したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

竹内

34同人α編集部:2019/10/27(日) 11:20:15
日本の戦艦
??????????????日本の戦艦





 「一つでも饅頭(万十)とはこれいかに」曰く「一隻でも千艦(戦艦)というがごとし」
という無理問答があるが、その戦艦とは如何なものか。今回のテーマについて考えあぐね
ていたが、小生への投稿案内に戦艦「比叡」の発見がありこれなどというお誘いもあり、
小生の今まで蓄えていた知識等を考え一度このテーマ「日本の戦艦」について思うところ
を書いてみようかと思ったしだいです。その根底には戦争とは、また技術とは、さらには
根源には人とは何だろうという私の終生のテーマがあります。

 さて、まず戦艦とはということから始めますか。
 まず定義から。これから述べる戦艦とは軍艦の一つの種類であり、その出現は十九世紀
も終わろうとする一八九二年であり、二十世紀も半ばまで存在した艦種である。戦争に使
用される船、これ全て戦艦という考え方もあるが、ここでは戦艦とは戦争で使用する船の
なかのあるカテゴリーを指します。この定義が国際的にあるわけではないが、普通に通用
する範躊は巨大な大砲と装甲を装備し自艦と同等な大砲から直撃を受けたとき、その被弾
に耐えるということです。すなわち自分と同等の敵艦と対戦した時にたとえ被弾しても壊
滅打撃を受けないということ。
 近代的戦艦が出現する前、十九世紀の初めは戦列艦といものが海戦の主力であった。こ
れは巨大な木造帆船であり、トラファルガー海戦で有名なネルソン提督の乗艦であるヴィ
クトリー号などがそれに相当し、舷側に多数の大砲(ライフルでない)を有していた。当
時の大砲の威力はそれほどではなく、砲戦だけで敵を撃破することは通常は不可であり敵
艦に乗り込み制覇する、というのが普通の戦法であった。大砲は敵をある程度破壊するボ
デーブローのようなものであった。十九世紀後半になると、まずライフルを有する後装砲
が出現(例えばアームストロング砲等)、その威力が増大した。事実、一八六三年の薩英
戦争においてこのアームストロング砲を装備した英国軍艦の砲撃に、旧式滑空砲しか所有
していなかった薩摩藩は敗北している。それでも当時の最先端のライフル砲を有する英国
海軍の艦船を戦艦とは呼ばない。もっともその時のアームストロング砲はまだ出現したば
かりで信頼性が確立しているとはいいがたかった。事実、薩英戦争においても砲身破裂な
どの事故を多発し採用中止になったようである。まだ製鋼技術は未熟で、その他、鉄の技
術も確立されておらずかなり無理をしていたようである。
 このアームストロング砲について、幕末の佐賀藩で製造したというような話を司馬遼太
郎氏がその小説『アームストロング砲』で言及しているが、私は佐賀藩で製造したという
ことは相当怪しいと思っている。それというのもその製造技術は当時の最先端の技術であ
り、やっと反射炉などの技術を獲得し鋳鉄砲を製造できるようになった当時の後進国に、
そのような先端技術をこなすすべがあったとは到底思えないのである。技術という物、あ
る一つだけ傑出して存在できるものではないのである。佐賀藩のアームストロング砲の話
は詳細を調査したわけではないのでこれ以上議論はしないが、小生の感想を述べたという
ことにしておく。

 十八世紀半ばにはじまった産業革命は、十九世紀後半には第一次産業革命といわれる鉄
と石炭の時代が成熟し鉄の精錬技術、あるいは製鋼技術も進歩を遂げた。この情勢におい
て、アームストロング砲のような後装ライフル砲が実用となり始めた。さらには鉄製、さ
らには鋼製の軍艦の出現が視野に入ってきた。実は十七世紀より使用されていた戦列艦と
いうもの、その製造には膨大なチーク、オークなどの固く強靭な木材が必要であり、その
確保に当時の列強とくに海軍力世界第一である英国は、国土の面積も狭くそのうえ森林が
少ないため、その確保に苦心していた。英国は当時それらの木材をスウェーデンなど北欧
諸国より輸入していた。それらの木材は最重要戦略物資であった。
 このような情勢のもとでクリミヤ戦争が一八五三年に勃発した。この戦争、日本では幕
末維新の騒乱激動期に当たりそれにマスクされあまり注目されていないが、調べてみると
世界史的に近代から現代への画期をなすと思われる出来事である。その一つに旧来の戦列
艦が艦砲にも採用された詐裂弾に対し脆弱であることが露呈したことである。
 当時の海戦は舷側に多数の大砲を装備した戦列艦が主力であったが、大砲の砲弾が単な
る球状の塊からその中に爆発物を詰めたいわゆる作裂弾へと進化していた。この作裂弾に
対し、木造戦列艦は極めて脆弱であるということが明らかとなった。このような背景とさ
きに述べた技術の成熟があり、戦艦という原始的形態が見えてくる。その嚆矢(こうし)
はフランスであった。その船は一八五九年進水の「グローワル」である。まだいわゆる戦
艦とは程遠いものであるが、鳥類へと進化過程にある羽毛を有する爬虫類、という位置に
相当すると思う。
 当時の日本、幕末から明治への移行期である。不完全ではあるが何とか革命に近い形で
成立した国家という側面もあり、その国家を維持していくため武力は当然のことながら重
視した。また幕末から明治初期に結んだ不平等条約の改定等の理由もあり、それ相応の予
算を海軍力の充実につぎこんだようである。それにより日清戦争では、外洋まで護衛でき
かつ戦えるブルーネービといえるまでになった。
 この時期、英国において近代戦艦のはじめとされる「ロイヤル・サブリン」級の建造が
はじまっていた。このクラスの戦艦は「前ド級艦」と言われているが近代戦艦の始まりで
ある。鳥類の形態を有している「始祖鳥」に相当する。当時ロシアとの緊張が高まりつつ
ある日本は、この前ド級艦をタイプシップとする戦艦をイギリスに発注した。すなわち
「富士」と「八島」の二艦である。さらに英国でロイヤル・サブリン級の発展型であるマ
ジェスチック級が完成すると、これに準じる[敷島]型三隻「敷島」「朝日」「初瀬」を
発注した。さらに敷島型と兵装、速力などは同じであるが、装甲を強化し艦内配置などは
朝日に準じた戦艦を発注した。これがかの「三笠」である。これらの戦艦群と旧式装甲艦
の「扶桑(初代)」と日清戦争の戦利品である旧清国の装甲艦「鎮遠」をもって日露戦争
を戦った。このうち八島と初瀬は旅順港封鎖作戦中に触雷沈没している。その他の艦も黄
海海戦で損傷したり座礁をしたりしている。

 この間の緊迫した状況は司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にくわしい。ロシア・バルチッ
ク艦隊との「日本海海戦」に参加できたのは四隻のみであった。対するロシアは旧式も含
むが八隻の戦艦を有していた。この海戦、日本の圧勝で終了するのであるが、これはロシ
ア艦隊がはるばるとヨーロッパのバルト海からアフリカ喜望峰経由でやっと日本海の入り
口へとたどり着いたのに比べ、日本側はその間の時間と日本の近くという地の利と時間を
十分に活用したことに尽きると思う。もちろん戦術、作戦上の勝利もある。日本はそれ以
前に発生した黄海海戦などにおいてかろうじて勝利をえたものの、戦略目標であるロシア
旅順艦隊を殲滅することができなかった。
 この苦杯の反省とロシア艦隊が日本近海に回航してくるまでの時間を活用、実弾射撃を
ふくむ猛訓練を実行し艦隊運動、砲弾の命中率の向上を図った。この日本海海戦、近代戦
艦(前ド級艦といわれ現代戦艦のひと世代前のクラス)という巨大な大砲を有しそれに対
応する装甲を有する多数の軍艦が、洋上ほぼ五○○○メータの距離で対戦したのであるが、
このことは世界史上初めての事であった。当時出現間もない戦艦にとっての射撃要領等確
立していなかった。列強各国もその砲術に対しては手探りであった。やっと先進列強に追
いつこうとしていた日本海軍においてもこれはなおさらである。それが幸いかどうかはわ
からないが、それなりの試練試行を行ったことと思う。その中で猛訓練を行い体験的にそ
れなりの方法を確立した。
 当時はまだ射撃用計器といわれる、測距儀、変距率盤、距離時計が完成していないとき
である。これ等が完成していくのこの直後二十世紀の初め一九〇六年である。かろうじて
個々の砲に備え付けられている砲側照準望遠鏡がある程度であった。このため射撃は個々
の砲による目視射撃である。これは訓練を繰り返すごとに命中率の向上が可能である。と
は言え大砲の砲身には発射回数の制限がある。すなわち砲身は無限の発射回数に耐えるも
のではないということである。これは実践的な実弾発射を行えば行うほど、砲身の寿命が
短くなり交換をする必要があるということである。そこで通常は砲内砲とでもいうべき内
筒砲という仕組みをもちいた。これは日ロ海戦当時ばかりでばなく、以降、近代的射撃砲
が確立していった大正初期まで採用されたようである。もちろん小口径と大口径とはその
弾道が違うのであるが、それはあらかじめ計算および実験により補正ができるという前提
である。要するに目視射撃である。
 このような訓練により日本艦隊の射撃術は向上していった。一方ロシア艦隊は長い航海、
燃料その他の補給等のことでその精力を使い、射撃訓練の機会がほとんどなく、少なくと
も砲弾の命中率において日本艦隊に対し相当おとっていた。このことを現地指揮官である
東郷司令長官以下艦隊幹部は訓練を通ししっかり認識していた。有名な敵前回航はこの認
識があることによって選択された戦術である。日本海海戦は、昼間における戦艦などの砲
撃戦の局面と夜間の駆逐艦などの小艦船による雷撃戦という局面がある。有名なZ旗「皇
国の興廃……」と訳されているが要するにZであり後がないということである。要は、そ
の時点で利用可能なあらゆる手段を用いて必死に戦った結果、日本艦隊の圧勝ということ
になったのである。

 この日露戦争のあと、日本は戦利艦として戦艦は六隻を獲得した。獲得したといっても
旅順港で陸上砲台からの砲撃で擱座したもの、あるいは日本海海戦で被弾し損傷したもの
であるが、獲得後多大の費用、労力、資材を投人整備した。それらは「壱岐」「丹後」
「相模」「周防」[肥前]「石見」と命名されている。これらは相当な戦力になると期待
されるも、以下に述べる事情によりその価値がなくなり無駄な努力であったようだ。
 じつはこの日本海海戦後、戦艦の歴史上画期的な戦艦が出現し従来型の戦艦は一挙に二
線級となったのである。これがいわゆる「ド級艦」と言われる「ドレッドノート」である。
英国の戦艦の名前である。この出現はいろいろあると思うが、日本海海戦の結果も影響し
ていることは確かであると思う。この出現が一九〇六年である。この当時は大英帝国が健
在である。軍艦の技術においても世界をリードしていたのである。この艦、厳電な機密の
下で建造され、計画から完成までわずか一年二ヵ月で完成させるという英国の意気込みが
感じられる。
 この艦、何が革新的かといえば、一、基本的に長距離砲戦を指向し単一口径連装砲を五
門装備していること。二、蒸気タービンを装備し速力を二二ノッ卜としたことにつきる。
これは従来の戦艦に比しておよそ二倍以上の戦力となる。またその砲力、速力に見合う砲
撃体制も革新した。すなわち測距儀、変距率盤、距離時計が出現したのである。これらを
組み合わせた、ある種のアナログ計算機である射撃指揮盤ができた。これにより砲術長の
指示により各砲台が一斉に単一目標への砲撃が可能となり長距離砲戦が実現する。従来の
砲台ごとの目視射撃から一斉射撃へと攻撃力を増した。

 この「ド級戦艦」以降「超ド級戦艦」と続き、主砲口径の増大とそれに伴う船形の増大、
装甲の強化と連鎖的に進化する。その建造には多大の国力を要し列強各国にとっても大変
なことであり、それ以外の中小国には戦艦を保有する事が不可能となった。列強各国とも
まさに地獄への入り口に立ったのである。このような変化が二十世紀初頭に起きたのであ
るが、やっと列強の末端に連なった日本においてはどうであったのか。ロシアからの戦利
艦は別として、日露戦争後、準ド級艦と言われる戦艦あるいは装甲巡洋艦を十隻建造した。
この時はすでにド級艦が出現しており新造時よりすでに二線級となったが、これらは英国
の助力があったがともかく日本で設計建造した最初の大型軍艦である。またその後期型は
蒸気タービン機関の採用など、その後の日本戦艦の発展に貢献した。その十隻は「香取」
「鹿島」「薩摩」「安藝」「河内」「摂津」「筑波」「生駒」[鞍馬]「伊吹」である。
このうち「筑波」以下四艦は装甲巡洋艦と分類されているが、のちの巡洋戦艦の発想に近
い。要するに、やっと同一線に並んだと思ったが世界はすでに一歩前にいたのである。
 ここで日本は超ド級艦建造へと向かうのであるが、まず技術導入の目的もあり見本とい
うかお手本というべき超ド級艦を各国に追いつくために、当時の世界の先端にあったイギ
リスに発注した。これが太平洋戦争におい日本の戦艦である。これと同型として「比叡」
「榛名」「霧島」があり、これらは国内で建造された。これらは英国の先端艦である「ラ
イオン」級をタイプシップとしており、それより速力でほぼ同等、砲力は一三・五インチ
に対し一四インチとまさっていた。装甲はやや薄いとある。いわゆる巡洋戦艦として発注
された。巡洋戦艦とは砲力と速力を重視した船であり砲力すなわち攻撃力は戦艦なみ、速
力は巡洋艦なみ、そのかわり装甲は薄く戦艦に劣る。この巡洋戦艦は英国の発想でありそ
こで発展したものである。
 この金剛型、―度の大改造を経て三○ノットの高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦
争で最も活用された戦艦である。これ以後日本は外国に戦艦を発注することはなくなった。
金剛の竣工が大正二年(一九一三年)である。その後戦艦として扶桑型と言われる「扶桑」、
「山城」つづいて伊勢型といわれる「伊勢」「日向」を大正六年、七年に竣工させた。次
なる戦艦は「長門」「陸奥」である。陸奥型は世界初の一六インチ砲すなわち四一センチ
砲を装備し、速力も二六・五ノットと一段と飛躍したものとなった。この長門、陸奥は、
戦前の日本海軍の象徴として日本国内だけでなく世界に広く知られた戦艦である。これの
竣工が大正九年から十年である。昭和十年に改装された。このあと列強間の軍拡競争に各
国堪えうることが難しく、軍縮条約が締結され一時競争は停止した。
 ド級艦以後に第一次世界大戦が発生している。実はこの第一次世界大戦中、戦争の大勢
を決するような海戦は発生していない。規模の大きい海戦はあるが戦争の大勢にあまり影
響はないようである。これはジュットランド海戦(ユトランド沖海戦)といわれており英
国対ドイツの海戦である。なんともおかしな海戦である。専門的にはいろいろ言われてい
るが、要するにただ多数の軍艦が戦ったという印象であり、どちらが勝ったとも負けたと
もいわれてない。結果的にはおそらく英国が勝利したと言えるのでは。ただし英国の巡洋
戦艦三、巡洋艦三、駆逐艦八の沈没に対しドイツ側は旧式戦艦を含め二隻ヽ巡洋艦四隻、
魚雷艇五隻の沈没である。その他人的損害を含め英国側の損害が大きい。それでも以後ド
イツ側は終戦まで勢力の温存を決め出撃することはなかった。
 これ以後巡洋戦艦といわれる船に対し?がつくこともあった。またこれだけの艦船が対
戦したにもかかわらず、結果的には何ら戦局に影響がなかった事に対し議論がのこった。
この第一次大戦、飛行機、戦車、潜水艦等次の戦争において主力として活躍する兵器が出
現した戦いであり、戦艦の地位が揺らぎはじめた時代でもある。この戦争に日本海軍は対
潜水艦戦のため地中海に駆逐艦を派遣し、それなりの活躍をしている。この対潜水艦の戦
い、この時日本海軍はどのような教訓を得たであろうか良くわからない。

 さて戦艦の話に戻ろう。このジュットランド海戦の結果を受け、設計がみなおされてき
た。すなわちポストジュットランド型といわれている。長門、陸奥の両艦はポストジュッ
トランドに対応している。この両艦、排水量は完成時三二七二〇トンであったが改装時に
は三九一三〇トンとなっている。またその速力は改装後二五ノントとおそくなっている。
この両艦、日本海軍の象徴的存在であったが大平汗戦争では陸奥は原因不明の自爆沈没、
長門は呉港内で航空機の攻撃で破損、敗戦後米国により原爆実験の標的とされビキニ環礁
にて水没した。
 さて最後に登場するのは、戦後よく知られるようになった「大和」「武蔵」である。ジ
ュットランドの教訓も十分検討され、従来の日本の戦艦と比べるとその艦容が一変した。
従来の日本の戦艦は二段の主砲の後に戦闘指揮所が、その後ろに三脚のマストがあった。
このマストは測距儀を上部にそなえていた。その後の改造でマストに階段上に各種構造物
を設置していき、その形容から米軍が評してパゴダ(仏塔)といったようなものであった。
大和型は最初から三脚マストはなく層塔構造である。主砲は世界最大一八インチ(四六セ
ンチ)砲であった。排水量六四○○○トン、速度二七ノットというものである。速度を除
き世界最大である。いろいろ言われているが、専門家によるとよくぞこの大きさに収めた
ものであるということである。
 なぜ戦後有名になったか、これは建造から運用まで国民にも世界的にも軍秘として広報
されることがなかったからである。なぜか。それは米国を意識していたからである。日露
戦争後、日本を対抗相手として意識し始めた米国。第一次大戦後世界の覇権国となった米
国にとって太平洋の向かいにある日本、何かと気に障る国であった。日本も日露戦争の勝
利により新興国としての覇気が増大し米国を意識、さらに太平洋の覇権を争う国として米
国を意識した。当時はまだ白人優越の時代である。何かと日本の行動が米国のカンにさわ
ったようである。ともに仮想敵国として明確に意識した。
 この間いろいろあるようであるが、単に軍部の独走という事ではなく、国民感情として
嫌米が増えていったということもある。軍縮条約という薬があった、これに乗っかりうま
く利用することができたら、おそらくカタストロフィーに至ることはなかったと思うが、
うまくそれに乗っかることができなかった。ともかく米国を意識していた海軍は、軍縮条
約の期限が切れるのを狙って次期戦艦の設計を開始したのである。ともかく米国を上回る
回るものを求めていた軍は、当然米国の生産力などの国力を知っていたに違いない。もし
その内容が知れれば相手はすぐにそれより上回るものを用意するであろうという考えもあ
り、絶対に相手にわからないうちに事を始めねばという事であろう。事実米国は戦争が終
結するまで「大和」「武蔵」の詳細は知らなかった。
 ともかく巨大であるという事を、戦って知ったらしい。この大和、武蔵、実際は戦局に
寄与することはなかった。むしろ戦局に寄与したのは太平洋戦争に参加した戦艦では最も
古い金剛、比叡、榛名、霧島の高速戦艦といわれる四隻である。ちなみにその速度は三〇
ノッ卜である。またその機関出力は一三六〇〇○馬力である。排水量は三二一六○トン
(四隻とも多少違う)である。大和型の機関出力は一五○○○○馬力である。何故日本の
戦艦は国力を傾けるくらいの努力をしたにも関わらず活躍できなかったのか。話は簡単で
ある。もはや戦艦というものが戦争の変化に全く適応できなかったということである。も
っとも、これも使用方法によってはそれなりの用途がのこっていた。それは米国が用いた
海上砲台としての用途である。海上から地上を砲撃するもので、巨大な主砲を有する戦艦
ならではの用法である。もっともこれはその現場の制空、制海権を確保していなければこ
のような用法やりたくてもできるものではない。戦勝国米国だからできたことでもある。
 戦争というもの、ロマンでも妄想でもない。利害得失を考慮し味方の損害、リスクを最
小にして相手を屈服させるかということにつきる。
 戦艦は巨大な砲力を有するがその命中率はということになる。太平洋戦争時どのくらい
の命中率であったのか、詳しくはわからないが訓練で最人三○パーセントくらいとある。
実戦で敵も砲撃運動し海が多少荒れているとすると、おそらく一Oパーセント以下であろ
う。しかも先に書いたように砲というものは寿命があり、発射回数の制限があった。もち
ろん制限を超えると廃棄ではなく砲身の交換を行った。
 中期以後、米国はレーダ測距を使用し夜間でも攻撃可能な体制をととのえてきた。そん
な中で速度は遅く命中率も悪い戦艦等は単なる標的にすぎなくなってききた。それに対し
航空機というもの、全ての要素で戦艦などの海上戦力にまさっていた。コストパフォーマ
ンスが悪すぎ、もはや航空機に太刀打ちできないものとなっていた。多少の活躍をした戦
艦が金剛等最も古参の物であるというのも、なんとも皮肉というか喜劇というべきか。技
術あるいは戦争というものを考えさせられる。この戦艦というカテゴリーは一九六〇年ま
で残存したが、現在では存在しない。
 戦艦というもの、消滅した中世爬虫類時代の恐竜のような存在となってしまったようで
ある。現代の数千トンの駆逐艦(護衛艦)ともし戦闘すれば、あっけなく敗北するであろ
う。それは現在の駆逐艦が戦艦の主砲の射程外から強力なミサルを正確に命中させる能力
を有するからである。

 さて日本の戦艦という事で書いてきたが、明治維新以来およそ四十年近くで日本は何と
か先進諸国に追いついたとはいかないまでも、何とか同列近くに並びそれから何とか同列
にいることができたのか。これがまた一つのテーマである。幕末明治維新すなわち十九世
紀後半、産業革命を経た先進諸国の技術が進んでいるとはいえ、まだ在米技術の延長線上
にあったのではなかろうか。鉄と石炭の技術は当時の日本人の思考延長で理解できたので
はなかろうか。
 これが電気気を利用する技術となると、従来の思考の延長では筒単に理解できない。そ
れと、当時の日本の教育というか知的レベルの高さからくる、好奇心探求心に共鳴する要
素があったのではなかろうか。十九世紀後期のの日本の知的世界との壁は、思ったほど高
くなかったのではないかと最近思うようになった。これがその後の日本の躍進が意外と旱
かったことにつながると思う。
 しかし日本はやはり後進国であった。一部は先進諸国に追いついたかのように見えても、
底辺までは息切れしてついに並ぶことはなかった。太平洋戦争の敗戦はそんなところにも
ある。途中書いたが戦艦の時代、ネーバルホリデーと言われる時代にうまく利用できなか
ったことは大きいように思う。もっとも当時今でいうそれに対応するビジネスモデルがな
かったという事、もっと前向きに言うと、それに対応するビネスモデルを創造できなかっ
たことに尽きるのであるが。

参考としたもの
日本戦艦史    二○○七年一○増刊 六八一    海人社
イギリス戦艦史  一九九○年一一増刊 四二九????????海人社
近代戦艦史?????? 二○○八年一○増刊 六九七 ??????海人社
Battleships and BattleCruisers 1950-1970?????????? Doubleday
(Siegfrid Breyer著)


戦列艦時代???????????????????????????? 戦艦の原始形??????????????????     前ド級鑑
「ヴィクトリア」英 18〜19世紀初め????「ラ・グローワル」仏??1859進水??????????「三笠」日本????1900進水
                      

       ド級艦???????????????????????????? 超ド級艦????????????????   超々々ド級艦
      「ドレッドノート」英 1906進水???? 「比叡」1912 進水?????????? 「大和」1940進水
       ????????    ??????????????

(斜光24号掲載)




新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板