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献血供給事業団なんでもコーナーⅡ

83日下 一男:2009/02/16(月) 10:59:59
これについては詳細について分りません。投稿された人は出勤される前に書かれたのでしょう。
投稿の文を前にして何から書いていけば良いのか悩んでます。全ての人には長所と短所があり完璧と言える人はいないと思います。
青木氏が委員になったのは、彼が米国や南米での血漿の買血調査を命を懸けてやった、と後日に本人や知人から聞きました。この時期は私は事業団に在籍してないのです。でも彼の努力により完全な法律とはいえませんが、笹川会長を始めとする人達によって「エイズ事業法」が出来た事は間違いないでしょう。彼の話では米国で調査後、中南米のベリーナで飛行機に乗って飛び立とうとした時にゲリラから銃撃を受け、ちょっと離れた席にいた白人が直撃されて亡くなられた、という事です。すぐに離陸したので彼は無事に帰国し、その実態(買血血漿についての危険性)を知っている事により厚生省の委員に任命された、と聞きました。
私は以前昭和57年10月31日に退職した事について書いてますがそれに至る経緯は書いてません。先程も書きましたが私も同様に欠点も沢山あります。
私は武蔵野支所長から業務第一課長兼務城北支所長として本部に戻ったのが昭和55年3月1日です。その間に日赤の供給課長会議から外されていた事は前に書いてます。この会議に復帰するまでの経緯について少し触れます。これには当時の中央血液センター供給課長松村氏が深く関りがあります。その部分を記したのがありますがノートですぐに見つからないので後にします。
またエイズの件に戻ります。昭和55年の夏頃と記憶してますが、村上省三教授が事業団に来られ「何か変な病気が米国で出てる」と業務部長の青木氏と私に話されました。間仕切りした部長室で。その後、私が在籍してる間は青木氏が米国に行ってないので、調査に行ったのは昭和58年になってからだと思います。この様に彼は日本や日赤、事業団のために立派な仕事もしてます。
私事については事業団の歴史について記すときに必ず出ますし、また山口専務の退任や木村理事の事など出るでしょう。
突然だが、藤田氏が総務係長の時に書いた辞令(五代氏の懲戒免職)を木村氏が翌日に破棄。謎です。更に事業団に戻った昭和61年、藤田、西林両部長が散々病院の口座を無くしていった五代氏(当時課長?係長?)が彼等の上司になるとは?これも謎です。私はまるで分りません。これを知る人はいないですかね。


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