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生きるとは?
1
:
NEW TYPE
:2011/02/15(火) 20:26:36
*前掲示板閉鎖のため、こちらに移行させていただきました*
とは(管理人)
とはさん、ページの方楽しく拝見させていただいています。
そもそも考える事というのは、その人にとって都合の良い事を知るためのものでなく、そこにある「そのものの形」を見るための行為だと思います。
(それは、あくまで『現実』というものを大前提とした)
そうすれば、そのオプション的な「政治」「宗教」というものなども、ちゃんとした見方が出来て、本当の意味で生活も潤うと思うんですが…。
人って勝手な「生き物」であると思う今日この頃です。
あともう一つ。
私が今考えている「スポーツ(武道)」にしても、昔は人をより効率良く痛めつける(殺める)為の技であったものが、今では健康(または競技)の為のものになってしまいました。
例えば対比でそのものの価値を計るにしても、時代の変化であったりと、そのものをとりまく影響力のバランスによって、その都度答えが変わってくる。
全て科学的なもので計らないにしても、それによって「その時代の真実」というものが決定される。
そして、時代とともに埋もれてしまった影響力により歪んだ理解が生まれ、それがまた次の答えを生む影響力ともなりうる。
面白いですよね。
長くなったのでこの辺で。
またお邪魔させていただきます、それでは。
2
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 20:27:50
掲示板では、はじめまして。
こちらにまでご意見ありがとうございます。
考えるということについて、
<そこにある「そのものの形」>を目指して進んでいくというのは、まさに正当な方向性であろうと思います。ただし個人的には、(NEW TYPEさんのおっしゃっているところからは少し外れるかも知れませんが、)非常に純粋なところで、<そこにある「そのものの形」>を捉えること、或いはそれが何なのかということに結論をだすことの困難さも否定できないのではないかと思います。(HPでは「真理とは」などで語っていること)
そこで、このような方向を否定するという意味ではなく、それとは別の方向性として、<その人にとって都合の良い事>という考え(その人の意志を含めた考えという意味で)を提示することにも意味があるのではないだろうかと思っています。ただしこのとき、それが個人的・相対的・限定的なものであるということを明確にするという前提においてです。(これを明確にしないところに、日常的には絶対と言われること(一般的には、「すべき」などと言われること)の乱立がおこり、そこから様々な問題が発生するのだと思います。)
そしてこの前提を明確にすることにより、その考えはそれを評価する人達によってのみ共通の考えとなるのだということを自覚すること、またその考えが実用性や無矛盾性などという評価によって批判されながら変化(発展?)していくということを有意義なこととして捉える、このような方向性がひとつの可能性になり得ないだろうかと今は考えています。
まあ、これも必ずしも現実的な方法であるとは言えませんし、問題も多いですが。一応このような方向で(特に「真理とは」以降のいくつかは、あえてそういう意志を含めて)、HPの方の自分の考えは書いています。そう言った意味で、かなり偏っているものが多いと思いますので、またご批判等も頂けるとありがたいです。
すいません。NEW TYPEさんのご意見からは脱線したかもしれません。
それでは、これからもよろしくお願いします。
3
:
NEW TYPE
:2011/02/15(火) 20:29:32
>すいません。NEW TYPEさんのご意見からは脱線したかもしれません。
いえいえ、とんでもない。
議論の意味を知っている人同士であれば、単なる罵りあいの口喧嘩や、どっちも
自分の主張オンリーのだたの平行線をたどる話し合いとは全く違う話し合いというものができると思います。
「生きる理由とは」について、私のコラムのアイデアの中に少し似たような事柄があったので書きます。
生きる事そのものとは、より死にくくする事ではないでしょうか。
何だかんだいっても、今の私たちの社会は歴史上最も安定していて、災害などのとき意外は生活(存続)にとっての死活問題を感じさせないものがあります。
考える事(思想も含む)というのはあくまでその生き抜く為の手段であるのに、それを趣味的に扱っている私たちなどは何なのか?と考えさせられます。
最近はとても暑いですが、祈っても夏が冬には決してなりません。
という事は人が大地にたっているのではなく、大地に人が立たせてもらっているのであると、つくづく痛感します。
4
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 20:30:37
NEW TYPEさん、いつもご意見ありがとうございます。
HPの「生きる理由とは」は、少しメッセージ的意味を込めて書いてしまっているので、一般的な意味で書けば、もしかするともう少し違った内容になるかもしれないですが、生きているということ自体は、その状態であるということだと思います。ただし、その意味とか価値とか目的というのは別次元の問題でしょうし、それは主体が決めてやることだとは思います。
考えること(或いは人間)の目的の少なくとも最も大きなものが、生きることであるのは確かだろうと思います。ただ、それにもかかわらず人間の場合は自殺することを考えることも、そしてそれを実行することもできてしまう。このことをどのように考えたらいいのか、ということが問題になるのだろうと思います。そして、このことに対する答えが、<私たちが考える事を趣味的に扱う>ことができる理由も与えてくれることになるかもしれないと思います。
>人が大地にたっているのではなく、大地に人が立たせてもらっているのである
NEW TYPEさんはこのような趣旨のことをいつもおっしゃっておられますね。確かに、人(の主観)を超越した何か絶対的なもの(それが神なのか、存在なのか、関係なのか等はともかく)は、おそらくあるのだろうと私も思います。ただ、個人的にはちょっと違う立場にいると思います。
私の場合は、どうも「自分の意志で生きていると思いたい」ということを基本にして考えたいと思ってしまいます。(それは、例え真実がそこにないかもしれないことを自覚していたとしても。)どうもNEW TYPEさんのように、達観したところには行けそうもないようです。ただ本当は、純粋な絶対性もうまく自分の考えに取り込めればいいと思うのですが、(根本的な前提が違うので)なかなか難しいのかもしれませんね。
何か、後半は前回の続きのようになってしまいました。
それでは、またよろしくお願いします。
5
:
NEW TYPE
:2011/02/15(火) 20:31:35
> HPの「生きる理由とは」は、少しメッセージ的意味を込めて書いてしまっているので、一般的な意味で書けば、もしかするともう少し違った内容になるかもしれないですが、
それは私もそうです。
書き手というのは誰であれ多少なりとも目的性というものにそって動いているものです。
そして、それはどのような種類があっても構わないと思います。
これは私達「書き手」の側にも言えることですが、ただそこで一ついえるのは「読み手」という立場に立った場合、その目的(信念的なもの)というものが絶対ではないことを自覚することでょう。
例えば宗教の信者などが、その教義というものを誇りを持って語る。
それは、修行者としての個人の立場です。
しかし、他というものと会ったときは上に書いた読み手の立場を自覚しなければなりません。
もともと人というのは大なり小なりその二つの立場を共有しているものです。
死活問題における場合、他数(多種)の意見というものが必要不可欠です。
要は中を取るというか、存続というものに一番適した知恵を築くには色々な発想をもって議論をしなければならないと思います。
しかし最近は科学の進歩などにより、死活問題とはほぼ無縁の時代を(昔よりもという意味で)築く事に成功しました。
その結果個人主義が生まれ、その融和的なものにつながる努力をするよりも、多者を論破するような自分の周りに壁を作ってしまうような知恵が蔓延しました。
>確かに、人(の主観)を超越した何か絶対的なもの(それが神なのか、存在なのか、関係なのか等はともかく)は、おそらくあるのだろうと私も思います。
「神・仏」という概念は人間が暮らしの中で構築したものであると私は思っていますので、はっきり言って私は無神論者です。
ですから、人(の主観)を超越した何か絶対的なもの(それが神なのか、存在なのか、関係なのか等はともかく)というものを自分なりに解釈すれば、その神仏というものをも生み出したにいたる昔の人の物事の見方というものを突き詰め、提唱していくのが自分の目的ですね。
書き手(主張する側)と読み手(理解する側)の立場の上手い具合の往復とでもいったところでしょうか?
どうも最近は「これだけが世界を救う!」「私たちでなければならない!」などといった、ひとつの立場で物事を良くできると思っている人が多いように見受けられます。
知識というのは体の一部分のようなもので、それだけでは決して機能しないという事を皆が気付いてくれればよいと、切に願う今日この頃です。
6
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 20:32:31
私も答え(考え)というのは主体の意志が創り出すものだと思いますので、どのような答え(考え)にも、目的(意志)があると思います。そして、主体による目的(意志)の違いを認め合うことが重要だとも思っています。つまり、NEW TYPEさんと同感です。
> HPの「生きる理由とは」は、少しメッセージ的意味を込めて書いてしまっている
と書いたのは、読み手をある程度限定した形で想定して(自分の生について悩んでいるような人へ)書いているという意味です。まあ、私などがそのような書き方をするのは生意気だと思うのですが。
<人(の主観)を超越した何か絶対的なもの>があるだろうと書いたのは、何かを考えるときにひとつの方向性として、俗な言い方をすれば、理想と現実という問題があるのだと思うからです。そして、理想を追い求めたときのひとつの極限に絶対性があると思います。また、現実を追おうととした場合でも、その根拠を何処に求めるかというときに、絶対性を避けて通れるのかという問題は起こるのだと思います。ですから、今のところ個人的には絶対的なものの存在を信じる、という意味では肯定しています。ただ、それを捉えることは難しいと思っているということです。
絶対的なものについて、神・存在・関係等を挙げたのは、そのときの思いつきなのだったので思慮が欠けていました。すみません。
確かに、宗教というのは必ずしも絶対的なことを前提にしているとは言えないと思いますし、私も宗教は人間によって創造されたものであるという思いが強いです。特に、仏教は(こういう言い方がいいかどうか分かりませんが、)ある種の現実性を突き詰めているという感じがします。
それと、絶対的なひとつを求めるというのは西洋的で、相対的な捉え方をするのは東洋的だという感じはしますね。
最後に、NEW TYPEさんはいつも個人主義という言葉を、否定的な文脈の中で使われているように感じるのですが、個人主義には否定的ですか?言葉の単純な意味からすると、対比となるのは全体主義ということですが、どのようなお考えでしょうか?
7
:
NEW TYPE
:2011/02/15(火) 20:33:39
どうも、とはさん。
> HPの「生きる理由とは」は、少しメッセージ的意味を込めて書いてしまっている
と書いたのは、読み手をある程度限定した形で想定して(自分の生について悩んでいるような人へ)書いているという意味です。まあ、私などがそのような書き方をするのは生意気だと思うのですが。
いえいえ、そんな事をいったら年齢だけでいえば私はまだ25の若造です。
ですから自分としては、自分の現時点でのレベルでのものの見方・感じ方でコラムを綴っています。
そして、それに対する様々な意見を糧にしての更なる成長(必要であれば変化もいとわない)も目指してもいます。
>私も宗教は人間によって創造されたものであるという思いが強いです。特に、仏教は(こういう言い方がいいかどうか分かりませんが、)ある種の現実性を突き詰めているという感じがします。
それは私も全く同感です。
そして、昔の人が経験の中で見出したであろうその絶対性(法則性)なるものを何らかのものに例えて(物語性のあるもの・または完全に矛盾をなくしたSF的な世界(社会)。)表現したものであると思います。
それはある意味「イソップ物語」などのものと同質であるのかもしれません。
判りやすく言えば、昔、両親に言われた「痛いの痛いの飛んでいけー」とでもいったところでしょうか?(笑)
>NEW TYPEさんはいつも個人主義という言葉を、否定的な文脈の中で使われているように感じるのですが、個人主義には否定的ですか?
言葉の単純な意味からすると、対比となるのは全体主義ということですが、どのようなお考えでしょうか?
個人主義自体には賛成です。
しかし、今日UPしたコラムにも書いてありますが、穿き違えた個人主義というものは自分の周りに壁を作ってしまうような、相手をただ論破するような目的の為に築いてしまいがちな知識の身に付け方を促進してしまうと私は考えています。
そして、私の考える本当の意味の個人主義(主観的なもの)とは、あくまで質の大小を含めて融和的なものを促す為のものであると思っています。
これは稚拙な例えですが、もしもそれを人体で表した場合、例えば、「手」というものの役割(特に恩恵的なもの)を突き詰めて考えたときに、その手というものを突き詰めて考えた人と、足、または頭など、同じくその人体の一部を突き詰めた人間同士の論戦(論破的な決着で答えというものを決定するような)、またはその対比というものは、ただ単に滑稽なものでしかない思います。
そういう意味で、共産的な全体主義というものから入るのではなく、いい意味の個人主義というものが正しく機能すれば、おのずと正しい意味の全体主義というものにたどり着くのではないでしょうか?と、私は考えます。
ですから、私がこの掲示板で書いた事と(今回の)コラムで綴っている事は、矛盾して見えるかもしれません。
言い訳ではありませんが、私の言いたい事というのはそこです。
なにか持論ばかり並べたようになってしまいました、すいません。
8
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 20:34:41
いつも、どうも、どうも。
>ですから自分としては、自分の現時点でのレベルでのものの見方・感じ方でコラムを綴っています。
そして、それに対する様々な意見を糧にしての更なる成長(必要であれば変化もいとわない)も目指してもいます。
非常に共感致します。
>そして、私の考える本当の意味の個人主義(主観的なもの)とは、あくまで質の大小を含めて融和的なものを促す為のものであると思っています。
これも同感です。ただ、それをどのように実現するのか(個人と全体をどのようにつなぐのか)というのは難しい問題ですね。それは、主観を同等に認めるのであれば、それをある方向に向かわせる絶対的な根拠を失うのでしょうし、その解決を理念的なものだけに求めるのであれば、どの程度理解し実感できるか、または実践できるかという個人の資質的な問題もあるように思えます。もちろん理念的なものによる解決の方向性は必要不可欠でしょうが。
そういう意味では、理念的なものプラス世の中のあり方(例えば制度的なものなど)の変革も含めた全体像を考えるということも必要なのかなとも思います。ただこの場合、主観の立場から精神と物質の両方をうまく扱える理念を創らないといけないと言うことでしょうし、それにはかなり妥協しなければならないことも多くなりそうに思えますが。まあ、これもかなり非現実的ですね。
>ですから、私がこの掲示板で書いた事と(今回の)コラムで綴っている事は、矛盾して見えるかもしれません。
コラム拝見させて頂きましたが、矛盾しているようには見えませんでしたよ。
>なにか持論ばかり並べたようになってしまいました、すいません。
いえいえ、持論・反論がためになります。
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