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190荒井。:2007/02/23(金) 05:32:02
■ごめん、荒井さん、人のブログで勝手にブログ

信長シリーズを待ちきれないので、勝手に戦国時代の話でもしましょう。

私が思うに戦国大名の智将の最も優れた戦い方というのは相手の「心理」を見事に利用して勝利しているということだと思う。相手をわざと怒らせたり、不安に陥れたり、パニック状態にして冷静な判断ができないようにしてから攻撃をする。
例えば第二次上田合戦での真田昌幸。相手をバカにするような手紙を出したり、敵前で一人で舞を踊るなどの行為で徳川秀忠を挑発し、敵にわざと攻撃させてから奇襲的迎撃をかけ、秀忠の4万の大軍勢を追い返した。
息子の真田幸村も同様。大阪冬の陣では大阪城に出丸を築き、敵の最前線の兵に「いくじなし、腰抜け」などの罵声を浴びせ、敵が怒って突撃してきたのをひきつけて、一気に鉄砲で一斉射撃して相手をパニック状態にした。
だが一方の家康もさすが。大阪城の下に穴を掘って爆薬をしかけるという噂を流し、毎日のように真夜中に自兵に怒号を上げさせ、敵を眠らせないようにして不安をあおる。そこで大砲を天守閣に打ち込み、相手の不安を最高潮にして淀君から講和を得た。
また三方ヶ原の戦いでの武田信玄も秀逸。家康の城の目の前を故意に横切って相手を挑発し、大地から坂を下ってわざとスキを見せ、家康が攻撃を仕掛ける前に陣形を整え、自らが最も戦いやすい状態で家康を撃破した。
そんな信玄も若い頃には失敗もしている。上田原の合戦では村上義清の軍が兵を引いて撤退したので、攻撃のチャンスとして深追いしたが、村上軍の伏兵に反撃されて、武田軍は重臣も数名討たれ、兵の一割も殺され、信玄自身も負傷した。
最後は秀吉。数十万の軍勢で北条の小田原城を何ヶ月も包囲し、相手が精神的に追い詰められているところに、あらかじめ建設が完成していた自軍の城を相手に見せつける。建設段階から相手に見せるのではなく、城が完成してから城の目の前にある木を伐採し、北条側にとっては、いきなり城が出現したように見せて敵の動揺を誘い、小田原城を開城させた。
このように智将の戦というのは周到に準備されたものが多かったですね。これぞ孫氏の兵法の言う「勝者は勝つべく用意してから勝つ」という精神に忠実ですね。


LSU (2007-02-23 00:59:01) [コメント記入欄を表示]


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