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《YHWH》について

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/03/09(月) 02:05:08 ID:???0
さして新しいネタというわけではありませんが、ユングのネタでソフィアの論考を
書いていたら、どうしてもヤハウェを始め、旧約の神概念をきちんと書き綴ってお
かねば気が済まない状況になり、ほぼ8割といったところですがエリアーデなども
織り交ぜてネタ満載にしたあの荒ぶる神ヤハウェを書き綴りました。
このあと、デミウルゴスとの相似点を書き、ヤルダバオトさんの論考に引き継ぐ形
にしたいと思っています。
ヤルダバオトさんにとっても『ヨブへの答え』は面白いと聞き及び、書いてみたい
要素があるとのことですので、調整をつけたいところですが、あるいは調整をつけ
ずとも見解の違いとして同時に載せてしまうというのも手かと考えています。ヤハ
ウェの創造的行為と破壊的行為についてはユング・エリアーデ・バタイユを比較検
討しつつ述べてみたいと思います。それにしてもエリアーデの野心的著作『世界宗
教史』は全世界の宗教を網羅している点で、ユングが元型論などで説明している神
話の内容などの補助になっていてすごく便利です。調整が絶妙なところでとまって
いますが、グノーシス論を書く上でユダヤ教のヤハウェは素通りすることはできま
せん。このあとソフィアと平行して、ユングをして禁治産的な神と言わしめるヤハ
ウェについて述べてみたいです。

2猫飼:2011/02/16(水) 15:09:53 ID:tpcQxrsA0
こんにちわ。テクラグラマトン拝見し、非常によく調べておられると感服しました。
HyHは一般には「ある,いる」とBe動詞やエイミのように解されますが、「なる」という意味もあるといわれていることはもちろん御存知のことと思います。
岩波委員会訳では当該個所は「わたしはなる、わたしがなるものに」と訳されていますね。
ところで「アセル」ですが関係詞ととられるのが普通だそうですが、文語訳、関根訳、口語訳では接続詞として解されているように思えますが違いますかね?
「ありてあるもの」、「あらんとしてあるもの」、「あってあるもの」・・・いずれも「て」は接続助詞ですよね。
少なくとも関係詞として訳したとは言えませんよね。「もの」というのは70人訳の「ホ・オーン」のように1人称を3人称に訳したものであり、
関係代名詞を訳した「もの」ではないですからね。その点、どのように思われますか?

3猫飼:2011/02/17(木) 18:11:27 ID:tpcQxrsA0
こんにちわ。先日の質問の訂正と補足です。
訂正:「テクラグラマトン」→「テトラグラマトン」
補足:文語訳は「我は有て在る者なり。」、口語訳は「わたしは有って有る者。」、
   関根訳は「わたしはあらんとしてある者である。」
※「あらん」という訳については、「エフィエ」の未完了相を訳出すべく、
<未然形+未来推量の助動詞>を用い、「として」は前置詞ですから「アシェル」に対応するものではなく
「あらん」という訳に付随する意訳と思われる。
ちなみに新改訳は「わたしは『わたしはある』という者である」、
新世界訳は「わたしは⾃分がなるところのものとなる」     以上。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2011/02/25(金) 23:38:55 ID:???0
はじめまして、管理人アブラクサスです。レスが遅れてすみません、仕事が立て込ん
でるのもありますが、何よりご質問のことが私の語学力・聖書云々の知識程度では、
お答えしきれなさそうなところがありまして…(私も岩波委員会訳は書店や図書館で
調べてます。それに基づいているところもあります)。仰る通り、HyHが「在る」
とともに「成る」、つまり「存在」と「生成」という意味を併せ持っているというの
は存じておりますが…。というかあれ読み方間違ってましたね。ハーヤーでしたか?

まず明確にお断りしておきたいと思いますが、私はなんにかにしても、その手の専門
家ではなく、素人だということを予めページにて表明しております。素人が調べる必
要があったことを調べてインプットし、そうしたことのアウトプット程度にしかあの
ページを書いてません。恐らく猫飼さんの質問にお答えするには明らかに技量不足で
あると思われますが、それを抜きにしても、ご質問の意味・内容がよく解らない箇所
がありました。この掲示板を立てた目的と違うのですが、ごちゃごちゃになってるま
まにしておくのは嫌いな性分なので、明確にしたい思惑で私が色々と教えてもらって
いる語学に詳しい方に聞いたりして、調べてまいりました。そこから学んだことを、
まとめてここに載せさせていただきます。

1) 各訳とも概ね「私は〜するものである(/になる)」という体裁をとっており、
これが ehyeh asher 〜 の部分を訳したものと看做せる。「〜するもの」が asher
によって導かれる関係節に対応しており、関根訳他に於いても asher は関係詞と
して解釈されていると見て問題ないと思われ、猫飼さんがそこに疑義を挟んでお
られるところの根拠がよく解らない。

2) 各訳に目立った違いがあるのは、先に「〜」として略した部分である。これは
関係節中の(二つ目の)ehyeh に対応する。この ehyeh を新世界訳は「自分がな
る」と訳し、新改訳は「『わたしはある』という」と訳した。
同じ様に、この ehyeh を関根訳は「あらんとしてある」と訳し、口語訳は「あっ
てある」と訳している。これらの訳に助詞「て」が現れるのは、動詞 ehyeh を解
釈した結果であり、asher とは関係がない。

と、こんなところで、これ以上のことは現段階では分からないです。

5猫飼:2011/03/10(木) 22:52:52 ID:9Z/F2X8E0
管理人様、私のわけのわからない質問にお答え下さり感謝致します。おかげさまで、たいへん勉強になりました。なるほど、「て」はエフイェの訳で生じる「て」であってアシェルの訳ではないのですか。やはりアシェルを接続詞として訳すのは誤りのようですね。いずれにしてもエフイェを繰り返して強調しているのでしょう。問題は、そのエフイェとヤハウェとの関係ですね。いずれにせよ謎めいた箇所です。ありがとうございました。


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