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本門の戒壇について

150大東亜の星:2010/03/16(火) 13:30:00

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.11)に云く『御法主上人には、その折、某二老師の古稀の宴席に他の第六十世日開上人の遺弟、法類の方々と共に、それも夫々夫人同伴で招待されたものである。したがって、汝が誹謗する如き、「芸者あそび」などではない。二老師の一生に一度の晴れのご招待の席を「芸者あそび」などと貶すとは無慚極まるというほかない』などと。

これは悪坊主日顕さんが、創価学会から贅を凝らした「芸者あそび」を指摘された時の言い訳である。おおよそ、出家僧侶たるものは、小欲知足を以って旨とすべきなのである。御開山上人の二十六ヵ条には「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或いは修学の仁に於いては、設ひ一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」と御教示であるが、この誡文の冒頭部分の「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし」とは、坊主の妻帯を禁じておられる誡文そのものなのである。

それを、棚に上げて「某二老師の古稀の祝いの宴席に夫々が夫人と同伴で宴席に招待された」とは恐れ入る。これはいうなれば出家僧侶の堕落以外に何ものでもない。大体、出家僧侶の衣食住の全ては、在家信徒が供養という簿財で一切を賄っているのである。僧侶たるものその一端に思いを馳せれば、温泉場で贅沢三昧の宴席を挙行するなどもっての外であろう。

また、御開山日興上人は「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて髄力弘通を致すべき事」とのご教示を併せ拝する時、大聖人の御遺命たる「国立戒壇」を永久放棄しながら、古稀を祝う宴席を設けるとは言語道断、正系門家の名はすでに地に落ちたという以外に言葉もない。ここで正系門家たる所以は、何を以って正系門家と呼ぶに値するかと云えば、「一期弘法付嘱書」に明白にお示しなのである。それは、大聖人の御存生の御時から、本門の本尊と、唯授一人の血脈と、国立戒壇の三ッを頑なまでに堅持して来たが故に正系門家と呼ばれて来たのである。

ここで「一期弘不法付嘱書」を謹拝してみよう。「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり。時を待つべきのみ。事の誡法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

「日蓮一期の弘法」とは「本門の本尊」の御事である。次に「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」とは「唯授一人の血脈」である。次に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり」とは正しく「国立戒壇」ではないか。

ところが、昭和45年5月3日、悪僧日達さんは創価学会の第33回総会の席で、池田大作さんの身に余る奢侈に溺れ、遂に諂いが高じて「国立戒壇」の永久放棄宣言をやってのけ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのである。こうなっては、最早当然の事ながら正系門家とは言えないのである。この宣言を耳にした邪宗日蓮宗はもとより、日本のあらゆる宗教団体は諸手を挙げて、「国立戒壇」永久放棄を歓迎し、今に我が家の春を謳歌しているのである。

正系門家切っての英邁な猊下であられた第六十五世の日淳上人は「真に国家の現状を憂える者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります。(大日蓮 昭和32年1月号)とご教示なのである。この堂々たる獅子吼こそ、日蓮門家は味職すべき金言なのである。


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