
しかしこれはあくまで神と人との関係であって男と女の関係を述べたものではない。

また聖書の「叩けよ、さらば開かれん」という言葉も「女の腹を拳で叩けば、その女の股が開かれるであろう」という皮肉の意図で引用されている...etc、
キリスト教/哲学思想史上の名著の数々を極めて悪意に満ちた恣意的な引用法で記述した本である。

昔アメリカで聖書の引用のみで書かれたポルノ小説が「猥褻図書か?」という裁判があった。
作者は「聖なる書物からの引用のみで書かれた小説の何が猥褻やねん?」と開き直る意図で書いた小説だった。
裁判の結果は「猥褻」だからして「発禁」というものだった。

・・・等々を勘案すると妙な引用によって書かれた本のサンプルとしての資料価値はあるかもしれない。


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