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54復興G:2013/08/02(金) 03:46:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十四

 光明にして光明なるもの。今にして今なるもの。此処(ここ)にして此処なるもの。はじめにしてはじめなるもの。渾(すべ)てにして渾てなるもの。在(あ)りて在るもの。

 暗(やみ)の要(い)らないもの。自分の要らないもの。限りそのものの無いもの。宇宙一パイの自由なるもの。

 神は今である。今でないものは神ではないのである。天国とは今である。今でない天国はないのである。完全とは今である。今でない完全はないのである。實在は今である。今でない實在はないのである。

 常に、常に、神は今ここ渾ての渾てである。

 神は癒しそのものである。神とは實相である。神とは 「現象無し」 である。

 今、幸せでない神は無いのである。

 神は今すべてのすべてであるが故に、神とは吾れの吾れなるものであり給うのである。

 聖経 『甘露の法雨』 にある 「されど如何に相(すがた)を現ずるとも……」 とは、如何に善と見える相を現ずるとも、今完全でないものは、それが宇宙的なまでの尊さの相に見えようとも 「仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず」 なのである。

 今、完全がないということは神は無いということである。今ここに癒され切った世界が無いということは神は無いということである。

  「生長の家人類光明化運動」 は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。

  「元(はじ)めを元めとして、元めの元めに入る」 という古来からの言葉がある。元めが渾てなのである。元めとは神ということである。そして今ということである。なぜならば、神は渾ての渾てであり、神は今であるからである。

 神にはやり直しということは有り得ないのである。やり直しのない出発が 「生長の家の人類光明叱運動」 なのである。

 やり直しがないとは、神であり、實相ということである。

 神は 「そのままでよい!!」 と宣言されているのである。 「生長の家人類光明化運動の発進宣言」 とは、 「そのままでよい!!」 との神の宣言ただ一つなのである。

 「そのままでよい!!」 とは、まことの光りということである。

 「神、光りあれと言い給いければ光りありき」

 これが 「生長の家人類光明化運動」 の発進の宣言であり給うのである。それ故、生長の家は久遠の昔から在り、 「生長の家人類光明化運動」 も久遠の昔から在りつづけなのであり、天地(あめつち)と偕(とも)に窮(きわ)まりなかるべし、なのである。

 神には練習は有り給わないのである。神が 「光りあれ」 という練習をされ給うたであろうか。神が天地創造をされるに当たって、リハーサルをされ給うたということは有り得ないであろう。

 それ故、神の 「光りあれ!!」 との宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には練習はないのである。ただただ偉大なる本番のみの純粋なる持続、完全の持続、天国の持続、完全なる癒しそのものの持続があるのみなのである。絶対の癒し、みずから癒しそのもの、みずから甦りそのものである 「人類光明化運動」 があるのみなのである。

 神には試行錯誤はあり給わない。それ故、神の宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には試行錯誤は有り得ないのである。

 神は完全であり満点そのもの、天国そのものとして、前進し給うているのである。それ故、神によって発進した 「生長の家人類光明化運動の歴史」 は、満点の卒業の歴史であったということが出来るのである。斯く言い得るものこそ、まことにも、仮相(かりのすがた)に非ざる 「生長の家人類光明化運動」 なのである。(1998.8.13)


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