したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

alpha-archive-06

138α編集部:2014/09/26(金) 08:32:53
純文学と大衆文学
.
??????????      純文学と大衆文学?? 2007-2010



「肥と筑」の感想

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこでMさんや、長岡さんの手法
に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。

◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。

◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞや?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。

◆ 小説は次のように分類される。
  <長さ・発表形式による分類>
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  <内容による分類>
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説

◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景−異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。
2007/12/21 (旧α掲示板)




小林秀雄全集第四巻 P226

 今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬ。
2008/4/12??(窓辺にて)




「白暗淵(しろわだ)」を読む

◆古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を読み終えた。「東京大空襲」の記憶を縦糸に「音]
??を横糸にしてつづられた短編集で、表紙には次のような言葉が書いてある。
 静寂、
 沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。
 さざめき、沸き立つ意識は、
 時空を往還し
 生と死のあいだに浮かぶ
 世界の実相を撮す。
 言葉が用をなすその究極へ−。

◆今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬと小林秀雄がいみじくも言
 っているように、純文はそれしか残されていないのではないかと私には思われる。その
 ような作家は古井由吉を含めた少数しかいないのではないか。
2008/4/25  (窓辺にて)




純文学と大衆文学

◆Kさんの「大衆」の定義をして何を主張したいのかその問題提起の意味がよくわかりま
 せん。「純文学」と「大衆文学」の違いを論じるに、純文学が優れていて大衆文学が劣
 っているようなニュアンスに反発して、純文学を読む人も大衆の中の一人じゃないかと
 いう意味の主旨かと思われます。もし私の解釈が間違っていたらそのへんのところを詳
 しく示して下さい。
 私は「純文学」と「大衆文学」の優劣は、総合的に評価出来る同じ土俵は作れないと思
 っています。面白いものが一番いいという人達、いや難解でも何か考えさせるものがい
 いという人達もいるでしょう。どの観点で評価するかは人様々で、どちらが優れている
 という問題ではなさそうです。

◆「私も結構悪食だったので、昔はいろいろの本を手当たり次第に読みました。その結果
 私の中では優劣はともかく「純文学」と「大衆文学」の区分けらしきものは持っていま
 す。大衆小説と言われている読み物、たとえば内田康夫のミステリー・シリーズなどは
 読んでいる最中は実に面白く時間を忘れるほどです。しかし最後のページが終わるとそ
 の興味は尽き、数日すると最早その内容さえ全く忘れ去っています。場所・人物・状況
 などを単に替えただけのパターン化されたものが引き続きシリーズとなって出されてい
 ますが、そのパターンに気づくと途端に興味がなくなりそれらを二度と読むことはあり
 ません。反対に純文学と言われるものは、なかには美しい表現や情景の物語もあるが、
 没頭するほど面白いものではない。いわゆる苦痛・忍耐を伴うものもなかにはあります。
 しかし、私が「純文学」と思うものには読んだ後でも長い間忘れずに頭に中に残ってい
 ます。夏目漱石の「それから」の代助と三千代が万難を排して「一緒になろう」と誓っ
 た部屋の中に漂う百合の強い香りとか、父や兄に寄宿していた代助が三千代のために独
 り立ちしようと決心して、職を探しに街へ飛び出した時の真っ赤にそまった心象のラス
 トシーンなどなど。

◆最後に、物事の解釈や表現を単に新聞や週刊誌などからの切り売りではなくて、私が考
 えもしていないような解釈や表現や新しい考え方を持つ人には憧れます。私にはもうあ
 まり残された時間もないことだし、その人にしかないをちらりと見せてくれる選ばれた
 作家・書物に出会えることを願いたい。
2008/7/26????(旧α掲示板)




文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子

 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
2009/3/25?? (窓辺にて)




北 君

仕事に忙しい中、感想有り難う。このような長い読後感を書いてくれる所を見ると、時間
的にも少し余裕が出来たようですね。
君の言う通り村上春樹はストーリーテラーとしては第一級の作家と思われます。確かに自
分探しと謎の解明という筋の展開の巧さで最後まで読ませますが、読者の生き様に対して
の意味合い・インパクトがないと僕も読んだときにそう思いました。これは今まで読んだ
村上春樹の小説全般に言えると思います。純文学と通俗小説との間の微妙な位置にあるよ
うな気がして、文学少年・少女に受けるのは判るような気がします。
2010/2/14 (窓辺にて)




佐伯一麦

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目
 おいていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話
 だけで28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわか
 らない気障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろ
 う。今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。それは個人の
 好みの問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な
 好奇心をくすぐるものがないのが不満に思えました。
 と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた
 個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向を
 もつということでしょうか。
2010/6/25




新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板