したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

○○スピリチュアル・総合スレ○○

36名無しさん:2011/06/05(日) 19:03:37
参考になった:0件 No.9ベストアンサー20pt
回答者:magga 回答日時:2010/06/06 13:11
僕なりに書いてみますね^^
まず「生きている」とは何かを定義してみないことには話が進まないように感じますのでそちらから。
「生ている」とは遺体と生命の差。
動くこと
感覚があること
があげられると思います。
「動き+感覚(知る機能)=生きている」と言う視点で話を続けてみますね。
では感覚とはどのようなものでしょう。
感覚は楽でしょうか?
もし楽なら、呼吸も食事も伸び縮みも、何もする必要がなくなるように思います。
そのままで楽なのですから。
では苦でしょうか?
苦だからからこそ、呼吸も食事も伸び縮みもする必要が出てきて、動くのだと僕は思います。
そして、物質は常に変化消滅しているものだと思っています。
では、感覚はどうでしょう?
感覚・つまり「知ること」はどのようになされるのでしょう。
僕は変化消滅するからこそ知ることが出来るのだと思います。
感覚も物質も変化消滅する。
すべての起こる性質のもの(サンカーラ・行)は変化消滅する。
「諸行無常」ですね。
何かを欲した瞬間その欲した「固定したものと思い込んでいるもの」も、「固定した存在と思っている自分」も変化しいて、欲したものも欲した自分もそこにはいない。ゆえに欲したものが手に入ることはない。
そもそも「固定したもの」も「固定した自我」も存在しないのだから・・・
「諸法無我」
このようにこの世の起こる性質のものは不完全で満たされることはない。
「一切皆苦」
この苦はパーリ語でドゥッカといい、不完全・価値がない・空っぽと言うような意味だと記憶しています。
たぶん僕の思い違い勘違いも多いと思いますが、今のところこのような理解をしています。
何か参考になれば幸いです。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板