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「学問は光なり」と「賢者のネジ」の表紙にあるロゴの持つ秘力の意味

1藤原肇:2005/01/05(水) 07:07
ジブラルタル海峡を越えてアフリカに渡り、モロッコを歩き回った真夏の旅から戻った所だが、その途上で体験した不思議なことを紹介して、これがシンクロニシティに関係するかどうかを考察してみたい。
「賢者のネジ」の出版に当って表紙のデザインに、英文のホロコスミックスの論文の第5図に使った、特異点から始まりトーラスに至る三つの立体図で、表紙を構成したいというのが最初の頃の私の考えだった。それに対してたまいらぼ出版の玉井社長が、「アラブ文字で構成したロゴにしたら」という提案をしてくれ、「このロゴには不思議なエネルギーがあるらしくて、 [食は運命を左右する]という本の表紙にこのロゴをつけたら、予想もしなかったほど本の注文が続いており、どういう理由か全く見当がつかないのだが、本が例外的に売れて驚いているので、騙されたと思ってこのロゴをつけたらどうですか」と言われて私は承知した。
そういえばこのロゴの図案には見覚えがあり、かつて玉井さんが私を訪ねてカリフォルニアを訪れ、砂漠の庵で一週間ほど滞在して議論をした時に、お土産としてこのロゴのついたTシャツを貰ったのが、小渕内閣が誕生した年の九月のことだった。ロゴの下には「智力如是慧光」と玉井書体で書いてあり、四回対称軸を持つ黒文字のデザインは、魅惑されるような雰囲気を持っていて、図案としては非常に興味深い印象を秘めていたが、私は襟のついたシャツしか着ない習慣のため、このTシャツは一度も着ないままタンスの底で眠っていた。だが、アフリカのモスレムの国に出かけるということで、このTシャツは予備の下着の一枚として、旅行カバンに収まることになったのだった。
(以下は、たまいらぼ出版のHPにある本の一覧から、[食は運命を左右する]の表紙のロゴの拡大図と、[賢者のネジ]の表紙を並べて見られるように、ポップアップトリしたもの)
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/intelligence.htm

3藤原肇:2005/01/05(水) 07:08
中世の暗黒時代に文明の光が届いた事件として、教科書では十字軍のエルサレム攻略を教えますが、「間脳幻想」で藤井先生と議論したように、より学問的な文明の伝播経路として、アフリカからリベリア経由のものがあり、それがトレドやアルハンブラに残ると私は確信しています。そこで2002年の春はスペインからポルトガルへ、2003年の秋はアルプスからピレネーに旅して、ヨーロッパにおけるアラブ文明の影響に関し、自分の目と体で観察する経験をし直しました。
私がサウジアラビアで水を掘ったという仕事が、社会人になって最初のフィールドワークだったので、中東に関しては一応の土地勘を持っているが、モロッコを始めサハラ周辺の土地については、地質や資源に関しての関心で行っただけです。だから、文化的あるいは文明的な視点は強くなかったので、最近のユダヤキリスト教とムスレムの関係、あるいは仏教における密教的なものとバール教、そして拝火教やシュメール文明の関係で見直す時に、戦争のためにバクダットに行けないのなら、モロッコで何かを掴めそうだと感じました。
米国によるイラク侵略についての議論の多くが、石油や宗教の表面をなぞるものとして、知識の切り張りで行われているものが圧倒的で、私には余り感銘や納得するものがなく、物足りないと言う気持ちがし続けました。学者や評論家の議論は知識中心であり、そのときは分ったような気分にさせられるが、その土地を全身で捉えていないために、歴史の証言として生命力を持つものは、知識の新鮮さに比較して以外に少ないのです。
そこで、中東問題をユーラシア大陸の次元で捉えながら、三才の天の次元で文明史的に捉えれば、どんなことになるかと考えて試みたものが、「ニューリーダー」に二回連載した記事でした。昨日(上)が記事の欄にアップされましたが、モロッコから戻ったら編集長から届いていた手紙に、読者から大好評で有り難かったと書いてありました。年に一度くらいの記事を期待して購読する、情報の価値の分る年間購読する読者たちに、目から鱗が落ちたと歓迎されたそうで、書いた甲斐があったと実感したわけです。
その土地に立って歴史を思い起こすことは、トインビーが「歴史の研究」を書いたときに、遺跡に立ち歴史を追想したことによって、当時の状況が生き生きと蘇ったと書いた通りで、その土地には歴史の波動が残っています。それを感じることが今回のモロッコ旅行の動機であり、先ずは古都のフェズとメネクスから始めたら、メネクスで「学問は光なり」という振動の刻印でした。

4藤原肇:2005/01/05(水) 07:08
初めて身につけたTシャツに描かれた図柄が、「学問は光なり」という意味だと学んだことは、「光は東方より」との関係で印象深いことであり、サイエンスを科学と訳す最近の日本の傾向が、浮薄だという気持をこのとき改めて強めた。私自身が地質学と言うサイエンスを学んだし、日本にいた頃はサイエンチストを科学者と訳し、自分がサイエンチストの端くれに属すと思っていた。だが、フランスに留学して暫くした時に、ある集まりで自分がシエンチストだと自己紹介したら、シエンチストよりジェオログの方が良いと言われ、最初はその意味が良く分らなかった経験がある。
Scienceはラテン語のScientiaを起源に持ち、それは知ると言う動詞Scioに由来して、知識と言う意味の言葉であると学んだが、ローマ時代の知識階級はギリシア語を使い、
ScientiaはPhilosophiaに従属していたという。Philoは愛すると言う意味であり、Sophiaがギリシア語で知を意味しているから、知ることが好きでたまらないことが、フィロソフィーだと高校で習ったことを思い出し、昔のサイエンスは学問だったのに、専門化のために科学に落ちぶれたと痛感した。また、ハクスレーが講演した時に司会者が、「ハクスレー先生は偉大な科学者です」と言ったら、彼が「私は科学者ではない。もしScienceという言葉を使うのであれば、私はa man of scienceです」と訂正したと言う有名なエピソードがあるが、知を追求することが学問であり、学問が知であり光だと知っていたゲーテは、臨終の言葉に「もっと光を」と言ったのではないか。
いずれにしても、博識なモロッコ人にロゴの意味を教えてもらい、その日の私はとても幸福な気分に包まれていたし、ホテルの近くにインターネットカフエがあったので、底へ行ってメールと『宇宙巡礼』の掲示板を開いた。メールは十通くらい溜まっていたが、その中の一つに仙台の首藤さんからのものがあり、「ディアナサン・ダイヤモンドの株主に贈りたいので、[賢者のネジ]を100冊ほど本社に送ってほしい」という内容だったので、智慧の光はダイヤモンドの光になったと感激した。矢張り「光は当方から」差し込んで来たのであり、ことによるとシンクロニシティなのかも知れない。
ダイヤモンドの新しいカットを発明して特許をとり、数年前にディアナサン(月の女神ディアナと太陽のサンの組み合わせ)を設立した建築家の首藤さんは、「ダヴィンチの黄金のピラミット」の著者であるし、「間脳幻想」の読者として出合った人でもあった。ディアナサンのダイヤモンドに関しては、脱藩道場でその内容を紹介したことがあり、カットと色の素晴らしさについての記事が、「宇宙巡礼」のどこかのスレッドにあったと思うけれど、その記憶があやふやなので申し訳ない。

5藤原肇:2005/01/05(水) 07:09
メクネスのメディナの中心にあるグランド・モスクは、青緑の外装で飾られた四角なミナレットを持っており、遠望しても神々しさを感じさせるが、このモスクにはモスレム信者しか立ち入りが出来ない。信者が周辺にまで溢れているのを見ながら、近くにあるジャメイ博物館の展示品を眺めた後で、マンスールの門を通ってムーレイ・イスマイル廟を訪れたが、ここは非モスレムでも立ち入ることが出来るし、天井から床いっぱいに広がるモザイク装飾の素晴らしさに、しばし地上の楽園に似た思いを堪能した。
このムーレイ・イスマイル廟の外には「風の道」が続き、両側に聳える王宮の医師の壁に沿って歩いてから、王宮前の広場を南に向けて歩くと水の館(ダル・エル・マ)に着く。ここはメクネスの飲料水を賄っていた興味深い施設で、馬が円運動する動きを螺旋ポンプに転換して、大量の地下水を地上に汲み出していたという。しかも、ここにはアトラス山脈にまで延々と続いて行く、長大な地下の通路の入り口が存在しており、地下世界に通じているという話を聞いた時に、私は実に不思議な感慨に包まれて、たまいらぼで出ている「Z(ゼット」File」と題した本の内容を思い出した。その内容は同書に詳しいので紹介を省くが、私がマチョピッチュで感じたことを手紙に書き、それを読んだ玉井さんが何かを感じたらしく、ブラジルに出かけてアマゾンの奥地で体験したという、地底への入り口の洞窟での奇怪な体験談が、この本のストリーの骨格を構成していた。
大分前に読んだので詳しいことは忘れたが、玉井さんがアマゾンの現地人に迎えられ、洞窟で読経した後で奇妙な体験を積み重ねて、帰る時に太陽と月の像を形どった石を貰い、それを日本に持ち帰ってきたと聞いている。そうなると、前日インターネットで「賢者のネジ」を注文してくれた、ディアナサンは月の女神のディアナと太陽であり、縁起を担ぐわけではないガ何か奇妙に結びつき、水の館の薄明の中で私は一種の幻想を味わった。玉井さんは私の本の熱心な読者の一人であり、「間脳幻想」を十数冊も購入して心ある人に配り、今回は「賢者のネジ」という題名を考え出し、本の出版を引き受けてくれた人だし、私に「学問は光なり」のTシャツをくれた人でもある。しかも、私は「水の館」にそのTシャツを着て訪れたが、玉井さんがアマゾン奥地の洞窟を訪れた時に、果たして同じTシャツを着ていたかについて、その辺が奇妙なことに気になって仕方が無かったが、アトラス山脈の霊気で幻想を見たのだろうか。

6藤原肇:2005/01/05(水) 07:09
メクネスの史跡で味わった幻想も奇妙だったが、汽車で七時間ほどの距離のマラケッシュには、世界最大といわれるスーク(市場)があるので有名で、そこを散策したら奇妙なシンクロニシティは更に続いたのである。
初日は巨大な迷路のスークを歩くことだけで過ぎ、夜になってフナ広場の大道芸や屋台を楽しんだが、泊まったのはシェラザードというホテルだった。「千夜一夜物語」を感じさせるメディナ内のプチホテルには、座布団で座るアラブ式のサロンがあって、屋上にはミナレットからの祈りの声を聞きながら、日没やお茶を楽しむテラスも備わっていて、モスレム世界を満喫する仕掛けが出来ていた。
その晩に見た夢の中にフィボナッチ数列が現れ、北極星や北斗七星が繰り返して登場するので、朝起きた時に不思議な気分に支配され、屋上のテラスに行って何故かについて思索した。それまで意識しなかったのは迂闊であるが、モロッコの国の紋章は五芒星の晴明紋だったのであり、そうなると晴明派の風水師の大雪山さんや、安倍の晴明に関係するのだろうかと思っていたら、奇妙な連想により阿倍仲麻呂を思い出した。
その思い当たり方が実に奇妙だったのであり、二日目の午前中はメディナの要所を見て歩いたが、ベン・ユーセフ・モスクは異教徒だから立ち入れず、傍の神学校(タリバン)であるベン・ユーセフ・マサドラは博物館であり、イスラム建築として最高傑作といわれているので、その繊細な幾何学模様の装飾を堪能した。
そして、昼下がりのホテルの屋上のテラスの長椅子に横たわったら、いつの間にか眠りに陥って夢を見たが、それがピラミットに登って四方を見渡したら、それが前穂高岳の頂上に立つケルンの石の中に、アンモン貝(アンモナイト)があったという奇妙な内容だった。「山岳誌」のどこかに書いたように記憶しているが、前穂の頂上の石は石英斑岩や閃緑岩で、その中に化石が入っていることは有りえないのに、こんな脈絡のないことを夢に見たというのは、午前中に訪れたタリバンの幾何学的な装飾模様と、フィボナッチ数列に関係していたからだろう。しかも、眠りに落ちたのはほんの十分ほどであり、盧生が体験した「邯鄲の夢」に似たようなもので、どうしてこんな夢を見たのかとぼんやり考えたら、潜在意識の中に張る赤い糸の存在が見えて来た。

7藤原肇:2005/01/05(水) 07:10
前日に市場で化石を売っている店を見つけて、そこで白亜紀のアンモン貝を含む断面を磨き上げた、石灰岩に入った化石の標本を買っていたし、私は卒論で調査したのは秩父の山中地溝帯だったが、そこで見事なアンモン貝の化石を見つけ、同定したアンモナイトの標本は大雪山で発見したものだ。そこで大雪山珪水さんとの繋がりが見え、次に晴明派の風水師から安倍晴明に繋がって、アンモン貝と黄金比は「間脳幻想」に書いた通りであり、夢の中に出てきたものがネットワークを構成した。
しかも、陰陽師の安倍の晴明は阿倍仲麻呂の血脈に繋がり、「今昔物語」では母親が信太の森に住む白狐と言われ、それが安倍の晴明の出自の謎と結びつく。しかも、晴明は玄宗皇帝から手に入れた秘伝書を守ったというが、その秘伝書が「金烏玉兎集」という名前であり、金烏は太陽で玉兎は月の異名であるから、ここにまた太陽と月の組み合わせが登場している。
アメリカの自宅に旅から戻った今の時点で思うと、こんなことを長々と書く自分をもう一人の自分が見れば、「年齢のせいで耄碌して思考の明晰さを失い、何となくオカルティツクになったが大丈夫かね」と言いそうな感じもするが、正直な話としてマラケッシュにいた時の私は、こんなことを思い巡らせていたのだった。
それにしても、アンモン貝の成長は黄金比に従っていて、黄金分割は五芒星によって象徴されており、五芒星はモロッコの国璽と晴明紋に結び、晴明派の風水師が大雪山珪水さんに繋がる。そして、安倍晴明が秘蔵する文書ガ「金烏玉兎集」で、それが太陽と月の組み合わせからなっていて、ディアナサンの首藤さんから連絡が届いた。また、それが「賢者のネジ」の表紙のロゴとの関係により、最終的には光と結んだという連鎖系が、僅か一日の間に出来上がったというのは、真夏の白昼夢にしても奇妙な体験だった。

8村山貴子:2005/01/05(水) 07:10
科学者の藤原さんがどんどんオカルト的になって行くような感じがして、とても不安になり心配しながら旅行記を読んでいたのですが、あと僅かなところで懐疑の精神が目覚しく動き出しただけでなく、全体の関係を結び付けて考え始めるのを読んで流石だと思いました。しかも自分を見守っているもう一人の自分が登場して、自己の考えを分析したり反省しているのを知り、そこに考える人間の姿を発見したような印象を持ちましたので、これが思索を深める上で必要な再興の方法であると分りました。有難うございます。

9藤原肇:2005/01/05(水) 07:11
私は科学者だからオカルトに飲み込まれないが、それにしても奇妙だという気持に支配され、何とか説明できないかと考えてみたら、自宅にいる時と旅に出ている時の違いに気づき、着ているのが絹のYシャツだと思い当たった。前日は例外的にコットンのTシャツを身につけていたが、この旅行のほとんど毎日が絹のシャツだったし、夜は旅行の時に用いる絹のパジャマを着て寝ていた。
われわれが習った生活の歴史についての説明では、絹の衣類を普通は金持ちや支配者が着るもので、一般の人は木綿を着るものだとされている。そして、支配者の絹に対し被支配者の木綿と教え込まれたが、絹に較べて木綿が安いから分りやすいにしても、果たしてこの通説を鵜呑みにして良いものかは疑問だ。
というのは、私自身の生活スタイルを振り返ってみると、昔から化学繊維は肌に合わず身につけないが、自宅にいる時は肌触りのいい純綿の下着を用い、旅行に出るときは軽くて小さくなる絹が便利で、洗濯しても乾きが早いという理由から、いつも旅支度には絹製品を組み込むようにした。それはカネの問題より便利さのせいでり、軽くて手洗いの洗濯で直ぐ乾く点で絹製品は優れており、少ない荷物で旅をする時の絹の良さは絶大だし、出発前に大雪山さんから純毛の靴下が届いて、ラクダの毛も絹も共に動物繊維であることに、この問題を解く鍵があるようだと気づいた。
しかも、昼間はバックスキンの靴(Hush poppyと呼ぶが何と訳すか分らないが、子犬をシーッと静めることに関係するのかも知れない)を履いて歩きまわっているし、夜はラクダの毛の靴下を履いて寝ており、自宅ではほとんど素足で歩きまわっている上に、夜は綿のパジャマを着て寝ている点に違いがある。そうなると、動物性の衣類を身につけたことが普段と違っているのだから、その威力のせいだということになれば、大雪山さんが言った動物繊維を肌につけることが、脳や体の活性化のために役立つことになり、ここに隠された秘密の知恵がありそうに思えた。
これは修験者たちが体験的に知っている知識で、支配者の中には絹の持つ熱の保存力を知って、密かに自分たちの専用にしていた可能性がある。西行や芭蕉はそれに気づかなかったから、晩年に多くの興味深い漂白人生を送ったのに、木綿の衣服と草鞋という植物繊維をまとっていたので、苦労と嘆きの多い旅を体験したのかも知れない。

10藤原肇:2005/01/05(水) 07:11
大雪山さんがヒポクラテスの著作に触れたことで、彼が生まれたコス島を訪れた時の私の旅行記を読み、石黒さんが目から鱗が落ちる体験を味わったのは、せっかく旅行記が「記事」に収録されていることもあり、活用法として大いに結構であると思う。彼が医師として治療し体験をまとめた場所に行き、環境としての土地をと地質条件を知れば、土地が持つエネルギーを全身で感じことで、なぜ彼がそんな発想をしたかよく分かる。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/la93w.htm
だから、一昨年の夏に試みたヨーロッパでの旅行では、イタリーやスイスのアルプスを訪れてから、ノストラダムスが生まれたサン・レミの町を訪れて、彼の思考パターンについての復元を試みた後で、ピレネー山脈の南山麓を走り抜けてルルドの泉に行き、なぜ万病を治す聖水かを地質学的検証した。その旅行記は「財界にっぽん」に渡してあるが、カラーで印刷費がかかるという理由のために、一年ちかくもペンディングが続いているけれど、そのうち活字化されて目に触れることだろう。聖水や土地の持つ治療効果の高さの秘密は、コス島の湯治場や北投温泉もドロマイトが関係し、カルシウムがマグネシウムに変質することで、石膏の持つ薬用効果が決め手になるらしい。また、40年ぶりにモンテーニュの「随想碌」を読み直したのと、堀田善衛の「ミシェル城館の人」を読破したので、モンテーヌが住んだ城館に彼の書斎を訪れて、どんな気持で執筆したかを追体験したが、「随想碌」は若い頭脳では読めない理由を納得した。
パリに出る途中でシャンボールの城に立ち寄って、ダヴィンチが設計した螺旋階段を歩いた後で、晩年の彼が住んで亡くなった町アンボワーズに行き、死ぬ瞬間まで使っていたダヴィンチの寝室で、一体どの壁にモナリザの絵を架けたかを調べたのは、その場所に残る波動を確認するためだった。自然条件の中で地質上の性格はとても大事で、土地の持つエネルギーの強さと光の当り具合による植生は、その場所が持つ一種独特なパワーになり、それが優れた山師や地質学者が備える直観力を刺激するので、私は常に現地調査をして歴史を復元している。
だから、情報の寄せ集めや頭で考えて書くものより、自分の足で現地を訪れてそこで過去を追想した記録を選ぶので、自分でも同じように現地に行くことにしている。
そうすると旅に出てその土地の磁場に対応して、体の生理現象が微妙に変化するのであり、モロッコの町はオアシスを囲んで発達するが、王宮やメディナは小高い丘陵の上にあり、しかも井戸で地下水を汲み出す仕掛けまであって、土(石)と水と木の組み合わせによる風水を感じ取ることができ、それが旅をすることの醍醐味と結びつく。

11藤原肇:2005/01/05(水) 07:12
しばしマラケッシュでの出来事から脱線したので、再びこの町での体験記に話を戻すならば、この日の午前中に市場(スーク)を散策していた時に、道端でアジのてんぷらを食べさせる露店があり、多くのモロッコ人が群がって食べていたから、私もそこで簡単に昼食を済ませようとベンチに座った。水を飲んでいると目の前に黒い影が立ち、右手を差し出し悲しそうな表情をしたので、物乞いだと思って無視して水を飲んでいた。それまでモロッコで乞食は腐るほど見ていたし、ほとんどが乞食を職業にしているので、福祉を政府に全面依存するのも嫌いだが、道端で物乞いするのもいけないと思い、これまでは物乞いは無視して旅を続けてきたし、この時も目を背けて知らん顔をしていた。
アジのてんぷらとパンの乗った皿が配られて、食べようと思って頭を上げ時に気づいたが、老婆は未だ私を見つめて手を出しており、注視する目元から涙が流れていたので、思わずはっとしてその目に釘付けになった。そして、無意識のうちに老婆に対し手招きをして、魚のてんぷらの皿を指して食べなさいと促し、隣に座るように指示していたので、こんな行動は生涯に始めてだったから、そんな行動をした自分に我ながら驚いた。
老婆は数歩近づいたがベンチには座らないで、胸元から紙を取り出して食べ物をそれに包み、私に向かってアラブ語で何かを言った時に、品のいい嬉しそうな笑顔に伝わる涙を見て、何とも不思議な感慨が私の胸を締め付けた。大道芸人や街頭募金に小銭をやったことがあるが、これまで施しを乞う人は無視し続けた。だが、目の前で涙を流す人に生まれて初めて施し物をして、それもカネでなく自分の食べ物だったので、こんな反応が起きるとは夢にも考えたことさえなく、不思議なほどほのぼのとした気分になった。
これまで乞食は不潔で悪臭がすると思っていたが、近づいた老婆は貧しいが清楚であり、感謝の気持ちが体から発散するのを受けて、門付けをする僧やお遍路さんの雰囲気を感じ、そういえば自分も巡礼ではないかと思った。しかも、旅に出る直前に届いた「財界にっぽん」の記事で、池口和尚と喜捨や布施について論じたが、今年は空海の渡唐から1200年目に当っていたことから、これも何かの引き合わせかも知れなかった。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/shugenja03.htm
これが本当の喜捨という行為かもしれないと思い、ふとアフリカに来て自分が変ったと感じたが、ことによるとアラブ世界では当たり前に属す、施しではなく貰ってもらうという営みに共振して、自然に分かち合う気持が生まれたのではないか。
もう一皿注文して二皿分払って昼食を済ませたが、周辺にいた土地の人の表情が穏やかに見え、カネではなくて食べ物だったせいもあり、何とも気分のいい昼食体験をした感じがして、爽快な気分でホテルに戻り昼寝したのだった。

12藤原肇:2005/01/05(水) 07:12
前穂高岳の山頂でアンモン貝の化石を見つけた夢は、昼下がりのシエスタを彩るエピソードだったが、暫く出来事を繋ぐ連環の糸を手繰った後で、午後の行動に移る前に床屋に行ってさっぱりしようと思った。というのは、妙な体験を含む昼飯の後でホテルに戻る途中に、客で混んでいたが何軒かの床屋があり、私好みの年取った親父が働いていたので、そこで散髪する気になっていたからだ。
最近はどこの国に行っても床屋(bar-bar)がなくなり、理髪室(hair salon)や美容院 (coiffeur)ばかりになってしまい、鋏と剃刀で髪をあたる腕のいい床屋の消滅は、私にはトキやパンダの絶滅より淋しく思えた。グルノーブル大に留学していた頃の私には、年に数回イタリーに行き散髪するのが楽しみだったが、最近ではイタリーでも床屋が急速に絶滅に瀕しており、どこへ行っても米国と同じユニセックスの美容院ばかりだ。
一昨年ミラノから地中海に抜けた旅をした時も、高速道路はやめて町内を通る国道を走って、街道沿いで高年の職人がやる店を探したが、結局はサン・レモの近くでやっと床屋を探し当てた。しかも、遂に地中海に着き町の観光案内所を訪ね、老人が一人でやっているような散髪屋はないかと聞いて、やっと念願の床屋にたどり着けたのだ。
その点でモロッコは男の世界が残っており、男客だけを相手の床屋があるのは嬉しいが、空いた店は何人も若い職人ガ働いているし、年季の入った親父ガやっている床屋では、一般にお客がたくさん待っている店が多い。しかし、数件ほどの床屋に狙いをつけて置いたので、絹のシャツを木綿のTシャツに着替えて、待望のバリカンなしで鋏と剃刀で髪と髭を当ってもらったが、こんな嗜好は今の日本や米国では夢のまた夢だ。
一年前の夏の終わりにシシリー島を旅行した時に、パレルモの近くのモン・レアーレ修道院に行ったら、教会前の広場に数軒の床屋が並んでいて、そこでシシリー風の散髪を体験できた。しかも、渋沢竜彦がシシリー旅行をした時の話で、パレルモからタクシーを雇って怪物宮殿を訪れ、大分経って宮殿から出たら運ちゃんがいない。どこに行ったのだろうかと探したら、床屋から石鹸を顔中に塗った運転手が飛び出し、「待っている間に髭を当ってもらっている」と言ったという。運転手も私に似た好みの人かと思って苦笑し、その話を思い出しながら私は散髪を楽しんだが、一年前のことを今度はマラケッシュで再び思い出して、一年ぶりに顎鬚の周辺に剃刀を当ててもらった。それにしてもモスレム世界は髭が男の象徴だから、その波動が地中海地域にはあるようだと思い、髪だけでなく顎鬚まで床屋にあたらせたが、こんなことも旅における楽しみの一つだ。

13藤原肇:2005/01/05(水) 07:13
髪が長くなったから短く刈るというのでは、腹が減ったらファストフードの店に入って、ジャンクフードを食べて満足するのと同じであり、食事がいかに大事であるかを見失って、人生を餌付けに似た状態にしてしまっている。30年以上もアメリカに住んでいる私は、これまで2 回マクドナルドに行った過去を後悔しているが、それはどこかに書いたと記憶しており、床屋も食事処も自分の流儀に合う場所を選ぶべきで、偏屈と言われてもこの姿勢は変えられない。これはもっともらしい原則論であるが、実は私の食事の仕方が余り感心したものではなく、良く噛まないで飲み込むように早く食べ、脂肪質のものを質も考えずに手当たり次第に、短時間で片付けるように食事をしている、と五六年前に大雪山さんに注意された。そして、この食事の仕方では胃の機能が歪んでしまい、そのために土が水を克すので腎をやられ、悪い食習慣が私の健康を損なっている原因だから、それを直すには一定期間の訓練が必要だと言う。
そこで懐石料理を昼と夜に一週間食べながら、食事の躾を施して歪みを直すことが必要だが、東京でそれをしたら費用が大変だから、新鮮な魚が安い北海道に来ませんかと言われて、旭川に一週間ほど招かれて行き特訓を受けた。
その時に衣食住に注意することがいかに重要で、先ずは食の問題から悪い習慣を改めて、住に関しては土地の問題で地の利を使えと学び、その延長で衣料をどうするかにまで発展し、ラクダの毛の靴下が送られて来たので、ここに来て五行力学について強く意識したのである。
そういえば体の大切な所には体毛が生えていて、毛髪は脳のある頭を防ぐためにあるのだし、二重に防御するために帽子を冠るのであり、インディオのフェルト帽やスラブ系の毛皮の帽子とか、貴族階級もシルクハットを着用したし、シナの天子や日本の殿上人が烏帽子をつけたのも、それなりの理由があったのかも知れない。
散髪を終えてそんなことを思ってスークを歩いたら、私の周りに数人の中学生が付きまとって、手に持つ箱の中の物を買ってくれとうるさい。一人の少年の箱の中にあったのは手の形のブローチで、他の少年の箱の中には三葉虫の化石があり、からかい半分にやった酷い値切り方をしたせいで、話が折り合わないまま交渉は潰れたが、いつの間にか昼前に訪れた神学校の近くに出ていた。こうした光景は何かで既に体験した(デジャ・ビュ)感じで、何時どこで体験したのだろうかと思ったら、それは松井桃樓さんの「いのちきわみなし」の冒頭であり、この本を私は「アメリカから日本の本を読む」で書評していた。スークの中であの本を思い出したのは奇遇なので、面白い因縁だと陶然とした気分でいたら、近づいて来た長い白髭を生やした老人が、「わが友よ」と言いながら握手を求めて来た。そして、私が着ているTシャツのロゴを指差してから、「お話したいので、もし良かったら一緒に来ませんか。直ぐそこですから」と丁寧な口調で誘ったので、好奇心に駆られてついて行くことにしたら、ベン・ユーセフ・マサドラ(神学校)に案内された。奥の部屋にはで数人の髭を蓄えた老人たちがいて、一人一人が私に近づいて丁重に挨拶したが、先ずはハッカの香り豊かなお茶をご馳走になった。

14藤原肇:2005/01/05(水) 07:13
私の名前はハジメ(Hajime)であるということを利用して、真ん中にJimがあるので英語圏ではジムで通しているし,スペイン語圏にはハイメという名前を使い、モスレム圏ではHajiという素晴らしい敬称があるので、これまでハッジ・フジワラという呼び方を専らして来た。ハッジはメッカに巡礼した人を指して言い、「崇高なものに向かう」という意味を持つので、巡礼の使命を終えた者という名誉ある称号は、アラブ世界では何よりも敬意に値する対象である。だから、自己紹介の時に私がハッジ・フジワラですと名乗ったら、皆の表情に言いようもない喜びが浮かび、お茶をご馳走になりながらの話の中で、自分がフランスで学んだ地質学の専門家であり、35年前にサウジアラビアのリャドで水を掘る仕事をし、ファイサル国王のアドバイザーだったと言ったら、そこにいる全員の顔に驚きと敬意の色が広がった。
いかにもイマーム(導師)らしい理知的な顔の人が、「それであなたは聖なる言葉のシャツを着ているのですか」と私のTシャツを指したので、これは日本で宗教家の友人からプレゼントされ、漢字で下に書いてあるのは仏陀の言葉であり、「智慧は悟りの光」の経文はムスレムの「学問は光」と同じだと答えた。すると、「素晴らしい言葉です。あなたの体から黄金の光が広がっています」と言って、両手を耳の近くに持って行くと「アラーがなんとかだ・・・」と大声を出した。
私には何が何だか良く分らなかったけれど、相手が真剣な表情で熱心に朗詠しているので、きっと目を白黒させていたのに違いないが、とても友好的な雰囲気だったから、その声の響きをしばし楽しむことが出来た。それが一段落した後で長老的な人が口を開き、「あなたが同胞にしたザカートに対して、われわれは兄弟としてあなたに感謝と祝福を差し上げる」と言ったが、最初は何のことか見当がつかなかった。だが、話の進み具合でそれが昼食の時のことで、私が物乞いに食事を提供したことを指し、それについて喋っていると思い当たった瞬間に、誰かが私の行動を見ていたと気づいて、市場(スーク)の中に監視網でもあるのかと思い、これはとんでもない所に踏み込んだと思った。
「どうして私の個人的な行為を知っているのですか」と聞いたら、「アラーが総てご存知で、良いことは直ぐに伝わります」と言われたので、私はあんな些細なことでも感謝の対象になるなら、喜捨に対してもっと熱心にやらなくてはと思った。
モロッコはフランス語圏だから皆がフランス語を喋るので、それから後は話が至ってスムーズに運んだし、皆は私を旧知のように扱ってくれたから、私は持論の「宇宙は一体」という考えを披露して、「宇宙巡礼」や「間脳幻想」などの著書を持つと喋った。
そうしたら、「もし良かったら日没前のサラート(礼拝)の時に、ベン・ユーセフ・モスクで一緒に如何ですか」と招かれたので、私に対しての誤解が相手側にある以上は、今さら自分はモスレムではないとも言えないから、適当な口実を作って皆に別れを告げたが、体験としては実に素晴らしいものだった。そして、ことによるとこのロゴのついたシャツを着ていることで、異教徒を伏せてメッカに行くことも可能であり、この「学問は光なり」という霊験あらたかなロゴは、ムスレム世界を訪れる時のパスポートになると思った。

15藤原肇:2005/01/05(水) 07:14
ホテルに戻った私は再び屋上のテラスに登り、長椅子に横たわって日没の時刻を過ごしたが、ナミレットから流れる日没の祈りの声を聞きながら、長居して日没礼拝に加わらないで済んで良かったと思った。サウジで水堀りの監督をしていた時に、働いている人が礼拝する様子をいつも見ていたが、自分では一度も礼拝に加わらなかったし、他人事だと遠くから眺めていたに過ぎなかった。だから、サラート(礼拝)の仕草も手順もほとんど知らないのだから、下手な祈り方をすれば私がこれまで祈ったことがなく、ムスレムでないことが露見してしまうに決まっていた。
私がハッジ・フジワラと名乗ったことに対して、皆が善意の思い違いをしていただけであり、古代の賢人と同じで「宇宙は一体だ」という発言はしたが、宗教問題に関して余計なことは一切言わないで通し、私は自らムスレムだと言った覚えもない。それに、ムスレムの人がアラーと呼んで崇拝しているものは、私が大自然とか大宇宙と名づけているものであり、人知を超えた偉大な存在は想定していたから、宗派の問題などはどうでも良かったのだ。また、私は皆に対して一言も嘘を言ったわけでなく、皆が私を仲間だと思ったのだからそれで十分であり、美しい誤解は余計な一言で壊さない方が良い。
それにしても驚いたのはスーク内の情報網の発達で、人は自分の行為を誰も見ていないと思っているが、実は誰かが見ていて「天知る地知る」であり、これは心しなければいけないことだと痛感させられた。私はこれまで党派や宗派に加わらずに生き、自分はそれを超えて生きる姿勢を貫いてきたので、偏屈とか裏切り者とか幾度も言われたが、枠にはまる人間にはなりたくないと考えて生きた。人間として正直と善意に基づいて生きても、そういう人が集まって組織の枠に収まると、組織の持つ悪に従わなければならなくなるが、それを排除して私は「脱藩人間」として生きて来た。太陽が沈み夕闇が広がるマラケッシュの町で、私は礼拝に参加する愚行を犯さなかったことが、皆の美しい誤解を壊さずに済んだと思うと共に、Tシャツのロゴの威力の凄さを実感した。
アメリカに戻ってから日本の玉井さんに電話をして、モロッコで体験した数々の出来事を伝え、ロゴの持つ威力が凄かったと話をしたら、「あのロゴの持つ力は実に不思議なだが、あれはアラビア文字の書道で世界の第一人者である、本田孝一先生に頼んで書いて貰ったものだから、眼の利くアラブ人には何か響くのでしょう」という返事だった。
そこで「玉井さんの所にあのTシャツは未だありますか。私の読者で[賢者のネジ]のカンパのキャンペーンに協力した人に、お礼としてプレゼントしたいのです」と言ったら、五枚か六枚くらいなら残っているとの返事。それを買い取りたいが幾らかと聞いたら、一着3000円だという返事なので驚いてしまった。アメリカならTシャツは一枚数百円だし、ヨーロッパでも千円もしないと思っていたので、思わず「そんなに高いのですか」と喋ったら、「藤原さん、世界一の書道の先生に特別にお願いして、仏典の素晴らしい言葉を印刷するためのシャツ用に、最高の木綿の生地を選んだのですよ」と言われてしまった。そこで五枚ほど譲り受けることに決めて、亀山さんに渡して貰って二万円のカンパに参加した人に、先着五名に限ってプレゼントしたいと思う。既に五名に達しているかどうかは知らないが、亀山さんのリストの申し込み日付の順位で、最初の五人だけに発送の手配をして貰うことにして、首藤さんが出す限定出版の本に追加したい。

16村山貴子:2005/01/05(水) 07:14
珪水先生の懐石料理の話はとても大事なので、新しいスレッドを立ててそこで続けませんか。また、藤原先生のモロッコ旅行の興味深い体験は、どうやら一段落した感じでロゴの威力と意味が、何となくですが分ったような感じがします。

17経 久世:2005/01/05(水) 07:15
#14から博士の言葉を引用します:
『だから、一昨年の夏に試みたヨーロッパでの旅行では、イタリーやスイスのアルプスを訪れてから、ノストラダムスが生まれたサン・レミの町を訪れて、彼の思考パターンについての復元を試みた後で、ピレネー山脈の南山麓を走り抜けてルルドの泉に行き、なぜ万病を治す聖水かを地質学的検証した。その旅行記は「財界にっぽん」に渡してあるが、カラーで印刷費がかかるという理由のために、一年ちかくもペンディングが続いているけれど、そのうち活字化されて目に触れることだろう。聖水や土地の持つ治療効果の高さの秘密は、コス島の湯治場や北投温泉もドロマイトが関係し、カルシウムがマグネシウムに変質することで、石膏の持つ薬用効果が決め手になるらしい。また、40年ぶりにモンテーニュの「随想碌」を読み直したのと、堀田善衛の「ミシェル城館の人」を読破したので、モンテーヌが住んだ城館に彼の書斎を訪れて、どんな気持で執筆したかを追体験したが、「随想碌」は若い頭脳では読めない理由を納得した。
パリに出る途中でシャンボールの城に立ち寄って、ダヴィンチが設計した螺旋階段を歩いた後で、晩年の彼が住んで亡くなった町アンボワーズに行き、死ぬ瞬間まで使っていたダヴィンチの寝室で、一体どの壁にモナリザの絵を架けたかを調べたのは、その場所に残る波動を確認するためだった。』(引用終わり)
一日も早くこの旅行記が世に出ることを心待ちにしております。ところで、博士が旅行されたこの土地こそ、他のスレッドで言及されている『Da Vinci Code』の舞台に他ならないし、もうひとつのスレッド『魔女の九九』とも多いに関係あるし・・・藤原曼荼羅炸裂、ですね。大いに盛り上げていきましょう!

18首藤尚丈:2005/01/05(水) 07:16
一筆啓上申し上げます。
「モロッコの旅行」で「賢者のネジ」をめぐる「ロゴ」に不思議なシンク論シティを体験されたようですね。
「食は運命を左右する」をアラビア語でロゴにされたということですね。私はアラブ語も文字も知らない内外漢ですが、このパターンを直感(直観)で読み取りますと、数字で「14」ということ、さらに「9」が隠れて、中心からの光が「10」という風に読めます。
それはどんな数かと言いますと、「14」は我々の宇宙の最終曲面の拡大宇宙の果ての数で、円あるいは大黒様の「俵」のような形を示すようです。
中心に打たれた「点」をアラブでは「0」と呼ぶのでしょうか。それから9まで拡大していき空間が構成され、ビックバンの向こう側から光が十字となって、こちらの世界に訪れるという風に理解されます。
その「0と1」を結「光」に秘密があり、ここの光の変換こそ、「神の家」のものであると思われます。
私はこの形をダイヤモンドのアンクカットという形で示しましたが、そのカットの中心にレーザー光を入射しますと、カットの頂点が黄金色に輝き、そこから空中に光の十字が四方に放射されます。
さらにそれを横から見ますと、放射された光が、三角形(30,60,90)で2方向に分かれ、その二つの光を正三角形(60,60,60)の光が結ぶことになります。
「賢者のネジ」を100冊譲って頂き、ディアナサンダイヤの株主の皆様に配布して読んで頂いています。
株主の中には、池口氏と親しい方もおり、興味を持って読んで頂いています。
喜捨についての旅行文もありましたが、本当に貰っていただくという心は純粋なものでなくてはならないことを、私もエジプトの砂漠を緑地化するプロジェクトの中で体験しております。
益々、ご健勝でご活躍されることをお祈りしております。

19Buffett:2005/01/05(水) 07:17
突然失礼致します。
先日、京都の「石不思議発見展」(10/10、みやこメッセ)でアンモナイトを子供が購入しました。店主が言うには、薄く切った石のアンモナイトはモロッコで研磨しているとの由。モロッコの人件費は月3千円。カサ・ブランカ、マラケシュという言葉しかし知らない我々には勉強になりました。また、かつて、アルハンブラ宮殿(グラナダ)に立ち寄った時、水をうまく利用していると感じた次第です。確か、宮殿の裏手には茶畑があったような記憶があり、ここは、まるで京都・宇治の黄檗山万福寺と同じじゃないかと感じ入りました。今から20年以上も昔の話です。さらに、昨年バーゼルに行った時、シナゴーグの入口の上部にあったマーク(□と□を重ねたもの)を、日本のとある大学で発見し驚きました。シナゴーグの近くにあった彫刻(ドラゴン、ハリーポッターに出てくる鳥)が、街のシンボルになっており、これまた驚きました。ドラゴンは、中国だけのマークではなかったのです。ゴシック建築の教会や、縦の棒に蛇が巻きついているマークがある銀行(バンク・サラジン)も発見し、米ドルのマークの元ではなかろうか、と考えたりしています。これも、源はスペインやポルトガル、さらにはイスラムではなかろうかと考えます。

20Buffett:2005/01/05(水) 07:17
『建築の七燈』ジョン・ラスキン著 P.P.265〜266
「格言29 地球は世襲財産である。誰の所有物でもない。
 格言30 見よー 神が我々に造ってくれた物を。
 建築の最大の栄光は、その石にあるのではない。その黄金にあるのでもない。その栄光は年代にあるのだ。そこを過ぎ去って行った人間の波に長い年月洗われてきた壁には、満ちあふれる人々の声があり、厳格に監視する眼があり、不思議な共感があるものだ。」ジョン・ラスキンは上手いこと言っている。そういえば、以前訪れた、Como(イタリア北部)で、歴史の古い教会を見つけた。建設年を見ると3桁であり、ローマ・カソリックのコモ司教が置かれた教会であった。もちろん、石造り。翻って、日本の東大寺や正倉院を見れば、木造の日本建築の方が歴史を持っているのではと、コモ湖を散策しながら感じた次第。しかし、どうして、イタリア北部にはイスラム教徒の方が多いのだろうか、最近、不思議な体験をした。また、スイスでは、ホテルの従業員はインド人だった。

21藤原肇:2005/01/05(水) 16:28
明けましておめでとう御座います。
2004年は興味深いモロッコ旅行を体験したことによって、「賢者のネジ」の表紙に付いているアラブ文字のロゴの意味と共に、地底へのトンネル(あるいは井戸)に関した情報を手に入れ、それが契機になってこの正月はDeath Valleyに行った次第です。その件に関してこれから書き込んで報告したいと考え、いったん倉庫に入ったこのスレッドを再度とりだしてもらうように、書き込みが出来るように管理人に頼んでみました。そうしたら、ここにこのスレッドが復活したので感謝したいと思います。これから続編を書いていくことにしますので、私の見解の当否について皆さんの参加を期待します。

22藤原肇:2005/01/10(月) 15:05
メクネスの水の館(ダル・エルマ)には直接にアトラス山脈まで延びた、地下水脈のトンネルが続いているという話を始め、玉井さんがアマゾンの奥地を訪問するのを待っていた現地人の前で読経し、その洞窟が地中深く延びているという話は、洞窟が地下世界に続くトンネルの入り口だというイメージに結びつく。
こうした物語は人間のユートピア思想に結びついていて、心理学的にも社会学的にも興味深いものがあるが、そこで思い出すのは高校時代に漢文で学んだ桃源郷の物語だ。
「桃源郷」は陶淵明の「桃花源記」の中にあって、武陵の猟師が小舟で川を遡って行くと一面に桃花が咲く林があり、その奥の川の源流に人がやっと通れる狭い穴が続き、そのトンネルを潜り抜けると豊かな村があった。そこに住む人は数百年も前に秦の亡国の時に逃れた人びとの子孫で、その後の歴史の変化を知らないで平和に過ごしていた。夢のような滞在の後で村を辞して武陵に戻った猟師は、固く口止めされていたのに郡司に村のことを報告したので、郡司は猟師を道案内にして川を遡って洞窟を探したが、桃源郷に行くトンネルにはたどり着けなかった。
私は個人的に陶淵明が大好きでこの「武陵桃源」を夢見て、若いころから山の彼方の桃源郷を捜し求めて放浪したから、もしマラケッシュにこれに似た地下トンネルの話がないかと思い、現地の人にそんなことを打診したが手ごたえはなかった。マラケッシュはアトラス山脈の山裾にあり、直線距離でわずか40キロしかないのだから、地下トンネルの話があってもよさそうに思えたが、残念ながらこの旅では時間切れということで、それ以上の探索は出来ないで終わることになった。
ただ、マラケッシュからタンジールに至る夜行列車に乗って、寝台車の中で見た夢の中にチベットとシャングリラのことが出て来たので、この話はさらに発展する糸口を私の手の中に残したのである。

23藤原肇:2005/01/12(水) 15:49
地球の屋根であるチベットのどこかに不老長生の桃源郷があって、ラマ教の経典の中に出てくる地上の極楽にちなんで、その名前をチベット語でシャンバラと呼ぶというが、それにヒントを得た英国の作家ジェームス・ヒルトンは、「失われた地平線」と題した小説でシャングリラとして描いている。その物語に関しての詳しい解説を書いたのが、造船工学の大家である寺井精英博士であり、「財界にっぽん」の2001年の10月号から02年の5月号にかけて、「シャングリラ物語」として八回の連載を行っている。ちょうど911事件の直後だったこともあり、「賢者のネジ」に収録した赤木さんとの不老長生に付いての対談に続き、この雑誌に同じ期間に911事件の記事とマッハ。文朱さんとの対談を記事にしていたので、私は寺井博士の記事を切り抜いてファイルを作っていた。
この記事はとても示唆的で興味深いものであり、私は何度も繰り返して読んだことも関係したらしく、それがシャングリラにまつわる夢になったのだろう。

24藤原肇:2005/01/17(月) 16:21
シャングリラの名前は日本では既に有名である。
各地にシャングリラの名前をつけた旅館や喫茶店が存在しているし、シンガポールや香港を始め東南アジア諸国には、華僑の郭鶴年が展開する高級ホテル「シャングリラ」が存在するし、雲南省の香格里拉(シャングリラ旧名は中甸)は日本人の観光ブームとか。
このシャングリラは「失われた地平線」の舞台であり、英国の作家のジェームス・ヒルトンはチベットを舞台にした小説で、この世の楽園としての桃源郷として描いている。その粗筋は当時の英領インドで暴動がおきたときに、ヒマラヤ山脈を越えて逃げる飛行機が暴風雨に見舞われて、雪に包まれた山中に不時着して救出されてから、原住民に助けられてトンネルを抜けシャングリラに導かれる。そこは山脈によって囲まれた桃源郷で、花が咲き乱れ鳥が囀るこの世の天国であり、住人は不老長寿で200歳を超えているという設定だ。
そして、サングリアという地名は桃源郷の別名として、世界的に広まっていくことになるのだが、この名前はチベットに伝わるボン教の中に出ている、カイラス山の麓にあるシャンバラという神秘郷に由来し、その桃源郷に住む人は不老長生だと言われている。シャンバラを直接に訪れた人の報告書はないが、カイラス山がヒンズー教にとっては聖なる山として崇められ、シバ神が住む所として須弥山や高天原のような存在だと言う。また、ヒンズー教だけでなく仏教、ジャイナ教、ボン教の聖なる山であり、水晶を直立したように聳え立つカイラス山の雄姿は、確かに崇高で神聖な印象に満ちあふれている。私が取った写真ではないがカイラス山の雄姿を参考までに。
http://216.239.63.104/search?q=cache:09VH-2J8ZuwJ:homepage1.nifty.com/yamatabibito/sub4-1.htm+%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%80%81%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E5%B1%B1%E3%80%81%E5%86%99%E7%9C%9F&hl=ja&lr=lang_ja

25森川昌弘:2005/01/18(火) 15:41
カイラス山は聖山の雄であり本当に素晴らしい山です。眺めていて飽きません。
http://www.happy.net/OCUAC/mt-photo/kairasu/01.htm

26野田隼人:2005/01/21(金) 19:51
素晴らしい写真です。ネパールで思い出しましたが、東明社で『物言わぬ獅子の咆哮』(山西逸朗著)という本を出版しています。これは山西さんという若者がチベット、ネパール、インド2,000キロを徒歩で貫きとおしたフィールド・ワークであり、藤原博士が同書の解説を書かれておられます。一読あれ。

27藤原肇:2005/01/22(土) 13:43
山西逸朗さんの「物言わぬ獅子の咆哮」のことを指摘し、この本につづられている凄い旅路について思い出させて貰い、野田隼人さんに改めて感謝したいと思います。
実はこの本に解説を書いたのをすっかり失念しており、12年ぶりに書架からこの旅行記を取り出して、懐かしい気持で頁をめくって拾い読みしました。そして、これはアジアの奥の院を巡礼する旅の体験記であり、この記念すべき本に短くても解説を担当したことについて、その幸運をかみ締めて味わい直した次第です。
私の留学時代の体験記で処女作の「オリンピアン幻想」の手稿を読んで、「文学界」の西永編集長は「坊ちゃん」のフランス版と講評してくれ、この発言を本の腰巻に利用させて頂いたことがあります。だが、山西さんの本の腰巻には「現代版・世界[奥の細道]」とあり、「坊ちゃん」よりも「奥の細道」の方が古典として格が上で、なるほど凄い記録だと今更ながら感嘆させられました。十代や二十代の世代が冒険にチャレンジすれば、山西さんに続く記念碑的な作品が生まれることでしょう。
きっと山西さんはチベットでカイラス山を見ただけでなく、シャンバラの話を耳にしただろうと思うが、この貴重な体験はそれ自体が次の世代への不朽のメッセージです。
今の日本には学校を出ても仕事の無い若者が沢山いて、将来への希望がないまま社会から厄介者扱いされており、それが忍び寄るファシズムを支える予備軍になることが、エスノセントラルな国家主義者により期待されているとか。そんな不吉な日本の未来と結びつかないためにも、若者は聖山や未開の大地を目指して脱藩し、地平の彼方に向かって世界に雄飛してみたらどうでしょう。ヒマラヤからチベットにかけての世界の屋根は、矢張り何といっても魅力溢れた聖なる土地であり、そこには脱藩人によって開かれるシャンバラが出現するかもしれませんね。

28藤原肇:2005/01/25(火) 05:42
寺井先生の「シャングリラ物語」を読んで印象深かったのは、ドゥリットル作戦に基づく16機のB-25による東京初空襲が、シャングリラの名前と結びついていたという指摘だ。ハワイ奇襲や南方作戦の戦火に酔っていた日本に対して、ルーズベルト大統領は東京を奇襲するアイディアを思いつき、太平洋艦隊のニミッツ司令長官に相談した。さっそく秘密裏に手が打たれたのであり寺井さんの記述を引用すると、「使用する空母はホーネット。約二万トンの高速航空母艦である。・・・まず仕掛け全体の構想について。空母は爆撃機を満載して東から日本に忍び寄る。北緯36度東経19度の海岸線から500kmくらいのところで発進させる。この爆撃機の一隊は日本列島の海岸線に沿って西進し、東京、名古屋、大阪、神戸、広島などに爆弾を投下し、北九州に出て、あとは東シナ海を渡り中国大陸に辿り着き、適当な場所に不時着する。・・・この仕掛けの効果の喜びを翌日さっそくルーズベルト大統領自らがマイクの前に座って発表している。100人を超える記者団を前にしてプレスリリースの輝かしい説明があったのち、記者団から質問の第一声が浴びせられた。”その爆撃機の一隊は一体どこの飛行場から飛び立って東京を襲ったのか”と。そのとき大統領は傍らの海軍情報官にささやくような小声でホーネット号がアメリカ側の制海圏内に戻るのはいつかと尋ね、まだ二、三日は危険海域にいることを確かめた上、通常ならば発表できないと突っぱねるところを次の一言で締めくくった。ウィンクして”フロム シャングリラ”とただひとこと。察するところルーズベルト大統領もジェームズ・ヒルトンの小説の愛読者だったと見える」
報道管制で新聞には出なかったとはいえ、爆弾のひとつが皇居内に落ちたので軍部はショックを受け大騒ぎであり、山本五十六は持論のアリューシャンからミッドウェーの南北防衛線で、敵の機動艦隊を撃滅する作戦を強く主張し、それがミッドウェー海戦の惨敗に係り結んでいく。数十年前に読んだ本の中にハガキの引用があり、芸者に宛てた文面に皇居を爆撃されたことを悔やみ、報復すると言うようなことを書いていたので、そのお粗末な情報感覚と戦略発想に驚いたことを記憶する。

29ナニワのダルマ:2005/01/25(火) 13:08
補足として
ミッドウェー海戦に関してはかなり本を読んできましたが一説によると広島県呉港の連合艦隊の基地近くの芸者達も「次はミッドウェーですね。」といった会話があったらしい。

30伐献:2005/01/25(火) 13:21
28>の2段は新しい事実ではないでしょうか。
こんなことを、聞いたことは無かったです。東京に初の空襲だけでも
東京は、大騒ぎだったのではないでしょうか。そして、一発が皇居に
落ちたとなれば、ショックところではなく、恐慌状態だったのでしょう。
そうなると、結局のところ乾坤一擲の作戦しかなくなるのでしょう。
結果は、知ってとおりで、いつのまにか美談で軍神扱いと言ったところでしょうか。
しかし、これに言及した本は誰が書いたのか興味が湧きますが、探しでセルでしょうか。
そういえば、山本五十六にフランス人の愛人がいたとか。ただのスケベ爺だったのかもしれません

31Buffett:2005/01/29(土) 22:07:59
パールハーバーについて、以下の本が興味深い。ご一読を。
・「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」ロバート・B・スティネット

また、フランクリン・D・ルーズベルトのDは、デラノであり、デラノ家出身ということを著している。スペインからドイツへ移住したユダヤ民族と推測している。その後、アメリカを動かした人物は、アイゼンハワー大将(欧州方面米英連合軍最高司令官、後に元帥)、マーシャル大将(米陸軍参謀総長、後に元帥、米国国務長官)の二人と考える。残念なことにマッカーサー元帥は彼等の使いぱっしりというところであろう。最近は、津波の被害が大きい、英国領チャゴス諸島に世界が注目している。英国領のディエゴ・ガルシア島だが、アメリカに長期レンタルしている。約3000名の米軍が駐在しており、津波被害が心配されている。標高は10mもない。米国海洋大気管理局(NOAA)があり、ネシア地震の時はこの基地から戦艦がネシアに派遣された。確か、新潟地震の時も、横須賀から戦艦が新潟沖に派遣された。なぜか、地震があると、米海軍基地が地震の震源地近辺に派遣されている。だれか、この相関関係を分析する学者はおられぬか。欧米では、HAARPがガルシア島に設置されているとの噂がある。日本のメディアには登場しない究極の兵器である。

32藤原肇:2005/02/05(土) 07:16:19
シャングリラについてはいずれまた触れるとして、先ずはその原点に位置しているシャンバラについて検討することにしよう。
シャンバラはチベット周辺の宗教と深い結びつきを持ち、神秘に満ちた不老長生の桃源郷と考えられているが、中央アジア一帯で信じられている地下帝国アルカダにも、シャンバラという名の都があるという話と入り混じっている。この不老長生の桃源郷を昔から多くの人が求めて、世界の屋根の山岳地帯を訪れていたようであり、また、アレクサンダー大王の東征の目的のひとつにも、東方の聖地への憧れがあったという説や、キリストが記録のない17年の空白の時期に、インドからチベット方面に足跡を残したと言う伝聞もある。中央アジアは魅力に満ちた場所と言えるようだ。

33藤原肇:2005/03/02(水) 14:04:08
春の訪日前に次の本の草稿をまとめようと考えて、徹夜で仕事をしているために書き込みができず残念。シャングリラやシャンバラについて続けて書くつもりだが、
誰か暫くの間だけでいいからプラバッキーやグルージェフが、シャンバラを求めてチベットの周辺に出没した話を書いて、私が又書けるようになるまで繋いで貰えたら感謝感激。

34新見敏郎:2005/03/02(水) 16:25:49
この間の日曜午後にテレビ朝日で若い日本人俳優が案内役で訪ねていく、
シャングリラ訪問の番組をやっていました。
私のところはテレ朝は福岡経由のケーブルテレビ放送なので、
あいにくと画面が汚く、せっかくの桃源郷も美しく見ることができず、
残念でした。ご覧になった方もおられると思いますが、
ご投稿をお願いいたします。

35石黒秀光:2005/03/03(木) 05:18:48
ドゥリットルの東京爆撃の「シャングリラ計画」に関連して、こんな記事がありました。
ドゥリットル本土初空襲と911テロの共通点

2002年3月19日
[ニューヨーク 11日 ロイター] 米ニューヨークの世界貿易センター(WTC)ビルに対する米同時多発テロから半年のこの日、追悼式典が行われ、航空機が2塔のビルに激突した現地時間午前8時46分(日本時間午後10時46分)と17分後の同9時3分(同午後11時3分)の2回に分け黙とうがささげられた。(ロイター)[3月12日7時42分更新]

半年前に911テロ事件が起きた時に、キッシンジャー博士は911テロをパールハーバー空襲にたとえた。多くのマスコミも911テロをパールハーバー以来と伝えた。これはアメリカ人から見た感想である。それに対し石原慎太郎は条件反射的に広島、長崎の原爆にたとえて言った。それくらい衝撃的事件である事には違いない。これに対し私はドゥリットル中佐の日本本土初空襲の方が、911テロ事件に似ていると思う。その共通点を挙げてみる。

①日本もアメリカも歴史上初めて本土が大型飛行機による攻撃を受けた。
②攻撃を受けた都市は東京とワシントンDCという首都が攻撃を受けた。
③主要都市にも同時攻撃を受けた(ニューヨーク、横浜、名古屋)
④日本陸海軍もアメリカ空軍も全く防空体制が機能しなかった。
⑤日本もアメリカも戦時体制で連戦連勝で驕りがあり、全くの奇襲攻撃を受けた。
⑥被害は小さかったが国民に与えた衝撃は大きく、ミッドウエイ海戦やアフガン空爆を誘発した。
⑥首謀者であるビンラディンやドゥリットル中佐は捕まえられず、本国で英雄となった。
⑦爆撃や攻撃を受けても軍事関係者は誰も処分されなかった。
⑧政府は意図的な誤報を流し国民を誤魔化した。
以上のように驚くほどドゥリットル本土初空襲と去年の911テロ攻撃との共通点が浮かび上がります。アメリカは第二次大戦後ずっと戦争を続けており戦時体制国家だ。日本も開戦以来連戦連勝で浮かれていた。そこへ建国以来始めて首都がいきなり空爆されてしまった。これからどのような展開になるか興味があります。日本はミッドウェイで大敗し、その後はジリ貧状態になっていった。アメリカもアフガンで大敗すれば軍事大国の威信が揺らぎ、同じアフガンで敗れた軍事大国のソ連のように崩壊のきっかけになるかもしれない。
昭和17年のドゥリットル空襲は全くの常識外れのアメリカ軍の特攻作戦であり、アメリカ国民の士気を高めるための戦略的作戦であった。その空襲の真実の姿は日本国民には知らされなかった。その事が戦局判断を誤らせる原因となり、無理なミッドウエイ作戦を実行させる決行させる事になった。アメリカも戦時体制ということで報道管制を敷き、アメリカ国民を誤った方向に導くのではないか。
アフガンの戦況は毎日のように発表されている。アナコンダ作戦はタリバン・アルカイダの兵士の死体を数十人しか発見できず、逆にアメリカ軍の戦死者を数名出した。あれほど猛烈な空爆を加えても山岳地帯では効果は限られる。おそらくアフガンゲリラは出ては引きのゲリラ戦術にアメリカを引きずり込む戦略だろう。アメリカはもしかしたら核兵器を使用するかも知れない。ベトナム戦争の時も核爆弾の使用計画があった事を最近明らかにしている。それでも小泉内閣はアメリカのアフガン攻撃を支持し続けるのだろうか。

36中野美恵子:2005/03/08(火) 22:09:31
33の藤原さんの指示に従って、プラバッキーとグルージェフがシャンバラを求め、中央アジアを旅行したということを調べようと思いました。そこでグルジェフの『注目すべき人々との出会い』を読んでみました。
するとそこにアジア大陸の中央の山岳地帯に、サムルング教団の僧院があったのです。そしてヒマラヤの北斜面にあるオルマン僧院のほかに、パミール渓谷、チベット、インドにも僧院があって、200歳とか300歳とかの老齢の修道士がいたとあります。
これがシャンバラ体験かも知れません。そういえば藤原さんが大本さんとやった対談の中に、スーフィーのサンミューン修道院の話がありました。サンミューンはサルムングのことなのでしょうと思い当たりました。
そうならクワジンガ集団はどこにいるのかとワクワクしています。私はグルージェフをもっと調べるので、誰かプラバッキーの方をお願いします。

37藤原肇:2005/03/19(土) 12:06:50
グルージェフについての報告の続きを期待しながら、誰かがアジア大陸中央部に関しての情報を書くだろうと思い、仕事の気分転換を兼ねて久しぶりに書き込むテーマは、桃源郷に続く道としての地下通路に関してである。
私は池口恵観和尚との対談「若き日の修験者・空海のコスモロジーと錬金術」の中で、古代の土木工事に関して触れたときに、ペルシアからウズベク地方に伝わっているカナートについて紹介した。
これは西アジアの乾燥地帯で長い歴史を持って利用されてきた、地下の導水システムである。
扇状地に湧き出す泉や枯れ川(ワジ)の河床から地下にしみ込んだ伏流を繋ぎ、数十メートル毎に竪穴を掘り底部をトンネルで結ぶ、非常に優れた古代技術に基づいている。古代ペルシアに始まってアラビア半島やサハラ砂漠方面に伝わり、それがモロッコでも活用されているのである。
モロッコの案内の「カスバ街道」という記事の最後のところに、 カナート(カレーズ)の大写しの写真が出ていたので、それを参考までに紹介しておく。
http://www65.tok2.com/home2/iseki1/image/morocco/kasbah2/kanato02.html
また、カナートについての概略は次の説明で分かると思う。
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_12/no12_e01.html

39藤原肇:2005/05/14(土) 08:11:50
カナートについて関心を持つ人が少なかったらしく、二ヶ月ほどの間に誰も書き込みをしなかったので、私が続けて書かなければならなくなりました。カナートは洞窟が地下道として異次元と結ぶ意味で、現実と桃源郷(あるいはシャンバラ)を結んでいるメタファーとして、「メビウスの輪」と共通したものを現しているとすれば、これは非常に興味深いことを示していると思うのですが・・・。

40東山昌弘:2005/08/23(火) 23:42:55
米軍がアフガニスタンやイラクで使っている、地中爆発用に作られた劣化ウラン爆弾は、カナートを破壊する目的で作られたというが、カナートは人類の知恵の発明だというのに、なんと悪辣なことをアメリカ軍は考えるのだろう。

41根本敦史:2005/08/24(水) 15:02:30
人が桃源郷を求める姿、子宮に向けて進む精子のようで、卵子との結合により、この世界に新たな魂が宿ります。地球という一つの生命体の内奥、子宮をめがけ人間が探訪するのは、私たちの遺伝子に刻印された内なる欲求でありましょうか。自然の造形物であろう洞窟であれ、はるか古代の英知の産物、ピラミッドであれ、新たな魂が宿る装置としての地球という生命体の石でできた子宮。こうした空間にて、新たな魂を宿したものにとって、その先にあったのが桃源郷であり、シャンバラでしょうか。地球もしかり、人間もしかり、異次元を行き来する通路の存在を、メビウスの輪が示しておりましょうか。人間の洞窟、腹が大切なのは、そこにしかと異次元からのメッセージが宿る(を受信する)からでしょうか。

42根本敦史:2005/08/25(木) 14:40:20
桃源郷、シャンバラ、暗い洞窟を通り抜けて辿り着く世界。開けた先の世界において、何とも光は有難いものだと気づかされたものでしょう。私は断食を通じて改めて食の有難さ、喜びに気づきました。先に紹介した著書から。「人間の潜在的な知性や尊い性質は、済んだ明るい青空や、緑したたる草原や、木々や山々の美しさに感応するようにできている。私たちは、自分自身を目覚めさせてくれ、基本的・根元的な善良さを感じさせてくれる。この現実と具体的なつながりを持っている。シャンバラの理念は、自分自身を目覚めさせてくれ、自分にも良いことが起こるのだと悟る、私たちのその能力を基盤にしている。」「基本的な人間の知恵」であり、「勇者の道」であり、「恐れのない道」なのです。恐れを廃除できるだけの人間(宇宙)に関する深い知恵です。そこに至れば、その者にとっては、世界はきっとシャンバラ、桃源郷かもしれません。

43村山貴子:2006/03/19(日) 09:34:08
シャングリラやシャンバラの話は桃源郷と結びつきますが、アメリカの大統領が週末に休養に行く山荘は、現在ではキャンプ・デービッドと呼ばれていますが、昔はキャンプ・シャングリラと呼ばれていたそうです。
いつからキャンプ・デービッドに名前を変えたのかとか、その理由について知っている人がいたら良いとおもうのですが、誰か知りませんか。

44サムライ:2006/03/19(日) 09:44:31
アイゼンハワーのようです。

Truman didn't care much for the other presidential retreat, Camp Shangrila, which was renamed Camp David by Truman's successor, Dwight Eisenhower.


以下は原文です。長いので二つに分けました。

Former Captain of Presidential Yacht USS Williamsburg Recalls First Meeting with Truman

Robert Peniston, who spent 30 years in the Navy, recalls when he navigated the USS Williamsburg for President Harry S. Truman




SAG HARBOR, New York (The Boating Channel) - Within minutes of meeting President Harry S. Truman in 1951, the new navigator of the presidential yacht got his first executive order.

"Well, glad to have you, and keep it off the stumps," Truman told Robert Peniston, now a longtime Lexington resident.

Peniston did -- Truman came to call him the "stump jumper" -- and the year and a half he navigated the USS Williamsburg became the basis of a friendly correspondence with Truman that lasted almost until the 33rd president died in 1972.

Peniston, 75, has been recalling those days aboard the Williamsburg, reminded by the recent launch of America's newest aircraft carrier, the USS Harry S. Truman.

The "Man from Missouri" -- or "Missorourah," as natives say it -- became the object of Peniston's admiration, and an almost lifelong influence.

"There wasn't any affectation about him," Peniston said. Truman's no-nonsense approach to life reinforced lessons he'd learned from his family: "Be straight up, tell it like it is."

Peniston, who spent 30 years in the Navy, was a lieutenant in his late 20s when he was assigned to the 243-foot Williamsburg. "I'd scarcely heard of the ship," he said.

He reported to Washington, D.C., for service in April 1951 and met Truman at a party thrown by the White House aides.

Truman was standing in the garden behind Anderson House sipping a martini -- something Peniston calls out of character for the man he came to know as a fan of Old Grandad bourbon.

Truman was chewing on an olive and, just before meeting Peniston, turned his head and spit out the pit.

"Once you were introduced to this fellow, you were the center of his attention," Peniston said.

Truman liked visiting the bridge of the yacht and chatting. Though he was fond of the boat, he only sailed on it at sea once, because it pitched so badly.

But the Williamsburg remained his getaway, usually parked in the Potomac River or the Chesapeake Bay, Peniston said.

45サムライ:2006/03/19(日) 09:51:12
Truman didn't care much for the other presidential retreat, Camp Shangrila, which was renamed Camp David by Truman's successor, Dwight Eisenhower.

Nevertheless, part of Peniston's job was making surprise inspections at the camp.

He was under orders to stay in the president's quarters, and even sleep in his bed. The Penistons never had a complaint about the service.

"Who's going to complain?" asked Peniston's wife, Frances. "Anybody that's going to wait on me hand and foot is OK with me."

But Truman preferred the yacht, Peniston said. He could play poker with his Missouri friends there, the "pals he could talk to and it would not go any farther."

The highlight of Peniston's tenure on the Williamsburg was a visit from British Prime Minister Winston Churchill.

Churchill, an old Navy man himself, showed up in a British lighthouse service uniform, a huge cigar always between his knuckles.

When Churchill left the Williamsburg one night about midnight, Peniston was ordered to escort the portly prime minister down the steep gangway.

"Young man, what makes you think I need your help?" Churchill demanded. "It was an order," Peniston explained.

"Then, young man, you had better do it," Churchill said.

Peniston left the Williamsburg in December 1952, shortly before Truman left office. One of his last assignments was to oversee the construction of a golf hole at Camp David for the incoming Eisenhower.

Peniston met up with Truman again in 1957. He and his wife were on their way to his new assignment at Stanford University. They arranged to call on Truman when they passed through Missouri.

Truman answered the phone himself. "I've been waiting for the stump jumper," he said.

Truman gave the Penistons an hour-long tour of the Truman library, which was not yet open to the public.

Four years later, the couple stopped off in Missouri again, and were again received by Truman for a visit.

Every year after that, on or around Truman's May 8 birthday, Peniston sent his favorite president a letter about his latest exploits in the Navy. Each time, he got a brief response.

"They were short answers, to the point, but you knew it was Truman," Peniston said.

Peniston retired as a captain from the Navy in 1976 and became director of the Lee Chapel at Washington and Lee University, where his son was a student.

In the meantime, he corresponded with other presidents with whom his career brought him into contact, including Richard Nixon and Ronald Reagan. He continued to write to Truman's widow, Bess, and Mamie Eisenhower.

"She and I became pen pals," he said.

Peniston has all those letters, among scads of mementos from his career.

"I wouldn't trade a minute of it," he said.

46松本英樹:2008/11/06(木) 11:54:41
ロゴのデザインに惹かれての投稿になります。

黄金分割の構成になっていると感じられるのは、諸兄方々には当然とことと存じます。
□正方形の一辺を1とすると、中央白抜きの□の長さは(φの3乗)0,236になって
います。黄金分割フレーム解析法を一度お試しあれ。

「賢者のネジ」という題名に誠に相応しく、中央◆はレンチの差込口。+−のドライバー
は使えません(笑)45度の回転(√2)を与えると、√2×φのn乗で縦横の構成比が
浮かんできます。
大変貴重なロゴをご紹介して頂き、有難うございました。(遅くなりましたが)
さっそくプリントアウトして部屋に飾っております。

47松本英樹:2008/11/07(金) 07:35:58
>18首藤様が取り上げておられる数字(数秘)に関連して思い浮かぶのは、

(9√2/10)≒(14/11)→ 99√2≒140

米(14/11)≒ (4/π) ≒ (√Φ/1) は同類項と見る。それが
大ピラミッドに含まれる数値となるので多種、複雑なピラミッド論が生まれる。
どれが正解かわからないが、ピラミッド内部に進むには(√Φ)が適していると
いえるのではないだろうか。

48松本英樹:2008/11/07(金) 16:51:03
>47補足
上記の(逆数×4)が、円周率及びその近似値となるのは言うまでもない。

尚、(9√2/10)が√Φの近似値になるということは、正方形の対角線
から<黄金数>を導くことが出来ることになり、
(1:1:√2)の直角三角形、斜辺√2を10等分してから9の位置が√Φ
(1,272)となる。

黄金数(1,618)を導く手法(若しくは数値)は幾つか考えられますが、
とどのつまりは(直角三角形の転がし運動=√Φ数列)√Φ:1:Φに収斂する
ものと思われます。

49千々松 健:2008/11/07(金) 23:43:54
 「賢者のネジ」の表紙に使用されたロゴは「神聖方陣」に見えてしまいました。またネジも要はラセンですから、
今回の私の「神聖方陣とラセン」モデルを藤原先生は随分以前から予知されていたとしか思えないのです。

 この件を松本英樹さんに気づかせていただき感謝します。
「黄金比の累乗から生まれるフィボナッチ数列」については、
もう少しでご覧いただけますので、ご期待ください。

50松本英樹:2008/11/08(土) 11:09:44
>49
やはり、千々松様も見た瞬間に「神聖方陣」と感じますよね(笑)

次のステップ、期待しています。

51千々松 健:2008/11/09(日) 14:25:27
古代ユダヤのカバラ思想やケルト神話と日本の上古代のひふみ文化「カタカムナ」は共時性で繋がっているように思われます。
重要な共通点は(文字があっても無くても)音声としての言葉=アルファベットと数字が直接的に繋がっているこだと思われますです。例えば、ヒ=1、フ=2、ミ=3のようにです。
それと、9が秘数であることでしょうか。
昨年なくなられた河合隼雄氏がケルト神話に興味を持たれていたことが思い出されます。

さて、「黄金比から生まれるフィボナッチ数列」に関しては準備が出来ましたので
「フィボナッチ数列や律動とラティオについて」の方のレスからご覧願います。>129

52千々松 健:2008/11/14(金) 12:14:41
グルジェフ(グルージェフ)について唯一知っていることは何かというと、円形による9つの図象「エニアグラム」を中央アジアで見つけて西欧に紹介したことぐらいである。
その後、そのエニアグラムを利用して性格診断や相性などの心理学が勝手に生まれた様子を知るのみである。
そもそも「エニアグラム」自体はどこから発生したのでしょう。古くは中国からイスラム世界に伝わったと思われますが、決してギリシャ発ではなさそうですね。
直観ではひふみ算やカタカムナを産んだ「9の数字」を駆使できた文明ではないかと思っています。

いま、時計の文字盤に1から9までを置いたとしますと、3−6−9で正三角形が出来ます。それをずらすと1−4−7、2−5−8、で合わせて三つの正三角形が出来あがり9つ星のようになります。これはバランスが良く美しいです。
一方、グルジェフのエニアグラムは3−6−9の正三角形はそのままですが、他は1−4−2、8−5−7、および1−7、2−8を結ぶ形になっていて、4と5の間に亀裂が生じていて不安定です。

前者を対称性とすれば後者は非対称性の世界です。
本来は、この差異については別なテーマになるでしょうが、ここでは、左巻きか右巻きかの話しに強引にもって行きます。
数学上の「分数多角形」によれば、4分の9角形は右回り、5分の9角形は左回りになりますが完成したものは同じ形に見えます。1、2、3が分子に来るときは4と同じく右回り、5、7、8が分子に来ると5と同じく左回りです。エニアグラムはその左右の周り具合を強調したものではないかと推察します。

さて、1−8、2−7、3−6、4−5、は頂点を9とした時計の文字盤をイメージすると左右が対称の位置に来ます。足すと9になる運命に有ります。
「神聖方陣」のFLKM系列と同じ数の組み合わせになっていることが判明します。
・・・『ヒフミヨイ マワリテメグル ムナヤコト アウノスベシレ カタチサキ』


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