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聖典紹介板

27さくら:2014/04/09(水) 21:38:00


「神は天地を創造し給うても、どこにもその記念碑のようなものは立てられていないのである。何年何月自分は宇宙を創造したのであるなどという神みづから造った顕彰の碑があるとしたら、そのようなものは神と言うに値しないのである。天地萬物を創造されながら神は完全に自分を消しておられるのである。
それどころかご自分で生み出された人間に神は無いと言えるようにしておられるのである。
そしてまた、もしも、誰かが神に向って神は無いと言ったらまことにその通りです。私は無いのであります。私はないのでございますと言われるであろう。そしてあなたが神でいらっしゃいます。あなたがすべてのすべてでありますといって拝まれるのである。そこには無我、無神の偉大なる輝きがあるばかりである。無神論者が神は無いと言えば言うほど、それにもかかわらず生かしている神の無我の愛の輝きをそこに実証しているのである。

『生命の實相』もこれと同じ無我の愛の聖なる輝きをしているのである。
「物質なし」と『生命の實相』自身が無我に消えて、萬物を礼拝しているのである。
そして、尊師は私は未だかつて一度も人間を救ったことはないと言っておられるのである。自分が眼を開いてみると萬物が神のいのちに輝いていた。私はそれを拝んで礼拝しただけであり、気がついたてみると私も拝まれていのであると言っておられるのである。
萬物に感謝するとは萬物が自分を愛し、生かして下さっていることを感ずることであったのである。『生命の実相』は自ら死に切り、そこに 無我の聖なる愛の輝きを放っていて、これを聖典と拝ませていただくのである。
総説篇「七つの光明宣言の解説」の第一行の冒頭は「生命の實相の自性円満…」という書き出しになっている。「自性円満」という文字にはふりがなが「そのままでえんまんなこと」となっている。そのままでえんまんとは『生命の實相』という本を読む以前から円満である、ということである。この本が”私があなたを完全にさせるのではないんですよ’’ということが宣言されているのである。
『生命の實相』も、この「生命の實相の自性円満を自覚すれば…」の一句以後の言葉のすべては、読者を讃え給う神の愛のみことばの輝きなのである。
「自性円満」だけですべてのすべてが決定され、説法は完成されているのである。それ故、「完成の教え」なのである。完成なる生命の實相の自性円満を讃えているのが聖典『生命の實相』なのである。完成なる聖なる姿を相手として聖なるものが拝んでいるからである。
もしも、完成していないものを完成させるためのものとして『生命の實相』があるのであれば、不完全なるものと波長のあうものは聖であるとは言えないのである。
聖使命菩薩も、もしも悟っていない不完全なものに相対するのであれば聖なる文字を冠することはできないのである。
人類光明化運動も暗に対する運動であればそれをやる人に聖使命会員という名前をつけることは出来ないのである。」

榎本惠吾先生「弟子像」より


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