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活動姿勢の反省
3
:
甘酒★
:2017/05/30(火) 08:02:41
>>2
たしかに、喧嘩師に対する評価的議論は、対立構造を成す(ようにみえる)場合がある。しかし、このような議論さえも喧嘩の1つであるという意見にはいささか疑念がある。
そもそも、評価者は、【どのような基準】で、誰々が強いだとか弱いだとかを判断しているのか。勝ち星の数?勝率?序列化によって?まず、このような議論で、判断基準が明確になることはあまりない。例えば、AさんとBさんとで、CさんとDさんとの喧嘩の強さを評価する。Aは「CはDより強い」、Bは「CはDより弱い」という。一見、AとBとは対立しているかのように見えるが、両者の間に、【一定の判断基準】が共有・了解されていなければ、本当の意味で対立しているとは言えない。例えば、上記の例で、Aは【勝ち星の数;基準Xとする】で、Bは【感覚的に分かるその人の能力(言語力、論理力等);基準Yとする】で、CとDとを比較したとする。Cは、基準Yにおいて、Dより能力的に劣っていたとしても、自分より能力的に劣っている相手—いわゆる雑魚—にたくさんの勝ち星をあげていれば、基準Xにおいて、Dより優っている場合がある。この場合、基準Xにおいて、「CはDより強い」となるが、基準Yにおいては、「CはDより弱い」となる。まず、評価者の間で、各人の評価基準が明確かつ共有された状態でなければ、同じ土俵の上で対立しているかどうか疑わしい。それでは、ちゃんとした議論ないし喧嘩とは言えないわけだ。
そして、基準Yのような量的でない変数を扱う場合は、評価者は、対象を"主観"で判断することとなる。当然、客観性を失った議論というのは、まともな議論ではない。
実際に、僕が見かけた評価活動のほとんどの議論は、上の2種(①評価基準が不明瞭な場合②評価基準が量的でない変数を扱う場合)に当てはまる。もし、このような活動のことを「喧嘩活動の一環」というふうに捉えているなら、それは間違いなので、改め直したほうがいい。だからこれを「新しい風潮だ」とも捉えて欲しくない。単なる履き違えから始まる流れに乗らないこと。
あとそれと、このような適当な議論の場合で、「内発的な意見発信」こそ出来ていても、「積極的な意見"批判"」まで出来ている者はまずいない。土俵(基準)が不明瞭、もしくは主観的な意見であることを「批判」とは言わないからだ。
大体、喧嘩の強さの議論において、精緻かつ妥当な評価を与えられる者はそういない。(というか見かけたことがない。)結局みんな【フィーリング】で判断しちゃってるのが事実。そんな適当な議論は本当の意味で議論とは言わないし、喧嘩とも言わない。評価者も、僕の挙げた2つの重要な姿勢を満たしていない。
以上をもって、評価活動を喧嘩活動の一環とする意見、このような活動の中に「積極的な意見批判」があるとする意見は間違いである。
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