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三島由紀夫の演説
1
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2008/09/22(月) 17:26:31 ID:???0
博士から三島由紀夫氏の話がありましたので、件の市ヶ谷自衛隊駐
屯地襲撃のユーチューブのビデオのリンクを貼り付けておきます。
http://jp.youtube.com/watch?v=EwUhRRWOwjU&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=V5HIkId_fSY
http://jp.youtube.com/watch?v=LuqyZ6MmdiQ&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=7M_UeRW87yg&NR=1
http://jp.youtube.com/watch?v=6QG5iMUa5hA&feature=related
しかし三島氏が戦中は、今で言うスキゾだったという話はホンマ
かいな、って感じで意外でした。とてもそんな風には見えなかっ
たんですが(^^;)
2
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2008/09/22(月) 18:09:47 ID:???0
博士が述べていることがそっくり強調されている演説は一番上ですかね。
しかし、生と死については、ありとあらゆる現代思想家(バタイユ、フ
ーコー、丸山圭三郎、サルトル、澁澤龍彦etc)が述べていますが、三島
は博士が仰るとおり激烈ですね。
4
:
極東博士
:2008/10/11(土) 11:48:01 ID:G6iz/z3k0
現在、手元にないので正確に引用できませんが、野坂昭如との対談で、
三島が「右翼は怒るかもしれないが」と前置きし、バタイユを引用して
高貴な者に対するエロチシズムの欠如を論じていました。
この高貴な者とは言うまでもなく日本の皇室と天皇であり、現代日本
最大のタブーである皇室のエロチシズムを堂々と論じることができるのは
さすが三島由紀夫以外に存在しないでしょうね。
アイオーン氏が別スレッドで論じている女性の娼婦性は皇室において
奇妙な逆転現象が生じています。
すなわち皇室が民間女性(娼婦)に対して神的地位を提供するわけで、
これは古代祭儀への回帰であるともいえる状態です。
これに関してはバタイユもレヴィ=ストロースを引用して近親相姦の
真実に鋭く迫っていますね。
近親相姦の禁止は優生学上の問題などではなく、特権の行使と表裏一体で
あるというものです。
5
:
極東博士
:2008/10/11(土) 11:49:00 ID:G6iz/z3k0
平成天皇以前、昭和天皇までの皇室のエロチシズムの解明からも
より深い洞察が求められるところでしょうが、日本の現状では絶望的です。
それこそが現在の皇室が抱える最大の問題であるのですが。
現在のところ、エヴァにおけるアイオーン氏の論考は各キャラクターの
範疇に留まっているようですが、ネルフという相当問題のある組織を
エロチシズムの視点からすれば、いろいろと見えてくるものがあると思いますね。
6
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2008/10/11(土) 15:00:54 ID:???0
皇室の問題は私も以前から関心を持っていましたが、なるほど、眼から
ウロコが取れますね。娼婦性の逆転現象ですか。ミッチー・ブームなん
か昔資料を読みましたが、懐かしいなw確かに皇室は昔から近親相姦が
繰り返されておりました。
レヴィ・ストロース「親族の基本構造」は読んでみたいのですが、値段
がベラボーに高い!・・・フロイト&ラカン事典ほどじゃないですけど。
大学図書館にあれば、機会があったら読んでみたいです。でも、「交叉
いとこ」とか、バタイユ論のところでも混乱してて、優生学の問題では
なく特権の行使(権力構造)と表裏一体だ、というような概略は読めま
したが結構すっ飛ばして読んでしまいました^^;。
ちょっと不親切だなぁ、と思ったのは、字だけで説明してしまってると
ころですな。家系図みたいなのを入れてくれれば一瞬でわかるんですが。
こんど時間があったら系譜作ってみようw。
それなら数理社会学的解釈も興味あります?今やってるのは「ガダ・シ
ステム」という、エチオピアの古くからの年齢階梯制のモデルを数理学
的に解析した理論があるんですよ。ギャラ族という種族ですが、ガダ・
システムにはダベラ、フォレ、コンダラ、ルバ、ユバという五つの階梯
があり、それぞれ8年間その役割を担って次の階梯へと向かうのですが、
このシステムは、結婚できる年齢、生まれてくる子どもが嫡出子として
認められる時期というのが決まっている上に、父親が最後の階梯を抜け
てからでないと子どもはシステムに参入できないという制度でして。
8
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2008/10/11(土) 16:25:13 ID:???0
私のバタイユ論は今のところまだシンジとアスカ、加持とミサトなどの
内的生活だけしか書けていませんが、思うところはいろいろあります。
ゼーレもそうですし、ネルフの相当問題のある構造というのも考えてい
ます。しかしそこのところは今現在フーコー論のほうで考えておりまし
て、博士にとってはフーコーは面白くないかもしれませんが、そっちは
またいずれ提示します。色々思うところはありますが、ネタが多すぎる
というのも困りものでして、まとめるのが大変ですよw
しかし博士、それを言ったらエヴァというアニメ自体が、それこそ下段
の「ディスクール無意味化の悲惨」の説明のようにはなりませんか?不
在の体験そのものが出ている狂気的エロティシズムということですが。
9
:
極東博士
:2008/10/20(月) 21:33:10 ID:G6iz/z3k0
その通りです。
エヴァという作品自体が庵野秀明という個人のプライベートフィルムで
あることは早期に本人が認めています。
エロティシズムは基本的に他者との関連において語られるものであり、
自慰行為が含まれるか否かは微妙なところだと思います。
11
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2008/10/25(土) 02:29:06 ID:???0
胸糞が悪かったスキゾ・パラノでしたが、スタッフからの監督につい
ての証言は、バタイユが指摘するエロティシズムの悪徳の説明に違え
る所がまったくないですね。特に自殺願望についての項なんかは、も
うこれは「死のハロー」の見せる期待に酔い痴れ、それに包まれた状
態としか言いようがないんですが。
また、これは澁澤の「エロスの解剖」の言及ではありますが、タナト
フィリア(滅亡愛)の性癖の特徴の説明とそのままですね。この性癖
として死んだふりをするのを好むとか、死について常に意識が向いて
いるとかありますが、死の意識=存在の連続性への期待ばかりが目に
付きます。オナニーショーとは言いますけど、要するにこれって、退
行的解答による合一感を観客に強制的に、必死に巻き込みたいことに
一心不乱になっているだけだと思うんですが。
スタッフの言及からすれば、観客の中にはこの監督の実なき虚妄に惑
わされて「死=存在の連続性」におぼれ、結果的にバタイユの言及の
まま、監督によって「真実なき虚構」を真実だとみせられているだけ
なのに、その連続性への意識に自分から参加してしまっているとかい
うような発言も見受けられましたが、マダム・エドワルダ序文がいか
にもこれを明確に説明してくれていると考えました。
エロティシズムにスタッフらもそれに巻き添えを食らっているような
ところがありますが、結果的にこれが、
>エロティシズムは基本的に他者との関連において語られるもの
という博士の仰ることがまんまだと思いますが。まあ、こう考えると
フロムのネクロフィリアの説明とも相通ずるところがあると思います
けど。
誰だったか監督の立場を「神様」に見立てて、最終的にあの破綻への
結末は突然神様が下界に降りてきて、ギャアギャアうるさく騒ぎ始め
たのと同じとか言ってましたよね。これ、言ってはなんですが、生田
耕作氏の生前の最後の仕事となったバタイユ「聖なる神」の内なる神
についての言及(娼婦であるとか卑劣漢(=新訳だとはっきり豚とか
いってます)であるとか)を思い浮かべてしまいましたよ。(^^;)
自分が作品を書くときに女を多くするのは、自分が考えていることを
女の口から語らせると華に見えるとかもですがいかがでしょう?
12
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/09(金) 22:58:45 ID:???0
博士へ、メール送っておきました(1/9)。
先日ヤルダバオトさんと話をしていたときに、私のバタイユ論を語っ
ていたのですが、そのとき彼のほうから、博士がここで話された、三
島と野坂の対談の話が彼のほうから出ました。資料を持ってるとのこ
とでしたので引用してくださるそうです。彼も三島や澁澤のファンだ
そうですよ。メールのほうにはバタイユの内的体験≒好運の話とそれ
の関連について書いておきました。確認よろしくお願いいたします。
13
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 04:25:14 ID:HQCjQBEE0
アブラクサスさん
ご説明ならびにご紹介ありがとうございます。
極東博士さん
初めまして。アルコーン・ヤルダバオトと申します。
氏の博覧強記ぶりはアブラクサスさんから聞き及んでおります。
私は特にグノーシスや三島などを哲学・文学の両面で考察したいと考えておりますので、
その方面(あるいは関係がありそうならどんなものでも結構ですの)で
お知恵を拝借できれば幸甚です。
どうぞ宜しくお願いいたします。
14
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 04:37:25 ID:HQCjQBEE0
さて、引用です。
極東博士さんが言及されておられる「皇室のエロチシズム」ですが、
そのお話の原典は「エロチシズムと国家権力」という三島由紀夫と
野坂昭如の対談であることに相違ないでしょうから、
ここにその該当箇所を引用します。
<以下引用>
三島 エロチシズムと神聖なものを結びつけると、右翼は怒るけど、僕は、それは右翼
思想の大きな欠落だと思う。僕はジョルジュ・バタイユの「エロチシズム」を読んで
啓示を受けたけれども、人間の生命は非連続性である。なぜかというと、人間は細胞
分裂でできあがっていて、これは個体ができた瞬間に分裂してしまっているから、一
人ひとりの個体は分かれている。生命は分裂状態で、非連続性の状態にある。非連続
が生の本質である。つまり普通の生命観とは違うんです。なんで連続するかというと
、死あるいはエロチシズムなんだね。エロチシズムの瞬間に死を垣間見るときに連続
性がある。それは祭政一致的なお祭、犠牲の儀式のなかに端的にあらわれるけど、エ
ロチシズムをとおしてから死を垣間見る以外は、人間は連続性に触れることはできな
いという説なんです。それがバタイユの哲学だけど、それに啓示を受けて、いろいろ
考えたんだけど、人間は人間を口説いてるときは、どうしても非連続なんだよ。相手
は個体なんだしね。連続性の幻をみるときは、エロチシズムの最高の瞬間だけで、す
ぐに消えちゃう。
それでね、国家権力とは何か。エロチシズムと国家権力はどうして衝突するか、ぼく
には長年の疑問がある。もし国家権力に非連続性の中心理念があるとするならば、―
―それはつまりデモクラシーだが――国家権力とエロチシズムは相渉しない。それを
極端な形で実現したのが、アメリカの占領だと思う。アメリカの占領はエロチシズム
を完全に解放した。われわれは食うものはなかったけど、エロチシズムだけはなにを
やってもよかった。君の「エロ事師たち」が出たとき、僕は多少心配した。これが一
九四六年ないし四七年に出ていたら、だれも心配しなかったと思う。言論統制という
点からいえば、あの当時のほうが、おそらく政治的な言論については統制が今よりも
綿密にチェックされていたことはたしかだと思う。それは愚民政策だというけど、そ
んな簡単なことじゃないよ、これは。エロチシズムは完全に解放するが、政治的言論
ないし思想的言論は、軍事政権が統制してしまう。そういう妙な、歴史にちょっと考
えられないような一つの時代があった。僕は、一つの日本人に対するアイロニカルな
実験だったような気がする。というのは、もし国家権力が連続性を、死を、祭祀を代
表しているならば、ひょっとすると、国家権力とエロチシズムは同じ側に属している
ことになるかもしれないのだ。戦争中はエロが禁止されたのはたしかだが、もしかす
ると、エロチシズムの最高原理は、国家権力の側にあったかもしれないのだ。戦後の
占領のデモクラシーは、そういう経験を経た日本国民に対するアイロニカルな実験だ
ったというのはそれだ。もしあなたがエロチシズムの完全な解放、あるいはエロチシ
ズムに対する抑圧ということを考えているなら、政治的言論がどういうふうにチェッ
クされると考えているのか。左翼の考え方は、エロチシズムがチェックされるときは
、パラレルに政治的言論が抑圧されるというんだけど、今の政治学は進歩していて、
アメリカの占領から学んだ何ものかがあると思う。
<引用終わり>
(エロチシズムと国家権力
<初出>中央公論・昭和41年11月、
<初刊>「源泉の感情」・河出書房新社・昭和45年10月 より)
15
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 05:42:36 ID:HQCjQBEE0
この三島の発言は前半、後半のふたつに分かれ、
前半では、バタイユのエロチシズムの思想の概観、
後半では、バタイユの思想の援用、をそれぞれ行なって、
エロチシズムが国家権力とどう結びつくかを議論しようとしています。
前半はバタイユの思想の単純な咀嚼なので問題はありませんが、
気になるのは後半の部分で、ここで理解が多少こんがらがらる
かもしれないので、以下に整理して書きます。
後半の部分で三島は彼お得意の二元的思考でもって
極めて論理的にエロチシズムと国家権力の関係性を論じるために、
時期を戦時下と占領期に分けています。
端的に纏めると以下のようになります。
・占領の時期というのは、国家権力が非連続性を代表し、
エロチシズムが完全に解放されていた時期であった。
・戦時の時期というのは、国家権力が連続性を代表し、
エロチシズムが禁止されていた時期であった。
そして、
「戦争中はエロが禁止されたのはたしかだが、もしかす
ると、エロチシズムの最高原理は、国家権力の側にあっ
たかもしれないのだ。」という発言からわかるように、
戦時の時期においては国家権力の側にエロチシズムがあ
ったのではないか、というのが三島の仮説あるいは考えです。
つまり、上記に付け加えるならば、
・戦時の時期というのは、国家権力が連続性を代表し、
エロチシズムが禁止されていた時期であり、
かつ、国家権力の側にエロチシズムがあった。
となると考えられます。
敷衍すれば、
・占領の時期というのは、国家権力が非連続性を代表し、
エロチシズムが完全に解放されていた時期であり、
かつ、国家権力側にエロチシズムがなかった。
となりますが、これが正しいということは
「もし国家権力に非連続性の中心理念があるとするならば、
――それはつまりデモクラシーだが――国家権力とエロチ
シズムは相渉しない。」という発言から明白でしょう。
つまるところ、
戦時下においては、国家権力がエロチシズムを一手に担っていたので、
公衆のエロチシズムが禁止されたのであるし、
占領期においては、国家権力がエロチシズムと相反していたので、
公衆のエロチシズムが解放されたのだということだと、
論理的には片付けられそうです。
簡単に整理してみましたが、如何でしょうか。
私的にはかなり大胆な思考だなあ、と思ったりしますね。
16
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 05:56:24 ID:HQCjQBEE0
以上の議論の参考になりそうな対談を見つけましたので、
つづけて引用します。
「守るべきものの価値――われわれはな何を選択するか」という
三島と石原慎太郎の対談です。
<以下引用>
三島 そこまで言ってしまってはおしまいだけど、ぼくは日本文化というものを守ると
考える場合に、何を守ったらいいのかといつも考えてきたですよ。歌舞伎やお能とい
うのは、共産主義になったってだいじょうぶですよ。レニングラード・バレーと同じ
で、いつまでもだれかが大事にしてくれますよ。それからお茶だって、お花だって、
こんなものは共産主義になっても生き延びますね。それなら日本文化が生き延びれば
、おまえいいじゃないか、と。法隆寺だろうが、京都のお寺だろうが、いまあんなも
のをこわす馬鹿な共産主義はないですよ。皆いい観光資源になっていますから・・・・・・
。古典文化というものは大体生きながらえるでしょうね。最後に生き長らえないもの
は何かというと、共産社会では天皇制はまず絶対に生き長らえないでしょう。それか
らわれわれが毎日書いているという行為は生き長らえないでしょう。というのは、こ
れから先に手が伸びようとするとき、その手をチェックするでしょうね、今生きてい
る手はね。従って、いまわれわれがこうして書いている手と、天皇制とは、どこか禁
断のものという点で共通点があるはずなんです。
生きている手というものと、天皇制というものの関係は何だろうと考えると、ぼくは
天皇制の本質というのを前からいろんなことを言ってるんですけど、文化の全体性と
いうものを保証する最終的根拠であるというふうに言っている。というのは、天皇制
という真ん中にかなめ(三字傍点)がなければ、日本文化というのはどっちへいって
しまうかわからないですよ。昔からそういう性質を持っているんです。それでこのか
なめ(〃)があるから、右側へ行ったものは復元力で左側へ来て、左側へ行ったもの
は復元力でまた右側へ行く。中心点にあるかなめ(〃)が天皇だというふうに考える
。
日本文化というものはいままでどういう扱いを受けてきたかというと、明治以降日本
文化とういうものは近代主義、西欧主義に完全に毒されて、その反動が来て日本文化
からほとんどエロティックな要素は払拭されちゃった。戦争中のような儒教的な、ぎ
りぎりの超国家主義的な日本文化になっちゃった。今度、逆になってきたら、だらし
のないエロティックな日本だけがわっと出てきてしまった。快楽主義、刹那主義、だ
らしのなさね。そのかわり、そのなかに日本文化のいいものももちろん出てきた。戦
争時、禁圧されていたいいものが一ぱい出てきた。そうすると、日本の近代史という
のは、文化の全体を保証しないようにいつも動いてきているんですよ。
<引用つづく>
17
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 05:59:02 ID:HQCjQBEE0
それじゃアメリカの民主主義ははたして日本の文化の全体を保証したかというと、た
とえば占領軍が来て一番初めに禁止したのは、「忠臣蔵」ですね。歌舞伎の復讐劇で
すね。それからチャンバラとか、殺伐な侍の芝居を禁止しましたね。そのとき舟橋聖
一らのエロ小説は全部解禁された。エロティックなことは何を書いてもいいという時
代がしばらく続いたでしょう。そして思想的にあらゆるものが解放された。解放され
て日本文化が復活したかというと、そうじゃないところがおもしろいんだ。文化とい
うものはそういう形に置かれたときに、またへんぱなものになっちゃう。文化の全体
性というのはいまないんですよ。こんなに言論が自由であるように思われるけれども
、何も全体性というものがないですよ。そして、文化というものはただだらしのない
ものになっちゃった。創造意欲が少しもなくなって、あわれなものになっちゃったん
ですよ。すると、アメリカ的民主主義というのは、文化としては日本文化の全体性を
回復したとは思わない。やはり一面性だけしか回復しなかったんだと思いますね。戦
争中のああいうものを一面性しか回復しなかった。おまえの求める文化の全体性とい
うのは、それではいつの時代それが実現されたんだというと、徳川時代もだめだった
。徳川時代は幕府が一生懸命禁圧してだめだった。それから平安時代は貴族文化だけ
ですからね。
そういうふうにどの時代の政治形態も、政治形態というのは文化の全体性を腐食する
ような方向にいくんです。だからぼくは政治がきらいなんです。政治はきらいなんで
すが、ぼくにとって最終的な理念というのは、文化の全体性を保証するような原理。
そのためなら命を捨ててもよろしいということをぼくはいつも言っているんです。保
証する原理というのは、この世の地上の政治形態の上にはないですよ。ですから三派
直接民主主義なんてことを言うと、どうして日本に天皇があるのに直接民主主義なん
てことを言うんだ、ああいうものがあるんだから、君らの求めるそういう地上にない
ような政治形態を天皇に求めればいいじゃないかって言うんですよ。ぼくは天皇を決
して政治体制とは思っていませんけれども、ぼくは文士ですから、文士というものは
いつも全体性の欠如に対して闘う、という観念を持っている。われわれの書くものが
石原さんの言う自由であるためには、無意識の自由、意識された自由、政治形態とし
ての自由、何の自由なんてものは問題ではない。文化が、日本の魂があらゆる形で四
方八方へ発揮されなければ・・・・・・。
<引用終わり>
(守るべきものの価値――われわれはな何を選択するか
<初出>月刊ペン・昭和44年11月
<初刊>「尚武のこころ」日本教文社・昭和45年9月 より)
18
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/11(日) 06:04:11 ID:HQCjQBEE0
「日本文化というものはいままでどういう扱いを受けてきたか
というと、」以下の発言が上記の議論と直接関係のあるところ
ですが、その他の発言も、三島の天皇観の重要な点を述べている
と思います。
19
:
極東博士
:2009/01/18(日) 19:02:54 ID:G6iz/z3k0
アルコーン・ヤルダバオトさん。
レス遅くなって申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします。
野坂はご存知のように戦中戦後の世代ですが、三島とは明らかに天皇や
エロティシズムに対する考え方は異なっています。
正直、三島の国家エロティシズムは極めて凡庸な思考でしかないと思います。
西洋におけるキリスト教が中世以降にエロティシズムに対してどのような見解をとり続けたか。
三島の思考にはまず天皇ありきで、エロティシズムは二次的な概念と思います。
また、石原に至っては現在でも、新渡戸稲造の受け売りだけで、米国におけるネオコンや
キリスト教原理主義団体がどれだけの影響力を持ち、社会を動かしているかに対する
思考が完全に欠落していると思います。
20
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/23(金) 02:53:10 ID:???0
件の自衛隊駐屯地襲撃決行直前に行われた古林尚と三島由紀夫の対談
の所収があります。
三島「現代生活というものは褻だけに、日常性だけになってしまった。
そこから超絶的なものがない限り、エロティシズムというものは存在
できないんだ。エロティシズムは超絶的なものに触れる時に、初めて
真価を発揮するんだと、バタイユはこう考えているんです。」
三島「さっき申し上げた美、エロティシズム、死という図式は、つま
り、絶対者の秩序の中にしか見出されない、という思想なんです。ヨ
ーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロティシズムは存在しな
いんです。あそこには厳格な戒律があって、その掟を破れば罪になる。
罪を犯したものは、いやでも神に直面せざるを得ない。エロティシズ
ムというのはそういう過程を辿って裏側から神に達することなんです」
(『三島由紀夫 最後の言葉』より)
この場合、自衛隊に突っ込んで総監を縛り上げ、自衛隊員七人を負傷
させたというのが「罪」とでもいうことになりましょうか?罪を犯し
て裏側から彼にとっての神としての天皇に接近し、自らの肉体を滅ぼ
してこの「聖なる神」との精神的合一を果たそうとするつもりだった
ということですかね?三島に関してはお二人には遠く及びませんので
ご助言ください。
21
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/24(土) 04:11:02 ID:HQCjQBEE0
極東博士さん
>野坂はご存知のように戦中戦後の世代ですが、三島とは明らかに天皇や
エロティシズムに対する考え方は異なっています。
私は野坂について詳しくありませんので、一概には言えませんが、
あの対談では、野坂のエロティシズムに対する考えは纏まっておらず、
終始三島の理論を彼が受け流していたように感じました。
三島に促された野坂が、「エロティシズムの行きつく先はテロリズム」
だと言い、三島は「それが聞きたかった」と、半ば誘導尋問的な会話で
対談は終わっていたと思いますが、この「エロティシズムの行きつく先
はテロリズム」というのは確かに両者の一致点であって、そう考えてみると、
三島と野坂のエロティシズムに対する考えは異なりはするが、他方で、
そういう一致をみていたという事実はあるかと思います。
>正直、三島の国家エロティシズムは極めて凡庸な思考でしかないと思います。
凡庸という価値判断は定かではありませんが、論理的すぎるということは言えますね。
実際、別の対談で、三島はバタイユの非連続性や連続性を図式的に論理化しています。
>西洋におけるキリスト教が中世以降にエロティシズムに対してどのような見解をとり続けたか。
これは勉強不足で考えが及びません。バタイユなどを読んだら良いヒントがありますか。
もしかしたら、アブラクサスさんがお詳しいかもしれませんね。
>また、石原に至っては現在でも、新渡戸稲造の受け売りだけで、米国におけるネオコンや
キリスト教原理主義団体がどれだけの影響力を持ち、社会を動かしているかに対する
思考が完全に欠落していると思います。
そうですね。これは石原を含めた日本人全般に言えることだと思いますが、
日本人の米国に対する危機感の欠如には眼を見張るものがありますね。
先頃オバマ大統領の就任式がありましたが、米国が完全なキリスト教国
であるということを私は再認識しました。私見ですが、自由と平等のダ
ブルスタンダードを続けるかぎり、あの国は同じ過ちを繰り返すのかもしれません。
22
:
アルコーン・ヤルダバオト
:2009/01/24(土) 04:58:08 ID:HQCjQBEE0
アブラクサスさん
私もその対談は全集で読みました。事件一週間前の対談だったようですね。
アブラクサスさんの問題提起は、エロティシズムの観点からすれば、
非常に重要なものであり、かつ、困難なものです。
三島のロジックを借りて語ることは少しはできるかもしれませんが、
本当に語ろうとすると、それこそバタイユの世界に入ってしまいます。笑
三島に関する評論で、私がすっかり納得できるものは未だになく、
(もっともそんなに沢山は読んでいませんが)
私自身明確な回答を持っていないので、とりあえずは一緒に考えましょう。笑
まず、指摘させていただくと、
>自衛隊に突っ込んで総監を縛り上げ、自衛隊員七人を負傷
させたというのが「罪」とでもいうことになりましょうか?
と、こういう現実的な「罪」を三島が考えてたとは思えませんね。
なぜならば、彼は思想と行動の一致を目指しており、そのような
「罪」は一面的なものでしかありえないからです。
論理的に考えれば、エロティシズムには「罪」が必要であり、
「罪」を獲得しようとすると、神(神的天皇)に反抗する必要
があると考えられます。つまり、もし三島がエロティシズムの
顕現を目指していたのならば、その反抗を行なう必要があったはずです。
しからば、三島はその最後の行為で、どのようにそれを行なったのか。
これがこの問題を解く手がかりになるだろうと思います。
23
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/26(月) 03:39:59 ID:???0
私はバタイユの論から、今の論を考察するしか出来ませんが、どうにも
三島の自衛隊襲撃と割腹自殺は、バタイユの論からすればそれは彼の思
想とは違うものであり、彼はそれを「ノン(=否)」というのではない
かと。というのも、バタイユのエロティシズムについて冒頭で語られて
いる言葉を思い出していただきたい。
「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚だ」
既に何度かこれを書いていますが、この真意は、不条理な人間の生の全
面的肯定です。これはさらにカミュの思想とも大いに重なっていること
ですが、これはまず、生の肯定であるとともに死の否定を唱えています。
しかしここに問題があります。死を否定するには、まず死の明証を肯定
しなければならないということです。つまりどういうことになるかとい
うと、死の否定である生の肯定そのものが、同時に死の肯定を含むとい
う矛盾した関係それ自体を体験するということになります。こういう関
係が、「生と死」にはあるということになるのです。
生の称揚が死の恐怖に脅かされて不安に陥る、死への恐怖は生への羨望
につながっている。「死」は有無を言わさず「生」を奪う故にこれほど
暴力的で驚異的な、残酷な明証はありません。なぜならいかなる道徳も
いかなる努力も理由付けできないからです。まさに「われ、ただ口に手
を当てんのみ」のヨブのごとく、沈黙をもたらすのみです。
24
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/26(月) 04:03:02 ID:???0
生もまた確実な明証であるとすれば、人間の存在はこの二つの確実な明
証の緊張した対決にある存在であるということになります。バタイユの
エロティシズム論はまさに内的体験における生と死の諸力が衝突し、悲
劇的な葛藤の場を作り出す人間を全面的に肯定する者の謂です。この不
条理さについてはカミュと絡めて思考の方でまとめるつもりでいました。
なぜなら「エロティシズムの逆説」という小論の中で、バタイユはエロ
ティシズムの不条理さ、理不尽さ、そしてその不条理さに対して人間が
とる不条理な態度について力説しているからです。現代においても通用
することで、これはヤルダバオトさんが、アメリカについて述べた「同
じことを繰り返してしまう」ことへの危惧にもつながっています。とい
うのは、戦後のバタイユはまさにアメリカのみならず核戦争の危機に向
かっていく冷戦構造の世界にそれを訴えかけているからです。
こちらはカミュですが、本当にバタイユとよく類似していて、バタイユ
がカミュを積極的に評価しているのがよく分かる文です。
「死への恐怖は、生への羨望につながっている」
「生きることへの絶望なくして生きることへの愛はない」
それゆえに生を称揚し、積極的に肯定するということは、同時に内的体
験における葛藤の不条理をさらに増大させることになりますが、これは
自殺を否定するものだといえます。なぜなら生の称揚は、この世との絆
を離れては絶対にありえないからです。死は絶対に生ある限りの間には
体験し得ない、人間にとって『死』とは『死の意識(あるいは死のイメ
ージ)』にほかならず、エロティシズムはその極限体験であって、生の
極点を体験することに他なりません。なれば、この不条理な生を称揚す
るには、この『死』を包摂することによってしかありえない。こう考え
た時自殺ってどうなの?ということになり、それはこの生の称揚を諦め
るということになります。
25
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/26(月) 21:29:33 ID:???0
バタイユとカミュで突っ走ってしまいましたが、私如き凡夫が行動の
天才の三島を思考の俎板にのせるには、はっきり言って知識不足が否
めません。というか、バタイユについてもまだ考察中でありながら畏
れ多い気がします。「三島由紀夫おぼえがき」の澁澤と出口の対談と
か、澁澤の三島についての見解もきちんと整理しなおさなければいけ
ませんね。ただ、澁澤も自殺の見解については少しだけですがカミュ
を持ち出していました。そういえば、三島について論じているユルス
ナールを澁澤が翻訳していますね。「愛惜措くにあたわざる作家」と
して、あだやおろそかに扱うことのできない作家としての三島と結び
ついたこの本を翻訳しようという気になったとかで。
読んでみようかな。
26
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/27(火) 22:17:20 ID:???0
失礼、ご両名にお詫びしたく・・・。
どうも私自身、自分で書いててひっかかっている感があり、納得がいっ
ていない書き方をしてしまっています。というのは、解釈的な問題です。
三島の自殺行為に対してバタイユが否というのでは、といってしまった
手前、自殺の考察に関して「否」というのは、これはカミュに関しては
そうであっても、似ていても違うところはあるもので、実は私の中でも
別の解釈が真っ向からぶつかっているということをきちんとおつたえし
ておかなければなりません。
つまり、こういうことも人間はしでかしてしまうのだ!と言う倒錯・・
・。アセファルの計画表にあるように、自ら倒錯を引き受ける、という
のが澁澤の三島に関する覚書で確認できるからです。
6.倒錯や犯罪を、排除すべき価値としてではなく、人間の全体性に統合されるべきものとして自ら引き受けること。
「僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本
中の人が馬鹿にして、物笑いの種にするかもしれない。全く蓋然性の問
題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからない
けれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている」
27
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/27(火) 22:19:20 ID:???0
これが直接襲撃と自決に結びついているかどうかは別として、澁澤や出
口らも含め、自他共に認めているように、三島はバタイユに対して異常
に執着していたとあります。
特に生田耕作が『マダム・エドワルダ』と『わが母』、そして『エロテ
ィシズムの逆説』を『聖なる神』として刊行したとき、異様にほめてい
ます(いわれなくてもお二人なら知っているでしょうけど・・・)。出
口もまた『有罪者』を訳して三島に献上したところ絶賛されたと。『有
罪者』と『エロティシズム』ではずいぶん文体的にも毛色が違いますが、
既に私のHPにもあげたように、『マダム・エドワルダ』と『無神学大全』
の書かれた時期はほとんど並行しております。
バタイユの文学作品は自伝的要素の強いところがあるのですが、『マダ
ム・エドワルダ』の最後にこんな文があります。
先を続けるか?そのつもりだった、だがどうでもよくなった。興味は失
せてしまった。筆を渋らせるこのやりきれない思いの原因を探れば、一
切は狂っているのか?それとも何かの意味があるのか?こんな風に考え
る時、俺の気分は滅入る。毎朝、俺は目を覚ます−何百万人の−男女や、
赤ん坊や、老人と変わりなく−眠りはすっかり霧散し……おれ自身も、
そしてこれら何百万の人間も、俺たちの目覚めには意味があるのか?隠
れた意味が!どうやら隠れた意味が!だがもし何物にも意味がなければ、
俺の営みは無益である。ごまかし、引き下がるしかない。投げ出し、無
意味へ身売りするほかない。俺にとっては、苛み、命を奪う死刑執行人
は、これだ。希望のかけらもない。が、もし意味が存在するとすれば?
今日のところは、俺には分からない。明日になれば?知れたものか。俺
の責め苦でない意味などは考えられない、この方はおなじみだ!だから
さしあたっては無意味だ!「無意味氏」が書く。自分が狂っていること
を、彼は心得ている。やり切れぬ話だ!がこの狂気、この無意味、これ
はまたなんと、突然、深刻な姿に変化することか−これぞまさしく『そ
の意味』であろうか?[いや、ヘーゲルは一人の狂女の神格化とはなん
のかかわりあいもない……]俺の生は俺がそれを欠くとき、初めて意味
を持つのだ。正気を失うという条件のもとに、分かるものはわかってく
れよう、瀕死の人間は分かってくれよう……。これこそは存在の姿であ
る。わけも分からず、寒気で、震え続け……。無限の拡がりに、暗闇に
取り巻かれ、わざわざ、彼はそこに置かれているのだ…。知らされない
目的のために。
28
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/28(水) 18:12:42 ID:???0
哲学的表現と文学的表現がごちゃまぜになっている故に難解そうで、突然ヘー
ゲルとか言われたってわかんねぇよ!とかいう人もいるようです(アマゾン参
照)。書かれている所にはきちんと書かれているものです。とはいえ、ヘーゲ
ルについて語れともなると、長くなってしまいますので、この辺りは、思考の
方で書くことにしましょう。
シュリヤは『無神学大全』の『内的体験』とか、『有罪者』との関連性を強調
しています。私も『内的体験』を今読み進めているところですが、この中でバ
タイユはしきりに「非−知」なる語を使います。HPの方で記したサルトルとの
激烈な論争の契機となるところです。
意識が常に何ものかについての意識だということが現象学以来、哲学の了解事
項になっている、しかしだ、では不安や倦怠、死の意識、笑い、涙といったな
にものについての意識でもない意識の在り方、すなわち対象の定かでない意識
は?という問いがたつようになる。「認識」の構造の自明性を問い直す形でこ
れが浮上してきたわけです。
29
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/01/28(水) 18:14:31 ID:???0
バタイユはこれを、「認識の不在の認識」という逆説的な表現でかたりますが、
これは、このなんであるかもわからない「認識の不在の認識」について、ただ
存在者としての人間をそのように在らしめる「在るもの」としか言うことがで
きぬ「それ」をして、もう一度認識の構図のうちに送り返すこと無しに、従来
の認識と「それ」との関係を明確にしようとするものです。その状態は、主体
が「非−知」、客体が「未知なるもの」ということになるバタイユはいうので
す。簡単に言えば、なんでかよくわからんものが突然現れてびっくり仰天して
しまうとか、見たことも聞いたこともないものに遭遇して感動したり戦慄した
りするでもいえばいいでしょうか。
たとえあこぎなことでも、理不尽であることでも、はたから見れば無意味にし
か見えぬことでも、人間はやってしまうことがある。このような行動に「我こ
そは一般常識を知る普通人だ!」と自称する「優等生」たちは、この現実に出
来した「未知のもの」に対してどうとるか。それは、人間がこういうこともし
でかしてしまうのだ、という「認識の不在の認識」に対して目を背けようと必
死になり、既知のものでないからなかったものにしたがるのです。
このあたりは澁澤が、『三島由紀夫おぼえがき』の「絶対を垣間見んと
して」で、実に見事に、彼が自決したときの評論などを取り上げて論じ
ていると私個人は思います。
30
:
極東博士
:2009/02/01(日) 02:43:12 ID:G6iz/z3k0
進行上止むを得ないことなのかも知れませんが、なにやらバタイユを絶対化しているような気がしますね。
エロスとタナトスにしても、それは言うまでもなくフロイト以降の概念であり、エロティシズムおいても
意識と無意識を区別する必要はあるかと思います。
31
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/02/01(日) 06:25:11 ID:???0
うーん…、率直に言わせていただければ、バタイユを絶対化していると
いうよりは、博士がここで述べられて以来、三島のエロティシズムの考
え方と、バタイユの考え方にどうもひっかかりがあって、その比較検討
というかそれを行ってみようと思っていただけなんです…。誤解されて
しまったらまことに申し訳ないんですが、私には澁澤が自分の翻訳でエ
ロティシズムを読んでほしかったというのが、暗に室淳介訳への批判で
ある以上に(これは三島もはっきり「よくまあこんな日本語の文章を天
下に公表する気になれる」と酷評していますが)、自分の翻訳を読んで
いれば三島はあんな風にはならなかったはずだと言いたいような感傷が
ひしひしと伝わってくるからでして。このあたり何かご存知でしょうか?
このあたりがどうにもはっきりしないんで。そこで渋澤訳のバタイユの
エロティシズム論の観点からして、あんなことにはならなかったはずと
いうところに該当するであろう自殺ってどうなのと素朴に考えてみたん
ですが。つまり、バタイユ絶対化ではなく、ひとつの知のあり方から見
てどうであるかの思索であって、博士が仰ってくださったように、思考
の相対化への過程にあります(このあたりには私にも自覚があり、決し
て盲目であるわけではないということをお伝えしておきたいです。お見
苦しいところをお見せしてしまって大変申し訳ないと思いつつも書いて
います。これに偽りはありません、本音です。)
また、日本における「晴れと褻」の考え方というのは、西欧における
「聖と俗」の対立とは道徳観の次元を異にするものだと思いますし、
この場合、三島は西欧の道徳観とエロティシズムの考え方を、無批判
に日本においても通用するものだと取り入れてしまったのではないか?
という疑問が浮かび上がってきたわけで・・・。なんにしてもこれ以
外にも私の頭の中では思考の氾濫が起こっており、これ以外にもあげ
ようと思えばいくらでもあがるくらいです…。
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