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苦の滅尽
23
:
和井 恵
:2013/11/27(水) 00:52:24 ID:/qZ2M5.20
> 不思議ですね。
> 私が「理解が起これば瞬時に消滅しますね」と言う意味合いで表現すれば、
> 和井さんは「そうはなりません」と表現される。
> 私の表現が曖昧なのでそうなるのかも知れませんが。
この場合は、掲示板を見ている人たちへの説明、という意味合いが強いのです。
ときどき、対話をしている人のレスを 「 ダシにして 」 第三者へのメッセージを書いているのです。
> 理解はするものではありませんで、起こるものです。
これは、なかなかの名言ですね、その人の瞑想の練度が表れています。
> 過去には、雨粒に溶け込んだり、風と一体となったりして遊んでいましたが、
雨粒に溶け込む、風と一体となる、あるいは、この「世界」と一つになる(oneness)という瞑想は、
要するに 「 五蘊 ( = 世界 ) と 五取蘊 ( = 私 ) を一つに ( 合一 ) する 」 という、
釈尊の教えとは 「 真逆 ( 対極・正反対 ) 」 の瞑想を実践してしまっているのです。
このような瞑想体験を、悟りや覚りだと勘違いしている人たちが、最近は多くなってきているようです。
> 最近では、我慢・疑・驕慢・見取・我語取に注意を払い、心がけているのは捨断です。
── 釈尊が弟子たちに教えた瞑想は、次の言葉に要約・集約されています。
比丘たちよ、また、如来によってこの最上の寂静句がよく覚られています。すなわち、
六の触処の、生起と消滅、楽味と危難と出離とを如実に知って、執着のない解脱があるのです。
( 中部 102 経 「 五三経 」 )
上記の 「 最上の寂静句 」( これと同じ説明が、長部 1 経 「 梵網経 」 の最後にも登場します ) と、
渇愛の滅尽により解脱している比丘たちこそ、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者です。
( 長部 21 経 「 帝釈天問経 」 )
── という、この 「 二つのポイント 」 をしっかり押さえているならば、釈尊の教えから外れることはありません。
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