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鷹目遊里史板

840新今里X:2020/12/05(土) 23:49:56
土橋
ご無沙汰してます。
寝かせて一回忘れてたネタをば…(笑)

「中の川整備 豊坂町から北柳井町にかけての通称中の川筋には、終戦直後の混乱期に、バラック建ての飲食店が、道の中央よりやや南寄りを流れる幅約三メートルの小川をはさんで立ちならび、当時で五〇軒が不法占拠していた。川の汚染で不衛生となり、火災、児童への悪影響や交通妨害などが心配されていたが、昭和三九年三月、付近の町内会長が中心となって「中の川を守る会」が結成され、市に対策を要求していた。七月になっても、具体的な対策を打ち出さない市の対応に業を煮やした守る会のメンバーの一人が、「不法には、不法をもって戦う」と、不法建築の飲食店街から約五〇メートル東側の市道にバラック二軒を建てはじめるという事件も起こったが、市もこの実力行使にようやく動かされ、問題解決のために諮問委員会を設置することを決めた。一〇月、市議会議員一一名からなる専門委員(中の川北通り線道路上建物除却臨時専門委員)が設置され、四二軒の不法建築を立ち退かせる方法が検討され、昭和四一年三月一〇日、四二軒の不法占拠者に五ヵ月以内の移転命令を出した。移転先について、市は市有地を賃貸借契約を結んで提供し、住宅建設資金のあっせんをするなどして、一〇月一四日までに全戸が移転することになり、翌一五日には道路として復元された。昭和四九年六月には地下駐車場が完成し、川幅も狭くなって昔の面影が失われたが、新しい中の川通りとなった。」松山市史 第4巻 現代

戦後の一時期、今は広い車道になってる中の川通りの真ん中にある中の川に沿ってバラックの飲食店があるというのを知り、どこにあったのか確認しようと昭和30年代の住宅地図から探したところ、松山市駅の目と鼻の先、末広町交差点から裁判所前通りと交差するところまで50軒近く並んでたようです。
昭和40年の地図が最後で、その後は記載がないので、松山市史の通りに移転により撤去されたのが地図でも確認できます。

ついでに市内の各地や今治などの地図を見て楽しんでたところ、土橋の始まりが意外と遅いのが分かりました。
赤線青線時代どころか昭和42年にはじめて掲載され全店埋まってない状態で、翌年の昭和43年で全店掲載。
そこでやっと中の川筋のバラック飲食店の移転先が土橋だと気付いて、屋号を比較すると昭和43年の地図で3分の2ほどが中の川筋のバラック飲食店と同じでした。
その後は地図上では昭和50年頃までが全盛期のように見えました。

土橋の建物は赤線青線時代のものかと思ってたのに自分より年下でショック。
建物のおとなしいデザインは行政側としては住宅として使ってほしかったのではと憶測しています。

https://twitter.com/maido728/status/1335058814429777920


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