[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
美作菅家の偽系図
1
:
中村
:2019/02/03(日) 17:37:20
吉濱様、早速ご返事頂き有り難うございます。※どの部分が捏造されていると思うのか、資料を添えてお示しいただくのがよいと思います。 とのご指摘、ごもっともです。
すでに、☆前田氏 ―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」とありますがこの根拠は? ご存知の方も教えて下さい。とWeb Communication Board (平家物語を熱く語る!!)・・に投稿しました。
※前田氏の出自が原田氏であるのは事実ですが、原田氏は無論・前田氏も美作菅家の支流ではありません。原田氏は平忠常の五男で前田氏も平氏です。
桓武平氏・平の忠常の五男忠高(號は原田) Wikipedia平忠常参照
「美作古城史ニ」寺坂五男著 にある稲荷山城は原田四代興方が築城です。弟の沖春日向守は前田利家の始祖です。
◆原田氏について、平凡社『岡山の地名』 P238、に
◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書)原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒擾を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺の住持となり、忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった。
美作菅家の偽系図ですが、「宝賀寿男氏の偽系図という説」で、海海部図の由来・成立時期も含め宝とする。日本の歴史学への信頼性を疑問に思った次第だからです。
最古の系図として国宝に指定されたたこの「海部系譜」について由来・成立時期も含め内容は疑問だらけとして偽系図と断定されています。
そこで近々、美作菅家・原田氏の系図の作成された由来・成立時期をご説明します。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板