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竹内
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同人α編集部
:2016/10/23(日) 12:05:38
潜 水 艦
.
潜 水 艦
今日、知らない人はいないと思われる軍艦の種類である。現在ではその隠密性、攻撃能
力の高さから主力艦の地位を列国海軍の中で占めているといっても良い。さて、この潜水
艦、その構想は古くからあったと思われるが、実用に耐えるものが出現したのは、材料
(鉄鋼)電機、化学(電池)などの近代重化学の要素がそろってくる、二十世紀になって
からである。
最初の近代的潜水艦は一九〇〇年、米国のホラント号をもって嚆矢(コウシ)とする。これ
が本格的に用いられたのは一九一四年に始まる第一次世界大戦である。この戦争の当初、
ドイツ帝国が積極的にこれを活用した。海軍力において英国に劣るドイツ帝国は、現在言
われている非対称戦略の一環として活用したのである。当時の最新鋭兵器であり、その対
処法が確定していなかったことなどがあり絶大な効果をあげた。しかしながら、当初中立
を保っていた米国人が多数犠牲となったルシタニア号の撃沈などがあり、若干その活動が
消極的になるなどの経緯もあったようである。
戦争後半、ドイツは再び無制限潜水艦戦を開始、イギリス商船は多大の損失をこうむっ
た。これに対し、英国は護送船団方式を採用してドイツ潜水艦の脅威をかなり低減するこ
とに成功した。それでもドイツ潜水艦による成果は第一次世界大戦期間中で五千三百隻、
一三〇〇万トンに及んだという。この戦争において潜水艦の有効性が立証されたとの認識
より、列強各国は本格的に潜水艦の運用を行なうようになっていく。
この後の大戦間といわれる期間、各国は潜水艦の有用性に注目するも、戦後の平和ムー
ドならびに戦争における膨大な戦費の付けによる財政難などにより、特に目立った動きは
ない。その間、ドイツはベルサイユ条約により潜水艦保有を禁止されたが、一九三五年以
降ナチス政権による再軍備が始まると海軍も再建を始める。その時、完成に時間のかかる
戦艦、巡洋艦などの水上艦艇よりも潜水艦の量産に注力した。これが第二次大戦初期にお
けるドイツ潜水艦隊による英国封鎖に多大の威力を発揮した。
また米国も潜水艦の活用を当初日本海軍と同じく艦隊作戦を目的としていたが、日本海
軍の真珠湾攻撃後、想定していた事態の変化によりその方針を一変し通商破壊作戦へと変
更した。これは結果的に見ると大成功であった。米国潜水艦部隊の対日戦での成果は商船
千百十三隻、四七九万トン、艦艇二百一隻、五四万トンであり、日本の喪失艦船の五五パ
ーセントにも達する。この数値は日本の兵姑を破壊したというに充分な値である。日本の
兵姑はほとんどこの潜水艦によるものであるといわれている。
一方、喪失した潜水艦は五十二隻であった。これだけの戦果を揚げることが出来だのは
米国潜水艦の能力もあるが、基本的には日本海軍の対戦能力の低さと作戦の失敗にあると
思う。これについてはいろいろな意見もあるが私の思いは後述する。
一方、日本海軍は潜水艦にどのように対応したか、以下述べる。日本海軍も潜水艦をそ
の隠密性という特性に着目し重要な艦艇として重視した。ただ海軍は通商破壊の道具とし
てではなく、限りなく対艦艇用兵器としてみていたようである。そこで、日本海軍の潜水
艦は潜水する艦艇というより、必要なときの潜水可能ないわゆる可潜艦としての性能を重
視したものとなった。これは何も日本海軍のみでなく世界各国共通のことではあるが。当
時の技術では真の意味での潜水艦を実現することは不可能であった。これは戦後原子力を
利用することにより実現した。
その中でも、日本海軍はいわゆる艦隊型潜水艦に注力した。日本海軍ではこれらを敵艦
隊の動向、あるいは敵軍港などの施設の偵察などを主目的とした巡潜型と、艦隊決戦の前
に敵艦隊に接触し反復攻撃を行なう目的の海大型として用いた。巡潜はその目的より長大
な航続力を、海大型においては艦隊と共に行動するため速力(水上)を重視した。
その後技術の進歩に伴う機関出力の増大などがあり、巡潜の速力が向上し昭和十年前後
よりこの両艦種は統一され甲、乙、丙にと統合されていった。これらの区別は、主に司令
部機能がある、あるいは偵察用小型飛行機の搭載能力がある、などである。特筆すべきは
飛行機の搭載である。勿論、その主たる用途は偵察である。飛行機搭載といってどのよう
に運用したかというと、飛行機の発進は勿論浮上中にカタパル(火薬)で打ち出し、撤収
は水上に着陸した飛行機の近くに浮上しクレーンで吊り上げ収納する、という方法により
運用した。
当然、飛行機は下駄履きといわれるフロートつきの小型機である。海軍はそれ専用の零
式小型水上偵察機を開発した。各国海軍においても潜水艦に搭載する飛行機について研究
開発はなされたが、本当の意味で実用に達しだのは日本海軍のみである。ちなみにその効
果のほどはほとんど無いと思うが、この零式小型水上偵察機が米国本土を爆撃した唯一の
日本の飛行機である。
この技術の延長上に、大型攻撃機晴嵐三機を搭載したイ四〇〇シリーズがある。これは
当時としては世界最大の潜水艦であった。これについて色々な見方があり、人によっては
戦略的に革新的であるとの意見もあるが、私はそれほど評価していない。日本海軍の悪い
癖というか、八方に手を出し、どれもまともに育だない袋小路の一つであるように思える。
色んな方面にその可能性を求め研究することは悪いことではないと思うが、戦争開始後の
切迫した情勢で注力する方向を決定しないで、漫然と色んなことに手を出すことはある意
味では悪あがきのように思う。ただこれだけの技術、それなりに大変な努力がなされたの
だと思う。
ここで第二次大戦中の各国の潜水艦のスペックというようなものを調べてみると、各国
ほとんど横並びというか、突出したものはない。勿論違いはある。特にその大きさ、日米
のものは広い太平洋での使用、さらに艦隊型の傾向があり大きい。ドイツは潜水艦単独使
用さらに通商破壊むきということで、多少小型の傾向がある。
潜水艦の主要性能である潜水能力はほとんどが水中速度七から1〇ノット(時速一三キ
ロから一八キロ)で、ほぼ自転車くらい。安全潜行深度は初期のものは八〇メートル、後
期のもので一二○メートル(米国)、一〇〇メートル(日本)、ドイツでは二〇〇メート
ルに達したものもある。
水上速度は一七から二三ノッ卜くらいである。当時、艦隊型潜水艦として日本海軍の潜
水艦について、関係者は細かい問題は多いが少なくとも世界先端を行っていると考えてい
たようである。
さて、ここで太平洋戦争における日本潜水艦の戦績について調べてみる。じつはその戦
績というものほとんど見るべきものがない。特に通商破壊についてはその記録も良くわか
らないところがあり正確さにかけるが五一万トン、隻数にして九十八というのが見つかっ
た。これと米国潜水艦の戦果と比べると、驚きというか開いた口がふさがらない。なぜか。
ここに我々の行動パターンの一つがあるようにみえてならない。
基本的には、日本人の戦争というものに対する認識が根本にあるように思える。古代か
ら奈良時代まで日本には国家としての軍があり、そこにはおそらく国という概念があり、
そこに住んでいる人を他国から防御するという意識はあったと思う。ところが平安時代に
なると中央集権体制が崩壊し、そのなかから新たな兵としての武士が台頭してくる。
この武士、戦士ではあるが国家の兵士ではなく、あくまでも私兵である。その戦争形態
も私権を守るための戦、あるいは傭兵として雇い主の利益確保のための戦であり、相手の
直接戦力に損害を与えることが目的であり、周辺の戦士でない普通の人々は戦争の対象と
はならなかった。武装集団同士の局地戦の発想である。これが中世、近世と続く武士政権
の根本にある。
明治になり国家として軍(国軍)を創設した時期、それを推進したのは主として武士階
級出身である。中央集権的な国家が創設された。そのなかでも国軍の創設はこの中央集権
体制の目玉であった。この国軍、創設時の指導者は旧武士階級出身であり、指導理念に武
士階級の遺伝子があり指導理念の中に残ったのではなかろうか。明治期、近代国家創建に
夢中の時代、近代化(西洋化)がその遺伝子の負作用を抑え、明治期の陸海軍が西洋諸国
より賞賛された面もある武士道として正の作用として発揮された。
それから一世代を経た昭和の軍において組織の巨大化に伴う官僚主義が台頭し、そこに
教条主義的思考が広がり柔軟性が失われていく。このような雰囲気の中、太平洋戦争にお
ける海軍の作戦指導においては潜水艦の最大の役割を艦隊決戦とした。通商破壊(商船攻
撃)を重視しなかったこと。これはまさに戦争観にあると思う。
この軍同士が直接争う前線重視の考えかた。これはまた情報の軽視にもつながる。日本
海軍は潜水艦の隠密性という特徴を活用しようとした。しかしこの隠密性とは、当時はこ
れを視覚的に不透明であるということと考えたのであろう。しかし物の存在の情報は視覚
から得られるばかりではない。潜水艦の活躍する水中では視覚情報は重要ではない。見え
ないから隠密性があると思ったのであるが、水中は聴覚の情報が支配的である。当然海軍
当局は知っていたと思うが、当時の日本の技術ではそれを活用するには力不足であったよ
うだ。それに輪をかけ情報の重視という視点が抜けていたため、音響探知のための努力が
足りなかったようだ。
自分たちが実現出来ていないことは、当然相手もまだ充分ではないと短絡的に思ったと
しか思えない。相手の実情を良く知らなかったのではなかろうか。確かに一九四〇年の当
時はそんなに差はなかったのかも。しかしその後の展開は雲泥の差があるように思える。
さらに音の情報を活用できない日本海軍の潜水艦の発生する騒音レベルは、米英独の潜水
艦に比べ非常に大きかった。これは音の情報に注意が行かなかったことばかりではなく、
当時の日本の技術水準の低さも関係があると言われている。工作機械、あるいは品質管理、
材料など、どれをとっても他の諸国に及ばなかったという面もある。
同じように前線重視、情報軽視、兵姑軽視という面で見ると、相手の情報活用の稚拙さ、
あるいは考慮していたかということ。この「潜水艦」という一文を書くため色々調べてみ
ると面白いものに出会った。
それは日本商船に対する米国潜水艦による攻撃についてである。広い太平洋で運動して
いる目標に出会う機会は通常は非常に低く、出会うことは困難である。米国潜水艦が日本
商船をかくも大量に撃沈できたのはその出会いにあるとしている。まず潜水艦にレーダー
を装備しているにしてもそのアンテナ位置は低く、走査範囲はせいぜい1〇キロ四方ぐら
いであろう。それは広大な太平洋の中では点に過ぎない。これで商船を見つけ近づき攻撃
したとはとても思えない。では、なぜか。それは米国が日本商船の航路を指示する暗号を
解読し活用していたためであるとあった。しかも日本はこのことに少しも気付いてなかっ
たとある。これではやりたいほうだいである。
日本も商船による物資輸送の重要性を認識し始め、海軍は連合艦隊とは別の組織である
海軍護衛総司令部を遅まきながら発足させたが、艦船不足、探索機器の貧弱さ、対潜兵器
の性能不足などの条件があり、米国潜水艦の活動に何らの抵抗も出来なかったと言うべき
であろう。
このように周辺条件全て劣勢である。直接的には運用法の間違いと数的劣勢だろう。
太平洋戦争に就役した日本潜水艦は統計により多少の差があるが、開戦時保有数六十五
隻、戦時中完成が百二十六隻、喪失が百二十九隻、残存が五十七隻とある。図1に、小生
がある資料から作成した潜水艦の動態を示す。
一方、米国海軍は同じ時期に二百二十六隻の竣工である。しかも量産態勢のため、たっ
たニタイプに限定している。この間、日本は色んなタイプのものを数隻ずつ生産している。
このような日本海軍も戦争後半(一九四三年)になると、さすがに従来型の艦隊潜水艦は
通用しないとし方針を変更、水中高速潜水艦を計画した。奇しくもドイツも水中高速タイ
プに切り替えていく。この二国とも、米英連合軍の対潜能力の大幅な向上により、もはや
従来の流れを汲む潜水艦の活動するところはないと観念したのである。
しかしこれらの水中高速タイプは、いずれも初期トラブルなどにより実戦力とはなりえ
なかった。ちなみにドイツにおいては百十九隻完成。しかし一九四五年四月末になってや
っと作戦投入では、如何ともしがたいところである。一方日本では三隻竣工したが、トラ
ブルなどにより作戦投入はなかった。
これに対し連合国側においては、水中高速タイプの潜水艦の開発の兆しはなかったよう
である。もっともこの水中高速タイプ、これが戦後の潜水艦の主流となりその歴史を切り
開いていく。これに開眼するのが遅かったと言うべきか、それとも人は失敗し追い詰めら
れなければ新たな発想、転進が出来ないのか。考えるべき問題である。
ここで第二次世界大戦は終了する。戦後潜水艦はどのように変遷したか。
今度こそは紛争のない世界が出現することを願望されたが、そうはならなかったようで
ある。すぐに米国とソビエトとの対決が始まった。
戦後の潜水艦革新的技術の改革により、真の意味での潜水艦が出現した。まずはドイツ、
日本がつばをつけた水中高速型の出現である。そのときの水中高速潜水艦の動力はディー
ゼルが主である。実験的にはドイツで実験されたワルタータービン方式もあった。ワルタ
ータービンは過酸化水素を用いるため酸素を外部から取り入れる必要がなく、真の潜水艦
が実現出来る可能性があるが、過酸化水素の取り扱いが非常に危険であり実用化されるこ
とはなかった。
酸素補給がなく運用できる真の潜水艦は、原子力の利用により可能になった。原子力利
用の潜水艦は米国のノーチラスが最初である。これは一九五四年竣工した。その後、原子
力潜水艦の保有国はソビエト、英国、フランス、中国となって現在に至っている。
ここで、戦後日本海上自衛隊における潜水艦について述べる。
一九五五年、米国より第二次大戦型潜水艦が貸与され、「くろしお」と命名されたもの
が海上自衛隊における潜水艦の嚆矢である。これは以降の潜水艦隊の訓練、乗員養成、運
用法の研究、果ては以後の建造の参考とハード、ソフト両面で大きな貢献をした。その後
国産一号として「おやしお」が一九六〇年に竣工した。これは水中高速性能を高めた、戦
後型の艦である。なお設計には旧海軍の技術的な蓄積、米国海軍の支援などもあり完成。
旧海軍の水中高速型(潜高型)に良く似ている。
これから数代の潜水艦の名前は「○○しお」がつづく。それが変更されるのは二〇一一
年竣工の「そうりゅう」型からである。これは現在ディーゼルエンジン使用の潜水艦では
世界最高と言われているが、本当のことはだれもわからない。確かにその大きさ四〇〇〇
トン以上と、これだけはディーゼル艦で世界最高であることだけほまちがいない。
また、海上自衛隊では先の戦争で米国潜水艦に打ちのめされた深い反省から、対潜作戦
を重視している。これは反省ばかりでなく戦後の冷戦構造も深い関係がある。米国に対抗
するソビエト潜水艦の数および能力の上で実力が高く、極東地域の海底で冷たい睨み合い
がつづいていた。海上自衛隊では、米国と力を合わせソビエト潜水艦の監視態勢を強化せ
ざるをえなかった。それが現在の自衛隊の対潜の力を高め、米国に劣らない能力を有して
いると言われるまでになった。
一方潜水艦本体について言えば、騒音の発生レベル、これも先の大戦で負けた要因の一
つであるが世界一静かであると言われている。騒音の発生は潜水艦の隠密性を減少させる
重大な欠陥である。これらは全て噂というか風説であり、本当のところは全くわからない。
原子力潜水艦は原理的にタービンを有し、その回転音ならびに減速ギアーなどの騒音は
ディーゼル型(海中では電気モーターで推進)にくらべ騒音が大きいと言われている。
さて性能であるが、速度水中二〇ノット、水上一二ノットといったところ。また実際に
どのくらいの深さまで潜れるかという潜行深度、数値は一切公表されていない。
これについて勝手に想像してみる。戦後最初の国産艦「おやしお」から「そうりゅう」ま
では、その耐圧殻に使用された鋼材の強度は約三倍となっている。発表されていないが「お
やしお」は潜行深度一五〇メートルであったようである。これから推定しておよそ「そう
りゅう」クラスでは五〇〇メートルと推定している。実際は、ある風説では八〇〇メート
ルというのもある。ともかく第二次大戦当時と比べ大幅に増大しているようである。
現代の軍事技術は攻撃力が非常に卓越している。軍艦について言うと、第二次大戦時の
戦艦に象徴されるような分厚い装甲に守られていることはない。もし攻撃されたことに気
付くのが少しでも遅れると、それは死を意味するのである。いかにして攻撃を感知し対処
するかということが課題となっている。
潜水艦は、確かに隠密性は高いが、もし発見されると非常に脆弱である。いかにして見
つからないようにするか。静粛性、潜行深度などが重要な生存のポイントとなっている。
そのような点で日本の潜水艦は高い評価を得ているが、実際には使用してみないとわから
ない。そんな事態が起こらないことを希求しているが。そこでカタログスペックというも
のの効果は、相手に心理的圧力をかけ攻撃を抑止する力になると思う。そのような意味で
より性能の高いものを完成させたいものである。
※参考としたもの
日本潜水艦史 世界の艦船別冊 海人社
アメリカ潜水艦史??????????世界の艦船別冊 海人社
ナチスuボート????????????世界の艦船別冊 海人社
海上自衛隊潜水艦史????????世界の艦船別冊 海人社
日本の軍艦????????????????福井静夫 出版協同社
Wikipediaなど
斜光21号 2016年10年10月
?? 2016年3月末に就役したそうりゅう型潜水艦第7番艦の「じんりゅう」呉にて (α編集部)
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