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丹治『論理学入門』読書会

1ウラサキ:2018/06/16(土) 06:11:24
丹治信春『論理学入門』(ちくま学芸文庫)の読書会をこの掲示板上でスタートします。

やり方としては、全体を5つくらいに分け、1か月毎に範囲を指定して、
疑問点やコメントをこのスレッド上に書き込み、意見交換する、というものです。

現在のところ、えいじさん、横山さんから参加表明頂いておりますが、
勿論、途中参入も歓迎です。

進行予定(仮)

第1回 冒頭〜2「真理値分析とトートロジー」の最後(p52)まで
第2回 3「命題論理のタブロー」(p.53)〜第1部最後(p.89)まで
第3回 第2部冒頭〜6「述語論理における真理値と妥当性」の最後(p.131)まで
第4回 7「述語論理のタブロー」
第5回 8「述語論理における健全性と完全性」

で、いかがでしょう?

で、第1回の期限を1か月後の7月16日(土)と設定して、
各自読んで(練習問題も解いて)、当スレッドに疑問点、感想などを書き込んで下さい。

えいじさん、ちょと進んでおられるかと思いますが、振り返って頂ければ有難いと思います。

2横山:2018/06/16(土) 07:07:40
ウラサキさん、ありがとうございます。
了解しました。

3えいじ:2018/06/17(日) 21:33:02
ウラサキさん、
スレ立てありがとうございます。
了解しました。

4横山:2018/06/24(日) 20:54:40
本の中身とは直接関係のないことかも知れないのですが、論理式について分からないことがあるので書き込みます。皆さんどう思われますか?

存在についての論理式の書き方なのですが、
定義として命題変項が含まれなければ論理式ではない(p23)のだから
(∃x )
だけでは論理式とは言えないのですよね。
そうだとすると、例えば、「神は存在する」という命題を「xが神であればそれは存在する」というようにして、
∀x〔G(x)→∃x〕
(G(x)は「xは神である」)
と表したいと思ったとしても、その(∃x)部分が傷になってそれは論理式にはならないのでしょうか。
そうだとすると、それを論理式にするには、
∀x〔G(x)→∃x(x=x)〕
みたいに(∃x)の後に某かの命題変項になるものを無理してつけないといけないのでしょうか。
しかし、
∀x〔G(x)→∃x(x=x)〕
と(x=x)を付けてしまうと、それはもはや「xが神であるとそれは存在する」とは別のことを言ってしまっていることになってしまっているように思えて変な感じです。

この辺りどう考えれば良いのでしょうか。

5そふぃお:2018/06/24(日) 23:01:16
>>4
横山さん
「xは存在する」というのを関数と置くことは「xが自身の関数である」となり、それだと「x」をおくことが「∃x(x=x)…」という関数になってしまい、「x」本来の役割である「インデックスに対する変数」が消えてしまうのではないのでしょうか。
ここで神の存在証明がトピックスとなっているならば、「神は存在する」つまり「あるxは神である」という命題が真であるかどうかに議論の焦点が置かれるので「∃x(Gx)」を「Gx」という形で使っていかに式を組み立てるかということが重要であるかと思われます。
例えばアンセルムスの議論だと
「すべての、何よりも大きいものであるxは神である」
になり
「何よりも大きいものである」を「F」と置くと
∀x(Fx⊃Gx)
となります。このように考えるのが述語論理ではないかと考えます。
見当違いならすみません。

6横山:2018/06/25(月) 00:08:50
>>5
そふぃおさん、ありがとうございます。

つまり、「xは存在する」という文自体が偽命題であって論理式にはなり得ないものでしかない、ということでしょうか?

7そふぃお:2018/06/25(月) 00:13:57
>>6
横山さん

そうですね。論理式にはなり得ない偽命題であり、かつ「x」はインデックスに対する変数として存在するのみであるという理解が有力かと思われます。また新たな議論が出てきたら検討させていただきます。

8横山:2018/06/25(月) 18:16:42
そふぃおさん、ありがとうございました。
他のみなさんもよろしければ教えてください。
僕が興味深く思ってるのは、「存在する」と、それ以外の一般的な述語(例えば「赤い」)はどこがどんな風に違うのかというところです。

普通に考えて「存在する」は日本語では一般的な述語句なので、それが「赤い」などの他の述語句と差別化されるのは変な感じがします。
そこでかんがえたのですが、もしかすると、
「∃」は「存在する」を表すものではなく、単に「存在するとしたらどんなであるかを示すと、」という条件指定だけを表していて述語なんかはこれっぽっちも表してないんじゃないでしょうか。
そして、「存在する」を示す仕事は実は後ろの命題変項が担ってるんじゃないでしょうか。
例えば、
(∃x)P(x)
で「Pであるものが存在する」を表すとすると、このとき、
P(x)
は、「xはPである」を表してるとも言えるんだけど実はそれは不正確で、もっと正確に言うと「xはPであるようなものとして存在している」を表してるんじゃないでしょうか。
同様に
x=x
は、単に「xはそれ自身と等しい」というだけでは不正確で「xはそれ自身と等しいものとして存在している」を表している。

だから、「Pなるものとして存在している」とか「赤いものとして存在している」とか「それ自身と等しいものとして存在している」とか「触れればそれと分かるものとして存在している」とか「見ればそれと分かるものとして存在している」等として「どんなものが存在するか」ということを示すなら、存在を論理式にすることはできる。けれども、何の指定もなしに、
∃x
だけでは、「存在するとしたらどんなであるかを示すと」とだけ言って何も示してないので、存在を表したことにはならない。

と、考えました。これで、何で「∃x」だけでは「xが存在する」にならないのかという疑問の答えになるのかなぁと考えたのですが、どうでしょう。
合ってるでしょうか?

9久保共生:2018/06/25(月) 20:21:13
論理学のことは全然分からないのですが、思ったことを書いておきます。あまり参考にはならないとは思いますが、ご容赦ください。

∀x〔G(x)→∃x〕という表記についてですが、任意のxを取ってきた時点で、xの存在が予め前提されているように思うのですが、いかがでしょうか?
ですから、∀xの後に∃xと書いても意味を成さない気がします。(そもそも、一つの論理式に∀xと∃xが両方出てくるのってありなんですか?勿論、∀x∃yとかなら普通にありますが。)

もう一点。「xは神である」をG(x)というふうに関数みたいに表記するのも正直違和感がありますが、仮にG(x)という表記を認めたとして、G(x)→∃xというのも釈然としません。
∃xの後に、G(x)(xは神である)を持ってくるのが普通ではないのですか?

ちなみに、数学では
∃x s.t. G(x)  (或るxが存在して、xは神である)
というような書き方はよくします。(s.t.はsuch thatの略で、∃xの直後に添えるのが慣習です)

10横山:2018/06/25(月) 20:38:16
久保さん、ありがとうございます。
なるほど、ご指摘なっとくです。
∀xと∃xが並列できるかどうか、はどうなのでしょうか。
∀x〔G(x)→∃x(x=x)〕
みたいな論理式はアリかと思ってたのですが、∀と∃が同居するのはダメかもしれないですか?

11久保共生:2018/06/25(月) 21:23:08
横山さん

>∀と∃が同居するのはダメかもしれないですか?

∀と∃が同居することはよくあります。
例えば、
∀x∈Q,∃y∈Q s.t. xy=yx=1  (任意のxに対して、或るyが存在して、xy=yx=1)
などです。(ちなみにこれは積の逆元の定義です。Qは有理数です。)

ただ、同じ記号xにおいて、∀xと∃xが同居するのは、少なくとも数学では見たことがないですね。
それと、x=xみたいな表記もしないですね。
論理学においてどうなのかは分かりませんが。

12横山:2018/06/25(月) 21:30:52
>>8
>「∃」は・・単に「存在するとしたらどんなであるかを示すと、」という条件指定だけを表し

と書きましたが、訂正します。

「∃」は、単に「或る対象についての話として」という条件指定だけを表し、「存在する」という述語的内容は後ろの命題変項の方が担っている。


というくらいで理解したら良いのかなぁと考えました。いかがでしょうか?

13横山:2018/06/25(月) 21:39:20
>>11
久保さん、ありがとうございます。
∀xと∃xを、それぞれ、「任意のx」「少なくとも一つのx」と読むなら、それを並列するのは、同じ一つのものを「任意でありながら少なくとも一つだけ抽出する」というヘンテコなチョイス作業になりそうでダメなように思えました。そんな感じですかね。


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