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上代特殊仮名遣い

1名無しさん:2010/08/29(日) 21:33:43
上代特殊仮名遣いについて何でも語りましょう。

141uKWoYyUWEM:2014/12/21(日) 22:34:15
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142名無しさん:2015/04/06(月) 16:25:58
2chが専ブラで見れなくなったんでこっちに今までの試案を書いてみる。
ここ、まだ生きてるよね?

上代特殊仮名遣いの音価としては森博達の再構をひとまず全面的に採用する。すなわち以下の7母音

ア a
イ甲 i
イ乙 ɨ
ウ u
エ甲 e
エ乙 əi(二重母音)
オ甲 o
オ乙 ə

ただしこれは8世紀、近畿地方の日本語

143名無しさん:2015/04/06(月) 16:33:17
同じく8世紀でも、関東から東北地方で喋られていたいわゆる上代東国方言は様子が違っていた

ア a
イ甲 i
イ乙 i
ウ u
エ甲 e 一部はa(完了りの直前など)
エ乙 e
オ甲 o
オ乙 o

すなわち上代特殊仮名遣い崩壊後の音価はほぼこの東国方言をもとにしていた

徴税や防人で全国に広がった東国人がその後の日本語に影響を与えたのかも?

144名無しさん:2015/04/06(月) 16:45:54
ただし東国方言としてまとめられている中に静岡甲信あたりの中部の方言があり、ここは関東とはまた違う崩壊のしかたをしていた

ア a
イ甲 i
イ乙 ə
ウ u
エ甲 e
エ乙 ə
オ甲 o
オ乙 ə

こちらは中舌母音はすべてəになるかたち。現代日本語には生きていないけど、
名古屋弁でやたらに中舌母音が多いのは基層にこの時代の方言があるのかも

145名無しさん:2015/04/06(月) 16:59:09
最後に琉球諸語。この言語の元となった日本語は、8世紀辺りではまだ西南九州で喋られていたと考えている。
資料に残っていないので推測するしかないが、2chで有名だったペラールの説を引用すると

ア a
イ甲 i または e
イ乙(ui) i
イ乙(oi,əi) e
ウ u または o
エ甲 e
エ乙 e
オ甲 o
オ乙 ?

オ甲乙が崩壊していたのかは不明なんだけど、とにかく他の方言で区別を失っていたはずのuiとoi,əiの区別が保たれていたり、イ甲やウに二種の音があったのが特徴。
これとアクセントから、上代以前の日本語の形がわかりそう、かも。

146名無しさん:2015/04/06(月) 17:55:58
で、ここまでが8世紀の崩壊終盤にあった上代特殊仮名遣いの概略。
ここから上代以前の日本語音韻史に踏み込んでいく。

この時期の音韻は大野晋説をだいたい踏襲する。
すなわちいくつかの母音は他の母音の融合により発生した。

エ乙 a+i
イ乙 ə+i,o+i,u+i
エ甲 i+a

ただしオ甲は母音融合で発達したのではなく、遡れる最古のかたちまで遡っても本来的単母音だったという立場をとる。

理由としてはオ甲だけ有坂の法則を構成することができる母音だということ、
エ乙イ乙に見る動詞の活用形のような有力な証拠がみえないこと

ただしオ甲は8世紀では比較的発現頻度が低く、何らかの原因があると思うのだけどこれがペラール説により説明がつきそう

147名無しさん:2015/04/06(月) 19:33:34
ペラール説とは何か。

日琉祖語の音韻として*e *oがあったことを想定する説。
理由は琉球諸語でイ甲やウに当たる音に2種類の変化があるから
琉球諸語と分離した日本語の方で *i *e → イ甲、 *u *o → ウ という合流を起こしたという立場。

俺の説では *o はオ甲の直接祖先である可能性が高いが、
*eはエ甲乙いずれの祖先でもなく、最低でも畿内の日本語では一時期全く消滅してしまったと見る。
理由はイ乙の融合の仕方。

琉球諸語ではイ乙は2つの区別を持って融合していた
u+i → *i
o+i → *e
ə+i → *e
が、これが畿内では
u+i → ɨ
o+i → ɨ
ə+i → ɨ
という風にすべて同じ音に吸収されている。
これは、畿内の日本語ではeにあたる音がなかったために広舌母音も狭舌母音も同じ音に集約してしまったのだろう。

148名無しさん:2015/04/06(月) 20:27:49
ちなみに*oは一部はuに合流し、一部はoのまま残ったためオ甲の出現頻度が低くなったんだろうと思う。
傍証として森博達が分析した魏志倭人伝の日本語ではオ甲に出現頻度が日本書紀に比べて有意に高かったことがあげられる。
出現割合から考えて、おそらく2音以上の語頭のoはほぼ機械的にuに融合したのだろう。他にもアクセントなどで融合した例があるかもしれない。
時期は魏志倭人伝〜日本書紀の間、つまり3〜8世紀の間。

これは畿内の日本語だけで起こったことで、関東の日本語では起こってないと見ている。
ペラールも似たようなことを考えていて、形容詞の連体形 -eや動詞の連体形 -oは融合を起こさなかった音形だって書いている。

つまり動詞の連体形とは、語根に [何らかの子音]+oが下接したものが原型ではないだろうか。
[何らかの子音]をCと置くと、

四段動詞<<書く>> kakCo → kako (重子音は許されないため消滅) → kaku (o→u融合)
下二段動詞<<建てる>> tataCo → tataro (子音が確定) → taturu (o→u融合 + 母音が前に影響)(ちょっと説明苦しい?)
上二段動詞<<過ぎる>> cugəCo → cugəro (子音が確定) → cuguru (o→u融合 + 母音が前に影響)(ちょっと説明苦しい?)
上一段動詞<<見る>> miCo → miro (子音が確定) → miru (o→u融合)
ナ変動詞<<死ぬ>> cinCo → cin -oro (子音が確定、渡り音が挿入される) → cinuru(o→u融合)

というように、子音で終わる音の中でnだけ動きが違う
このため、[何らかの子音]Cはnで、n+nの子音重複を避けるために渡り音を挿入したのではないかと考える。
そこで、連体形の接辞は「no」ではないだろうか。

149名無しさん:2015/04/06(月) 23:10:49
まとめ。
(1世紀あたり)上代特殊仮名遣い前史はペラールの再構形である6母音体系をしていた

[日琉祖語] a e i o u ə

(3世紀あたり)この母音体系が地域によって分裂、畿内と中部あたりで一部母音が高舌化した→eの一時消失

[東日本]  a e i o u ə
[中部]    a i o u ə
[畿内]    a i o u ə
[西南九州] a e i o u ə

(3〜8世紀のどこか) 名詞化や他動詞化、自動詞化など複数の機能を持った接辞が -iに統合、母音重複が起きまくって融合的な中舌母音が発生

[東日本]  a e i o u ə
[中部]    a i o u ə
[畿内]    a i o u ə ɨ
[西南九州] a e i o u ə

(8世紀) 東日本から上代特殊仮名遣いが崩壊、5母音体系に。東日本の影響を受け中部・畿内でeが復活、エ甲発生

[東日本]  a e i o u
[中部]    a i o u ə e
[畿内]    a i o u ə ɨ e
[西南九州] a e i o u ə

こんな流れ。音韻の変化が地方→中央に波及する流れは、オ列長音の開合の統合やエ・セの直音化などで類例があるので
そんなに不自然ではないと思う。ただ東日本でəが消滅して5母音になったのは案外もっと早い時期かもしれない。


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