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議論しませんか?(議題検討スレ)

52Libra:2006/02/05(日) 00:17:08
2.《仏教における「信」》と《批判的合理主義における「命題の合理的保持」》

 「ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰と
なってしまうと思います」[*1]というわめさんのご主張ですが、これについて
は、わたしは、以下のようにお答えしておきます。
 
 「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論の部分について
は、仏教と批判的合理主義はその結論においてぴったりと重なるとおもいます。

 《仏教において肯定されている「信」》と《批判的合理主義における「命題
の合理的保持」》は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一
般論の側面においては、内容的には同じといってよいとおもいます。そういう
側面にのみ注目していえば、仏教で肯定される「信」は、仏教においてのみ肯
定されているわけではないということができます。

 さて、批判的合理主義というのは、「われわれが命題に対してとりうる態度
のうち、合理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマ
としているといってよいとおもいます。

 これに対して、仏教は、「われわれが命題に対してとりうる態度のうち、合
理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマにしている
わけではありません。批判的合理主義のような態度を当然の前提として、「で
は、われわれは、具体的にいって、どの命題を合理的に保持しうるのか」とい
う次のステップに挑戦しているのが仏教です。仏教は、保持すべき具体的な命
題(縁起説)を提示したうえで、それによって人は苦から開放されるとまでい
っています。仏教的信仰のこの側面にまで注目すれば、わめさんのようなご主
張は成り立たないとおもいます。わめさんは、仏教的信仰とそれ以外との間に
ある大きな違いに気が付いておられず、それゆえに、それらを一緒くたにされ
ているのではないでしょうか。

 仏教は、「命題の合理的保持」という点については、批判的合理主義のよう
な考え方を当然の前提としているといえますが、その点について詳細に議論を
展開しているわけではありません。ですから、仏教徒にとっては、自分たちが
立っている当然の足場をさらに論理的に掘り下げたものとして、批判的合理主
義の議論は傾聴に値するとおもいます。


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