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○○スピリチュアル・総合スレ○○

33名無しさん:2011/06/05(日) 19:00:50


参考になった:0件 No.12
回答者:noname#100496 回答日時:2009/02/03 12:21
神は、脳で思考しても理解できません。なぜかというと、脳、自我と神、無我、大自然は対立しているからです。脳の思考を、休ませると、神に通じて、心が癒されます。幸い日本の伝統文化、和風文化は、脳を休めて、心を癒す事を目的にしています。座禅、茶道、日舞、日本画、演歌、能、落語、太極拳などがあります。

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この回答へのお礼回答をありがとうございました<(_ _)>


参考になった:0件 No.11ベストアンサー20pt
回答者:abc2008 回答日時:2008/12/31 17:49
 信じれる理由というか、神にしろ仏にしろ創造主にしろ、その表現は様々であっても、あるものを言い表しているかと思われますが、それはおそらくは『大いなる存在』かと思われます。この存在を能動的に探求するものが哲学であり、受動的に信じようとするものが宗教かと思われますが、学問と信仰、あるいは積極、消極の違いはあれ、その志向するものは同じでしょう。
 結局、十人十色、立場や価値観等が異なっても何らかの『大いなる存在』を探し、信じ求める者にとっては哲学や宗教は一種のツールであることは間違いないでしょうが、それ以外でもその『大いなる存在』を我々に感じさせるものは色々とあるかと思われます。
 例えば、地球と太陽の配置距離、今より近い、あるいは遠かったりしたら一体どうなっていたでしょうか。我々が存在するに適したこの絶妙の距離は偶然でしょうか。また、大気中の雲の量は、ほぼ常に地球の表面積の50%に保たれているのはどうしてでしょうか。あたかも窓のブラインドのように太陽光を調節しているみたいなのですが、これは偶然の産物でしょうか。
 私の観るところ、世の中には偶然という言葉で片付けて仕舞っている必然がかなり多いように感じられます。それらの必然の背後には、どうしても何らかの力が働いている、つまり、『大いなる存在』があっても何ら不思議ではなく、それを否定する方が非合理的ではないかと思っています。
 ですから、表現は違えど『大いなる存在』の存在は疑う余地のないものと確信しています。




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