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同人α編集部
:2019/10/27(日) 11:20:15
日本の戦艦
??????????????日本の戦艦
「一つでも饅頭(万十)とはこれいかに」曰く「一隻でも千艦(戦艦)というがごとし」
という無理問答があるが、その戦艦とは如何なものか。今回のテーマについて考えあぐね
ていたが、小生への投稿案内に戦艦「比叡」の発見がありこれなどというお誘いもあり、
小生の今まで蓄えていた知識等を考え一度このテーマ「日本の戦艦」について思うところ
を書いてみようかと思ったしだいです。その根底には戦争とは、また技術とは、さらには
根源には人とは何だろうという私の終生のテーマがあります。
さて、まず戦艦とはということから始めますか。
まず定義から。これから述べる戦艦とは軍艦の一つの種類であり、その出現は十九世紀
も終わろうとする一八九二年であり、二十世紀も半ばまで存在した艦種である。戦争に使
用される船、これ全て戦艦という考え方もあるが、ここでは戦艦とは戦争で使用する船の
なかのあるカテゴリーを指します。この定義が国際的にあるわけではないが、普通に通用
する範躊は巨大な大砲と装甲を装備し自艦と同等な大砲から直撃を受けたとき、その被弾
に耐えるということです。すなわち自分と同等の敵艦と対戦した時にたとえ被弾しても壊
滅打撃を受けないということ。
近代的戦艦が出現する前、十九世紀の初めは戦列艦といものが海戦の主力であった。こ
れは巨大な木造帆船であり、トラファルガー海戦で有名なネルソン提督の乗艦であるヴィ
クトリー号などがそれに相当し、舷側に多数の大砲(ライフルでない)を有していた。当
時の大砲の威力はそれほどではなく、砲戦だけで敵を撃破することは通常は不可であり敵
艦に乗り込み制覇する、というのが普通の戦法であった。大砲は敵をある程度破壊するボ
デーブローのようなものであった。十九世紀後半になると、まずライフルを有する後装砲
が出現(例えばアームストロング砲等)、その威力が増大した。事実、一八六三年の薩英
戦争においてこのアームストロング砲を装備した英国軍艦の砲撃に、旧式滑空砲しか所有
していなかった薩摩藩は敗北している。それでも当時の最先端のライフル砲を有する英国
海軍の艦船を戦艦とは呼ばない。もっともその時のアームストロング砲はまだ出現したば
かりで信頼性が確立しているとはいいがたかった。事実、薩英戦争においても砲身破裂な
どの事故を多発し採用中止になったようである。まだ製鋼技術は未熟で、その他、鉄の技
術も確立されておらずかなり無理をしていたようである。
このアームストロング砲について、幕末の佐賀藩で製造したというような話を司馬遼太
郎氏がその小説『アームストロング砲』で言及しているが、私は佐賀藩で製造したという
ことは相当怪しいと思っている。それというのもその製造技術は当時の最先端の技術であ
り、やっと反射炉などの技術を獲得し鋳鉄砲を製造できるようになった当時の後進国に、
そのような先端技術をこなすすべがあったとは到底思えないのである。技術という物、あ
る一つだけ傑出して存在できるものではないのである。佐賀藩のアームストロング砲の話
は詳細を調査したわけではないのでこれ以上議論はしないが、小生の感想を述べたという
ことにしておく。
十八世紀半ばにはじまった産業革命は、十九世紀後半には第一次産業革命といわれる鉄
と石炭の時代が成熟し鉄の精錬技術、あるいは製鋼技術も進歩を遂げた。この情勢におい
て、アームストロング砲のような後装ライフル砲が実用となり始めた。さらには鉄製、さ
らには鋼製の軍艦の出現が視野に入ってきた。実は十七世紀より使用されていた戦列艦と
いうもの、その製造には膨大なチーク、オークなどの固く強靭な木材が必要であり、その
確保に当時の列強とくに海軍力世界第一である英国は、国土の面積も狭くそのうえ森林が
少ないため、その確保に苦心していた。英国は当時それらの木材をスウェーデンなど北欧
諸国より輸入していた。それらの木材は最重要戦略物資であった。
このような情勢のもとでクリミヤ戦争が一八五三年に勃発した。この戦争、日本では幕
末維新の騒乱激動期に当たりそれにマスクされあまり注目されていないが、調べてみると
世界史的に近代から現代への画期をなすと思われる出来事である。その一つに旧来の戦列
艦が艦砲にも採用された詐裂弾に対し脆弱であることが露呈したことである。
当時の海戦は舷側に多数の大砲を装備した戦列艦が主力であったが、大砲の砲弾が単な
る球状の塊からその中に爆発物を詰めたいわゆる作裂弾へと進化していた。この作裂弾に
対し、木造戦列艦は極めて脆弱であるということが明らかとなった。このような背景とさ
きに述べた技術の成熟があり、戦艦という原始的形態が見えてくる。その嚆矢(こうし)
はフランスであった。その船は一八五九年進水の「グローワル」である。まだいわゆる戦
艦とは程遠いものであるが、鳥類へと進化過程にある羽毛を有する爬虫類、という位置に
相当すると思う。
当時の日本、幕末から明治への移行期である。不完全ではあるが何とか革命に近い形で
成立した国家という側面もあり、その国家を維持していくため武力は当然のことながら重
視した。また幕末から明治初期に結んだ不平等条約の改定等の理由もあり、それ相応の予
算を海軍力の充実につぎこんだようである。それにより日清戦争では、外洋まで護衛でき
かつ戦えるブルーネービといえるまでになった。
この時期、英国において近代戦艦のはじめとされる「ロイヤル・サブリン」級の建造が
はじまっていた。このクラスの戦艦は「前ド級艦」と言われているが近代戦艦の始まりで
ある。鳥類の形態を有している「始祖鳥」に相当する。当時ロシアとの緊張が高まりつつ
ある日本は、この前ド級艦をタイプシップとする戦艦をイギリスに発注した。すなわち
「富士」と「八島」の二艦である。さらに英国でロイヤル・サブリン級の発展型であるマ
ジェスチック級が完成すると、これに準じる[敷島]型三隻「敷島」「朝日」「初瀬」を
発注した。さらに敷島型と兵装、速力などは同じであるが、装甲を強化し艦内配置などは
朝日に準じた戦艦を発注した。これがかの「三笠」である。これらの戦艦群と旧式装甲艦
の「扶桑(初代)」と日清戦争の戦利品である旧清国の装甲艦「鎮遠」をもって日露戦争
を戦った。このうち八島と初瀬は旅順港封鎖作戦中に触雷沈没している。その他の艦も黄
海海戦で損傷したり座礁をしたりしている。
この間の緊迫した状況は司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にくわしい。ロシア・バルチッ
ク艦隊との「日本海海戦」に参加できたのは四隻のみであった。対するロシアは旧式も含
むが八隻の戦艦を有していた。この海戦、日本の圧勝で終了するのであるが、これはロシ
ア艦隊がはるばるとヨーロッパのバルト海からアフリカ喜望峰経由でやっと日本海の入り
口へとたどり着いたのに比べ、日本側はその間の時間と日本の近くという地の利と時間を
十分に活用したことに尽きると思う。もちろん戦術、作戦上の勝利もある。日本はそれ以
前に発生した黄海海戦などにおいてかろうじて勝利をえたものの、戦略目標であるロシア
旅順艦隊を殲滅することができなかった。
この苦杯の反省とロシア艦隊が日本近海に回航してくるまでの時間を活用、実弾射撃を
ふくむ猛訓練を実行し艦隊運動、砲弾の命中率の向上を図った。この日本海海戦、近代戦
艦(前ド級艦といわれ現代戦艦のひと世代前のクラス)という巨大な大砲を有しそれに対
応する装甲を有する多数の軍艦が、洋上ほぼ五○○○メータの距離で対戦したのであるが、
このことは世界史上初めての事であった。当時出現間もない戦艦にとっての射撃要領等確
立していなかった。列強各国もその砲術に対しては手探りであった。やっと先進列強に追
いつこうとしていた日本海軍においてもこれはなおさらである。それが幸いかどうかはわ
からないが、それなりの試練試行を行ったことと思う。その中で猛訓練を行い体験的にそ
れなりの方法を確立した。
当時はまだ射撃用計器といわれる、測距儀、変距率盤、距離時計が完成していないとき
である。これ等が完成していくのこの直後二十世紀の初め一九〇六年である。かろうじて
個々の砲に備え付けられている砲側照準望遠鏡がある程度であった。このため射撃は個々
の砲による目視射撃である。これは訓練を繰り返すごとに命中率の向上が可能である。と
は言え大砲の砲身には発射回数の制限がある。すなわち砲身は無限の発射回数に耐えるも
のではないということである。これは実践的な実弾発射を行えば行うほど、砲身の寿命が
短くなり交換をする必要があるということである。そこで通常は砲内砲とでもいうべき内
筒砲という仕組みをもちいた。これは日ロ海戦当時ばかりでばなく、以降、近代的射撃砲
が確立していった大正初期まで採用されたようである。もちろん小口径と大口径とはその
弾道が違うのであるが、それはあらかじめ計算および実験により補正ができるという前提
である。要するに目視射撃である。
このような訓練により日本艦隊の射撃術は向上していった。一方ロシア艦隊は長い航海、
燃料その他の補給等のことでその精力を使い、射撃訓練の機会がほとんどなく、少なくと
も砲弾の命中率において日本艦隊に対し相当おとっていた。このことを現地指揮官である
東郷司令長官以下艦隊幹部は訓練を通ししっかり認識していた。有名な敵前回航はこの認
識があることによって選択された戦術である。日本海海戦は、昼間における戦艦などの砲
撃戦の局面と夜間の駆逐艦などの小艦船による雷撃戦という局面がある。有名なZ旗「皇
国の興廃……」と訳されているが要するにZであり後がないということである。要は、そ
の時点で利用可能なあらゆる手段を用いて必死に戦った結果、日本艦隊の圧勝ということ
になったのである。
この日露戦争のあと、日本は戦利艦として戦艦は六隻を獲得した。獲得したといっても
旅順港で陸上砲台からの砲撃で擱座したもの、あるいは日本海海戦で被弾し損傷したもの
であるが、獲得後多大の費用、労力、資材を投人整備した。それらは「壱岐」「丹後」
「相模」「周防」[肥前]「石見」と命名されている。これらは相当な戦力になると期待
されるも、以下に述べる事情によりその価値がなくなり無駄な努力であったようだ。
じつはこの日本海海戦後、戦艦の歴史上画期的な戦艦が出現し従来型の戦艦は一挙に二
線級となったのである。これがいわゆる「ド級艦」と言われる「ドレッドノート」である。
英国の戦艦の名前である。この出現はいろいろあると思うが、日本海海戦の結果も影響し
ていることは確かであると思う。この出現が一九〇六年である。この当時は大英帝国が健
在である。軍艦の技術においても世界をリードしていたのである。この艦、厳電な機密の
下で建造され、計画から完成までわずか一年二ヵ月で完成させるという英国の意気込みが
感じられる。
この艦、何が革新的かといえば、一、基本的に長距離砲戦を指向し単一口径連装砲を五
門装備していること。二、蒸気タービンを装備し速力を二二ノッ卜としたことにつきる。
これは従来の戦艦に比しておよそ二倍以上の戦力となる。またその砲力、速力に見合う砲
撃体制も革新した。すなわち測距儀、変距率盤、距離時計が出現したのである。これらを
組み合わせた、ある種のアナログ計算機である射撃指揮盤ができた。これにより砲術長の
指示により各砲台が一斉に単一目標への砲撃が可能となり長距離砲戦が実現する。従来の
砲台ごとの目視射撃から一斉射撃へと攻撃力を増した。
この「ド級戦艦」以降「超ド級戦艦」と続き、主砲口径の増大とそれに伴う船形の増大、
装甲の強化と連鎖的に進化する。その建造には多大の国力を要し列強各国にとっても大変
なことであり、それ以外の中小国には戦艦を保有する事が不可能となった。列強各国とも
まさに地獄への入り口に立ったのである。このような変化が二十世紀初頭に起きたのであ
るが、やっと列強の末端に連なった日本においてはどうであったのか。ロシアからの戦利
艦は別として、日露戦争後、準ド級艦と言われる戦艦あるいは装甲巡洋艦を十隻建造した。
この時はすでにド級艦が出現しており新造時よりすでに二線級となったが、これらは英国
の助力があったがともかく日本で設計建造した最初の大型軍艦である。またその後期型は
蒸気タービン機関の採用など、その後の日本戦艦の発展に貢献した。その十隻は「香取」
「鹿島」「薩摩」「安藝」「河内」「摂津」「筑波」「生駒」[鞍馬]「伊吹」である。
このうち「筑波」以下四艦は装甲巡洋艦と分類されているが、のちの巡洋戦艦の発想に近
い。要するに、やっと同一線に並んだと思ったが世界はすでに一歩前にいたのである。
ここで日本は超ド級艦建造へと向かうのであるが、まず技術導入の目的もあり見本とい
うかお手本というべき超ド級艦を各国に追いつくために、当時の世界の先端にあったイギ
リスに発注した。これが太平洋戦争におい日本の戦艦である。これと同型として「比叡」
「榛名」「霧島」があり、これらは国内で建造された。これらは英国の先端艦である「ラ
イオン」級をタイプシップとしており、それより速力でほぼ同等、砲力は一三・五インチ
に対し一四インチとまさっていた。装甲はやや薄いとある。いわゆる巡洋戦艦として発注
された。巡洋戦艦とは砲力と速力を重視した船であり砲力すなわち攻撃力は戦艦なみ、速
力は巡洋艦なみ、そのかわり装甲は薄く戦艦に劣る。この巡洋戦艦は英国の発想でありそ
こで発展したものである。
この金剛型、―度の大改造を経て三○ノットの高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦
争で最も活用された戦艦である。これ以後日本は外国に戦艦を発注することはなくなった。
金剛の竣工が大正二年(一九一三年)である。その後戦艦として扶桑型と言われる「扶桑」、
「山城」つづいて伊勢型といわれる「伊勢」「日向」を大正六年、七年に竣工させた。次
なる戦艦は「長門」「陸奥」である。陸奥型は世界初の一六インチ砲すなわち四一センチ
砲を装備し、速力も二六・五ノットと一段と飛躍したものとなった。この長門、陸奥は、
戦前の日本海軍の象徴として日本国内だけでなく世界に広く知られた戦艦である。これの
竣工が大正九年から十年である。昭和十年に改装された。このあと列強間の軍拡競争に各
国堪えうることが難しく、軍縮条約が締結され一時競争は停止した。
ド級艦以後に第一次世界大戦が発生している。実はこの第一次世界大戦中、戦争の大勢
を決するような海戦は発生していない。規模の大きい海戦はあるが戦争の大勢にあまり影
響はないようである。これはジュットランド海戦(ユトランド沖海戦)といわれており英
国対ドイツの海戦である。なんともおかしな海戦である。専門的にはいろいろ言われてい
るが、要するにただ多数の軍艦が戦ったという印象であり、どちらが勝ったとも負けたと
もいわれてない。結果的にはおそらく英国が勝利したと言えるのでは。ただし英国の巡洋
戦艦三、巡洋艦三、駆逐艦八の沈没に対しドイツ側は旧式戦艦を含め二隻ヽ巡洋艦四隻、
魚雷艇五隻の沈没である。その他人的損害を含め英国側の損害が大きい。それでも以後ド
イツ側は終戦まで勢力の温存を決め出撃することはなかった。
これ以後巡洋戦艦といわれる船に対し?がつくこともあった。またこれだけの艦船が対
戦したにもかかわらず、結果的には何ら戦局に影響がなかった事に対し議論がのこった。
この第一次大戦、飛行機、戦車、潜水艦等次の戦争において主力として活躍する兵器が出
現した戦いであり、戦艦の地位が揺らぎはじめた時代でもある。この戦争に日本海軍は対
潜水艦戦のため地中海に駆逐艦を派遣し、それなりの活躍をしている。この対潜水艦の戦
い、この時日本海軍はどのような教訓を得たであろうか良くわからない。
さて戦艦の話に戻ろう。このジュットランド海戦の結果を受け、設計がみなおされてき
た。すなわちポストジュットランド型といわれている。長門、陸奥の両艦はポストジュッ
トランドに対応している。この両艦、排水量は完成時三二七二〇トンであったが改装時に
は三九一三〇トンとなっている。またその速力は改装後二五ノントとおそくなっている。
この両艦、日本海軍の象徴的存在であったが大平汗戦争では陸奥は原因不明の自爆沈没、
長門は呉港内で航空機の攻撃で破損、敗戦後米国により原爆実験の標的とされビキニ環礁
にて水没した。
さて最後に登場するのは、戦後よく知られるようになった「大和」「武蔵」である。ジ
ュットランドの教訓も十分検討され、従来の日本の戦艦と比べるとその艦容が一変した。
従来の日本の戦艦は二段の主砲の後に戦闘指揮所が、その後ろに三脚のマストがあった。
このマストは測距儀を上部にそなえていた。その後の改造でマストに階段上に各種構造物
を設置していき、その形容から米軍が評してパゴダ(仏塔)といったようなものであった。
大和型は最初から三脚マストはなく層塔構造である。主砲は世界最大一八インチ(四六セ
ンチ)砲であった。排水量六四○○○トン、速度二七ノットというものである。速度を除
き世界最大である。いろいろ言われているが、専門家によるとよくぞこの大きさに収めた
ものであるということである。
なぜ戦後有名になったか、これは建造から運用まで国民にも世界的にも軍秘として広報
されることがなかったからである。なぜか。それは米国を意識していたからである。日露
戦争後、日本を対抗相手として意識し始めた米国。第一次大戦後世界の覇権国となった米
国にとって太平洋の向かいにある日本、何かと気に障る国であった。日本も日露戦争の勝
利により新興国としての覇気が増大し米国を意識、さらに太平洋の覇権を争う国として米
国を意識した。当時はまだ白人優越の時代である。何かと日本の行動が米国のカンにさわ
ったようである。ともに仮想敵国として明確に意識した。
この間いろいろあるようであるが、単に軍部の独走という事ではなく、国民感情として
嫌米が増えていったということもある。軍縮条約という薬があった、これに乗っかりうま
く利用することができたら、おそらくカタストロフィーに至ることはなかったと思うが、
うまくそれに乗っかることができなかった。ともかく米国を意識していた海軍は、軍縮条
約の期限が切れるのを狙って次期戦艦の設計を開始したのである。ともかく米国を上回る
回るものを求めていた軍は、当然米国の生産力などの国力を知っていたに違いない。もし
その内容が知れれば相手はすぐにそれより上回るものを用意するであろうという考えもあ
り、絶対に相手にわからないうちに事を始めねばという事であろう。事実米国は戦争が終
結するまで「大和」「武蔵」の詳細は知らなかった。
ともかく巨大であるという事を、戦って知ったらしい。この大和、武蔵、実際は戦局に
寄与することはなかった。むしろ戦局に寄与したのは太平洋戦争に参加した戦艦では最も
古い金剛、比叡、榛名、霧島の高速戦艦といわれる四隻である。ちなみにその速度は三〇
ノッ卜である。またその機関出力は一三六〇〇○馬力である。排水量は三二一六○トン
(四隻とも多少違う)である。大和型の機関出力は一五○○○○馬力である。何故日本の
戦艦は国力を傾けるくらいの努力をしたにも関わらず活躍できなかったのか。話は簡単で
ある。もはや戦艦というものが戦争の変化に全く適応できなかったということである。も
っとも、これも使用方法によってはそれなりの用途がのこっていた。それは米国が用いた
海上砲台としての用途である。海上から地上を砲撃するもので、巨大な主砲を有する戦艦
ならではの用法である。もっともこれはその現場の制空、制海権を確保していなければこ
のような用法やりたくてもできるものではない。戦勝国米国だからできたことでもある。
戦争というもの、ロマンでも妄想でもない。利害得失を考慮し味方の損害、リスクを最
小にして相手を屈服させるかということにつきる。
戦艦は巨大な砲力を有するがその命中率はということになる。太平洋戦争時どのくらい
の命中率であったのか、詳しくはわからないが訓練で最人三○パーセントくらいとある。
実戦で敵も砲撃運動し海が多少荒れているとすると、おそらく一Oパーセント以下であろ
う。しかも先に書いたように砲というものは寿命があり、発射回数の制限があった。もち
ろん制限を超えると廃棄ではなく砲身の交換を行った。
中期以後、米国はレーダ測距を使用し夜間でも攻撃可能な体制をととのえてきた。そん
な中で速度は遅く命中率も悪い戦艦等は単なる標的にすぎなくなってききた。それに対し
航空機というもの、全ての要素で戦艦などの海上戦力にまさっていた。コストパフォーマ
ンスが悪すぎ、もはや航空機に太刀打ちできないものとなっていた。多少の活躍をした戦
艦が金剛等最も古参の物であるというのも、なんとも皮肉というか喜劇というべきか。技
術あるいは戦争というものを考えさせられる。この戦艦というカテゴリーは一九六〇年ま
で残存したが、現在では存在しない。
戦艦というもの、消滅した中世爬虫類時代の恐竜のような存在となってしまったようで
ある。現代の数千トンの駆逐艦(護衛艦)ともし戦闘すれば、あっけなく敗北するであろ
う。それは現在の駆逐艦が戦艦の主砲の射程外から強力なミサルを正確に命中させる能力
を有するからである。
さて日本の戦艦という事で書いてきたが、明治維新以来およそ四十年近くで日本は何と
か先進諸国に追いついたとはいかないまでも、何とか同列近くに並びそれから何とか同列
にいることができたのか。これがまた一つのテーマである。幕末明治維新すなわち十九世
紀後半、産業革命を経た先進諸国の技術が進んでいるとはいえ、まだ在米技術の延長線上
にあったのではなかろうか。鉄と石炭の技術は当時の日本人の思考延長で理解できたので
はなかろうか。
これが電気気を利用する技術となると、従来の思考の延長では筒単に理解できない。そ
れと、当時の日本の教育というか知的レベルの高さからくる、好奇心探求心に共鳴する要
素があったのではなかろうか。十九世紀後期のの日本の知的世界との壁は、思ったほど高
くなかったのではないかと最近思うようになった。これがその後の日本の躍進が意外と旱
かったことにつながると思う。
しかし日本はやはり後進国であった。一部は先進諸国に追いついたかのように見えても、
底辺までは息切れしてついに並ぶことはなかった。太平洋戦争の敗戦はそんなところにも
ある。途中書いたが戦艦の時代、ネーバルホリデーと言われる時代にうまく利用できなか
ったことは大きいように思う。もっとも当時今でいうそれに対応するビジネスモデルがな
かったという事、もっと前向きに言うと、それに対応するビネスモデルを創造できなかっ
たことに尽きるのであるが。
参考としたもの
日本戦艦史 二○○七年一○増刊 六八一 海人社
イギリス戦艦史 一九九○年一一増刊 四二九????????海人社
近代戦艦史?????? 二○○八年一○増刊 六九七 ??????海人社
Battleships and BattleCruisers 1950-1970?????????? Doubleday
(Siegfrid Breyer著)
戦列艦時代???????????????????????????? 戦艦の原始形?????????????????? 前ド級鑑
「ヴィクトリア」英 18〜19世紀初め????「ラ・グローワル」仏??1859進水??????????「三笠」日本????1900進水
ド級艦???????????????????????????? 超ド級艦???????????????? 超々々ド級艦
「ドレッドノート」英 1906進水???? 「比叡」1912 進水?????????? 「大和」1940進水
???????? ??????????????
(斜光24号掲載)
35
:
同人α編集部
:2020/12/05(土) 07:27:12
願わくば
?????????????????????? 願わくば
欠陥人間である。昔風の用語でいう片輪である。「片輪」は差別用語であり使用禁止の
言葉らしいが、自分のことを言うのは問題ないだろうと思う。内分泌を行う内臓の中に肝
臓というものがある。これはインシュリンという糖分をエネルギーとして取り込む作用を
する物質を分泌する臓器である。このインシュリンは生成作用が弱く、外部より補完しな
ければ生命の維持がおぼつかないということである。いわゆる糖尿病である。糖尿病は、
現代医学では完治させることは不可能であり対症療法のみである。これで悲観していても
先に進まない、現実に向き合っていくしかない。その対症療法としてインシュリン注射を
毎日行う羽目になった、三十代からである。
インシュリンが不足すると食事よりとった糖分がうまく体内にエネルギーとして取り込
まれなくなり、血液中に残ったまま血管に付着したり腎臓に過大な負担をかけたり。何か
と生命維持に障害をもたらすとのことである。そのためインシュリン注射に加え、出来る
だけ糖分を消費するため運動を要請されている。運動といっても運動音痴の身であり運動
会では弱者であった小生に、何か様になる運動をするといってもせいぜい散歩ぐらいしか
ない。散歩は昼食後数時間行うことにしている。散歩中いろんなことが頭の中をよぎって
いく。そのなかでふと頭に浮かぶ言葉あるいは概念がある。
その一つで、突然「願わくば…」という言葉あるいは単語が頭の中によぎった。はて?
どこかで聞いたと思ったが「……」がなかなか思い出せない。よくあることである。思い
出せないことに対応する方法はいろいろあるがふつうはあいうえお……順に単語を並べ
る。たとえば「あ」の後またアイウエオと続ける、あい、あう、あえ……と連想し、最後
「わ」つぎに「い」……といく、不思議なことにこれで頭の中にあるものが引きずり出さ
れてくることがある。それでもこれでうまくいくことは稀である。うまく思い出せない時
は、帰宅後すぐに忘れないうちにPCに向かい検索。なにしろPCの中には無限ではない
が多くの情報が詰まっている。昔は百科事典を調べていたがそれをはるかに凌駕する情報
が引き出せる。もっとも引き出すにはそのキーワードをうまく設定する必要があるが。と
もかく何とか「願わくば」についてたどり着いた。それは西行法帥の詠んだ歌である。
「願はくは花の下にて春死なむ、その如月の望月の頃」この解釈は後ほどにするとして、
西行法師とくるとそれに始まる年寄りの連想は果てることがない。春の白昼夢をたどって
みる。
西行といえば俗名は「佐藤義清」、平安末期の下級貴族にて北面の武士。左兵衛尉と
あり位階は不明であるが、官位相当制度より調べるとおそらく正七位というところであろ
う。これは当時の感覚でいうと下級貴族というところか、佐藤氏は藤原北家魚名流である
藤原秀郷(俵藤太)の子孫、奥州藤原氏、関東の小山氏、結城氏などと同族である。秀郷
流藤原氏といえば、歴史用語でいえば源平に代表される「軍事貴族」といわれる中のひと
つである。
この軍事貴族とは、これは日本歴史を研究している学者の間においても色々解釈がある
ようであり私ごとき門外漢が口出すことではないが、この秀郷流藤原氏、平安木期になる
と同じ軍事貴族といわれる清和源氏、桓武平氏と比べるとあまり振るわず、どちらかとい
うと地方の武者という位置付けである。佐藤義清の佐藤氏、紀伊の国田中荘の預所に補任
された。この預所なるもの、平安時代半ばより出てくる名称であるが、開発領主が国家権
力による収奪から逃れるため摂関家などの上級貴族に寄進し、実質的には領主であるが名
目上上級貴族の下での管理者のような場合や、在京の領主より任命れた管理者等様々なケ
ースがあり、よくわからない。この佐藤義清という人、おそらく紀州という近国であり開
発領主ではなく管理者として補任されていたのだろうと思う。
この佐藤義清の諱(いみな)は「サトウノリキヨ」と読む、「範清」とも書くとある。
そこでふと思い出した。源平争乱期ポッと出てすぐ歴史の闇に消える志田義広という人が
いる。源為義の三男である。頼朝の叔父にあたる。この人通常は「よしひろ」と読むと信
じていた。何かの折この志田義広を調べたとき「義範」との表記もあるとあった。その時
はなぜ? とも思わなかったが、この「佐藤義清」を「サトウノリキヨ」と読むというこ
とでいうことで改めて考えると、実は「シダノリヒロ」と読むのが正解かと思った。当時
「義」を「ノリ」とも読んだのですかね。必ずしもそうは言えないところがある。たとえ
ば「九郎義経」これは「クロウヨシツネ」であり「ノリツネ」という読み方はない。
志田義広の読み方をいろいろ調べても「ヨシヒロ」が正しいようです。義範の範をヒロ
と読むのは現代でも名前の読み方としてあることであり不思議ではない。 ということで
「義清」を「ノリキヨ」と読むのはこの西行法師の俗名のみなのか、正確には西行の出家
前の緯、佐藤義清のみなのか。佐藤義清、下級貴族とはいえ紀伊の国田中荘の預所であり
裕福であったといわれている。預所であり生活基盤は充分保証されており北面武士として
あるいは左兵衛尉として当時の武者の家のものとしてそれなりの地位を有していた佐藤義
治が、何故困難の多いと思われる仏教の僧侶として生きていくことを覚悟したのか。何故
出家したのか、いろいろ言われているがよくわからない。が、多くの説は失恋した、すな
わちさる高貴な女人に恋をし逢瀬を持ったが「あこぎ」と言われ失恋した、との説が多い
ようだ。
これから先は想像あるいは妄想の領域というべきか、ともかく下級貴族である佐藤義清
か上級貴族のさる女人と逢瀬を持った、その時のことを仕草を含め「あこぎ」と評価され
た、これは豊かで繊細な詩人の魂を有する彼にとって堪えられない屈辱ではなかったのか。
あるいはいかに軍事貴族とはいえ、所詮上級の貴族から見たら下郎に過ぎないと思われた
に等しいと、彼の北面の武士としての生きがいあるいは誇りが内面から崩れ去ったのでは
なかろうか。佐藤義清か西行に変化するところである。
出家するということ、現代に生きている我々にはなかなか理解しにくいところであるが
当時の人にとってはまさに今までの人生をすべて捨てて生きていくということ、全ての従
来のつながりを切断することであり、よほどのことがない限り下す決断ではないと思う。
事実、よく知られている西行は自身を「心なき身にも哀れは知られけり、鴫たつ沢の秋の
夕暮れ」と詠んでいる。ここに出家という存在がある。「心なき身」ということは、全て
の世俗の関係感覚を断絶したということであろう。とはいうものの西行という人、宗教人
というより歌人としての評価が高い。平安末期から鎌倉時代の初めに生き、死後編纂され
た最後の勅撰集『新古今和歌集』に九十四首人撰している。その歌風はいわゆる新古今風
に大きな影響を与えた。このあたりは詳しくなくいろんなところで書かれていることのつ
まみ食いである。
老人の連想を続ける、ここでふと、ほぼ同じ時代に北面の武士であり横恋慕により出奔
挙句に出家した行動の人を思い出す。その名は「遠藤盛遠」出家後の名前は「文覚」、こ
の人、宗教人というより現代風にいえばフィクサーあるいはクリエーターといったほうが
適切であろう。出家後真言宗の僧侶として修業し神護寺に赴き、その興廃した様子に発奮
し当時の後自河法皇に強訴した。この強訴、いかにも荒っぽいやり方であり法王の方でい
ささか持て余し伊豆に配流となった。ここで伊豆に配流中の源頼朝を知る。通俗の物語で
は、頼朝にその父源義朝のものという髑髏(しゃれこうべ)を見せ平家追討をあおったと
の話もある。
ともかくこの時の縁で頼朝と良好な関係を築き、頼朝が権力者となった暁にはその庇護
を受け神護寺、東寺、その他の寺院の再建を行った。特に神護寺では中興の祖といわれて
いる。頼朝死後その後ろ盾を失い、そのフィクサーたる源泉がなくなり政争に巻き込まれ
佐渡に配流され、赦免されるも今度は後鳥羽上皇に謀反を疑われ再度対馬に流刑、途中で
死す。まことに波乱に満ちた生涯であり行動の人であり快僧というべき人である。
連想のついでにもう一人同じ文の付く僧侶、こちらはのちの評価は妖僧である。時代は
少しあとの鎌倉末期から室町初期というより南北朝時代である。「文観」という僧侶がい
る。後醍醐天皇に重用された。東寺一長者、天王寺別当など務める。この人、南朝方の人
でありその業績はその後の北朝系統の政権に抹殺されたところもあるようである、その中
で特に「真言宗立川流」を広めた妖僧との評価がある。この真言立川流とは真言宗の経典
のひとつである理趣経に基づくものである。立川流伝承では、性的儀式を伴っていたとい
う。そのため淫祠邪教ということで迫害され消滅した。そのための教義、様式など全く残
っていないためよくわかっていない。ただ理趣経は正当な密教経典であり、真言密教の根
本理念である「自性消浄」という理念に基づく経典である。ただ男女の性行為などを大胆
に肯定している。そのためいろいろ曲解される向きもあるとの恐れより、密教を日本に広
めた空海弘法大師はこの経典を封印、修業を積んだ僧のみ読経を許可したといわれている。
よくわからないところである。
さて文観はこれくらいにして西行に戻ろう。西行に限らないがこれらの僧侶、一体どの
ようにして生活(生命維持)をしていたのだろうか。西行のように特定の寺院に所属する
ことなく気の向いたところに草庵を結びかつ日本国中を旅するという生活、どのようにし
て生命維持の基礎となる衣食を調達していたのだろう。西行の生きた時代、平安末期は源
平の合戦の時代であり、その間養和の飢饉というものがあり日本全国が不安定の時代であ
る。生きることが困難な時である。
鴨長明による『方丈記』にこの飢饉時のすさんだ光景が言及されている。ときの権力に
連なる寺院に所属してない現代でいうと、自由業の彼らはいかにして生きていたのか、仏
教が一般民衆のレベルまで浸透するのはこの後のいわゆる鎌倉仏教である浄土真宗、日蓮
宗、禅宗(臨済、曹洞)などによる教化によるものであり、西行の生きた時代では僧侶は
聖なるもの犯してはならないなどという規範が一般民衆レベルで共有されていたか、極め
て疑わしい。また旅をするといっても宿泊施設など整備されているわけでもない、どのよ
うにして旅をしていたのだろう。
日本において一般庶民の旅が可能になるのは、少なくとも江戸時代半ば以後である。僧
侶ということで、諸国の寺院のネットワークというものがありそれを利用したのか。とも
かく平安時代には旅をする人はいた。たとえば初期には在原業平、関東(武蔵の国)まで
旅をしている。この人、国司に任官した経歴はないので、もし関東まで旅をしたとすると
律令制による正規な手段は使用できなかったはずであるが、それでも平安初期までは律令
制による中央集権が生き残っており道路、駅などのインフラは生きていたと思う。少なく
とも何らかの方法でこれらを利用できたはずである。
翻って西行の生きた平安末期、奈良時代に整備されたインフラが中央集権が壊滅した時
であり、駅伝制が機能していたとは思えないのである。少なくとも、平安末期日本を自由
に移動できたのは兵の集団のみである。源平両氏などに属する兵が、集団で当時知られて
いた日本を移動している。その移動の方法というかノウハウは少なくとも十世紀ごろから
の地方の反乱(正平・天慶の乱、平の忠常の乱、前九年、後三年の役)などに対処した兵
の棟梁の家系に遺伝子として伝承されていったはずである。
そのような兵でもない僧侶はどのようにして宿泊をし食を収ったのか。寺院のネットワ
ークのようなものがありそれらを利用したのか。現在でこそ寺院は多数あり集落につき一
寺院はあると思われるが、これは鎌倉仏教の普及後、江戸時代の宗教政策によるものであ
り、平安末期にそのような数の寺院があると思えない。一口に歩ける距離を三〇キロくら
いとしてその範囲に一寺あったとは思えないのである。もしあったとしても、宿泊させ食
事を提供するという機能を有していたのであろうか。
西行法師、現代では歌人として有名人であるが、同時代の地方にて西行ということで有
名人として通用したであろうか。気の向くままに旅をし歌を詠むとは歴史上のロマンであ
るが、少し現実的に考えると謎が多い。この西行法師、当時の奥州平泉まで二度旅してい
る。最初の旅は出家して二年後である。二度目は東大寺大仏及び大仏殿修復のための勧進
である。現代風に言うと奥州藤原氏への寄付依頼である。この二度目の旅の途中鎌倉に立
ち寄り源頼朝に会っている。「……鴫たつ沢……」の句はこの時相模の大磯あたりで読ん
だ歌である。
一度目は全く目的もわかっていない。ただ奥州藤原氏は秀郷流藤原氏として西行の佐藤
氏と同族である。おそらくここで奥州藤原氏と良好な関係を結んだであろう。そのため二
度目の東大寺修復勧進が成功したのもこの時の関係が効いたのかも。ともかく旅について
は謎が大きい。ここで西行ということで大昔に購入し積読になっていた本を思い出した。
それは辻邦生氏による『西行花伝』という小説である。この本、かつて西行法師に関心が
あった時期に購入したのであるが、内容がちょっと小生には重く感じ、ほったらかしにな
っていたものである。ここ数週間、この文章を書き始めてあらためて読み出した。まだ読
了したわけではないからこの小説がすべて真実であるという保証はないが、辻邦夫氏、そ
れなりに資料を調査されていることであろうから、これに照らし私がいままで書いてきた
内容が間違いと思うところもあり、ここで訂正しておく。
まず紀州田中荘預所について、田中荘義清の数代前佐藤氏が開拓した荘園(領地)であ
り。それを徳大寺家(精華家)へ寄進した物とある。歴史上いうところの開発領主であり
実質の領主である。これは平安中期よりのいわゆる兵の典型的な在り方である。鎌倉幕府
を支えた御家人はほとんどこのパターンである。また出家したあとも完全にこれらの世俗
と切れておらずそれなりの関係があったようで。そこから生活の糧を支援されていたと思
われる。私の西行への想いはこの『西行花伝』に託したい。そこで佐藤義清という人、弓
馬術、蹴鞠などいわゆる武芸に秀でた人であったようである。ここに佐藤義清/西行を解
く鍵があるように思う。
平安末期、もはや律令制は実質崩壊していたが、その建て前のみは存続しその匂いに浸
っていた時。騎射すなわち馬術、弓などは仕草の伝承にすぎずとても実戦の用をなすもの
ではない。このころ台頭してきた武家の荒々しい生命力に太刀打ちできるものではない。
往時の北面の武士の武力はせいぜい都の公家の飾りにすぎず、のちに鎌倉幕府を盛り立て
た武者に太刀打ちできるものではない。事実、北面などの都の武者が当時の合戦などで活
躍した話を聞いたことがない。たとえば以仁王の乱というものがある、ここで以仁王に与
力した源頼政(典型的都武者)は関東の足利(藤姓)忠綱になすすべもなく敗北している。
いろいろ評価はあるようであるが平安末期に京武者であった佐藤義清、西行へと変身す
るもその根っこはやはり佐藤義清である。滅びゆくものの儚さあるいは愛着を体現した人
であったようである。『西行花伝』をまだ読了したわけではないが、辻邦生という小説家
に共鳴するところか多い。そのなかで『背教者ユリアヌス』というものがある。ここで彼
はコンスタンティヌスによりそれまで抑圧されたキリスト教が一挙に権力側となり正義を
独占したときに、それに連なる人々の正義を独占したと信じる人間の振舞いをつづった。
また『安土往還記』というものがある。これは中世的権威を破壊し新たな世界を切り開
いた信長の清々しさへの共感である。これらに大変感動した覚えがある。では『西行花伝』
で何を言わんとしたのか、まだ読み終えていないが、おそらく滅びゆくものへの共感・儚
さではなかろうか。何となくここまではわかったような気もするが私が本当に知りたいの
は、西行という僧侶、一体どのようにして生活していたのかいわゆる形而下のことである。
このようなことについては全く不明なことが多い。
さて西行という人、西方極楽浄土を希求して付けた名前であり、その死は願い通り一一
九○年如月二十六日(旧暦)(釈迦涅槃の日)人寂した。
最後の連想であるが「東行」と号した人がいることを思い出した。西行にかけた号であ
ると思うが、その心は東の方江戸幕府を食らいたいとの思いである。その人の俗名は「高
杉晋作」、幕末長州の志士にして風雲児である。維新成立前にその望みがかなうまえに病
死した。
西行法師。菊池容斎『前賢故実』より。
36
:
つる
:2022/04/10(日) 11:31:16
階段スイッチの怪談
???????????????? 階段スイッチの怪談
怪談というより快談といったほうが良いのかな。大方のお宅にあると思いますが階段を照明する
電灯、最近は白熱あるいは蛍光灯よりLEDタイプが多いようですが、今回はこの電灯でなくそれ
を点滅させるスイッチについてのちょっと不思議な面白いお話です。 さて電灯といわずあらゆる
電気製品には、それを入り切りするスイッチが一対一でついています。ところが、この階段照明の
電灯一個に対応するスイッチは階段の上と下二ヵ所にあるのが普通である。その機能は、現在の状
態(例えば電灯が点灯)よりどちらかのスイッチを操作すると状態は反転(消灯)します。その状
態からまたどちらかのスイッチを操作すると、状態は反転(点灯)します。通常ごく当たり前とし
て不思議に思わないようですが、よく考えてみると不思議なことです。通常のスイッチはONかO
FFの状態しかなく、その状態は一義的にきまっています。例えば部屋の照明などに使用する壁に
あるスイッチ、色々な種類があると思いますが、普及しているものはシーソースイッチといわれて
いるもので、中央に支点があり一方を押すと反対側が跳ね上がるようになっているものが多いと思
います。
いうなればシーソーのような動きをする。このスイッチは操作部の片側に何らかのマークがつい
ていて、そちらが押されているときONときまっています。この機能は一義的であり、ON側は必
ずONであり逆になることは絶対にない。ところが階段スイッチは先に述べたように上下二個のス
イッチで機能的には一個のスイッチのような動きをし、ON/OFFを示すマークもついていない。
これはいったいどのようになっているのだろうと考えてみた。電気工学を学び電子機器の設計を仕
事としてきた人間から見ると、電子回路を使用する方法、これならば簡単にその機能を実現するこ
とができる。しかしどう考えても、実際の階段スイッチは電子回路が組み込まれている様子はない。
ON/OFFのみのスイッチは記号で示すとである。このタイプのスイッチでは、どのよう
に組み合わせても階段スイッチの機能は実現できない。電気工学を学んだ身ではあるが恥ずかしな
がら降参である。
そこでインターネットに教えを乞うことにする。調べてみると実に簡単である。思いつかなかっ
た私がバカなのかと思ってしまう。要はスイッチとして図1にあるSI、S2のタイプのものを使
用し、結線は図2のようにする。このタイプのスイッチは電気工事用語で三路スイッチといわれて
いる。
????????????????????図1 表1
??
さてこの方法、実に簡単巧妙な方法であり、価梧、信頼性、工事の容易さ等から見て素晴らしい
方法であると思う。では誰がいつ頃これを発明したかと調べてみたが、わからない。建築配線を行
う職人の技として完成されたものだろう。それもおそらく日本ではなくて米国、あるいはヨーロッ
パであろう。一方工学的なアプローチを考える。これは現在の階段スイッチとはあまり関係ないが、
ディジタルの考え方の基礎が含まれており面白いので披露する。まず各々のスイッチの状態は二つ
あり、それぞれ0と1に対応させる。スイッチは二個であるので状態は四個である。
表1においてA、Bは各々のスイッチでありLは電灯とする。Lで0は消灯、1は点灯である。
まず初期点灯で00として考える。次にどちらかのスイッチ(例えばA)を操作する。すると10
となり消灯する。次にどちらか(例えばB)の操作を行う。この状態は11となり点灯する。また
どちらかのスイッチ(例えばB)のスイッチを操作する。この状態は10で消灯となる。この様子
を表1は表している。
????????????????????図2 表2
??
さて二個のスイッチでできたことが、三個以上のスイッチでも同じようなことができるのか。こ
れは三個以上、理論上は無限個のスイッチで可能である。その場合、使用するスイッチは先に述べ
た三路スイッチが両端に配置され中間のスイッチは四路というものが必要になります。三個のスイ
ッチの場合を図2に示します。この図2のS7、S8のスイッチは一体で四路スイッチを表します。
この四路スイッチというものは、機能的には二本の線を並行にしたり交差させたりするものです。
下に示すように、ON/OFFのたびに二本の線を並行にしたり交差させたりします。
??????????????
これを表1のような論理表で示したものが表2である。
このように階段スイッチは配線されていることが分かったが、最近私は退屈しています。年寄り
の慰みに昔取った杵柄というわけではないがこれを電子回路で実現するとしたらどうなるか遊んで
みることとした。表1と表2にその論理を示しているので、電子回路で実現することは簡単にでき
る。図3は二個の場合、図4はスイッチ三個のときである。両中図U1などUの記号のものは、あ
る機能素子です。いずれも図中左側が入り□で右が出口です。入力でドンとすればカンと出るよう
なものです。
また両図中、Q1から右側は電灯を点滅するための部分で、いうなれば力仕事を行うところ。左
側の部分がスイッチの指示によりその論理を実行する頭脳部です。ここではスイッチは三路、ある
いは四路などは必要でなく、単純なON/OFFスイッチのみで済みます。これらの論理部分シミ
ュレーションにて表1・表2の論理通りに動作することを確認済みです。
さてこれらの電子回路をどのように実現するかということになると、時代を考えさせます。私の
自分史に重ねて考えると、三十、四十代では、これらは個別のICを使用して実現したと思う。お
そらく三センチ平方あれば充分であったろう。
ところが二十一世紀になってくると、個別の部品で制作することはほとんどなく、マイクロプロ
セッサーやFPGAなどといわれるものを使用してソフト的に実現するようになってきた。実際、
最近は個別のICは秋葉原の電気街に行っても見かけなくなってきた。
それでも、実際の仕事をする部分はパワー半導体として一つの分野があり、発展をしている。電
力制御であり、最近話題になっているEVなどではきわめて重要な分野である。 時間の流れは急
速です。もはや老兵は死にゆくのみ。
(斜光26号 2021)
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