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TK師との会話

273 TK :2014/01/12(日) 10:34:17
激流の実践、これを私は約1年間で渡り彼岸を成就した。

ラピ。さんの激流はもっと長かったと言う。

この差は、たまたまテキストとしたものの違いであったと言える。

私はここにも書いたが、新約聖書と釈迦の僅か2冊の仏典。

私はあえて最低限を心がけ、これだけになった。

理論的に分かっていてそのテキストを利用したわけではなかった。

私にとっての一番の取り組み課題は、「悪魔(サタン)」対策だったのだ。

私は悪魔と戦う手段を探して、このテキストを取り入れる事としたのだった。

日常実践、禅定にタパス(苦行)。

ラピ。さんとの激流期間の違いは、
たまたま取り入れたテキストの違いによる先達が残した手掛かりの違いと言える。

例えば私は激流の実践時、釈迦の経典をテキストにしていたので、
有る時は純粋に空間認識を利用する実践をしていた。

空間を認識し、その空間に自分の思考を含む感覚が浮かんでいる、
そのような実践法です。

これは、この空間認識を利用する事により、
肉体と空間との境界線を無効にする実践でした。

形のある世界を脱出する第一プロセスですね。

つまり、ラピ。さんの激流時の実践より、
私は釈迦の経典と言う先達の手掛かりをもとに進めた分だけ、
効果的に進む事が出来たと言えることでしょう。

今の私やラピ。さんには私がこの際に利用した空間認識すらありませんが。

誤認覚者の前には世界はおろか空間すらあるのですよ。

完璧にふざけた、あれは従者を引き連れたちんどん屋の世界ですね。

こんな者が覚者と言う事態、バカも休み休みです。

「対象」を超えるためには、まず最初に空間認識は消滅させなければならないのです。

私が一番面食らったものは、私はある時、
全ての次元を次々と上昇し突き進んでいき、最終的にある領域に突入した。

突入したと言う表現より、様々な次元を突き進んだその果てに、
最終的にこの宇宙を全て脱ぎ捨ててしまったと表現するとちょうどピッタリの表現だ。

帰還した後、この経験がなんだったのか、文献類を探したが見当たらない。

至高体験のあの光のチャラチャラみたいな世界は、それとは違うし、
なんでそんな究極でもないまがい物を人々はさも究極の至高のように表現したりしているのだろうと思いました。

私はそれまで、世界各地に存在する様々な教えの究極はみな、
同一の所を指していて、至れば自分もそれが分かると思っていたからです。

それはこの宇宙に存在する言葉では一切表す事は出来ないものなのだが、
あえて便宜上「ゼロ」と表現するのが一番近い表現だ。

旧約聖書の光と闇が分かれるより以前だ。

そこでは時間が無い、僅か0.1秒も100億年も皆一緒だ、今すらない。

これが釈迦の教えを取り入れた結果として明らかになった究極だ。

それは、そこに至るまでの過程としての否定語でしか表すことが出来ない。

下手すれば、生還すら出来ない。

私は一旦死んで生き返ったんだ。

私の場合はその後に、フリダヤ(心臓又は心)の解脱、
次いで今いるマインドの解脱が明らかになった。

新約聖書だけでは、マインドの解脱までしか明らかには出来なかったんだ。

確かにイエスの3年未満の活動期間で取り上げるような内容では無い。


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