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ΖΖ関連資料スレ

224名無しさん:2016/06/24(金) 11:19:39 ID:???
牛島貞満(うしじま・さだみつ)/1953年東京都生まれ。沖縄戦と地続きで生きてきた。沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」ことだと訴える(撮影/伊ケ崎忍)
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牛島家に保管されている牛島満司令官の肖像画。貞満さんは沖縄戦の平和学習の教材に活用している(撮影/伊ケ崎忍)
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 運命に手繰り寄せられるように沖縄戦と向き合ってきた人がいる。東京都在住の小学校教諭、牛島貞満さん(62)だ。日本陸軍第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課している。

 勲章と軍刀を身に着けた軍服姿の祖父の写真が実家の応接間に飾られていた。「立派なおじいちゃん」と聞かされて育った。6月22日の命日には毎年学校を休み、靖国神社に参拝した。

 しかし、牛島さんは次第に祖父に対する周囲の評価に抵抗を感じるようになる。

「沖縄で軍のトップとして命令したことが、戦場でどんな結果をもたらしたのか。その評価をきちんとすべきだ」

 中学2年からは牛島家の命日の行事に参加しなくなった。

●沖縄で祖父の足跡追う

 長年決心がつかなかった沖縄訪問に踏み切ったのは1994年。糸満市の旧平和祈念資料館で、自決の数日前に発した「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との牛島司令官の最後の軍令が展示してあるのを見て、あらためてショックを受けた。キャプションには「牛島軍司令官の自決は戦闘の終結ではなかった。この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」と付されていた。

 牛島さんはこの後、毎年のように沖縄を訪ね、祖父の足跡をたどる。最もこだわったのは「南部撤退」だ。

「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」

 この牛島司令官の辞世の句には、本土決戦を信じて疑わなかった胸中がよく表れている、と牛島さんは指摘する。沖縄戦の本質は「沖縄を守るため」ではなく、「本土決戦のための時間稼ぎ」だった。だからこそ、牛島司令官は司令部を置いた首里城での決戦を避け、沖縄本島南部に撤退し、最後の一兵まで闘うことを強要した──これが牛島さんの導いた結論だ。

 南部撤退によって多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生した。日本軍に対する強烈な不信は、沖縄県民の間に戦後も根強く残る。

●自決した司令官の命令

 天皇の「玉音放送」が流れた8月15日以降も、沖縄では日本兵による「斬り込み」が相次ぎ、戦死者はさらに膨らんだ。9月7日、マッカーサーの命令で沖縄守備軍の代表が現在の嘉手納基地で降伏文書に調印する。

 なぜ調印が必要だったのか。牛島司令官の「最後まで敢闘し」の命令と、本来武装解除を伝えるべき司令官の「自決」により、沖縄守備軍の兵士は戦闘し続けなければならなかったのだ、と牛島さんは解説する。

 6月23日は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日として「慰霊の日」と定められている。だが、牛島さんには腑に落ちない面もある。

「6月23日以降の戦闘は何だったのか。彼らは勝手に戦闘して死んでいったのではない」

 牛島さんは、当時の「本土」のマスコミ報道にも注目する。

 6月25日に大本営が「全戦力を挙げて最後の攻撃を実施せり」と発表すると、派手に書き立てていた本土の沖縄戦の地上戦報道がピタリとやむ。8月15日以降は「戦後」が始まり、「沖縄」が本土メディアに取り上げられることはほとんどなくなった。

「『本土の防波堤』の役割を終えた沖縄に対して、本土の人々の関心は向かなかったのです」

 全国メディアの「沖縄」の伝え方は今も、「他人事」だと牛島さんは指摘する。

「沖縄で米軍の事件事故が起きると、本土マスコミの多くは『沖縄の人たちが怒っている』と書く。基地被害や戦争と隣り合わせの現実を、自分たちの問題と感じる意識が決定的に欠落しています」

(編集部・渡辺豪)

http://dot.asahi.com/aera/2016062200215.html


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