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竹内
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同人α編集部
:2016/10/23(日) 12:05:38
潜 水 艦
.
潜 水 艦
今日、知らない人はいないと思われる軍艦の種類である。現在ではその隠密性、攻撃能
力の高さから主力艦の地位を列国海軍の中で占めているといっても良い。さて、この潜水
艦、その構想は古くからあったと思われるが、実用に耐えるものが出現したのは、材料
(鉄鋼)電機、化学(電池)などの近代重化学の要素がそろってくる、二十世紀になって
からである。
最初の近代的潜水艦は一九〇〇年、米国のホラント号をもって嚆矢(コウシ)とする。これ
が本格的に用いられたのは一九一四年に始まる第一次世界大戦である。この戦争の当初、
ドイツ帝国が積極的にこれを活用した。海軍力において英国に劣るドイツ帝国は、現在言
われている非対称戦略の一環として活用したのである。当時の最新鋭兵器であり、その対
処法が確定していなかったことなどがあり絶大な効果をあげた。しかしながら、当初中立
を保っていた米国人が多数犠牲となったルシタニア号の撃沈などがあり、若干その活動が
消極的になるなどの経緯もあったようである。
戦争後半、ドイツは再び無制限潜水艦戦を開始、イギリス商船は多大の損失をこうむっ
た。これに対し、英国は護送船団方式を採用してドイツ潜水艦の脅威をかなり低減するこ
とに成功した。それでもドイツ潜水艦による成果は第一次世界大戦期間中で五千三百隻、
一三〇〇万トンに及んだという。この戦争において潜水艦の有効性が立証されたとの認識
より、列強各国は本格的に潜水艦の運用を行なうようになっていく。
この後の大戦間といわれる期間、各国は潜水艦の有用性に注目するも、戦後の平和ムー
ドならびに戦争における膨大な戦費の付けによる財政難などにより、特に目立った動きは
ない。その間、ドイツはベルサイユ条約により潜水艦保有を禁止されたが、一九三五年以
降ナチス政権による再軍備が始まると海軍も再建を始める。その時、完成に時間のかかる
戦艦、巡洋艦などの水上艦艇よりも潜水艦の量産に注力した。これが第二次大戦初期にお
けるドイツ潜水艦隊による英国封鎖に多大の威力を発揮した。
また米国も潜水艦の活用を当初日本海軍と同じく艦隊作戦を目的としていたが、日本海
軍の真珠湾攻撃後、想定していた事態の変化によりその方針を一変し通商破壊作戦へと変
更した。これは結果的に見ると大成功であった。米国潜水艦部隊の対日戦での成果は商船
千百十三隻、四七九万トン、艦艇二百一隻、五四万トンであり、日本の喪失艦船の五五パ
ーセントにも達する。この数値は日本の兵姑を破壊したというに充分な値である。日本の
兵姑はほとんどこの潜水艦によるものであるといわれている。
一方、喪失した潜水艦は五十二隻であった。これだけの戦果を揚げることが出来だのは
米国潜水艦の能力もあるが、基本的には日本海軍の対戦能力の低さと作戦の失敗にあると
思う。これについてはいろいろな意見もあるが私の思いは後述する。
一方、日本海軍は潜水艦にどのように対応したか、以下述べる。日本海軍も潜水艦をそ
の隠密性という特性に着目し重要な艦艇として重視した。ただ海軍は通商破壊の道具とし
てではなく、限りなく対艦艇用兵器としてみていたようである。そこで、日本海軍の潜水
艦は潜水する艦艇というより、必要なときの潜水可能ないわゆる可潜艦としての性能を重
視したものとなった。これは何も日本海軍のみでなく世界各国共通のことではあるが。当
時の技術では真の意味での潜水艦を実現することは不可能であった。これは戦後原子力を
利用することにより実現した。
その中でも、日本海軍はいわゆる艦隊型潜水艦に注力した。日本海軍ではこれらを敵艦
隊の動向、あるいは敵軍港などの施設の偵察などを主目的とした巡潜型と、艦隊決戦の前
に敵艦隊に接触し反復攻撃を行なう目的の海大型として用いた。巡潜はその目的より長大
な航続力を、海大型においては艦隊と共に行動するため速力(水上)を重視した。
その後技術の進歩に伴う機関出力の増大などがあり、巡潜の速力が向上し昭和十年前後
よりこの両艦種は統一され甲、乙、丙にと統合されていった。これらの区別は、主に司令
部機能がある、あるいは偵察用小型飛行機の搭載能力がある、などである。特筆すべきは
飛行機の搭載である。勿論、その主たる用途は偵察である。飛行機搭載といってどのよう
に運用したかというと、飛行機の発進は勿論浮上中にカタパル(火薬)で打ち出し、撤収
は水上に着陸した飛行機の近くに浮上しクレーンで吊り上げ収納する、という方法により
運用した。
当然、飛行機は下駄履きといわれるフロートつきの小型機である。海軍はそれ専用の零
式小型水上偵察機を開発した。各国海軍においても潜水艦に搭載する飛行機について研究
開発はなされたが、本当の意味で実用に達しだのは日本海軍のみである。ちなみにその効
果のほどはほとんど無いと思うが、この零式小型水上偵察機が米国本土を爆撃した唯一の
日本の飛行機である。
この技術の延長上に、大型攻撃機晴嵐三機を搭載したイ四〇〇シリーズがある。これは
当時としては世界最大の潜水艦であった。これについて色々な見方があり、人によっては
戦略的に革新的であるとの意見もあるが、私はそれほど評価していない。日本海軍の悪い
癖というか、八方に手を出し、どれもまともに育だない袋小路の一つであるように思える。
色んな方面にその可能性を求め研究することは悪いことではないと思うが、戦争開始後の
切迫した情勢で注力する方向を決定しないで、漫然と色んなことに手を出すことはある意
味では悪あがきのように思う。ただこれだけの技術、それなりに大変な努力がなされたの
だと思う。
ここで第二次大戦中の各国の潜水艦のスペックというようなものを調べてみると、各国
ほとんど横並びというか、突出したものはない。勿論違いはある。特にその大きさ、日米
のものは広い太平洋での使用、さらに艦隊型の傾向があり大きい。ドイツは潜水艦単独使
用さらに通商破壊むきということで、多少小型の傾向がある。
潜水艦の主要性能である潜水能力はほとんどが水中速度七から1〇ノット(時速一三キ
ロから一八キロ)で、ほぼ自転車くらい。安全潜行深度は初期のものは八〇メートル、後
期のもので一二○メートル(米国)、一〇〇メートル(日本)、ドイツでは二〇〇メート
ルに達したものもある。
水上速度は一七から二三ノッ卜くらいである。当時、艦隊型潜水艦として日本海軍の潜
水艦について、関係者は細かい問題は多いが少なくとも世界先端を行っていると考えてい
たようである。
さて、ここで太平洋戦争における日本潜水艦の戦績について調べてみる。じつはその戦
績というものほとんど見るべきものがない。特に通商破壊についてはその記録も良くわか
らないところがあり正確さにかけるが五一万トン、隻数にして九十八というのが見つかっ
た。これと米国潜水艦の戦果と比べると、驚きというか開いた口がふさがらない。なぜか。
ここに我々の行動パターンの一つがあるようにみえてならない。
基本的には、日本人の戦争というものに対する認識が根本にあるように思える。古代か
ら奈良時代まで日本には国家としての軍があり、そこにはおそらく国という概念があり、
そこに住んでいる人を他国から防御するという意識はあったと思う。ところが平安時代に
なると中央集権体制が崩壊し、そのなかから新たな兵としての武士が台頭してくる。
この武士、戦士ではあるが国家の兵士ではなく、あくまでも私兵である。その戦争形態
も私権を守るための戦、あるいは傭兵として雇い主の利益確保のための戦であり、相手の
直接戦力に損害を与えることが目的であり、周辺の戦士でない普通の人々は戦争の対象と
はならなかった。武装集団同士の局地戦の発想である。これが中世、近世と続く武士政権
の根本にある。
明治になり国家として軍(国軍)を創設した時期、それを推進したのは主として武士階
級出身である。中央集権的な国家が創設された。そのなかでも国軍の創設はこの中央集権
体制の目玉であった。この国軍、創設時の指導者は旧武士階級出身であり、指導理念に武
士階級の遺伝子があり指導理念の中に残ったのではなかろうか。明治期、近代国家創建に
夢中の時代、近代化(西洋化)がその遺伝子の負作用を抑え、明治期の陸海軍が西洋諸国
より賞賛された面もある武士道として正の作用として発揮された。
それから一世代を経た昭和の軍において組織の巨大化に伴う官僚主義が台頭し、そこに
教条主義的思考が広がり柔軟性が失われていく。このような雰囲気の中、太平洋戦争にお
ける海軍の作戦指導においては潜水艦の最大の役割を艦隊決戦とした。通商破壊(商船攻
撃)を重視しなかったこと。これはまさに戦争観にあると思う。
この軍同士が直接争う前線重視の考えかた。これはまた情報の軽視にもつながる。日本
海軍は潜水艦の隠密性という特徴を活用しようとした。しかしこの隠密性とは、当時はこ
れを視覚的に不透明であるということと考えたのであろう。しかし物の存在の情報は視覚
から得られるばかりではない。潜水艦の活躍する水中では視覚情報は重要ではない。見え
ないから隠密性があると思ったのであるが、水中は聴覚の情報が支配的である。当然海軍
当局は知っていたと思うが、当時の日本の技術ではそれを活用するには力不足であったよ
うだ。それに輪をかけ情報の重視という視点が抜けていたため、音響探知のための努力が
足りなかったようだ。
自分たちが実現出来ていないことは、当然相手もまだ充分ではないと短絡的に思ったと
しか思えない。相手の実情を良く知らなかったのではなかろうか。確かに一九四〇年の当
時はそんなに差はなかったのかも。しかしその後の展開は雲泥の差があるように思える。
さらに音の情報を活用できない日本海軍の潜水艦の発生する騒音レベルは、米英独の潜水
艦に比べ非常に大きかった。これは音の情報に注意が行かなかったことばかりではなく、
当時の日本の技術水準の低さも関係があると言われている。工作機械、あるいは品質管理、
材料など、どれをとっても他の諸国に及ばなかったという面もある。
同じように前線重視、情報軽視、兵姑軽視という面で見ると、相手の情報活用の稚拙さ、
あるいは考慮していたかということ。この「潜水艦」という一文を書くため色々調べてみ
ると面白いものに出会った。
それは日本商船に対する米国潜水艦による攻撃についてである。広い太平洋で運動して
いる目標に出会う機会は通常は非常に低く、出会うことは困難である。米国潜水艦が日本
商船をかくも大量に撃沈できたのはその出会いにあるとしている。まず潜水艦にレーダー
を装備しているにしてもそのアンテナ位置は低く、走査範囲はせいぜい1〇キロ四方ぐら
いであろう。それは広大な太平洋の中では点に過ぎない。これで商船を見つけ近づき攻撃
したとはとても思えない。では、なぜか。それは米国が日本商船の航路を指示する暗号を
解読し活用していたためであるとあった。しかも日本はこのことに少しも気付いてなかっ
たとある。これではやりたいほうだいである。
日本も商船による物資輸送の重要性を認識し始め、海軍は連合艦隊とは別の組織である
海軍護衛総司令部を遅まきながら発足させたが、艦船不足、探索機器の貧弱さ、対潜兵器
の性能不足などの条件があり、米国潜水艦の活動に何らの抵抗も出来なかったと言うべき
であろう。
このように周辺条件全て劣勢である。直接的には運用法の間違いと数的劣勢だろう。
太平洋戦争に就役した日本潜水艦は統計により多少の差があるが、開戦時保有数六十五
隻、戦時中完成が百二十六隻、喪失が百二十九隻、残存が五十七隻とある。図1に、小生
がある資料から作成した潜水艦の動態を示す。
一方、米国海軍は同じ時期に二百二十六隻の竣工である。しかも量産態勢のため、たっ
たニタイプに限定している。この間、日本は色んなタイプのものを数隻ずつ生産している。
このような日本海軍も戦争後半(一九四三年)になると、さすがに従来型の艦隊潜水艦は
通用しないとし方針を変更、水中高速潜水艦を計画した。奇しくもドイツも水中高速タイ
プに切り替えていく。この二国とも、米英連合軍の対潜能力の大幅な向上により、もはや
従来の流れを汲む潜水艦の活動するところはないと観念したのである。
しかしこれらの水中高速タイプは、いずれも初期トラブルなどにより実戦力とはなりえ
なかった。ちなみにドイツにおいては百十九隻完成。しかし一九四五年四月末になってや
っと作戦投入では、如何ともしがたいところである。一方日本では三隻竣工したが、トラ
ブルなどにより作戦投入はなかった。
これに対し連合国側においては、水中高速タイプの潜水艦の開発の兆しはなかったよう
である。もっともこの水中高速タイプ、これが戦後の潜水艦の主流となりその歴史を切り
開いていく。これに開眼するのが遅かったと言うべきか、それとも人は失敗し追い詰めら
れなければ新たな発想、転進が出来ないのか。考えるべき問題である。
ここで第二次世界大戦は終了する。戦後潜水艦はどのように変遷したか。
今度こそは紛争のない世界が出現することを願望されたが、そうはならなかったようで
ある。すぐに米国とソビエトとの対決が始まった。
戦後の潜水艦革新的技術の改革により、真の意味での潜水艦が出現した。まずはドイツ、
日本がつばをつけた水中高速型の出現である。そのときの水中高速潜水艦の動力はディー
ゼルが主である。実験的にはドイツで実験されたワルタータービン方式もあった。ワルタ
ータービンは過酸化水素を用いるため酸素を外部から取り入れる必要がなく、真の潜水艦
が実現出来る可能性があるが、過酸化水素の取り扱いが非常に危険であり実用化されるこ
とはなかった。
酸素補給がなく運用できる真の潜水艦は、原子力の利用により可能になった。原子力利
用の潜水艦は米国のノーチラスが最初である。これは一九五四年竣工した。その後、原子
力潜水艦の保有国はソビエト、英国、フランス、中国となって現在に至っている。
ここで、戦後日本海上自衛隊における潜水艦について述べる。
一九五五年、米国より第二次大戦型潜水艦が貸与され、「くろしお」と命名されたもの
が海上自衛隊における潜水艦の嚆矢である。これは以降の潜水艦隊の訓練、乗員養成、運
用法の研究、果ては以後の建造の参考とハード、ソフト両面で大きな貢献をした。その後
国産一号として「おやしお」が一九六〇年に竣工した。これは水中高速性能を高めた、戦
後型の艦である。なお設計には旧海軍の技術的な蓄積、米国海軍の支援などもあり完成。
旧海軍の水中高速型(潜高型)に良く似ている。
これから数代の潜水艦の名前は「○○しお」がつづく。それが変更されるのは二〇一一
年竣工の「そうりゅう」型からである。これは現在ディーゼルエンジン使用の潜水艦では
世界最高と言われているが、本当のことはだれもわからない。確かにその大きさ四〇〇〇
トン以上と、これだけはディーゼル艦で世界最高であることだけほまちがいない。
また、海上自衛隊では先の戦争で米国潜水艦に打ちのめされた深い反省から、対潜作戦
を重視している。これは反省ばかりでなく戦後の冷戦構造も深い関係がある。米国に対抗
するソビエト潜水艦の数および能力の上で実力が高く、極東地域の海底で冷たい睨み合い
がつづいていた。海上自衛隊では、米国と力を合わせソビエト潜水艦の監視態勢を強化せ
ざるをえなかった。それが現在の自衛隊の対潜の力を高め、米国に劣らない能力を有して
いると言われるまでになった。
一方潜水艦本体について言えば、騒音の発生レベル、これも先の大戦で負けた要因の一
つであるが世界一静かであると言われている。騒音の発生は潜水艦の隠密性を減少させる
重大な欠陥である。これらは全て噂というか風説であり、本当のところは全くわからない。
原子力潜水艦は原理的にタービンを有し、その回転音ならびに減速ギアーなどの騒音は
ディーゼル型(海中では電気モーターで推進)にくらべ騒音が大きいと言われている。
さて性能であるが、速度水中二〇ノット、水上一二ノットといったところ。また実際に
どのくらいの深さまで潜れるかという潜行深度、数値は一切公表されていない。
これについて勝手に想像してみる。戦後最初の国産艦「おやしお」から「そうりゅう」ま
では、その耐圧殻に使用された鋼材の強度は約三倍となっている。発表されていないが「お
やしお」は潜行深度一五〇メートルであったようである。これから推定しておよそ「そう
りゅう」クラスでは五〇〇メートルと推定している。実際は、ある風説では八〇〇メート
ルというのもある。ともかく第二次大戦当時と比べ大幅に増大しているようである。
現代の軍事技術は攻撃力が非常に卓越している。軍艦について言うと、第二次大戦時の
戦艦に象徴されるような分厚い装甲に守られていることはない。もし攻撃されたことに気
付くのが少しでも遅れると、それは死を意味するのである。いかにして攻撃を感知し対処
するかということが課題となっている。
潜水艦は、確かに隠密性は高いが、もし発見されると非常に脆弱である。いかにして見
つからないようにするか。静粛性、潜行深度などが重要な生存のポイントとなっている。
そのような点で日本の潜水艦は高い評価を得ているが、実際には使用してみないとわから
ない。そんな事態が起こらないことを希求しているが。そこでカタログスペックというも
のの効果は、相手に心理的圧力をかけ攻撃を抑止する力になると思う。そのような意味で
より性能の高いものを完成させたいものである。
※参考としたもの
日本潜水艦史 世界の艦船別冊 海人社
アメリカ潜水艦史??????????世界の艦船別冊 海人社
ナチスuボート????????????世界の艦船別冊 海人社
海上自衛隊潜水艦史????????世界の艦船別冊 海人社
日本の軍艦????????????????福井静夫 出版協同社
Wikipediaなど
斜光21号 2016年10年10月
?? 2016年3月末に就役したそうりゅう型潜水艦第7番艦の「じんりゅう」呉にて (α編集部)
32
:
同人α編集部
:2017/10/18(水) 17:30:31
波乃光子さん
.
波乃光子さん
七十五歳になりました。若き日の思い出、いや今でも思っています、波乃光子さん。話
せば不思議な思い出となります。最初にちらっと彼女の名前を耳にしたのはおそらく高校
三年のときか。いやもっと前から噂は聞いていたようでもある。それは中学時代か。終戦
という言葉のごまかしもあるが実質敗戦の日本国。中学時代は昭和三十二年でおわった。
あれから六十年がたった。それでもあの鮮烈な光子さんのことをいまだ思っているとは、
これまた驚異的というかしつこいというか。たぶん当時は波乃さんでなく直接的な光子さ
んだった。
光子さん、まさにその名前どおりの光り輝く存在だった。それが高校時代、どちらかと
いうと波乃さんとなんとなくかしこまった存在になった。すこし大人の世界に近づいてい
ったのか。格式が高くなって寂しい気もした。憧れの光子さんはどこへ行ったのか。その
後、生活のためともかく目先の仕事で手一杯、すっかり波乃光子さん記憶の中にはいたが
具体的な対象として意識したことはなかった。されど今になって考えると、いろいろお世
話になっていたのである。
目先の仕事をリタイヤーし少し余裕をもって世界を見渡せるようになったある目のこ
と、とある雑誌を見ていたら彼の波乃さんに関する記事に出会った。それを見て青春時代
の作と時を思い出した。その雑誌の名は『数理科学』二〇一四年一月号である。特集とし
て「波と粒子にとある。副題として「『光子の裁判』を通して見る量子の不思議」となっ
ている。波乃光子さんとは、朝永振一郎博士による素粒子の一つである「光子」(フォト
ン)についてのエッセー「光子の裁判」の中に出てくる、現代風にいえばキャラクターで
ある。これは科学の工ッセーとしては今なお名作といわれている。
この命名、実に含蓄があるというかおもしろい。ところでこの「光子の裁判」なる原典、
話に聞いたことはあるが読んだことはなかった。現在ではこれらをインターネットで調べ
ると、即あきらかになる。「光子の裁判」は講談社学術文庫三十一『鏡の中の物理学』(朝
永振一郎)の中に記載されているということが解った。大した値段でもなくアマゾンにて
購入。
この本、以下のものが収録されている。
「鏡のなかの物理学」、「素粒子は粒子であるか」、「光子の裁判」の三編である。
まず「光子の裁判」である。これを読む前までは「コウシの裁判」と読んでいたが朝永振
一郎博士の巧妙な筆の勧めによって途中から「ミツコ」と読むようになる。内容は一個の
光子が第一のスリッ卜を通過した後、第二のスリット(二個のスリットがある)を同時に
通り抜けるという実験事実を説明するものである。
この光子、量子力学的な素粒子であり、我々が日常生活での体験からもっている粒
子の属性と全く異質なものであり、前述したように同時に両方のスリットを通過するとい
う常識からかけ離れた事実がある。この事実をわかりやすく説明するため波乃光子という
キャラクターを登場させ裁判という手法を用いている。
その裁判は光子さんが門衛のいる門を通り前庭に入り、そこから建物の中に侵入する。
その方法として、二つの窓があり、そのどちらを経由し部屋へ侵入したかということが裁
判の争点となっている。そのなかで、被告光子の弁護人として朝永博士は量子力学の確立
に功績のあったディラック博士を引っ張り出してきている。
この裁判という形式をかり、作者の朝永博士は量子力学の基本的考え方をディラック弁
護士の弁護を通して語っている。その裁判の中での実地検証には、物理学実験で粒子の検
出に用いられる霧箱というものがあるが、そのアナロジーで思わせる方法を用い「キリバ
コ法」と称している。もちろんこの「キリバコ法」、現実の裁判での検証には適用できな
いと思うのであるが、一つの思考実験と考えればよいのでは、この検証を通し、被告波乃
光子は二つの窓両方を同時に通過侵入したという事実を認めざるをえないのである。
この光子は実体であり、いわゆる素粒子の一つである、この光子、一人でもあたかも分
身の術を使うかの如く同時に二つの窓を同時に通り抜けるという事実がある。これはわれ
われの持っているあるいは実感している生活空間での論理が通用しないように思われる。
ここで朝永博士が言っていることは論理が通用しないのではなく、我々が粒子という
ものに持っている固定概念からくる論理がおかしいのであって、実験事実(事実)が正し
いのであり、それに合わせて論理をくみたてるべきであると言っている。
すなわち、一人の光子は二つの窓のうち必ず一つの窓を通る可能性のみと考えるのでは
なく、一人の光子は二つの窓を同時に通り抜ける可能性もあるという論理も考えねばなら
ないと述べている。これは量子力学的世界の実体である。光子ばかりでなく、電子などそ
の他の粒子についても同様である。じつはこのような実験は、電子に対して行われたもの
が先行しているようである。
この小論「光子の裁判」いまだもって名著であると言われており、これについての評論
も多い。さきに光子の裁判を読むきっかけとなった雑誌『数理科学』二〇一四年一月号に
も四編の解説があり、さらに二編のコラムがある。インターネットで「光子の裁判」を検
索すると数多くヒットする。これらは著名な物理学者など、その方面の権威ある方々によ
るものが多い。これに対して浅学な自分がこれ以上のことを書いても、馬鹿さ加減をさら
すだけなのでさらなる解説はやめる。自分でこの「光子の裁判」を読んで自分なりのもの
としていただきたい。
一つだけあえて解説するとしたら「波乃光子」という含蓄のある名前について、「光子
の裁判」においては一貫して被告は波乃光子という個人名で呼ばれており、光子が実体の
ある粒子であるように書かれていることである。事実、光子というものは二十世紀になり
明らかになったものであり、それ以前は波(波動)と考えられていた。
歴史的には、近代物理学の始祖ニュートンは光を粒子と考えていた。その後、光の千渉、
回折などの現象が認められてホイヘンスにより波動とされた。その波動の実体について十
九世紀半ばにマックスウェルが明らかにし、電磁波動であるということになった。ここか
らまた謎が謎を呼び、現代物理学が誕生することとなった。まず光を含む電磁波が波動と
いうことがわかったが、波動というもの、エネルギーが何かある物休中を伝播していく現
象であるが、電磁波を媒介する物体は何かということになった。とりあえず「エーテル」
というものが仮定された。この「エーテル」の名残りが、今でも電磁場の方程式に登場す
る記号《ε》として残っている。
このエーテルを追及していったが発見することができなかった。というよりエーテルの
存在は否定されたのである。これが天才アインシュタインの特殊相対性理論である。相対
性理論までは古典物理学の範疇に入るようである。これによると、電磁波の媒体ば空間そ
のものであり、その歪みが波動として仁播するということである。一方、光の放射現象を
研究していたブランクは光波動と考えたが、最小単位より構成されていると考えざるを得
ない研究成果を得た(プランクの黒体放射の法則)。波動であるならば連続な現象であり、
最小単位などはふつう考えられない。
ここでまたまたアインシュタインの登場である、光電効果というものがある。これは光
が金属に当たると電子が放射されるものである。この説明で彼は《光量子》仮説を提案し
た。アインシュタインという人は相対性理論で有名であるが、ノーベル賞はこの光電効果
の理論的解明により受賞してしる。この光量子という考え方を支持するさらなる実験結果
が報告されて、光は粒子であることが証明された。同じ頃、ものの最小単位を追及してい
た物理学者はついに原子まで到堵した。ここで電子と原子核により原子は構成され、さら
に原子核には陽子と中性子が含まれることがわかってきた。
この時点で、いわゆる原子というものと光子との交点が明らかになり、現代物理学であ
る量子物理学が完成した。この量子物理学、我々の日常生活で実感する常識をはるかに超
えており、正確には言葉で表すことが難しい。よってその表現は数式を用いたものとなる。
そこでは光子、電子などの正体が波動とも粒子ともとらえられる奇妙な実体としてとらえ
られている。「光子の裁判」の被当の姓が波乃となっているのは、この微妙なところを表
しているのである。
この粒子性と波動性、一体どう考えるべきか、単にある面では粒子、ある場合には波動
ととらえられると単純に考えていたが、この「光子の裁判」を読んでそんな単純な考え方
ではないと思い始めた。この「光子の裁判」では、考えられる光子の実体について弁護人
ディラック博士の見解が述べられている。
《すなわち一つの光子は無限次元のヴェクトルの重ね合わせでありそれらが共存してい
る。たとえば通常の空間においてX方向とY方向のヴェクトルの和はX方向ともY方向と
も違う方向を向いているが、だからといって全く別の独立したZ方向を向いていると言え
ないのと同じである。すなわち光子が二つの窓のうち一つを通る状態を窓1、他の窓を通
る状態を窓2と書くと、実体の光子は(窓1十窓2)であり窓1でもなく窓2でもない第
三の状態である。第三の状態といっても窓1及び窓2と全く無関係に別のところにいると
考えるわけにはいかない、このような状態を光子が窓―と窓2を通り抜けるという言葉で
表現した心である》(ディラック弁護人の弁護を順序変更し書き写したも)
ともかく、日常的経験ではありえないことを日常使用する言語で表現することはたいへ
ん難しい。この光子、実は波動関数というもので表される実体であるが、この波動関数と
いうものについての解釈がまた大変である、これらのことを数式も入れずにここで説明す
ることは、小生の理解をもってしては不可能である。ともかくこの光子、現在では素粒子
の仲問としてあつかわれている。粒子というからには、何かきちっとした境界を持ち大き
さがあり質量があると常識心考えるのであるが、この「光子」という粒子、質量はゼロ、
大きさ?、運動量、エネルギーを有し、さらにその速さ宇宙随一でありそれより速いもの
はない。
これらのことを、量子力学の教科書ではいろいろと説明している。「光子の裁判」を読
み、改めて量子力学の教科書をひっくり返した。学生時代いろいろ苦労した跡が出てきた。
各ページにいろいろ書き込みをしたり計算した跡が残っている。それでも今「光での裁判」
を読んで理解できなかったことが多々あった。ということは、要するによく理解していな
かったというより単に通り抜けたということのようである。
現在物理学の先端は、量子力学と相対性理論などを基礎にした素粒子論と大統一理論で
ある。この素粒子論、日本はどちらかというと特異な分野でありノーベル賞をこの分野で
いくつももらっている。最近はニュートリノ関連で受賞したことが記憶に新しい。とはい
っても、名前は聞いたことがあるがこの素粒子論、まったくわからない。さらに大統一理
論など、今まで名前も知らなかったが、ニュートリノ関連でのノーベル賞受賞により出版
された科学雑誌を読んで初めて認識したしだい。
それによると宇宙には「電磁気力」「弱い力」「強い力」「重力」という四つの力があり、
これが宇宙の現象を支配していると考えられている。現在「電磁力」と「弱い力」は統一
的に理解されている(電弱統一理論)。現在はこの「電弱力」と「強い力」を統一的に理
解する理論(大統一理論)の完成に向け研究中とのことである。このようなことであるが、
実のところその中身についてはさっぱりわからんというのが本音である。
これらの力はそれぞれ力を伝える素粒子がある。「電磁力」は「光子」を媒介とし「弱
い力」は「ウィークボソン」が媒介している。「強い力」は「グルーオン」が媒介し、「重
力」は最初に発見されているものであるが、それを媒介する素粒子(グラビトン)はまだ
発見されていない。この重力も組み込んだ超大統一理論(?)というものがいずれ完成さ
れるであろう。
ともかくこれらの素粒子、発見されると世界的なニュースになり、発見者及びそれを理
論的に予見した人はともにノーベル賞を受賞している。その他、素粒子は万物に質量を与
えるビッグス粒子というものもある。これまで記載した素粒子は力を媒介したり質量を与
える素粒子であるが、物質を形成する素粒子は「クォーク」(六種)と電子ニュートリノ
(六種)がある。これらのことは雑誌の読みかじりであり、これ以上のことはまったくわ
からない。
さらにヒッグス粒子を除いた他の粒子は、各々反粒子なるものがある。反粒子、例えば
電子の反粒子は反電子(陽電子)と呼ばれている。これらを論理的に理解しようにも、こ
れらの雑誌は結果だけを書いていてその理論は説明してくれない。もっとも理論が説明さ
れていてもまったく理解できないと思うが。ここにきてある本を見つけた。『素粒子論は
なぜわかりにくいか』という題名の本である。この本、まだ読み終えたわけではないが、
ちょっとさわりをみると、これらの素粒子、各種実験事実を説明するために考え出された
ものである。
素粒子物理学はまだ発展途上にあり、その進展とともに早の説明の力点が変化している。
その実態は場の量の量子化であると言っている。すなわち実体というより、数学的な必然
性によりそのようなものが必要になるということらしい。これを自分なりの解釈で翻訳し
てみる。たとえば負の数というものがある。現在では実体として考えられている。この負
の数、中国やインドでは紀元前後から、アラブ世界ではすでにを学び、継承し発展させた
西欧世界においては、十七世紀までこの負数は認知されなかった。
実際に負の数を考えてみると、抽象化した数という概念で見ると何ら不思議ではないが、
実際のものとの対応で考えると、例えば石一個というのは、具体的にそこにものがあるか
ら簡単に認識できる。ところが石マイナス一個というのは目に見えるものではない。いろ
いろなことを想像しなければならない。一個足りないとか欠如していることを表現してい
るのであるが、このことを現実の数の体系の中に組み込み実体とするまでには、それなり
の思考空間の拡大が必要であった。
今日我々は負の数が実体の数であることに対して何ら不思議に思わない。一つの数学的
技法である。ほかの例として虚数というものがあるが、これが想像なのか実体なのか、少
なくとも十七世紀までは現実の数として認知されていなかったものである。これらの負数、
虚数など、人々の数に対する素朴な認識、すなわち現実のものとの対比に対しての違和感
があったのだと思う。しかし負数あるいは虚数への数の拡張は従来の算法の延長上になさ
れたものであり、当初は抽象的概念であったかもわからないが、現在の我々にとって何ら
抽象的かつ違和感を持つものとしては考えられない。しかしながらこれらのもの、負数、
虚数などいずれも一つの概念を厳密に定義すると必然的に認知されるものなのである。お
そらく素粒子は、そのような意味で具体的実体が見えてくるのではないかと思っている。
また別の例として考えると、半導体というものがある。現在の産業というより社会の基
盤を担っている素材である。この電気的特性を担っているものが電子と正孔と言われるも
のである。その中で電子、これは明らかに実体である。ところが正孔、これは名前の通り
何もない穴である。はっきり言えば結晶中の格子欠損である。この正孔を空でありながら
理論的扱いでは実体のあるものとして扱う。これにより半導体内の電気的特性が正確に予
測できるのである。予測が正確にできるということはそのモデルは正当である。ここで正
孔は実在のものと考えられるようになった。
二十世紀初頭の人にとって原子とは、原子核がありその中に陽子と中性子がありその外
側を電子が回っているという前期量子モデルを理解できなかったように、現在我々が素粒
子論並びに統一理論などの先端のことを理解できなくても何ら不思議ではない。言えるこ
とは、先端の素粒子論というもの、原子核内部のような極めて微小で不可視の世界の中で
のことを、実験事実という証拠をもとに解明する過程において、素粒子というものが媒介
して力の交換をすることにより原子が安定に存在するという結論が導き出され、今のとこ
ろ論理的な破綻を起こしていない。おそらく、というよりほとんど真理であると思ってい
る。
しかしながら量子力学の構築時にアインシュタイン博士はその確率論的構造を疑問視
し、「神はサイコロを振らない」と言って何かミクロな世界の記述法として量子力学の表
現法以外の力学の方法がないかを生涯考えていたそうだ。この問題、ほかにもいろいろな
人が追求したが、今のところそういった構造をもった力学の体系はありえないという結論
にいたっているようだ。ここで、この素粒子の問題は多数の粒子を用いる他に解決方法は
見いだせなかったのか。おそらく百年後、あるいはもっと後になったら、その解答は見い
だせるかも。
もし地球外に知的生命があり彼らが宇宙の構造を追求していったら、同じような構造の
理論体系を構築するのであろうが、同じような論理構造を持つのであろうか解答のない思
いをふと思った。
さてまた波乃光子に戻ると、私にとっては不思議の基である。その出会いは序文に記し
たが、直接の出会いは大学時代である。大学では電気工学なるものを専攻した。これが具
体的な付き合いの始まりである。電気の分野では、まず電波というものがあるがこれは明
らかに波動として扱う。また電力の分野ではまさに水のような流れでかつ非圧縮性の流体
というイメージであり、粒子性より連続性が強調される。また電子工学には真空管、トラ
ンジスタなどの動作の説明では電子を粒子と考えて取り扱う。
要するに工学は実用の学であり、経験を理論的なものが補で十分な場合がほとんどであ
る。よって波になったり流体になったり、粒子になったりするのである。勤め人となった
時はいろいろやった。一番長い間の経験はテレビカメラの開発設計であるが、これはまさ
に光と電気の接点である。とはいっても、波動性、粒子性などまったく意識の外であり、
要はいかにしてTVカメラとして優秀なものを生み出すかにあった。優秀とは単に性能の
ことではない、価格、作り方、見た目の良さなどいろんな評価項目、すなわち商品価値と
しての優秀さ、それらが少しでも向上するように工夫していくことであった。
すなわち工学的立場でありそのようにして過ごしてきたが、今、工学的立場を離れた立
ち位置に立っている。ここで今までおろそかにしていた生き方というか、無用の用という
ものを思うようになった。物理を再学習してみようと、少しずつであるが手をつけてみた。
「光子の裁判」を学習したのもその中のひとつである。
なにしろ歳である、なかなか頭に入っていかない。残りの人生も少なくなった。それで
も若い頃のように試験や実利に追いかけられることもない。できる範囲でのんびりとやっ
ていこうと思っている。おまけにボケ防止になるという実利もある。趣味としては悪くな
い。これと毎日の散歩、散歩しながらいろいろ考えることもできる。この生活ができるだ
け長く続けられるよう精進していくつもり。
・参考としたもの
鋭の中の物理学 朝永振一郎 講談社学術文庫
目にみえないもの 湯川秀樹?????????? 講談社学術文庫
物理学をゆるがすニュートリノ NEWTON別冊 ニュートンプレス
??現代物理学の系統 ???????????????????? NEWTON別冊 ニュートンプレス
数理 科学 波と粒子 二〇一四年一月 サイエンス社
素粒子論はなぜわかりにくいか 吉田伸夫 技術評論杜
その他量了力学の教科飛]としては
量子力学I・H 朝永振一郎 みすず書房
ファインマン物理学V ファインマン 岩波書店(砂川重ぱ訳)
が面白いと思います。ほかには
量子力学 ディラック 岩波書店(朝永振。郎他訳)
が定評がありますが簡単には読みこなせないと思う。
斜光22号 2017
二つの窓を同時に走り抜ける光子さん
日経サイエンス2014.1月号より
33
:
同人α編集部
:2018/10/18(木) 08:59:47
オーニソプター
.
オーニソプター
所沢市に居を定めて二十年ちかくになる。ここ所沢は日本航空発祥の地と称している。
日本で最初に飛行機なるものが飛行したのはどこであるか正確にはわからないが、少なく
とも所沢で日本陸軍の航空が始まったのは間違いない。所沢には陸軍所管の飛行場(日本
最初の飛行場)及び陸単航空学校が設置され、日本陸軍の航空分野での指導的役割をにな
った。敗戦後米国に接収されたが昭和五十三年に七割が返還され、一部が所沢航空記念公
園として開園された。そこは五〇〇メートル四方ほどのかなり広い公園で、私の散歩道と
して毎日とまではいかないがよく利用している。航空記念公園(通称航空公園)のことを
書いたのは所沢市の観光課の提灯持ちのためではなく、これから書くことに航空という文
字が関係あるためである。
公園の中の広場で模型飛行機を飛ばして遊んでいる人も多い。模型飛行機といっても、
エンジン付きのラジコン機やいわゆるドローンは禁止されているので、ゴム動力のライト
プレーンや手投げのグライダーである。その中に羽ばたき飛行をするものが含まれている。
この羽ばたき飛行機、その飛ぶ姿が実に優雅で、近くにハトが多数いるかその飛ぶ姿と見
まごうこともある。この羽ばたきの機構、一体どうなっているのだろうかという疑問が出
てきたこと、さらにその優雅な飛行姿に魅せられたことがあり、私も一つ作ってみたくな
った。
これは航空公園の売店で販売しており五百円くらいであった。作り方は簡単で、ものの
一時問もあれば完成である。この十年以上ライトプレーンなど製作したことがなかったが、
基本は往時のライトプレーンの製作と同じである。ただ昔のものに比ベプラスチック部品
を多用し組み立ても簡単になっている。羽ばたきするための機構は、ライトプレーンでは
プロペラを取り付けるところがクランクになっており、そこに二本のリンケージのプラス
チックの棒を取り付けその先端を羽ばたく翼の中間部に結合しており、クランクの回転に
伴い翼が上ドすることにより羽げたきをするようになっている。ここの説明がうまくない
が写真を挿入すのでみていただきたい。
????????????
ここでやっと「オーニソプター」の登場である。オーニソプターとは、ギリシヤ語を語
源とするオルニソス(鳥)とプテロン(翼)より来た言葉とのこと。要するに鳥のように
翼をもち羽ばたいて飛行するもの、という意味である。十九世紀までは殆ど鳥と同じ意味
であったろうと思う。参考までに英文表記は『ornithopter』である。
人は二十世紀となり現在の飛行機が発明されるまで、飛行機械を製作しようと思ったと
き、全て羽ばたき機を想定し試み、挑戦した。まだ当時は烏の飛行についてよくわからな
かったことや他の原因もあり、ことごとく失敗した。他の原因というのは、いわゆる原動
機というものがなかったこともあり動力は人力を想定したが、人力だけで羽ばたいて飛ぶ
ということは不可能ということ、さらに材料的に羽ばたきに堪えるだけの軽くて強度のあ
る材料がなかったことによる。
人類の飛行はまず熱気球により実現した。ところはフランス、時は十八世紀、フランス
革命前であった。現代ではこの熱気球、皆さんご存知のようにスポーツとして存在してい
る。もっともこの熱気球と気球または飛行船は、飛行原理が羽ばたき機や現代の主流をな
す固定翼機とは全く違うものである。熱気球は空気を熱すると常温の空気よりより軽くな
ることを利用するのであり、気球または飛行船は、空気より軽い気体(水素、ヘリウム等)
を利用し揚力を得るものである。
これら飛行船等、飛行機が出現した当初は飛行機より有用に見えたが、その使用する気
体に問題があり結局飛行機にまさることはなかった。特に入手が容易であり多用された水
素は、酸素の存在下で爆発的に燃焼する危険性と隣り合わせであった。現実にツェッペリ
ン型飛行船ヒンデンブルク号が爆発火災事故を起こし、信頼性に問題あるとしてその歴史
が終焉した。現在でも宣伝用などとしてヘリウムガスを使用したものが細々と運用をされ
ているようである。
十九世紀になるとリリエンタールによりグライダーの飛行が成功し、ここに人類は空気
より重い物体による飛行に初めて成功することとなった。このグライダーは現在のハング
グライダーに近い形状である。彼は飛行のための数多くの実験を行い、科学的なデータを
あつめた。この姿勢はライト兄弟の実験においても踏襲され、そのデータ取得に貢献した。
このライト兄弟により人類最初の動力飛行が成功した。この成功は単なる動力飛行ではな
く制御可能な動力飛行であった。これは二十世紀初頭一九〇三年のことであった。
それから百年ちょっとで今日の状況である。考えると、同じ乗り物である船と比較する
とその進歩の速さがわかる。しかしここで考えなければと思うことは、船の歴史は二千年
以上あると思うが、現代の鉄でできている船は実は十九世紀に登場するのである。鋼鉄船
と限定すれば、十九世紀も半ば過ぎ一八五八年まで待たねばならなかった。飛行機の百十
年の歴史とあまり違わないように思われる。それでも飛行機は急速に発展したといえるで
あろう。その飛行機であるが、少なくともオーニソプターではない。固定翼式といわれ揚
力を得る翼の部分と、推力を得る部分がはっきりと分かれている。今のところ人が乗るに
堪える羽ばたき機は存在しないし、将来的にも実用的な羽ばたき機は出てこないと思う。
ただヘリコプターとして知られている回転翼機というものがある。これは揚力を得る部分
と推力を得る部分が共有されているものである。これとてその発想は固定翼に由来するも
ので、空中を高速で翼を回転させることにより揚力を得ており、また推力は回転面を傾け
ることにより揚力の一部を利用している。その回転翼機をもってしても、現代の固定翼機
のように数百人も乗ることができるもの、あるいは音速を超える飛行速度を得ることはで
きない。また運用の経済性においても固定翼機と比べ非常に悪い。ただ固定翼機では不可
能である垂直に離着陸が可能であること、空中の一点に停止すること(ホバリング)が可
能であることなど固定翼機にない特徴があり、すみ分けをしている。このようななかで羽
ばたき機が活躍するニッチがあるか。おそらくそのような空間はないであろう。
それではなぜ今更オーニソプターかということ。これは単に知的好奇心の問題である。
たとえば人力飛行機というものがある(毎年TVで烏人間コンテストの一部として放映さ
れるからご覧になった方も多いと思うが)。たとえ10キロ以上飛んだとしても、決して
実用的ではないと分かっていて、それでもなお作り続ける彼等と同じことであろう。
さてオーニソプターである。これを製作しラジコンで飛ばしてみたくなった。インター
ネットでオーニソプターを検索すると、静止画・動画とも多数ヒットする。世の中には多
くの人がこれで楽しんでいることが分かる。最初は組み立てキットがないか調べるも全く
見当たらなかった。ということで、一から始めないといけないということだと分かった。
ただ一から始めるといっても、何らかのヒントあるいは手掛かりを得られないか、今いろ
いろネットを検索している。
問題はまず羽ばたく機構をどうするかということ。基本的な動力源としては電気モータ
を考えている。最近は模型飛に機にも電気モータが多用されており、これ自体には問題は
ないと思っている。ただモータというもの、その出力は回転であり、羽ばたきはどちらか
というと上下往復運動である。この回転から上下の往復運動にいかに効率よく変換するか
を考える必要がある。この問題を解決したら具体的に設計することになると思うが、これ
が難物である。
まず機械設計などやったことがないし、具体的な設計図を描くためのCADもない。さ
らに部品の問題がある。いかに良い設計ができたとしても使用する部品が独自であれば個
別に製作しなくてはならないが、工作機械等を所有していない私にとっては大問題である。
部品を外部に発注するとしたら、ちょっとしたものでもウン十万という価格になると思わ
れる。そこでカタログにある既製品を使用しなければならないが、そのカタログがない。
そのような事情でありねまともに設計できるわけがない。手間はかかるが、おおざっぱの
構想からカットアンドトライのすり合わせ(いわゆる現物合わせである)による方法しか
道はないようである。それでも基本的な羽ばたきの機構はモデルを作って確認を行う必要
がある。こんなことを考えると物が完成するのはいつになるやらおぼつかない。
そのようなことを考えながらの今日この頃である。技術者として物造りに関与してきた
が思うことは一つ、この物という無機的なもの、いくらやっても生き物という有機的なも
のに及びもつかないということである。ここに書いたオーニソプターについてもそうであ
る。確かに羽ばたいて飛ぶものはできるがとても鳥にはおよびもつかない。鳥のように木
々が立ち並ぶ森の中を自力で判断しながら衝突を避けて飛ぶようなことは、自動車の自動
運転すらまだできていない現在、三次元の情報を処理する必要のあるこのようなことを小
鳥のサイズ一○立方センチくらいの容積の中にそのような機能を持たせることは当分むり
であろう。
その他、離着陸機能、地上歩行あるいは水上遊泳機能等は当分射程外といわざるを得な
い。現在やっと無人の飛行物体や潜水物体が何とかものになりかけてきている。それらと
て大方、直接か間接に無線操縦などの人の関与していることが多い。完全に自律で動作で
きるものはおそらく研究段階であり実用化しているものはわずかと思う。現在の機械、特
に乗り物はその中に人という情報処理機能を有する生き物がいることが前提となってい
る。情報を素早く収集し分別する手段もかなり機械で行うようになってきているが、最終
的判断処理は人が行うという構造となっている。これとて間違いはあるが、その被害の及
ぶ範囲は少ないと思われる。
さていろいろ書いたが、鳥とか飛行機、なんとなく船のイメージがあるが、よくよく考
えてみるとこのアナロジーは潜水艦ではなかろうか。空気とか水の“流体中”を移動する
ものである。それに対し船というもの、水と空気の“界面”を移動しているが空気は水に
比べその密度が極端に小さく、通常の工学的考察からは無視してよいものである。そんな
ことはどうでもよい。オーニソプター、大気の海を思う存分に三次元運動で泳ぎまわる。
考えると夢がある。あと何年かかるか分からないが、RCのオーニソプター、何として
も実現しなくては。
34
:
同人α編集部
:2019/10/27(日) 11:20:15
日本の戦艦
??????????????日本の戦艦
「一つでも饅頭(万十)とはこれいかに」曰く「一隻でも千艦(戦艦)というがごとし」
という無理問答があるが、その戦艦とは如何なものか。今回のテーマについて考えあぐね
ていたが、小生への投稿案内に戦艦「比叡」の発見がありこれなどというお誘いもあり、
小生の今まで蓄えていた知識等を考え一度このテーマ「日本の戦艦」について思うところ
を書いてみようかと思ったしだいです。その根底には戦争とは、また技術とは、さらには
根源には人とは何だろうという私の終生のテーマがあります。
さて、まず戦艦とはということから始めますか。
まず定義から。これから述べる戦艦とは軍艦の一つの種類であり、その出現は十九世紀
も終わろうとする一八九二年であり、二十世紀も半ばまで存在した艦種である。戦争に使
用される船、これ全て戦艦という考え方もあるが、ここでは戦艦とは戦争で使用する船の
なかのあるカテゴリーを指します。この定義が国際的にあるわけではないが、普通に通用
する範躊は巨大な大砲と装甲を装備し自艦と同等な大砲から直撃を受けたとき、その被弾
に耐えるということです。すなわち自分と同等の敵艦と対戦した時にたとえ被弾しても壊
滅打撃を受けないということ。
近代的戦艦が出現する前、十九世紀の初めは戦列艦といものが海戦の主力であった。こ
れは巨大な木造帆船であり、トラファルガー海戦で有名なネルソン提督の乗艦であるヴィ
クトリー号などがそれに相当し、舷側に多数の大砲(ライフルでない)を有していた。当
時の大砲の威力はそれほどではなく、砲戦だけで敵を撃破することは通常は不可であり敵
艦に乗り込み制覇する、というのが普通の戦法であった。大砲は敵をある程度破壊するボ
デーブローのようなものであった。十九世紀後半になると、まずライフルを有する後装砲
が出現(例えばアームストロング砲等)、その威力が増大した。事実、一八六三年の薩英
戦争においてこのアームストロング砲を装備した英国軍艦の砲撃に、旧式滑空砲しか所有
していなかった薩摩藩は敗北している。それでも当時の最先端のライフル砲を有する英国
海軍の艦船を戦艦とは呼ばない。もっともその時のアームストロング砲はまだ出現したば
かりで信頼性が確立しているとはいいがたかった。事実、薩英戦争においても砲身破裂な
どの事故を多発し採用中止になったようである。まだ製鋼技術は未熟で、その他、鉄の技
術も確立されておらずかなり無理をしていたようである。
このアームストロング砲について、幕末の佐賀藩で製造したというような話を司馬遼太
郎氏がその小説『アームストロング砲』で言及しているが、私は佐賀藩で製造したという
ことは相当怪しいと思っている。それというのもその製造技術は当時の最先端の技術であ
り、やっと反射炉などの技術を獲得し鋳鉄砲を製造できるようになった当時の後進国に、
そのような先端技術をこなすすべがあったとは到底思えないのである。技術という物、あ
る一つだけ傑出して存在できるものではないのである。佐賀藩のアームストロング砲の話
は詳細を調査したわけではないのでこれ以上議論はしないが、小生の感想を述べたという
ことにしておく。
十八世紀半ばにはじまった産業革命は、十九世紀後半には第一次産業革命といわれる鉄
と石炭の時代が成熟し鉄の精錬技術、あるいは製鋼技術も進歩を遂げた。この情勢におい
て、アームストロング砲のような後装ライフル砲が実用となり始めた。さらには鉄製、さ
らには鋼製の軍艦の出現が視野に入ってきた。実は十七世紀より使用されていた戦列艦と
いうもの、その製造には膨大なチーク、オークなどの固く強靭な木材が必要であり、その
確保に当時の列強とくに海軍力世界第一である英国は、国土の面積も狭くそのうえ森林が
少ないため、その確保に苦心していた。英国は当時それらの木材をスウェーデンなど北欧
諸国より輸入していた。それらの木材は最重要戦略物資であった。
このような情勢のもとでクリミヤ戦争が一八五三年に勃発した。この戦争、日本では幕
末維新の騒乱激動期に当たりそれにマスクされあまり注目されていないが、調べてみると
世界史的に近代から現代への画期をなすと思われる出来事である。その一つに旧来の戦列
艦が艦砲にも採用された詐裂弾に対し脆弱であることが露呈したことである。
当時の海戦は舷側に多数の大砲を装備した戦列艦が主力であったが、大砲の砲弾が単な
る球状の塊からその中に爆発物を詰めたいわゆる作裂弾へと進化していた。この作裂弾に
対し、木造戦列艦は極めて脆弱であるということが明らかとなった。このような背景とさ
きに述べた技術の成熟があり、戦艦という原始的形態が見えてくる。その嚆矢(こうし)
はフランスであった。その船は一八五九年進水の「グローワル」である。まだいわゆる戦
艦とは程遠いものであるが、鳥類へと進化過程にある羽毛を有する爬虫類、という位置に
相当すると思う。
当時の日本、幕末から明治への移行期である。不完全ではあるが何とか革命に近い形で
成立した国家という側面もあり、その国家を維持していくため武力は当然のことながら重
視した。また幕末から明治初期に結んだ不平等条約の改定等の理由もあり、それ相応の予
算を海軍力の充実につぎこんだようである。それにより日清戦争では、外洋まで護衛でき
かつ戦えるブルーネービといえるまでになった。
この時期、英国において近代戦艦のはじめとされる「ロイヤル・サブリン」級の建造が
はじまっていた。このクラスの戦艦は「前ド級艦」と言われているが近代戦艦の始まりで
ある。鳥類の形態を有している「始祖鳥」に相当する。当時ロシアとの緊張が高まりつつ
ある日本は、この前ド級艦をタイプシップとする戦艦をイギリスに発注した。すなわち
「富士」と「八島」の二艦である。さらに英国でロイヤル・サブリン級の発展型であるマ
ジェスチック級が完成すると、これに準じる[敷島]型三隻「敷島」「朝日」「初瀬」を
発注した。さらに敷島型と兵装、速力などは同じであるが、装甲を強化し艦内配置などは
朝日に準じた戦艦を発注した。これがかの「三笠」である。これらの戦艦群と旧式装甲艦
の「扶桑(初代)」と日清戦争の戦利品である旧清国の装甲艦「鎮遠」をもって日露戦争
を戦った。このうち八島と初瀬は旅順港封鎖作戦中に触雷沈没している。その他の艦も黄
海海戦で損傷したり座礁をしたりしている。
この間の緊迫した状況は司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にくわしい。ロシア・バルチッ
ク艦隊との「日本海海戦」に参加できたのは四隻のみであった。対するロシアは旧式も含
むが八隻の戦艦を有していた。この海戦、日本の圧勝で終了するのであるが、これはロシ
ア艦隊がはるばるとヨーロッパのバルト海からアフリカ喜望峰経由でやっと日本海の入り
口へとたどり着いたのに比べ、日本側はその間の時間と日本の近くという地の利と時間を
十分に活用したことに尽きると思う。もちろん戦術、作戦上の勝利もある。日本はそれ以
前に発生した黄海海戦などにおいてかろうじて勝利をえたものの、戦略目標であるロシア
旅順艦隊を殲滅することができなかった。
この苦杯の反省とロシア艦隊が日本近海に回航してくるまでの時間を活用、実弾射撃を
ふくむ猛訓練を実行し艦隊運動、砲弾の命中率の向上を図った。この日本海海戦、近代戦
艦(前ド級艦といわれ現代戦艦のひと世代前のクラス)という巨大な大砲を有しそれに対
応する装甲を有する多数の軍艦が、洋上ほぼ五○○○メータの距離で対戦したのであるが、
このことは世界史上初めての事であった。当時出現間もない戦艦にとっての射撃要領等確
立していなかった。列強各国もその砲術に対しては手探りであった。やっと先進列強に追
いつこうとしていた日本海軍においてもこれはなおさらである。それが幸いかどうかはわ
からないが、それなりの試練試行を行ったことと思う。その中で猛訓練を行い体験的にそ
れなりの方法を確立した。
当時はまだ射撃用計器といわれる、測距儀、変距率盤、距離時計が完成していないとき
である。これ等が完成していくのこの直後二十世紀の初め一九〇六年である。かろうじて
個々の砲に備え付けられている砲側照準望遠鏡がある程度であった。このため射撃は個々
の砲による目視射撃である。これは訓練を繰り返すごとに命中率の向上が可能である。と
は言え大砲の砲身には発射回数の制限がある。すなわち砲身は無限の発射回数に耐えるも
のではないということである。これは実践的な実弾発射を行えば行うほど、砲身の寿命が
短くなり交換をする必要があるということである。そこで通常は砲内砲とでもいうべき内
筒砲という仕組みをもちいた。これは日ロ海戦当時ばかりでばなく、以降、近代的射撃砲
が確立していった大正初期まで採用されたようである。もちろん小口径と大口径とはその
弾道が違うのであるが、それはあらかじめ計算および実験により補正ができるという前提
である。要するに目視射撃である。
このような訓練により日本艦隊の射撃術は向上していった。一方ロシア艦隊は長い航海、
燃料その他の補給等のことでその精力を使い、射撃訓練の機会がほとんどなく、少なくと
も砲弾の命中率において日本艦隊に対し相当おとっていた。このことを現地指揮官である
東郷司令長官以下艦隊幹部は訓練を通ししっかり認識していた。有名な敵前回航はこの認
識があることによって選択された戦術である。日本海海戦は、昼間における戦艦などの砲
撃戦の局面と夜間の駆逐艦などの小艦船による雷撃戦という局面がある。有名なZ旗「皇
国の興廃……」と訳されているが要するにZであり後がないということである。要は、そ
の時点で利用可能なあらゆる手段を用いて必死に戦った結果、日本艦隊の圧勝ということ
になったのである。
この日露戦争のあと、日本は戦利艦として戦艦は六隻を獲得した。獲得したといっても
旅順港で陸上砲台からの砲撃で擱座したもの、あるいは日本海海戦で被弾し損傷したもの
であるが、獲得後多大の費用、労力、資材を投人整備した。それらは「壱岐」「丹後」
「相模」「周防」[肥前]「石見」と命名されている。これらは相当な戦力になると期待
されるも、以下に述べる事情によりその価値がなくなり無駄な努力であったようだ。
じつはこの日本海海戦後、戦艦の歴史上画期的な戦艦が出現し従来型の戦艦は一挙に二
線級となったのである。これがいわゆる「ド級艦」と言われる「ドレッドノート」である。
英国の戦艦の名前である。この出現はいろいろあると思うが、日本海海戦の結果も影響し
ていることは確かであると思う。この出現が一九〇六年である。この当時は大英帝国が健
在である。軍艦の技術においても世界をリードしていたのである。この艦、厳電な機密の
下で建造され、計画から完成までわずか一年二ヵ月で完成させるという英国の意気込みが
感じられる。
この艦、何が革新的かといえば、一、基本的に長距離砲戦を指向し単一口径連装砲を五
門装備していること。二、蒸気タービンを装備し速力を二二ノッ卜としたことにつきる。
これは従来の戦艦に比しておよそ二倍以上の戦力となる。またその砲力、速力に見合う砲
撃体制も革新した。すなわち測距儀、変距率盤、距離時計が出現したのである。これらを
組み合わせた、ある種のアナログ計算機である射撃指揮盤ができた。これにより砲術長の
指示により各砲台が一斉に単一目標への砲撃が可能となり長距離砲戦が実現する。従来の
砲台ごとの目視射撃から一斉射撃へと攻撃力を増した。
この「ド級戦艦」以降「超ド級戦艦」と続き、主砲口径の増大とそれに伴う船形の増大、
装甲の強化と連鎖的に進化する。その建造には多大の国力を要し列強各国にとっても大変
なことであり、それ以外の中小国には戦艦を保有する事が不可能となった。列強各国とも
まさに地獄への入り口に立ったのである。このような変化が二十世紀初頭に起きたのであ
るが、やっと列強の末端に連なった日本においてはどうであったのか。ロシアからの戦利
艦は別として、日露戦争後、準ド級艦と言われる戦艦あるいは装甲巡洋艦を十隻建造した。
この時はすでにド級艦が出現しており新造時よりすでに二線級となったが、これらは英国
の助力があったがともかく日本で設計建造した最初の大型軍艦である。またその後期型は
蒸気タービン機関の採用など、その後の日本戦艦の発展に貢献した。その十隻は「香取」
「鹿島」「薩摩」「安藝」「河内」「摂津」「筑波」「生駒」[鞍馬]「伊吹」である。
このうち「筑波」以下四艦は装甲巡洋艦と分類されているが、のちの巡洋戦艦の発想に近
い。要するに、やっと同一線に並んだと思ったが世界はすでに一歩前にいたのである。
ここで日本は超ド級艦建造へと向かうのであるが、まず技術導入の目的もあり見本とい
うかお手本というべき超ド級艦を各国に追いつくために、当時の世界の先端にあったイギ
リスに発注した。これが太平洋戦争におい日本の戦艦である。これと同型として「比叡」
「榛名」「霧島」があり、これらは国内で建造された。これらは英国の先端艦である「ラ
イオン」級をタイプシップとしており、それより速力でほぼ同等、砲力は一三・五インチ
に対し一四インチとまさっていた。装甲はやや薄いとある。いわゆる巡洋戦艦として発注
された。巡洋戦艦とは砲力と速力を重視した船であり砲力すなわち攻撃力は戦艦なみ、速
力は巡洋艦なみ、そのかわり装甲は薄く戦艦に劣る。この巡洋戦艦は英国の発想でありそ
こで発展したものである。
この金剛型、―度の大改造を経て三○ノットの高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦
争で最も活用された戦艦である。これ以後日本は外国に戦艦を発注することはなくなった。
金剛の竣工が大正二年(一九一三年)である。その後戦艦として扶桑型と言われる「扶桑」、
「山城」つづいて伊勢型といわれる「伊勢」「日向」を大正六年、七年に竣工させた。次
なる戦艦は「長門」「陸奥」である。陸奥型は世界初の一六インチ砲すなわち四一センチ
砲を装備し、速力も二六・五ノットと一段と飛躍したものとなった。この長門、陸奥は、
戦前の日本海軍の象徴として日本国内だけでなく世界に広く知られた戦艦である。これの
竣工が大正九年から十年である。昭和十年に改装された。このあと列強間の軍拡競争に各
国堪えうることが難しく、軍縮条約が締結され一時競争は停止した。
ド級艦以後に第一次世界大戦が発生している。実はこの第一次世界大戦中、戦争の大勢
を決するような海戦は発生していない。規模の大きい海戦はあるが戦争の大勢にあまり影
響はないようである。これはジュットランド海戦(ユトランド沖海戦)といわれており英
国対ドイツの海戦である。なんともおかしな海戦である。専門的にはいろいろ言われてい
るが、要するにただ多数の軍艦が戦ったという印象であり、どちらが勝ったとも負けたと
もいわれてない。結果的にはおそらく英国が勝利したと言えるのでは。ただし英国の巡洋
戦艦三、巡洋艦三、駆逐艦八の沈没に対しドイツ側は旧式戦艦を含め二隻ヽ巡洋艦四隻、
魚雷艇五隻の沈没である。その他人的損害を含め英国側の損害が大きい。それでも以後ド
イツ側は終戦まで勢力の温存を決め出撃することはなかった。
これ以後巡洋戦艦といわれる船に対し?がつくこともあった。またこれだけの艦船が対
戦したにもかかわらず、結果的には何ら戦局に影響がなかった事に対し議論がのこった。
この第一次大戦、飛行機、戦車、潜水艦等次の戦争において主力として活躍する兵器が出
現した戦いであり、戦艦の地位が揺らぎはじめた時代でもある。この戦争に日本海軍は対
潜水艦戦のため地中海に駆逐艦を派遣し、それなりの活躍をしている。この対潜水艦の戦
い、この時日本海軍はどのような教訓を得たであろうか良くわからない。
さて戦艦の話に戻ろう。このジュットランド海戦の結果を受け、設計がみなおされてき
た。すなわちポストジュットランド型といわれている。長門、陸奥の両艦はポストジュッ
トランドに対応している。この両艦、排水量は完成時三二七二〇トンであったが改装時に
は三九一三〇トンとなっている。またその速力は改装後二五ノントとおそくなっている。
この両艦、日本海軍の象徴的存在であったが大平汗戦争では陸奥は原因不明の自爆沈没、
長門は呉港内で航空機の攻撃で破損、敗戦後米国により原爆実験の標的とされビキニ環礁
にて水没した。
さて最後に登場するのは、戦後よく知られるようになった「大和」「武蔵」である。ジ
ュットランドの教訓も十分検討され、従来の日本の戦艦と比べるとその艦容が一変した。
従来の日本の戦艦は二段の主砲の後に戦闘指揮所が、その後ろに三脚のマストがあった。
このマストは測距儀を上部にそなえていた。その後の改造でマストに階段上に各種構造物
を設置していき、その形容から米軍が評してパゴダ(仏塔)といったようなものであった。
大和型は最初から三脚マストはなく層塔構造である。主砲は世界最大一八インチ(四六セ
ンチ)砲であった。排水量六四○○○トン、速度二七ノットというものである。速度を除
き世界最大である。いろいろ言われているが、専門家によるとよくぞこの大きさに収めた
ものであるということである。
なぜ戦後有名になったか、これは建造から運用まで国民にも世界的にも軍秘として広報
されることがなかったからである。なぜか。それは米国を意識していたからである。日露
戦争後、日本を対抗相手として意識し始めた米国。第一次大戦後世界の覇権国となった米
国にとって太平洋の向かいにある日本、何かと気に障る国であった。日本も日露戦争の勝
利により新興国としての覇気が増大し米国を意識、さらに太平洋の覇権を争う国として米
国を意識した。当時はまだ白人優越の時代である。何かと日本の行動が米国のカンにさわ
ったようである。ともに仮想敵国として明確に意識した。
この間いろいろあるようであるが、単に軍部の独走という事ではなく、国民感情として
嫌米が増えていったということもある。軍縮条約という薬があった、これに乗っかりうま
く利用することができたら、おそらくカタストロフィーに至ることはなかったと思うが、
うまくそれに乗っかることができなかった。ともかく米国を意識していた海軍は、軍縮条
約の期限が切れるのを狙って次期戦艦の設計を開始したのである。ともかく米国を上回る
回るものを求めていた軍は、当然米国の生産力などの国力を知っていたに違いない。もし
その内容が知れれば相手はすぐにそれより上回るものを用意するであろうという考えもあ
り、絶対に相手にわからないうちに事を始めねばという事であろう。事実米国は戦争が終
結するまで「大和」「武蔵」の詳細は知らなかった。
ともかく巨大であるという事を、戦って知ったらしい。この大和、武蔵、実際は戦局に
寄与することはなかった。むしろ戦局に寄与したのは太平洋戦争に参加した戦艦では最も
古い金剛、比叡、榛名、霧島の高速戦艦といわれる四隻である。ちなみにその速度は三〇
ノッ卜である。またその機関出力は一三六〇〇○馬力である。排水量は三二一六○トン
(四隻とも多少違う)である。大和型の機関出力は一五○○○○馬力である。何故日本の
戦艦は国力を傾けるくらいの努力をしたにも関わらず活躍できなかったのか。話は簡単で
ある。もはや戦艦というものが戦争の変化に全く適応できなかったということである。も
っとも、これも使用方法によってはそれなりの用途がのこっていた。それは米国が用いた
海上砲台としての用途である。海上から地上を砲撃するもので、巨大な主砲を有する戦艦
ならではの用法である。もっともこれはその現場の制空、制海権を確保していなければこ
のような用法やりたくてもできるものではない。戦勝国米国だからできたことでもある。
戦争というもの、ロマンでも妄想でもない。利害得失を考慮し味方の損害、リスクを最
小にして相手を屈服させるかということにつきる。
戦艦は巨大な砲力を有するがその命中率はということになる。太平洋戦争時どのくらい
の命中率であったのか、詳しくはわからないが訓練で最人三○パーセントくらいとある。
実戦で敵も砲撃運動し海が多少荒れているとすると、おそらく一Oパーセント以下であろ
う。しかも先に書いたように砲というものは寿命があり、発射回数の制限があった。もち
ろん制限を超えると廃棄ではなく砲身の交換を行った。
中期以後、米国はレーダ測距を使用し夜間でも攻撃可能な体制をととのえてきた。そん
な中で速度は遅く命中率も悪い戦艦等は単なる標的にすぎなくなってききた。それに対し
航空機というもの、全ての要素で戦艦などの海上戦力にまさっていた。コストパフォーマ
ンスが悪すぎ、もはや航空機に太刀打ちできないものとなっていた。多少の活躍をした戦
艦が金剛等最も古参の物であるというのも、なんとも皮肉というか喜劇というべきか。技
術あるいは戦争というものを考えさせられる。この戦艦というカテゴリーは一九六〇年ま
で残存したが、現在では存在しない。
戦艦というもの、消滅した中世爬虫類時代の恐竜のような存在となってしまったようで
ある。現代の数千トンの駆逐艦(護衛艦)ともし戦闘すれば、あっけなく敗北するであろ
う。それは現在の駆逐艦が戦艦の主砲の射程外から強力なミサルを正確に命中させる能力
を有するからである。
さて日本の戦艦という事で書いてきたが、明治維新以来およそ四十年近くで日本は何と
か先進諸国に追いついたとはいかないまでも、何とか同列近くに並びそれから何とか同列
にいることができたのか。これがまた一つのテーマである。幕末明治維新すなわち十九世
紀後半、産業革命を経た先進諸国の技術が進んでいるとはいえ、まだ在米技術の延長線上
にあったのではなかろうか。鉄と石炭の技術は当時の日本人の思考延長で理解できたので
はなかろうか。
これが電気気を利用する技術となると、従来の思考の延長では筒単に理解できない。そ
れと、当時の日本の教育というか知的レベルの高さからくる、好奇心探求心に共鳴する要
素があったのではなかろうか。十九世紀後期のの日本の知的世界との壁は、思ったほど高
くなかったのではないかと最近思うようになった。これがその後の日本の躍進が意外と旱
かったことにつながると思う。
しかし日本はやはり後進国であった。一部は先進諸国に追いついたかのように見えても、
底辺までは息切れしてついに並ぶことはなかった。太平洋戦争の敗戦はそんなところにも
ある。途中書いたが戦艦の時代、ネーバルホリデーと言われる時代にうまく利用できなか
ったことは大きいように思う。もっとも当時今でいうそれに対応するビジネスモデルがな
かったという事、もっと前向きに言うと、それに対応するビネスモデルを創造できなかっ
たことに尽きるのであるが。
参考としたもの
日本戦艦史 二○○七年一○増刊 六八一 海人社
イギリス戦艦史 一九九○年一一増刊 四二九????????海人社
近代戦艦史?????? 二○○八年一○増刊 六九七 ??????海人社
Battleships and BattleCruisers 1950-1970?????????? Doubleday
(Siegfrid Breyer著)
戦列艦時代???????????????????????????? 戦艦の原始形?????????????????? 前ド級鑑
「ヴィクトリア」英 18〜19世紀初め????「ラ・グローワル」仏??1859進水??????????「三笠」日本????1900進水
ド級艦???????????????????????????? 超ド級艦???????????????? 超々々ド級艦
「ドレッドノート」英 1906進水???? 「比叡」1912 進水?????????? 「大和」1940進水
???????? ??????????????
(斜光24号掲載)
35
:
同人α編集部
:2020/12/05(土) 07:27:12
願わくば
?????????????????????? 願わくば
欠陥人間である。昔風の用語でいう片輪である。「片輪」は差別用語であり使用禁止の
言葉らしいが、自分のことを言うのは問題ないだろうと思う。内分泌を行う内臓の中に肝
臓というものがある。これはインシュリンという糖分をエネルギーとして取り込む作用を
する物質を分泌する臓器である。このインシュリンは生成作用が弱く、外部より補完しな
ければ生命の維持がおぼつかないということである。いわゆる糖尿病である。糖尿病は、
現代医学では完治させることは不可能であり対症療法のみである。これで悲観していても
先に進まない、現実に向き合っていくしかない。その対症療法としてインシュリン注射を
毎日行う羽目になった、三十代からである。
インシュリンが不足すると食事よりとった糖分がうまく体内にエネルギーとして取り込
まれなくなり、血液中に残ったまま血管に付着したり腎臓に過大な負担をかけたり。何か
と生命維持に障害をもたらすとのことである。そのためインシュリン注射に加え、出来る
だけ糖分を消費するため運動を要請されている。運動といっても運動音痴の身であり運動
会では弱者であった小生に、何か様になる運動をするといってもせいぜい散歩ぐらいしか
ない。散歩は昼食後数時間行うことにしている。散歩中いろんなことが頭の中をよぎって
いく。そのなかでふと頭に浮かぶ言葉あるいは概念がある。
その一つで、突然「願わくば…」という言葉あるいは単語が頭の中によぎった。はて?
どこかで聞いたと思ったが「……」がなかなか思い出せない。よくあることである。思い
出せないことに対応する方法はいろいろあるがふつうはあいうえお……順に単語を並べ
る。たとえば「あ」の後またアイウエオと続ける、あい、あう、あえ……と連想し、最後
「わ」つぎに「い」……といく、不思議なことにこれで頭の中にあるものが引きずり出さ
れてくることがある。それでもこれでうまくいくことは稀である。うまく思い出せない時
は、帰宅後すぐに忘れないうちにPCに向かい検索。なにしろPCの中には無限ではない
が多くの情報が詰まっている。昔は百科事典を調べていたがそれをはるかに凌駕する情報
が引き出せる。もっとも引き出すにはそのキーワードをうまく設定する必要があるが。と
もかく何とか「願わくば」についてたどり着いた。それは西行法帥の詠んだ歌である。
「願はくは花の下にて春死なむ、その如月の望月の頃」この解釈は後ほどにするとして、
西行法師とくるとそれに始まる年寄りの連想は果てることがない。春の白昼夢をたどって
みる。
西行といえば俗名は「佐藤義清」、平安末期の下級貴族にて北面の武士。左兵衛尉と
あり位階は不明であるが、官位相当制度より調べるとおそらく正七位というところであろ
う。これは当時の感覚でいうと下級貴族というところか、佐藤氏は藤原北家魚名流である
藤原秀郷(俵藤太)の子孫、奥州藤原氏、関東の小山氏、結城氏などと同族である。秀郷
流藤原氏といえば、歴史用語でいえば源平に代表される「軍事貴族」といわれる中のひと
つである。
この軍事貴族とは、これは日本歴史を研究している学者の間においても色々解釈がある
ようであり私ごとき門外漢が口出すことではないが、この秀郷流藤原氏、平安木期になる
と同じ軍事貴族といわれる清和源氏、桓武平氏と比べるとあまり振るわず、どちらかとい
うと地方の武者という位置付けである。佐藤義清の佐藤氏、紀伊の国田中荘の預所に補任
された。この預所なるもの、平安時代半ばより出てくる名称であるが、開発領主が国家権
力による収奪から逃れるため摂関家などの上級貴族に寄進し、実質的には領主であるが名
目上上級貴族の下での管理者のような場合や、在京の領主より任命れた管理者等様々なケ
ースがあり、よくわからない。この佐藤義清という人、おそらく紀州という近国であり開
発領主ではなく管理者として補任されていたのだろうと思う。
この佐藤義清の諱(いみな)は「サトウノリキヨ」と読む、「範清」とも書くとある。
そこでふと思い出した。源平争乱期ポッと出てすぐ歴史の闇に消える志田義広という人が
いる。源為義の三男である。頼朝の叔父にあたる。この人通常は「よしひろ」と読むと信
じていた。何かの折この志田義広を調べたとき「義範」との表記もあるとあった。その時
はなぜ? とも思わなかったが、この「佐藤義清」を「サトウノリキヨ」と読むというこ
とでいうことで改めて考えると、実は「シダノリヒロ」と読むのが正解かと思った。当時
「義」を「ノリ」とも読んだのですかね。必ずしもそうは言えないところがある。たとえ
ば「九郎義経」これは「クロウヨシツネ」であり「ノリツネ」という読み方はない。
志田義広の読み方をいろいろ調べても「ヨシヒロ」が正しいようです。義範の範をヒロ
と読むのは現代でも名前の読み方としてあることであり不思議ではない。 ということで
「義清」を「ノリキヨ」と読むのはこの西行法師の俗名のみなのか、正確には西行の出家
前の緯、佐藤義清のみなのか。佐藤義清、下級貴族とはいえ紀伊の国田中荘の預所であり
裕福であったといわれている。預所であり生活基盤は充分保証されており北面武士として
あるいは左兵衛尉として当時の武者の家のものとしてそれなりの地位を有していた佐藤義
治が、何故困難の多いと思われる仏教の僧侶として生きていくことを覚悟したのか。何故
出家したのか、いろいろ言われているがよくわからない。が、多くの説は失恋した、すな
わちさる高貴な女人に恋をし逢瀬を持ったが「あこぎ」と言われ失恋した、との説が多い
ようだ。
これから先は想像あるいは妄想の領域というべきか、ともかく下級貴族である佐藤義清
か上級貴族のさる女人と逢瀬を持った、その時のことを仕草を含め「あこぎ」と評価され
た、これは豊かで繊細な詩人の魂を有する彼にとって堪えられない屈辱ではなかったのか。
あるいはいかに軍事貴族とはいえ、所詮上級の貴族から見たら下郎に過ぎないと思われた
に等しいと、彼の北面の武士としての生きがいあるいは誇りが内面から崩れ去ったのでは
なかろうか。佐藤義清か西行に変化するところである。
出家するということ、現代に生きている我々にはなかなか理解しにくいところであるが
当時の人にとってはまさに今までの人生をすべて捨てて生きていくということ、全ての従
来のつながりを切断することであり、よほどのことがない限り下す決断ではないと思う。
事実、よく知られている西行は自身を「心なき身にも哀れは知られけり、鴫たつ沢の秋の
夕暮れ」と詠んでいる。ここに出家という存在がある。「心なき身」ということは、全て
の世俗の関係感覚を断絶したということであろう。とはいうものの西行という人、宗教人
というより歌人としての評価が高い。平安末期から鎌倉時代の初めに生き、死後編纂され
た最後の勅撰集『新古今和歌集』に九十四首人撰している。その歌風はいわゆる新古今風
に大きな影響を与えた。このあたりは詳しくなくいろんなところで書かれていることのつ
まみ食いである。
老人の連想を続ける、ここでふと、ほぼ同じ時代に北面の武士であり横恋慕により出奔
挙句に出家した行動の人を思い出す。その名は「遠藤盛遠」出家後の名前は「文覚」、こ
の人、宗教人というより現代風にいえばフィクサーあるいはクリエーターといったほうが
適切であろう。出家後真言宗の僧侶として修業し神護寺に赴き、その興廃した様子に発奮
し当時の後自河法皇に強訴した。この強訴、いかにも荒っぽいやり方であり法王の方でい
ささか持て余し伊豆に配流となった。ここで伊豆に配流中の源頼朝を知る。通俗の物語で
は、頼朝にその父源義朝のものという髑髏(しゃれこうべ)を見せ平家追討をあおったと
の話もある。
ともかくこの時の縁で頼朝と良好な関係を築き、頼朝が権力者となった暁にはその庇護
を受け神護寺、東寺、その他の寺院の再建を行った。特に神護寺では中興の祖といわれて
いる。頼朝死後その後ろ盾を失い、そのフィクサーたる源泉がなくなり政争に巻き込まれ
佐渡に配流され、赦免されるも今度は後鳥羽上皇に謀反を疑われ再度対馬に流刑、途中で
死す。まことに波乱に満ちた生涯であり行動の人であり快僧というべき人である。
連想のついでにもう一人同じ文の付く僧侶、こちらはのちの評価は妖僧である。時代は
少しあとの鎌倉末期から室町初期というより南北朝時代である。「文観」という僧侶がい
る。後醍醐天皇に重用された。東寺一長者、天王寺別当など務める。この人、南朝方の人
でありその業績はその後の北朝系統の政権に抹殺されたところもあるようである、その中
で特に「真言宗立川流」を広めた妖僧との評価がある。この真言立川流とは真言宗の経典
のひとつである理趣経に基づくものである。立川流伝承では、性的儀式を伴っていたとい
う。そのため淫祠邪教ということで迫害され消滅した。そのための教義、様式など全く残
っていないためよくわかっていない。ただ理趣経は正当な密教経典であり、真言密教の根
本理念である「自性消浄」という理念に基づく経典である。ただ男女の性行為などを大胆
に肯定している。そのためいろいろ曲解される向きもあるとの恐れより、密教を日本に広
めた空海弘法大師はこの経典を封印、修業を積んだ僧のみ読経を許可したといわれている。
よくわからないところである。
さて文観はこれくらいにして西行に戻ろう。西行に限らないがこれらの僧侶、一体どの
ようにして生活(生命維持)をしていたのだろうか。西行のように特定の寺院に所属する
ことなく気の向いたところに草庵を結びかつ日本国中を旅するという生活、どのようにし
て生命維持の基礎となる衣食を調達していたのだろう。西行の生きた時代、平安末期は源
平の合戦の時代であり、その間養和の飢饉というものがあり日本全国が不安定の時代であ
る。生きることが困難な時である。
鴨長明による『方丈記』にこの飢饉時のすさんだ光景が言及されている。ときの権力に
連なる寺院に所属してない現代でいうと、自由業の彼らはいかにして生きていたのか、仏
教が一般民衆のレベルまで浸透するのはこの後のいわゆる鎌倉仏教である浄土真宗、日蓮
宗、禅宗(臨済、曹洞)などによる教化によるものであり、西行の生きた時代では僧侶は
聖なるもの犯してはならないなどという規範が一般民衆レベルで共有されていたか、極め
て疑わしい。また旅をするといっても宿泊施設など整備されているわけでもない、どのよ
うにして旅をしていたのだろう。
日本において一般庶民の旅が可能になるのは、少なくとも江戸時代半ば以後である。僧
侶ということで、諸国の寺院のネットワークというものがありそれを利用したのか。とも
かく平安時代には旅をする人はいた。たとえば初期には在原業平、関東(武蔵の国)まで
旅をしている。この人、国司に任官した経歴はないので、もし関東まで旅をしたとすると
律令制による正規な手段は使用できなかったはずであるが、それでも平安初期までは律令
制による中央集権が生き残っており道路、駅などのインフラは生きていたと思う。少なく
とも何らかの方法でこれらを利用できたはずである。
翻って西行の生きた平安末期、奈良時代に整備されたインフラが中央集権が壊滅した時
であり、駅伝制が機能していたとは思えないのである。少なくとも、平安末期日本を自由
に移動できたのは兵の集団のみである。源平両氏などに属する兵が、集団で当時知られて
いた日本を移動している。その移動の方法というかノウハウは少なくとも十世紀ごろから
の地方の反乱(正平・天慶の乱、平の忠常の乱、前九年、後三年の役)などに対処した兵
の棟梁の家系に遺伝子として伝承されていったはずである。
そのような兵でもない僧侶はどのようにして宿泊をし食を収ったのか。寺院のネットワ
ークのようなものがありそれらを利用したのか。現在でこそ寺院は多数あり集落につき一
寺院はあると思われるが、これは鎌倉仏教の普及後、江戸時代の宗教政策によるものであ
り、平安末期にそのような数の寺院があると思えない。一口に歩ける距離を三〇キロくら
いとしてその範囲に一寺あったとは思えないのである。もしあったとしても、宿泊させ食
事を提供するという機能を有していたのであろうか。
西行法師、現代では歌人として有名人であるが、同時代の地方にて西行ということで有
名人として通用したであろうか。気の向くままに旅をし歌を詠むとは歴史上のロマンであ
るが、少し現実的に考えると謎が多い。この西行法師、当時の奥州平泉まで二度旅してい
る。最初の旅は出家して二年後である。二度目は東大寺大仏及び大仏殿修復のための勧進
である。現代風に言うと奥州藤原氏への寄付依頼である。この二度目の旅の途中鎌倉に立
ち寄り源頼朝に会っている。「……鴫たつ沢……」の句はこの時相模の大磯あたりで読ん
だ歌である。
一度目は全く目的もわかっていない。ただ奥州藤原氏は秀郷流藤原氏として西行の佐藤
氏と同族である。おそらくここで奥州藤原氏と良好な関係を結んだであろう。そのため二
度目の東大寺修復勧進が成功したのもこの時の関係が効いたのかも。ともかく旅について
は謎が大きい。ここで西行ということで大昔に購入し積読になっていた本を思い出した。
それは辻邦生氏による『西行花伝』という小説である。この本、かつて西行法師に関心が
あった時期に購入したのであるが、内容がちょっと小生には重く感じ、ほったらかしにな
っていたものである。ここ数週間、この文章を書き始めてあらためて読み出した。まだ読
了したわけではないからこの小説がすべて真実であるという保証はないが、辻邦夫氏、そ
れなりに資料を調査されていることであろうから、これに照らし私がいままで書いてきた
内容が間違いと思うところもあり、ここで訂正しておく。
まず紀州田中荘預所について、田中荘義清の数代前佐藤氏が開拓した荘園(領地)であ
り。それを徳大寺家(精華家)へ寄進した物とある。歴史上いうところの開発領主であり
実質の領主である。これは平安中期よりのいわゆる兵の典型的な在り方である。鎌倉幕府
を支えた御家人はほとんどこのパターンである。また出家したあとも完全にこれらの世俗
と切れておらずそれなりの関係があったようで。そこから生活の糧を支援されていたと思
われる。私の西行への想いはこの『西行花伝』に託したい。そこで佐藤義清という人、弓
馬術、蹴鞠などいわゆる武芸に秀でた人であったようである。ここに佐藤義清/西行を解
く鍵があるように思う。
平安末期、もはや律令制は実質崩壊していたが、その建て前のみは存続しその匂いに浸
っていた時。騎射すなわち馬術、弓などは仕草の伝承にすぎずとても実戦の用をなすもの
ではない。このころ台頭してきた武家の荒々しい生命力に太刀打ちできるものではない。
往時の北面の武士の武力はせいぜい都の公家の飾りにすぎず、のちに鎌倉幕府を盛り立て
た武者に太刀打ちできるものではない。事実、北面などの都の武者が当時の合戦などで活
躍した話を聞いたことがない。たとえば以仁王の乱というものがある、ここで以仁王に与
力した源頼政(典型的都武者)は関東の足利(藤姓)忠綱になすすべもなく敗北している。
いろいろ評価はあるようであるが平安末期に京武者であった佐藤義清、西行へと変身す
るもその根っこはやはり佐藤義清である。滅びゆくものの儚さあるいは愛着を体現した人
であったようである。『西行花伝』をまだ読了したわけではないが、辻邦生という小説家
に共鳴するところか多い。そのなかで『背教者ユリアヌス』というものがある。ここで彼
はコンスタンティヌスによりそれまで抑圧されたキリスト教が一挙に権力側となり正義を
独占したときに、それに連なる人々の正義を独占したと信じる人間の振舞いをつづった。
また『安土往還記』というものがある。これは中世的権威を破壊し新たな世界を切り開
いた信長の清々しさへの共感である。これらに大変感動した覚えがある。では『西行花伝』
で何を言わんとしたのか、まだ読み終えていないが、おそらく滅びゆくものへの共感・儚
さではなかろうか。何となくここまではわかったような気もするが私が本当に知りたいの
は、西行という僧侶、一体どのようにして生活していたのかいわゆる形而下のことである。
このようなことについては全く不明なことが多い。
さて西行という人、西方極楽浄土を希求して付けた名前であり、その死は願い通り一一
九○年如月二十六日(旧暦)(釈迦涅槃の日)人寂した。
最後の連想であるが「東行」と号した人がいることを思い出した。西行にかけた号であ
ると思うが、その心は東の方江戸幕府を食らいたいとの思いである。その人の俗名は「高
杉晋作」、幕末長州の志士にして風雲児である。維新成立前にその望みがかなうまえに病
死した。
西行法師。菊池容斎『前賢故実』より。
36
:
つる
:2022/04/10(日) 11:31:16
階段スイッチの怪談
???????????????? 階段スイッチの怪談
怪談というより快談といったほうが良いのかな。大方のお宅にあると思いますが階段を照明する
電灯、最近は白熱あるいは蛍光灯よりLEDタイプが多いようですが、今回はこの電灯でなくそれ
を点滅させるスイッチについてのちょっと不思議な面白いお話です。 さて電灯といわずあらゆる
電気製品には、それを入り切りするスイッチが一対一でついています。ところが、この階段照明の
電灯一個に対応するスイッチは階段の上と下二ヵ所にあるのが普通である。その機能は、現在の状
態(例えば電灯が点灯)よりどちらかのスイッチを操作すると状態は反転(消灯)します。その状
態からまたどちらかのスイッチを操作すると、状態は反転(点灯)します。通常ごく当たり前とし
て不思議に思わないようですが、よく考えてみると不思議なことです。通常のスイッチはONかO
FFの状態しかなく、その状態は一義的にきまっています。例えば部屋の照明などに使用する壁に
あるスイッチ、色々な種類があると思いますが、普及しているものはシーソースイッチといわれて
いるもので、中央に支点があり一方を押すと反対側が跳ね上がるようになっているものが多いと思
います。
いうなればシーソーのような動きをする。このスイッチは操作部の片側に何らかのマークがつい
ていて、そちらが押されているときONときまっています。この機能は一義的であり、ON側は必
ずONであり逆になることは絶対にない。ところが階段スイッチは先に述べたように上下二個のス
イッチで機能的には一個のスイッチのような動きをし、ON/OFFを示すマークもついていない。
これはいったいどのようになっているのだろうと考えてみた。電気工学を学び電子機器の設計を仕
事としてきた人間から見ると、電子回路を使用する方法、これならば簡単にその機能を実現するこ
とができる。しかしどう考えても、実際の階段スイッチは電子回路が組み込まれている様子はない。
ON/OFFのみのスイッチは記号で示すとである。このタイプのスイッチでは、どのよう
に組み合わせても階段スイッチの機能は実現できない。電気工学を学んだ身ではあるが恥ずかしな
がら降参である。
そこでインターネットに教えを乞うことにする。調べてみると実に簡単である。思いつかなかっ
た私がバカなのかと思ってしまう。要はスイッチとして図1にあるSI、S2のタイプのものを使
用し、結線は図2のようにする。このタイプのスイッチは電気工事用語で三路スイッチといわれて
いる。
????????????????????図1 表1
??
さてこの方法、実に簡単巧妙な方法であり、価梧、信頼性、工事の容易さ等から見て素晴らしい
方法であると思う。では誰がいつ頃これを発明したかと調べてみたが、わからない。建築配線を行
う職人の技として完成されたものだろう。それもおそらく日本ではなくて米国、あるいはヨーロッ
パであろう。一方工学的なアプローチを考える。これは現在の階段スイッチとはあまり関係ないが、
ディジタルの考え方の基礎が含まれており面白いので披露する。まず各々のスイッチの状態は二つ
あり、それぞれ0と1に対応させる。スイッチは二個であるので状態は四個である。
表1においてA、Bは各々のスイッチでありLは電灯とする。Lで0は消灯、1は点灯である。
まず初期点灯で00として考える。次にどちらかのスイッチ(例えばA)を操作する。すると10
となり消灯する。次にどちらか(例えばB)の操作を行う。この状態は11となり点灯する。また
どちらかのスイッチ(例えばB)のスイッチを操作する。この状態は10で消灯となる。この様子
を表1は表している。
????????????????????図2 表2
??
さて二個のスイッチでできたことが、三個以上のスイッチでも同じようなことができるのか。こ
れは三個以上、理論上は無限個のスイッチで可能である。その場合、使用するスイッチは先に述べ
た三路スイッチが両端に配置され中間のスイッチは四路というものが必要になります。三個のスイ
ッチの場合を図2に示します。この図2のS7、S8のスイッチは一体で四路スイッチを表します。
この四路スイッチというものは、機能的には二本の線を並行にしたり交差させたりするものです。
下に示すように、ON/OFFのたびに二本の線を並行にしたり交差させたりします。
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これを表1のような論理表で示したものが表2である。
このように階段スイッチは配線されていることが分かったが、最近私は退屈しています。年寄り
の慰みに昔取った杵柄というわけではないがこれを電子回路で実現するとしたらどうなるか遊んで
みることとした。表1と表2にその論理を示しているので、電子回路で実現することは簡単にでき
る。図3は二個の場合、図4はスイッチ三個のときである。両中図U1などUの記号のものは、あ
る機能素子です。いずれも図中左側が入り□で右が出口です。入力でドンとすればカンと出るよう
なものです。
また両図中、Q1から右側は電灯を点滅するための部分で、いうなれば力仕事を行うところ。左
側の部分がスイッチの指示によりその論理を実行する頭脳部です。ここではスイッチは三路、ある
いは四路などは必要でなく、単純なON/OFFスイッチのみで済みます。これらの論理部分シミ
ュレーションにて表1・表2の論理通りに動作することを確認済みです。
さてこれらの電子回路をどのように実現するかということになると、時代を考えさせます。私の
自分史に重ねて考えると、三十、四十代では、これらは個別のICを使用して実現したと思う。お
そらく三センチ平方あれば充分であったろう。
ところが二十一世紀になってくると、個別の部品で制作することはほとんどなく、マイクロプロ
セッサーやFPGAなどといわれるものを使用してソフト的に実現するようになってきた。実際、
最近は個別のICは秋葉原の電気街に行っても見かけなくなってきた。
それでも、実際の仕事をする部分はパワー半導体として一つの分野があり、発展をしている。電
力制御であり、最近話題になっているEVなどではきわめて重要な分野である。 時間の流れは急
速です。もはや老兵は死にゆくのみ。
(斜光26号 2021)
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