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10月23日「心身問題」
1
:
夫 正彦
:2016/08/29(月) 09:34:28
発表者:久保共生さん
2
:
夫 正彦
:2016/08/29(月) 09:38:24
ツイプラ:
ttp://twipla.jp/events/218185
3
:
夫 正彦
:2016/09/22(木) 10:40:13
発表名が「心脳問題」に変更されました。
4
:
夫 正彦
:2016/10/21(金) 15:23:37
マクタガートにも参加された道家さんが参加されます。メールで連絡ありました。
申し訳ございませんが、祭儀関係の用事で当日参加できません。よろしくお願いします。
5
:
ウラサキ
:2016/10/21(金) 22:11:35
ラッセル読書会に参加している高校生の岡田君も来るそうです。
6
:
横山信幸
:2016/10/22(土) 13:13:55
久保さん、お父さんの方も参加されます。
7
:
夫 正彦
:2016/10/22(土) 13:27:22
久保共生さん、久保さん(父)、ウラサキさん、横山さん、ソフィオさん、道家さん、岡田さん
確認は取れてませんが、広瀬さん、はじ銀さん、イイダさん、野口さん
11名ぐらい。
資料等もあるので出席される方は何らかの方法で教えていただければ幸いです。
8
:
出口
:2016/10/22(土) 15:08:01
私も参加させていただく予定です。
9
:
夫 正彦
:2016/10/22(土) 15:17:16
出口さん
失礼しました。
出口さんいれて、12名です。
10
:
イイダ
:2016/10/22(土) 23:03:35
すみません、今回は不参加とさせてください。たびたび参加できなくて申し訳ございません。
11
:
広瀬一隆
:2016/10/23(日) 12:27:41
私も本日は欠席します。
なお、誠に申し訳ないのですが、11月3日も仕事が入ってしまいました。ほんと、すいません
12
:
かわべ
:2016/10/23(日) 12:58:08
かぜをひいたので家で寝てます
13
:
ウラサキ
:2016/10/23(日) 18:42:32
久保共生さん、お疲れ様でした。
案の定、大変盛り上がり楽しかったです。
胡散臭いクオリア論はすっ飛ばしても良かったのでは?って印象です。
機能主義と行動主義の違いがこれまであまりよく分からなかったのですが、
今回、横山さんの解説もあり、ハッキリしてきました。
機能主義って脳科学でアップデートされた行動主義ってことですね?
先月に引き続き心の哲学、もうお腹一杯って気分です(^^;)
14
:
横山信幸
:2016/10/23(日) 22:10:14
久保さん、これだけの発表準備されるのは大変だったでしょう。丁寧にまとめられていて非常に分かりやすく面白かったです。楽しかったです。ありがとうございました。すごく頑張ってくださいましたからお疲れが出ませんように。
「痛みというのは有視点的に把握されるものであり、〈その都度〉的世界把握に属する。因果関係の記述は〈その都度〉的に把握される「痛み」の感覚に基づいて初めて可能になるのであって、客体的事物間の因果関係の記述とは本質的に異なる」という内容に、もっとも興味を覚えて、とても面白いと思いました。
ただ例会中にも、その有視点的把握は結局、語り得ないものではないかという疑問をのべましたが、すこし引っかかるところがありましたので、その点を再度考えてみました。以下にまとめてみます。
今、「痛み」の意味について考察するために、左手をつねってみる。確かに明らかに痛い。「痛さ」なるものは自分で語るときには絶対的なものだとできるように思える。
なぜ絶対的なのか。実際に感じているその感覚が『痛み』の感覚だということが何故わかるのか。
それを、〈その都度〉的に把握してみるとどうなるかを考えてみる。
それは、ある感覚について、それをaとb2つの(或いは2つ以上の)感覚だと捉えて、aを過去の記憶において『痛み』としてきたものだとして捉えて、bを現在の知覚としての感覚だと捉えた場合に、それが同種の『痛み』なるものに分類できるものであるとすることができる・・・とするから、明らかに痛みだと分かるのだ。つまり、世界の捉え方として、そのような記憶と現在の感覚を有する心的実在として自分を想定し、その心的実在が自身の存在も記憶も現在の感覚も一挙に(そして或る意味で〈その都度〉に)意味ある存在として立ち上げるからだ。
そして、そのように心的実在を想定するのなら、心的実在が感じているとされる『痛み』というものは、その心的実在が『痛みがある』と評価し得ないものではあり得ないはずだ。(ややこしい言い方ですみません。)つまり、こと想定においては、「痛み」は主体が「痛み」として認識しなければ「痛み」ではないということだ。
そして、そうすると、さらに、それは次のようにも考察できるはずた。即ち、そのような根源的な世界設定をするような場で、その世界を物理的対象として分析したり設定したりしようとするならば、その主体が『痛みがある』と評価するときのその世界の状態は『痛み』と因果関係を持つものであることを、必然的に前提するものでなければならない。〈その都度〉的世界把握においては、すべての物理法則は〈その都度〉立ち上げられる冒険的な仮説でしかないはずだからだ。
それゆえ、『痛み』を物理的に考察しようとするものにとっては、痛みは必然的に物理的状態であるものとして捉えられることになる。
以上、横山の勝手な妄想的考察でした。
そう考えて、「痛み」は、〈その都度〉的な有視点的把握によってでも、結局は、因果関係の記述にたよらざるをえなくなるように思えた訳です。
あと、もひとつ。「クオリア」という語の意味についてですが、僕は、チャーマーズが語「クオリア」でもって指示したのは、やはり、「物理的機能のないクオリア」だとしか思えません。『意識する心』で「クオリア」の代わりに頻繁に出てきた「現象的意識」というものが「物理事象に論理的に付随しないが自然的に付随する」と、かなりはっきりと何度も書かれているからです。物理事象に論理的に付随しないものとして「現象的意識」が想定されているのですから、それは語義的に物理的因果関係を持たないものだと読むべきように思います。そして、その「現象的意識」が真に物理事象に論理的に付随しないのなら、自分自身の「現象的意識」でさえ、それが「有る」ということを有意味に語ることは、言葉の構造からしてできないと思います。(ウィト「論考」においての「有意味」の意味で、それは有意味に語れないはずです。)
だから、今日の発表の最後のまとめの「クオリアはそれ自体で実在するとは言えないようななにかである」というのはその通りだと思いました。
以上。とても、面白い発表だったので、長々と書いてしまいました。
15
:
ken7row
:2016/10/29(土) 23:26:31
今晩は。
>実際に感じているその感覚が『痛み』の感覚だということが何故わかるのか。
ある感じを「痛みである」と判別することと、その感じの存在を知ることとは、別物だと思います。
また、痛みの感覚を特定するような記述はこれまで存在しなかったはずです。
存在するのであれば、他我問題のようなものは発生しないからです。
つまり、そのような記述をDとすると、「あなたにはDがありますか?」と問えば懐疑は解消されるからです。
16
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 00:20:29
ken7rowさん、上は僕の感想へのコメントをくださったのですよね。返信しようと思ったのですが、すみません。仰っているの意味がよくわかりませんでした。
>ある感じを「痛みである」と判別することと、その感じの存在を知ることとは、別物だと思います。
というのは、その通りだと思ったのですが、それから後がよくわからなかったので、よろしければ解説してもらえませんか。
17
:
ken7row
:2016/10/30(日) 00:40:20
横山さん、
誰の痛みでもいいのですが、その痛みの感じがどのようであるかが、誰にでもわかるような記述が存在していないということです。
18
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 00:52:16
つまり、それゆえ、痛みの記述は機能主義に頼らざるを得ないということですか。それなら、まったくその通りだと思います。
19
:
ken7row
:2016/10/30(日) 01:42:40
何か、妙なところで意見が一致してしまうのですね。
でも、そこから先はたぶん、正反対なのだろうと思います。
私は、「頼らざるを得ない」ということから、「不十分だがしょうがない」と思うわけですが、横山さんはどうでしょう?
20
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 07:49:30
そうですね。僕は基本的に言語ゲームを離れた言葉の意味を認めない立場にいますので、方法論的に確かめられないような何かが「ある」とするような、「ある」の使い方はできないように思っています。
21
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 07:53:07
だから、「適した言葉がないからその感覚は語れないけど、語れないような感覚はある」とは言えないはずだと考えます。
22
:
ken7row
:2016/10/30(日) 09:02:29
横山さんの、
「クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13>」
に、「りんごの赤のいきいきとした赤の感じ」という表現が出てきます。
私に言わせれば、ここには、赤の感じの色合い、ありようが何ら記述されていません。
「りんご」というのは果物の種類を示す名前であり、「いきいき」というのは少し難しいですが、例えば果物の表面を水滴がしたたり落ちるような客観的状況と結びついた語であり、「赤」というのは例えば、夕陽を見たときの色(それがどのようであれ)、といったこれまた客観的状況と結びついた意味しか持たない。つまり、ここには、赤の感じを直接表現したものが含まれていないのです。
従って、ここで言語化されたものを「引き剥いでも」、赤の感じのありようというこの著しい特性そのものは、そっくりそのまま残ってしまうというわけです。
23
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 09:30:26
「りんごの赤のいきいきとした赤の感じ」という言い方では言語化されなかったようなもので、しかし「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で表されるものがあるということですか。
24
:
ken7row
:2016/10/30(日) 09:31:52
そうですね。私にはあります。横山さんには無いのでしょうか?
25
:
ken7row
:2016/10/30(日) 09:33:57
誤解のないよう補足しますが、「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で示唆できるだけです。記述するのは困難です。
26
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 09:41:43
ということは、「りんごの赤のいきいきとした赤の感じ」という言い方では言語化されなかったようなものが、「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できるということを仰っていますか。そしそういう違いで良いのなら、その違いは僕にもあります。でも、そういうことではないですよね。
27
:
ken7row
:2016/10/30(日) 09:55:17
もしかしたら行き違いになっているかもしれませんが、「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できるわけではありません。この言い方も「りんごの色」と同じで、感じそのものではなく、本質的には発生条件を述べているにすぎません。
28
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 12:14:32
この問題は、結局は、「「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できなかったなにかが、そこに、「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できなかったそのものとしてあるのではないか」という意味不明の疑問にしかなり得ないと、僕は考えています。深い意味があるように感じられるかもしれないが、突き詰めようとしても原理的に突き詰めることのできない疑似問題だと思えています。
29
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 12:15:05
この問題は、結局は、「「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できなかったなにかが、そこに、「赤の感じのありようというこの著しい特性そのもの」という言い方で言語化できなかったそのものとしてあるのではないか」という意味不明の疑問にしかなり得ないと、僕は考えています。深い意味があるように感じられるかもしれないが、突き詰めようとしても原理的に突き詰めることのできない疑似問題だと思えています。
30
:
ken7row
:2016/10/30(日) 13:34:46
そうですね。言語化できないのだから、論じることができないということです。しかし、だからといって、そのテーマがまやかしであるわけではなく、単に言語の表現能力が不十分なだけだと思っています。
そして、このテーマの意味が理解できない人、もっとわかりやすい例でいうなら、逆転スペクトルの意味が容易に理解できない人や、私的言語批判に納得してしまう人は、(ある意味その人の主張どおりに、)そもそもクオリアを持たないのだと考えるとわかりやすいと思っています。つまり、クオリアを持つかどうかには個人差があるということです。
31
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 13:58:14
それもよく言われる問題提起ですが、僕は間違っていると考えています。その問いを理解できない者はクオリアを「持たない」のではなく、「持つとも持たないとも言えない」と言わねばならないいうのが僕の理解です。
32
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 14:24:19
そして、原理的に語り得ないような問いについて、その意味を自分個人では理解できるなどということは、やはり原理的にあり得ない。私的言語を私的になら理解できるとするようなタイプの誤謬だ。というのが僕の理解です。
33
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 17:30:12
このことについて、デネットが「スウィートドリームズ」でうまいこと解説していました。僕のブログ「生の原質だけを取り出すことの難しさ」の後半に挙げていますので、よろしければご覧下さい。ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/20-c64f.html
34
:
ken7row
:2016/10/30(日) 17:31:50
>「持つとも持たないとも言えない」
横山さんがどうかは知りませんが、「クオリア」の指示対象を持たない人にふさわしい発言です。
それはさておき、
「クオリアが「無い」でさえないわけ<クオリア再考2>」に、
「前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能」
とあります。ちょうど平行線の公準のように複雑な前提です。
ここでいう検証とは、確かに、客体においてはすべからく必要となるような原理です。すなわち、
現に現れていないものに対しては、それが持つとされる機能を利用して観測結果としての像を獲得する必要がある、という原理です。もちろん、その像のもととなった原像という仮説的構造を構築することも許容されています。しかしながら、これは、対象そのものを直接的に知るのではない、間接的な認識にすぎないわけです。
一方、現に現れているものに対してはそのような間接的な検証を行うまでもなく、直接的にその存在が知られるわけです。すなわち、前提9が誤りなのです。
試しに、横山さんは、リンゴを見たときに生じる感じについて、それが持ついかなる機能を利用していかなる検証を行っているのでしょうか? そして、横山さんは、その検証を行うまでは、その感じの存在やありようを知ることができないのでしょうか?
35
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 18:45:41
横山とken7rowさんの話し合いをこのままここで続けて良いのか、ちょっと心配になってきました。もし、ken7rowさんがよければ、僕のブログのどこかで続けませんか。
とりあえず回答しますが、ご検討ください。
>それが持ついかなる機能を利用していかなる検証を行っているのでしょうか?
ある感じが浮かび上がっているからそれを、りんごだと考えて、そのように判断します。ただし、その時に、その事が私という存在と世界が因果関係によって関係しあいながら時間と空間のなかに存在しているということを仮説として判断すると共に、それを判断することになります。時空のなかで私の眼前にりんごが存在していて私の目がその情報を視覚的に得ていると仮説立てて、そう判断するからこそ、その「ある感じ」が「りんごの赤」だと言えることになります。僕の考えでは、その感じを「機能のないクオリア」だと判断するためには、その感じが世界の他の存在といかなる因果関係も持たないことを確かめなければできないと思っています。そんなことがどうやったらできるのか、僕にはそれがわかりません。
36
:
ken7row
:2016/10/30(日) 19:14:39
別の場所に移ってもいいのですが、もうあまりいうべきことはないかもしれません。
と思ったのですが、少し観点にずれがある気がしてきました。どこかに書きましょうか?
37
:
ken7row
:2016/10/30(日) 19:15:46
どこかに書きますね。
38
:
横山信幸
:2016/10/30(日) 21:56:27
ken7rowさんとの議論を次のページに移転していただきました。ありがとうございます。
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-9de2.html#comment-139053036
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