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ゆあの夜行性らじお Part49

304名無しさん:2014/05/17(土) 02:27:35


玉藻前(たまものまえ)

奈良時代は聖武天皇のころ。遣唐使・吉備真備が日本へ帰る船に、いつの間にやら16、7歳の美少女が一人こっそり乗り込んでいた。玄界灘まで来たところで見つかったこの少女、司馬元修の娘・若藻と名乗り、日本見物に来たという。帰国を目の前にして戻るわけにもいかず、そのまま乗せていったが、博多に上陸するとまたいつの間にやら姿を消していた。これが実は白面金毛九尾の狐だったという。

それから三百数十年が経った平安末期、北面の武士坂部行綱の拾い子で藻女(みずくめ)という美しい少女がいた。藻女はやがて鳥羽上皇に仕える女官となり、美しいだけでなく非常に博識だったことから上皇の寵愛を篤く受けるようになった。

あるとき内裏で詩歌管絃の遊びがあり、鳥羽上皇は藻女を連れて参加した。そのさなか強い風が吹き、蝋燭の明かりを全て消し去り、辺りは暗闇に包まれた。すると藻女の体が光りだし、辺りを煌々と照らしたのである。その様が光り輝く玉のようであったため、このときから藻女は玉藻前と呼ばれるようになった。

鳥羽上皇は玉藻前を更に気に入り、とうとう契りを結ぶことにした。ところが契りを結んだ後、上皇は急に病に臥す。医者に診せても原因もわからず、日に日に病状は悪化するばかり。そこで陰陽師・安倍泰親[2]を呼んで診せたところ、その原因は玉藻前、しかもその正体は妖獣で、帝に近づいてその命を縮め、国を乗っ取ろうという魂胆だという。

泰親はこのことを上皇に申し上げたが、玉藻前を溺愛する上皇は信じず、病は更に重くなる。そこで上皇の病を治すためとの名目で「泰山府君」という神の祭をおこなって、玉藻前の正体をあぶりだすこととなった。帝の代理として祭の幣取りの役を任された玉藻前は、祭文が読み上げられるやいなやその形相を変え、九尾の狐となって飛び去った。泰親が咄嗟に四色の幣を取って投げつけると、青色の幣が玉藻前のあとを追っていったので、「妖孤は青い弊があるところに隠れている。見つけ次第都に知らせよ」とのお触れを出した。

青色の幣が見つかったのはそれから実に17年後。下野国(現在の栃木県)那須の領主が、那須野原に青い弊が落ちていると報告を寄せた。またその地では妖孤が女子供をさらうなど悪行を働いているということで、早速討伐軍として三浦介義明と上総介広常という二人の武士、陰陽師・安倍泰親、そして8万を越える大軍勢が送られた。

白面金毛九尾の狐を発見した討伐軍はこれを打ち倒そうとするものの、流石に大きな神通力を持つ妖怪とあってそう簡単には捕まらず、仕方なく一度は引き上げる。再び那須野に出向いて狩ろうとするも、七日をかけても成果はあがらない。この事態に三浦介と上総介の二人は、もし万が一狐討伐に失敗して恥を晒すような羽目になったら、生きて故郷を拝むまいと不退転の決意の元に神々に加護を祈った。すると、三浦介の夢の中に20歳ほどの美女が現れて、どうか命を奪わないでと泣き落としにかかってくる。これは狐が弱っている証拠と考えた三浦介は、「だが断る」と一刀両断、チャンスとばかり最後の攻勢に打って出た。そして逃げる狐に三浦介が放った矢が見事命中、九尾の狐は息絶えた。

その直後、狐は巨大な石と化した。石からは毒気が発せられ、近づいた鳥や獣はその邪気にあてられて倒れた。それを見た人々は石を「殺生石」と呼び、怖がって近づかなかった。それから二百数十年後の室町時代、玄翁和尚がやってきて杖で石を打ち砕くまで、殺生石は猛威を振るい続けた。なおこの時砕けた石のかけらが、高田の名をもつ3つの場所に飛び散ったという。




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