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議論しませんか?(議題検討スレ)

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/12(火) 12:47:41
仏教・宗教・人生・哲学などについて議論しませんか?
ここにお越しの皆さんは、それぞれ個性的で、また上記に上げた課題にもお互い違った信条をお持ちの事と思います。
かく言うわめも、正しきに自分を合わせるという信条を持っております。(それって信条かよwボソ

ですが自らの信条に誤謬があるかもしれないとは思いませんか?
わめ自身は誤謬だらけだと思いますw爆 自分がそうだからって皆さんもそうだと思うことは誤謬(ぉぃw)かもしれませんが、自らに可謬性ある、そしてそれを正せることは望むところと思われる方は、是非この議題検討スレやそこから生まれる議題で意見を述べて、お互いの誤謬を改める一助としていただきたいと思います。

戸口 民也氏のエッセーから、パスカルの「信仰と理性」。
http://www.nagasaki-gaigo.ac.jp/toguchi/tog_essai/uzushio/foi_et_raison.htm

わめはこのパスカルの論、戸田氏の解説に賛同し、徹底的に理性を奮い、皆さんと議論しあっていきたいと思います。

2わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/13(水) 14:20:31
誰も参加してくれる気配無し・・・ (´・ω・`)ショボーン

えーっと、つまりは可謬性を認め合うもの同士が、批判的合理主義に則って議論し、お互いを高めあっていきましょうってことなんですけど。。。

参加希望や不参加の表明だけでもいいから反応が欲しいwヽ(`Д´)ノうわぁぁん

3フルナ:2005/07/13(水) 17:51:27
わめさん、こんにちは。

ぼくでよろしければ、お相手しますが・・・。
ただ、
>戸田氏の解説に賛同し、
これって悪いジョークのような気が・・・。

4わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/13(水) 18:05:56
フルナさん、とってもうれしいわめです^^

> ぼくでよろしければ、お相手しますが・・・。

よろしくです^^

> ただ、
> >戸田氏の解説に賛同し、
> これって悪いジョークのような気が・・・。

あ、キリスト教や神のところ?w汗
そこはキリスト教や神を、仏教・経典と置き換えてくださいw<(_ _)>
それ以外は非常にいいと思うのですがw

5わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/13(水) 18:15:12
そうそう、なんでパスカルを持ち出したかって言うと、宗教って全般的に信じる事を重視するでしょ?
わめは、信じる事は嫌いだし、普通誰だって信じる前にそれがどんな宗教かとか、教えはどんなんだろうとか、疑うというか検証すると思うのよね。
パスカルのこの言は、理性で及ぶ範囲は理性をフルに働かせていこうという姿勢が見えて、その点は評価しているわけです。
って言い訳かなw

それはおいといてっとwぉぃ

フルナさん、なんかいい議題ないかな?

6フルナ:2005/07/14(木) 06:31:46
わめさん、おはようございます。

ぼくが悪いジョークと書いたのは、わめさんが戸口氏を戸田氏と間違えていたからです。

ところで、「いい議題ない?」と振られても困ります。なんたって、ぼくのHNは「ふるな」ですから(笑)。うーん、頭に浮かぶのは「法華経の久遠仏について」でしょうか?

7わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/14(木) 10:45:03
フルナさん、全然早くないけどおはようなわめです^^

> ぼくが悪いジョークと書いたのは、わめさんが戸口氏を戸田氏と間違えていたからです。

ほんとだw 戸口 民也氏のエッセーからって書いたのにそのすぐ下には戸田氏にw汗
すいませんマジミスです。m(。_。;))m ペコペコ…

フルナさんご提案の「法華経の久遠仏について」ですが、まだ寝起きでおつむが回ってないので、コーヒ−を飲みながら考えて、のちほどレスいたします。<(_ _)>

8わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/14(木) 11:01:38
フルナさん、コーヒ−を飲みながらのわめです。^^

「法華経の久遠仏について」ですが、形而上学を元に議論するのは難しいかもしれません。
ですが、形而上学から形而下に落としこめる可能性もあり、また、形而下からの批判的意見も面白いかもと思いますので、このことを議論することに賛成いたします。^^

ですのでよかったら議題提案者として、フルナさんから新スレッドを立てて頂き、ご自分の意見も書いていただけませんか。

よろしくお願いします<(_ _)>

PS
それと議題はいくつあってもいいと思いますので、他にもご提案がありましたらお願いします。
フルナさん以外の方というか、できるだけ多くの方に参加してもらえるとうれしいです^^

9名無しさん:2005/07/15(金) 08:33:36
おはうよございます。このところ遅レスですみません。

新スレは気が引けますので、「法華経を考える」ではいけませんか?

10わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/15(金) 21:37:17
フルナさんが名無しさんになってるw汗

> おはうよございます。このところ遅レスですみません。

いえいえ、わめこそ遅いレスになってます<(_ _)>
でもチャットじゃないのですから全然構いませんよ^^

> 新スレは気が引けますので、「法華経を考える」ではいけませんか?

法華経についてのスレットは既にありますので、そこで議論をするなら新スレは必要ありませんが、新たに「法華経を考える」というスレッドを立てるのもいいし、どうしよう?w汗

11フルナ:2005/07/16(土) 06:09:17
わめさん、おはようございます。名無しのフルナです。

あまり難しく考えずにいきましょう。ここのオーナーはわめさんなのですから、あなたの思うようにされたらいいと思います。

議論のやり方も、どちらかというと、こちらから意見を書くのは苦手です。

12わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/16(土) 09:47:31
フルナさん、皆さん(*゜ー゜)vオハヨ♪

> わめさん、おはようございます。名無しのフルナです。

(⌒▽⌒)アハハ!

> あまり難しく考えずにいきましょう。ここのオーナーはわめさんなのですから、あなたの思うようにされたらいいと思います。

わかりました^^
じゃ「法華経を考える」との議題は、「法華経について」スレがありますからそちらでお願いします。
既に突っ込みどころ満載な、わめの投稿がありますのでそれに反論でもいいし、フルナさん感じるままの法華経について語るもよしと言うことで、投稿をお願いします<(_ _)>
と言うか既存スレには、どなたも自由にご意見を書いてください。^^

新スレの提案はこちらに書くか、独断でスレ立ててもらってもいいです。
ただ独断での新スレは、この掲示板には相応しくないと判断した場合は削除させていただく場合もありますこと、前もってご了承ください。

> 議論のやり方も、どちらかというと、こちらから意見を書くのは苦手です。

議論のやり方はかなりポパってしまいますが「可謬性を認め合うもの同士が、批判的合理主義に則って議論し、お互いを高めあう」でお願いします。<(_ _)>

13わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/16(土) 09:58:31
議論にはならないと思いますが、趣味を通り越してライフワークとなってしまったTV番組全般・映画スレを立てようかな♪
TV番組はドラマ中心に、地上波デジタルx2(うち1台はCS・BS・CATVデジタルと併用)でキャプ・エンコ(トランスコードだけどエンコが俗語)してます^^
TV全般番組・映画に関する感想・ご意見などをお書きください。
またキャプ・エンコについては、法に触れない範囲でアドバイスできるかも?^^

14わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/20(水) 14:01:06
議題の提案です^^
日蓮大聖人について議論するってのはどうでしょう?
青空さんやしずくさんも、日蓮大聖人には関心があると思うし、わめも日蓮大聖人命の時代があったし、わめにとって今も日蓮大聖人は、心情を駆り立てる原点でもあり、行動の原動力となってます。^^

フルナさんにとっても、法華経を宣揚した日蓮大聖人に関心がおありだと思うのですがどうかな?

15ほしのしずく☆ ◆85qvGhCCNc:2005/07/21(木) 00:45:38
私、教学も、仏教の歴史も、ほとんど知らず、大聖人についても、おおまかにしか分からないのですが、大丈夫かなあ?
「信」から信心に入ったので、頭の方が後からついていく感じなんですよね。(^^;)

16わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 01:37:38
しずくさん、こっちでもこんばんは^^

> 私、教学も、仏教の歴史も、ほとんど知らず、大聖人についても、おおまかにしか分からないのですが、大丈夫かなあ?

お勉強するいい機会じゃないですか?(⌒^⌒)bうふっ
わめもおさらい&誤謬の発見のいい機会かもです♪

> 「信」から信心に入ったので、頭の方が後からついていく感じなんですよね。(^^;)

これは大半の方がそうなんじゃないかな?
わめは反発心から疑問をぶつけ、あべこべにミイラ取りがミイラになっちゃった口ですがw笑

17フルナ:2005/07/21(木) 07:22:20
おはようございます。ちょっとご無沙汰で申し訳ありません。「法華経」の方もなかなか浮かばなくて・・・。

日蓮聖人、面白いテーマじゃないですか?

18わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 10:26:54
フルナさん皆さんヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよう

>日蓮聖人、面白いテーマじゃないですか?

やった〜☆^∇゜) ニパッ!!

青空さんも参加してくれそうだし(勝手な思い込みw笑)、他の方もこのテーマなら参加してくれるかもね。
うふふっ(*゜v゜*)

ってことでスレ立てようと思いますが、日蓮さんの呼び方が人それぞれ(宗派も関係しそうw)なので、失礼ながら日蓮とさせて頂き、スレタイは「日蓮考察」といたします。^^

書き出しの内容にちょっと悩んじゃいそうなのでしばらく時間をくださいね。(^^;;

19ほしのしずく☆ ◆85qvGhCCNc:2005/07/21(木) 10:46:03
はあ〜い。
レスはゆっくりになると思います。
よろしくお願いいたします。
日蓮さんの呼び方ですが、日蓮”大聖人”と呼んでしまうかも。w
呼び捨て抵抗ありで。
すんまそん。

20わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:19:00
> レスはゆっくりになると思います。
> よろしくお願いいたします。

はーい、ルールとして書いておきましたので、安心してレスするのを忘れない程度にのんびりお書きください。
(レスするのを忘れるのはわめだけかw汗)

> 日蓮さんの呼び方ですが、日蓮”大聖人”と呼んでしまうかも。w
> 呼び捨て抵抗ありで。
> すんまそん。

これも呼び方は自由ですのでお気になさらずにね^^

21わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 16:29:19
日蓮考察じゃスレ違いになっちゃいそうなのでこちらで書こうw

葉末さんが書き込んでくれた。アリガト!(´▽`)

それと先だってはメールもいただきありがとうございました。('▽'*)ニパッ♪

> 私は日蓮さんにあまり親近感がありません<(_ _)>

↑が少し気になりましたので一点だけコメントしますね。^^

他の方の感情を意図的に逆なでするような書き込みはいけませんが、
日蓮さんにあまり親近感が湧かないって、それは葉末さんの感じ方であって何ら問題のないことですよ^^

わめは日蓮の身命を賭しての菩薩として生き様に、尊敬・憧れの念を感じておりますが、青空さんやしずくさんにとってはそれ以上の存在かもしれません。
フルナさんにとっては、法華経に帰依し、法華経の題目を流布しようとした人として、この点で良い評価があるかもしれません。
まぁこれはわめの推測なのですがw汗(お聞きしたいですがw
でもそれぞれの方の心情は違って当たり前だし、心情にどれが正しいかなどの答えは無いものだと思います。

ですのでこの点は、これからもお気遣い無くお書き込み下さればありがたいです^^

22わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 12:43:16
 わめの周囲のネット上では、創価学会に関する話題が多い。わめは創価学会員ではあるけど、創価学会についてそれほど関心がなくて、わめの掲示板のスレに創価学会と付くものは1個しかない。
 それとよく見てみると、アンチ系・シンパ系に分かれたサイトが多いように感じる。
 そこでわめの掲示板では、創価学会について心情とは逆の立場から語るスレを作ろうと思う。シンパは創価学会の悪いと思う点、アンチは創価学会の良いと思う点のみを語るスレを。これにより、より客観的事実としての創価学会像が浮かび上がってきそうな気がするのだがどうだろう?

皆さんのご意見をお待ちします。 <(_ _)>

23青空:2005/08/01(月) 13:42:11
中々鋭い!

ドラゴン桜の東大試験対策に似てるし^^;

私はシンパ?アンチ? どっちなんかな−−b

ある時は 親創派・ある時は反創派・・・しかしてその実態は@@b

24わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 13:50:09
> 中々鋭い!

にゃは^^

> ドラゴン桜の東大試験対策に似てるし^^;

それキャプ・エンコしてるけどまだ観てないw汗

> 私はシンパ?アンチ? どっちなんかな−−b
>
> ある時は 親創派・ある時は反創派・・・しかしてその実態は@@b

まぁその時の心情の逆のコメントでいいんでないの?(^^;

25祥子 ◆/awKLdKaPA:2005/08/01(月) 14:03:34
最近 単にアンチVSシンパになってしまってるかんじばかりだし
学会員さんでも 内部を憂いて改善を非力ながらも訴えてる方や
退転履歴もないですが 恋人 配偶者が学会員さんですので
活動に関わってるわけでないけど
まず一番身近な人が学会員さんなのですから

ただ批判ばかりに終始しても 疲れます またか、、だし
客観的事実を知りたいて言えますよ

>ある時は 親創派・ある時は反創派・・・しかしてその実態は@@b
七色の顔か いや千手観音か 手がいっぱいあって
いっぺんにいろんなことができる

ほんと その時の心情でどれがほんとでなく みんなほんとでしょう
それもスリリングでいいかも〜

26祥子 ◆/awKLdKaPA:2005/08/01(月) 14:06:21
スリルの意味が違うか、、(=▼ェ▼=)v-~~~

27わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 14:14:39
いや、前者が祥子たんのスリルと思って書いたのw

スレタイはちと長いが「創価学会を心情に反して語るスレ」ってどうよ?
他にこれがゞ( ̄ー ̄ )イイッテバってタイトル名あったらよろしく^^

28祥子焦らすなって ◆/awKLdKaPA:2005/08/01(月) 14:18:59
よいんでない~~┗─y(;´Д`)y─┛~~>タイトル
おおいにスリルたぷーり心情を暴露、いや大いに語りませう

29青空:2005/08/01(月) 14:39:28
あはははは^^ ヤル気無さそうな不敵な笑み、フテブテしく”必殺煙草二本挿し”してるし^^b

祥子さんって ホント おもろい^^ギャハハハ

私も そのタイトル賛成ですよ^^

30わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 14:43:00
作ってみたw笑

31わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 14:48:40
しかしわめのスタンスは微妙だなw汗
学会が無くなっちゃうと楽しみが減っちゃうし・・・w

32わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 15:29:13
ちょっと書きにくいスレだと思ってまずは書いてはみたが、どういうスタンスで書いたのか、書いた本人さえわからない・・・w
ε≡Ξ≡Ξ≡Ξ≡Ξ≡ヽ(;゜〇゜)ノアウアウ

33わめ</b> ◆TJ9qoWuqvA<b>[TRACKBACK]:2005/08/02(火) 00:43:41
寝てた・・・
>>27 はわめの勘違いだったわw汗
てっきり>>26
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1105189880/r44
についてのスリルのことかと思って書いたw<(_ _)>

34わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 23:40:31
自分達には何ができるだろう。
リアルではわめも色々やってきたけど、同じことを今やれって言われても難しいし、こうしてネットで情報交換できるのだし具体的にできることを考えてみるスレでもたててみたいと思うだが。

36わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/05(月) 04:02:05
 お客さんに頼まれて、アフィリエイト広告等を自サイトに設置する方法などを指導をするためにわめもEnjoyLife2ブログや他でアフィリエイト広告等を試してみたのですが、1ヶ月弱で万を超える収益がありました。
ヽ(^0^)ノ

 で、この収益を飢餓で苦しむ国々の方々に贈ることができたら指導で儲けたし(笑)、その付録のような収益を命の糧に役立てることができるならまさに一石二鳥です。♪

 取らぬ狸の皮算用ですが、年間で15万ほどにもなりそうなアフィリエイト収入ですが、日本では大した金額ではないにしても、飢餓で苦しむ国々の方々にとってはその10倍あるいは100倍の値打ちがあるのかもしれないと心を馳せております。^^

 わめも有効な寄付の仕方を調べてみますが、参考になるサイト等がありましたら教えていただければ、わめ以外の同じような思いを抱いている方の参考にもなると思いますのでそのようなスレを立てたいと思うのですがいかがでしょう。

37Leo:2005/12/05(月) 23:44:44
わめさん、こんばんは。

ぱっと思いつくのがやはりユニセフでしょうか。http://www.unicef.or.jp/
(DMによる批判もあるようですが...)
それから、
日本赤十字社 http://www.jrc.or.jp/

国際協力NGOセンター(JANIC) http://www.janic-ngoarena.org/

Save the Children http://www.savechildren.or.jp/contribute/index.html?adw=kh01

World Vision http://www.worldvision.or.jp/google/
などなど(スレも賛成)

38わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/06(火) 13:01:20
Leoさん、コメント&調べてもらってありがとう。^^

スレも立てる方向で考えます。
ただ、やりたい人はやったらいい程度で考えたいと思いますので、やりたい方の参考になれば的なスレにしようと思います。

人は考えれば他者のために役に立てることは一杯あるように思います。
これもそのひとつということでね。☆^∇゜) ニパッ!!

39祥子 ◆/awKLdKaPA:2005/12/06(火) 13:34:15
それぞれの方が賛同できるもので
そして微力ながら役に立てれば

個人的にですが ここのは賛同しています>make a wish
http://www.mawj.org/
難病の多さと難しさとそれに取り組んでる人達の大変さを
垣間見た思いです

41わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/06(火) 17:27:52
おっと、アネゴもご紹介アリガト!(´▽`)

ご紹介のmake a wishはちゃんと収支報告を公表してますね。^^
http://www.mawj.org/e.html

スレ開始時の説明文に、最近は寄付等の詐欺まがいのことも起こってますので紹介してもらう場合は収支報告の有無や、信頼できそうな団体かどうかなどを予めできる範囲で調べてもらった上でと言うことにしたほうがよさそうですね。^^

42わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/06(火) 17:29:46
>収支報告

あと経費はどうなっているとか。

43Leo:2005/12/07(水) 00:41:44
確かに収支報告の有無っていうのは重要なポイントですね。一応こちらに調べた範囲をメモっておきます。

ユニセフ 収支報告
http://www.unicef.or.jp/uni/org2.htm
http://www.unicef.or.jp/house/hou5.htm

日本赤十字社 決算報告
http://www.jrc.or.jp/about/kessan/index.html

44Leo:2006/02/04(土) 08:12:16
わめさん、おはようございます。

別スレでは脱線ぎみになってしまいましたが、シンプルに解説してみます。

・わめさんは経典(筏のたとえ)を引用して信仰は捨てるべきものとの意見でした。
・Libraさんが「仏教的信仰」について示しました。
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/145
 (これは色々網羅されているし練られた解説と思います)
・わめさんは納得されませんでした。
・同じことを何度も説明するのも骨が折れるとのことと時間がなくなった
 とのことでLibraさんは去られました。

別にわめさんが無理やり納得しなければいけないということは全然ないのですが
(仏教的信仰と同様に納得できないのに無理やり納得するものでないです)、
Libraさんはやるべきことはやった、という感じでしょうか。

お勧めとしてはLibraさんのご発言のわめさん版の書写を作成してみるとか
次回Libraさんが掲示板界に来られるようになるのは夏頃のようなので
それまでに気長に色々学んだりわめさんの掲示板や他の掲示板で
意見交換したりするというのはどうでしょうか(というかこれは
もしかすると普通のことですか)。

(ここからまた脱線です)Libraさんは以前色々な人から同じ質問を
受けるので難儀したのだそうです。それでホームページに資料集を作成
したのですね。一時期(今のホームページとは違うプロバイダだった頃)は
私からお願いして内容検索機能をつけてもらったことがあります。
今はGoogleがあるからよいですね(Libraさんのホームページは検索
結果でよく出てきます)。

45わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 11:46:11
 Leoさん(*゜ー゜)vオハヨ♪

 信仰は捨てるべきものかどうかにつきましては、師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰とするかどうかで変わってくるものと思いましたので、「仏教的信仰」を信仰とするならば捨てるべきものではなく、「仏教的信仰」を信仰とするのは不適当だとするならば捨てるべき信仰から除外され、信仰は捨てるべきものとなると思っております。ですのでこの場合の師匠と私の意見の大きな相違点は「仏教的信仰」を信仰と見るか見ないかだけではないかと思いますので、今回の根本テーマの「仏教的信仰」は捨て去るものではないという統一見解はでたものと思っております。

> お勧めとしてはLibraさんのご発言のわめさん版の書写を作成してみるとか

 掲示板の発言につきましては投稿ごとのリンクが出来ますので必要ないかと思いますが、ブログのコメント欄はそうはいきませんので掲示板に「わめ版の書写」があれば便利そうでいいですね。

> 次回Libraさんが掲示板界に来られるようになるのは夏頃のようなので
> それまでに気長に色々学んだりわめさんの掲示板や他の掲示板で
> 意見交換したりするというのはどうでしょうか(というかこれは
> もしかすると普通のことですか)。

 はい、是非お願いします。特に今私が意見交換したいのが、
・「仏教的信仰」を信仰と呼ぶのが妥当かどうか。妥当でないならどう表現すればいいか。
・それ以外の信仰は捨て去るべきものではあっても効能は否定できないと思うこと。
・初期仏教と日蓮(法華経)仏法においての(仏教的信仰以外の)信仰の位置づけ。
です。 できましたらお付き合いください。

> 今はGoogleがあるからよいですね(Libraさんのホームページは検索
> 結果でよく出てきます)。

 ここはGoogleに引っ掛からないように意図的に設定してあります。
 検索に掛かることが原因で場が荒れることもあるかもしれませんが考え直すべきかもしれません。
 検討してみます。

46Leo:2006/02/04(土) 16:09:59
わめさん、こんにちは。

> はい、是非お願いします。特に今私が意見交換したいのが、
>・「仏教的信仰」を信仰と呼ぶのが妥当かどうか。妥当でないならどう表現すればいいか。

まず仏教用語は一般の言葉と同じ言葉を用いて意味が違う場合があるので、
「「仏教的XX」をXXと呼ぶのが妥当かどうか」ということについて私は妥当という見解を持ちます。

(以下は工夫、提案です)
仏教的信仰の場合は信仰と書かず仏教的信仰と書くか、Libraさんの仏教的信仰の資料を編集して
仏教的信仰の注を置くかページを作成してリンクを貼るか、「信」、「浄信」、「信解」の言葉を
用いるかなどはどうでしょうか。

>・それ以外の信仰は捨て去るべきものではあっても効能は否定できないと思うこと。

確かに心理的効果などありますね。しかし「理にかなった」ことをやっていけば「それ以外の信仰」
は次第に克服されるのではないでしょうか。

比丘たちは呪術禁止のいましめを守りとおせなかった(松長有慶)
http://page.freett.com/Libra0000/038.htm

>・初期仏教と日蓮(法華経)仏法においての(仏教的信仰以外の)信仰の位置づけ。
>です。 できましたらお付き合いください。

3番目については確認してみますので少しお時間ください。

47わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 20:59:37
 Leoさん、こんばんは。^^

> まず仏教用語は一般の言葉と同じ言葉を用いて意味が違う場合があるので、「「仏教的XX」をXXと呼ぶのが妥当かどうか」ということについて私は妥当という見解を持ちます。

 師匠のいう「仏教的信仰」という言葉は仏教用語ではなく?略記であり、その中身は仏教に限らず”物事の正しい理解の仕方”を指しているように思うので仏教的というのも信仰というのも妥当とは思えないので、私は師匠の言われる「仏教的信仰」は信仰に非ずとして使わないほうがいいかなと考えているのですが、下記でLeoさんが言われる”工夫”があれば拘る必要がないのかもしれません。ですが、

> (以下は工夫、提案です)
> 仏教的信仰の場合は信仰と書かず仏教的信仰と書くか、Libraさんの仏教的信仰の資料を編集して仏教的信仰の注を置くかページを作成してリンクを貼るか、「信」、「浄信」、「信解」の言葉を用いるかなどはどうでしょうか。

 少し気になったのが検索すると既に「仏教的信仰」という言葉は多く使われているようで、またその中身は師匠の「仏教的信仰」の中身とも違っているようで、検索で用語の意味を調べる方(私もだw汗)からは誤解をされるおそれはないとはいえないかもしれません。
 ですので私は今のところ師匠の言われる「仏教的信仰」との表現は避けて、他の言葉を使おうかなって思っているのですが、他の言葉はありふれた理解・納得などとなってしまい真意を伝えているのかちょっと不安です。

> >・それ以外の信仰は捨て去るべきものではあっても効能は否定できないと思うこと。
>
> 確かに心理的効果などありますね。しかし「理にかなった」ことをやっていけば「それ以外の信仰」は次第に克服されるのではないでしょうか。

 私が気になったのが「日蓮考察」スレの師匠の93、94の慧と信の関係なのですが、「仏教的信仰」以外の信仰も「信は慧の因」が成り立つのではないかと思うことです。

 それと3番目に関わることだと思うのですが上記の慧と信の関係、93の「慧に基づいた信」と94の「信は慧の因」が一見ループしちゃっているように思うのです。
 ループを避け慧を中心に少し角度を変えて考えてみると、94の「信は慧の因」(聞法位・信解脱)はやがてそれが93の「慧に基づいた信」になると言うことだと考えることもできるのですが、94の「信は慧の因」も「慧によって煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生じていることとである」とあり、やっぱりそこにも慧は必要であると書かれているように思います。とすると94の「信は慧の因」の前提として慧が必要となるのではないでしょうか。

 上記の解釈から94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。
 また如来に対する信が確立は何によって起こるのかが私には不明です。

 このような「信は慧の因」の話は「日蓮考察」スレに戻ってやったほうがよかったかもw汗

48Leo:2006/02/04(土) 22:53:27
わめさん、こんばんは。

>師匠のいう「仏教的信仰」という言葉は仏教用語ではなく?略記であり、その中身は仏教に限らず”
>物事の正しい理解の仕方”を指しているように思うので仏教的というのも信仰というのも妥当とは思えないので、
>私は師匠の言われる「仏教的信仰」は信仰に非ずとして使わないほうがいいかなと考えているのですが、
>下記でLeoさんが言われる”工夫”があれば拘る必要がないのかもしれません。ですが、

> 少し気になったのが検索すると既に「仏教的信仰」という言葉は多く使われているようで、
>またその中身は師匠の「仏教的信仰」の中身とも違っているようで、検索で用語の意味を調べる方(私もだw汗)
>からは誤解をされるおそれはないとはいえないかもしれません。
> ですので私は今のところ師匠の言われる「仏教的信仰」との表現は避けて、他の言葉を使おうかなって思って
>いるのですが、他の言葉はありふれた理解・納得などとなってしまい真意を伝えているのかちょっと不安です。

Libraさんの示した「仏教的信仰」(以下「仏教的信仰A」と名づける)と、他の「仏教的信仰」
(以下「仏教的信仰B」、「仏教的信仰C」...と名づける)があるということですね。

「仏教的信仰A」は「釈迦」「初期仏教」「ブッダゴーサ」「法華経」「日蓮聖人」「牧口会長」
「Libraさん」に共通するものであり、「物事の正しい理解の仕方」としては仏教に無関係に用いる
ことができるとしても、Libraさん的には仏教から分離すべきものという主張はないようです。
(Libraさんは仏教を捨ててないと思います)

ですので、誤解を避けながら「仏教的信仰A」を示す場合は注かリンク貼るしかないように思います。
http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html

一方、わめさん的(仏教に拘っておられない)に「仏教的信仰」という言葉を用いたくないのであれば、
「理解」という言葉などを用いればよいのではないかと思います。
ただ、誤解を招くという理由や、わめさんがLibraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を無信仰的に
捉えたことは、Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を反駁する根拠としては不十分ではないか
と思います。

49Leo:2006/02/04(土) 22:56:39
Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を反駁する根拠としては不十分ではないか
と思います。



Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を「仏教的というのも信仰というのも妥当とは思えない」根拠としては
不十分ではないかと思います。

50Leo:2006/02/04(土) 23:55:53
ううむ。

Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を「仏教的というのも信仰というのも妥当とは思えない」根拠としては
不十分ではないかと思います。



Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を仏教的とも信仰とも呼ぶのが妥当ではないという根拠としては
不十分ではないかと思います。

でしょうか。

51Libra:2006/02/05(日) 00:07:40
 とても苦痛ですが、Leo さんにご迷惑をおかけしているようなので、修行だ
とおもってもう一度だけ書いてみます。


1.「仏教的信仰」という用語について

 わたしの用いた「仏教的信仰」という用語は「仏教用語」ではありません。

 Leo さんが「仏教用語は一般の言葉と同じ言葉を用いて意味が違う場合があ
る」(>>46)といわれているのは、たとえば「縁起」という用語のように、仏
教の文脈で使われる場合と、そうでない場合とでは、意味が違う場合があると
いうことだとおもいます。「信」や「信仰」という用語もそういった用語の一
つだということでしょう。

 同じことをもう一度いいますが、わめさんが「信仰」という用語を忌避され
るのはご自由です。ですが、仏教では、伝統的に「信仰」という言葉を忌避し
ておりません。仏教では、わたしがいうところの「仏教的信仰」を、単に「信」
と表現するのです。このことを正しく理解しておかないと、これまで仏教徒が
書いてきたものも正しく理解できなくなるおそれがあるとおもいます。

52Libra:2006/02/05(日) 00:17:08
2.《仏教における「信」》と《批判的合理主義における「命題の合理的保持」》

 「ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰と
なってしまうと思います」[*1]というわめさんのご主張ですが、これについて
は、わたしは、以下のようにお答えしておきます。
 
 「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論の部分について
は、仏教と批判的合理主義はその結論においてぴったりと重なるとおもいます。

 《仏教において肯定されている「信」》と《批判的合理主義における「命題
の合理的保持」》は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一
般論の側面においては、内容的には同じといってよいとおもいます。そういう
側面にのみ注目していえば、仏教で肯定される「信」は、仏教においてのみ肯
定されているわけではないということができます。

 さて、批判的合理主義というのは、「われわれが命題に対してとりうる態度
のうち、合理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマ
としているといってよいとおもいます。

 これに対して、仏教は、「われわれが命題に対してとりうる態度のうち、合
理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマにしている
わけではありません。批判的合理主義のような態度を当然の前提として、「で
は、われわれは、具体的にいって、どの命題を合理的に保持しうるのか」とい
う次のステップに挑戦しているのが仏教です。仏教は、保持すべき具体的な命
題(縁起説)を提示したうえで、それによって人は苦から開放されるとまでい
っています。仏教的信仰のこの側面にまで注目すれば、わめさんのようなご主
張は成り立たないとおもいます。わめさんは、仏教的信仰とそれ以外との間に
ある大きな違いに気が付いておられず、それゆえに、それらを一緒くたにされ
ているのではないでしょうか。

 仏教は、「命題の合理的保持」という点については、批判的合理主義のよう
な考え方を当然の前提としているといえますが、その点について詳細に議論を
展開しているわけではありません。ですから、仏教徒にとっては、自分たちが
立っている当然の足場をさらに論理的に掘り下げたものとして、批判的合理主
義の議論は傾聴に値するとおもいます。

53Libra:2006/02/05(日) 00:18:57
3.「慧に基づいた信」の「慧」について

 「慧に基づいた信」と「信は慧の因」が一見ループしているように見えると
いうのはおっしゃるとおりでしょう。しかし、文脈からすると、両者の「慧」
は、同じ「慧」という用語で表現されているとしても、そのレベルが異なるも
のと理解すべきでしょう。前者の「慧」はそれによって「煩悩の一分を断じて
いる」ところの「慧」ということなので、後者は、それによって煩悩を断じき
っているレベルの「慧」ということでしょう。

 もっとも、このような説明は、「慧」というものを、《もっとも低レベルの
もの》と《もっとも高レベルのもの》に理念的にわけたものにすぎず、実際の
「慧」というのは、この中間を、「スパイラル」にどこまでも運動していくも
のであるとわたしは理解しています[*2]。

 あと、「如来に対する信が確立して根を生じ」るのは、如来の説が「反駁し
得ないものとして説」かれているとしか思えないからでしょう[*3]。

54Libra:2006/02/05(日) 00:19:39
 [註]

  [*1] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/144

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/130

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/93

55Libra:2006/02/05(日) 00:54:45
>>50

 Leo さん、こんばんは。

 (仏教徒ではない)わめさんが、(仏教ではない)わめさんオリジナルのお
考えをどのように表現されようとも、それは全くの自由だとおもいます。

 ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

 わたしがいいたかったのはただそれだけのことなんです。

 「議論しませんか?」という本来のテーマでいうと、わたしが個人的に興味
をもっているのは、「ガンジーと対立しながら民族運動を展開し、〔中略〕つ
いにはカースト制度の元凶はヒンドゥー教にあるとして、数十万人を引きつれ
て仏教へ集団改宗した」[*]というアンベードカルですね。曽我さんの解説を読
む限りでは、アンベードカルの仏教理解は、わたしの仏教理解とも近そうです。


  [*] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha240.html

56わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 03:50:27
 Leoさん、Libra師匠こんばんは。

 私やここを見て下さっている皆さんには、LeoさんやLibra師匠のコメントは大変有意義なことと思いますが、LeoさんやLibra師匠に苦痛を与えてしまっているとした申し訳ないことです。
 ですので今回の議論についてはなるべく収束に向えるコメントを心掛けたいと思います。

> Libraさんの「仏教的信仰」(仏教的信仰A)を仏教的とも信仰とも呼ぶのが妥当ではないという根拠としては不十分ではないかと思います。

 「仏教的信仰」と呼ぶことについて妥当か否かはその見地によって変わってくるのかな思います。
 師匠は仏教徒として仏教の見地から、私は一般的な信仰のイメージの見地から述べていますので、この議論は平行線のように思います。よって「仏教的信仰」と呼ぶのも、また理解・納得等と呼ぶのも、また他の呼び方でもそれぞれ自由でいいのではないでしょうか。言葉足らずで論理性にも欠ける私であるのですが(汗)、読み手に誤解を与えないかは非常に気になりますので、Leoさんの言われるように「仏教的信仰」と呼ぶ場合には注かリンクを貼って頂ければあり難いなと思います。

57わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 03:51:08
 Libra師匠、こんばんは。
 またまたコメントを頂きありがとうございます。

> 仏教では、わたしがいうところの「仏教的信仰」を、単に「信」と表現するのです。

 そうですか、残念ながらまだ理解はできませんが師匠が言うのですからそのように受け止めるよう心掛けます。

 批判的合理主義と仏教の違いとして、次のステップに挑戦しているのが仏教とのこと、よく解りました。
 ですが、仏教以外の他の分野でも次のステップに挑戦はあると思います。次のステップに挑戦の意味から批判的合理主義は除外するとしても、仏教と他の分野とに大きな違いがあることにまだ気付けておりません。涙

 私情を挟むならば縁起を知ることにより、私にとって苦からの開放は本より、あらゆる面で良い意味での変化をもたらしました。
 そういった意味では私も仏教に思い入れがないわけではありませんが、自分事で煩わされることはまず無くなりましたし、煩わされるとすれば他人事ばかりとなり、慈悲第一(関係性重視)の生き方以外に残された道はないように思っております。

> 3.「慧に基づいた信」の「慧」について

 「信は慧の因」の信が「仏教的信仰」と言えるかどうかは不明ですが、この場合も単に「信」が「仏教的信仰」を指すと受け止めないといけないのかな。

58わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 04:16:41
 Leoさん、Libra師匠こんばんは。

>>55
>  ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
> りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

 私もそのように思っております。^^

 曽我さんサイトへのリンク読みました。
 思わずamazonで「ブッダとそのダンマ」を注文(ユーズドですけど)してしまいました。笑
 私も読み終えたら感想など書いてみたいと思います。

59Libra:2006/02/05(日) 07:15:19
>>57>>58

 わめさんは、今回、「理解はできませんが師匠が言うのですからそのように
受け止めるよう心掛けます」と返答されたわけですが、少なくともわたしはそ
のようなことは要求していません。わめさんもそのようなことはしたくないで
しょう。わたしが「苦痛」といった意味をどうか勘違いなさらないで下さい。

 わたしの苦痛は、わめさんが同意されないことに起因するものではけっして
ありません。というのも、わたしは、最初から、わめさんに同意などは求めて
いないからです。このことも、以前、申し上げました[*1]。

 わたしが苦痛に感じるのは、同じことを何度も書かなければいけないことで
す。

 「「信は慧の因」の信が「仏教的信仰」と言えるかどうかは不明」とのこと
ですが、不明なのでしたら、どうか頭をお使いになって、はっきりとお分かり
になるまでお考えください。「信は慧の因」の「信」は、初期仏教でいえば、
「信解脱」のことです。「信は慧の因」の「慧」は、初期仏教でいえば、「慧
解脱」のことです。

 今回、わたしの「シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどとい
うことはありませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきて
おります」との発言に対して、わめさんは「私もそのように思っております」
と返答されました。これを見たとき、正直、わたしは自分の目を疑いました。
もし本当にわめさんが最初からそのように思っておられたのだとすると、わた
しは何も言う必要はなかったようにおもいます。

 しかし、わめさんは、「ブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっております
が、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳
かもわけわかめ」[*2]といわれています。この発言が、上のことを理解された
上でのものだったとすれば、わたしからみれば、わめさんのご発言は「わけわ
かめ」です。

 以下は、わめさんの上記ご発言の前段部分に対するわたしの批判のひとつで
した。

  ─────────────────────────────────
   そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込ま
  れている文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬
  新な見解に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写し

  たものであると捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込ま
  れている文脈から、《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般
  をすべて否定している》という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもい
  ます。

   そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の
  諸宗教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとお
  もいます。中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定
  されています。

  (http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/92
  ─────────────────────────────────

60Libra:2006/02/05(日) 07:16:54
 わめさんは、「信仰を捨て去れ」という表現が埋め込まれている文脈を少し
でもお調べになりましたか。この句は、「釈尊がさとりを聞いたあとで梵天が
説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向って説いた詩のうちに」、あるい
は、「成道後の経過を述べるところに出てくる」のです[*3]。その文脈をとら
えて、中村先生ですら、「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグ
マ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろう」[*4]といわれているの
です。

 少なくとも、「信仰を捨て去れ」という句は、その文脈から考えて、「命題
に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述べたものなどではな
いでしょう。「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述
べたものとしてあげるとすれば別の箇所にされるべきでしょう(かつてバート
リーがそうしたように[*5])。

 わめさんが今回お認めになられたように、シャカは「信」という言葉を肯定
的にも使っています。たとえば、『スッタニパータ』第184詩に、「ひとは
信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり
ます。もちろん、仏教徒は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」につい
てシャカが述べたことをもきちんと理解しています。

 以上のような理解にもとづいて、「仏教徒がシャカの教えを信仰する」こと
は「わけわかめ」なことなどではないということを、わたしはすでに述べまし
た。今回述べたことは、そのほとんどがすでに述べたことの繰り返しにすぎま
せんから、わめさんは、これまでと同じく、同意はされないでしょう。わたし
も、もうこれ以上は書けません。

 あと、ここまでの議論を追跡された読者の方々(そのような方はおられない
のかもしれませんが)に対して最後に言っておきたいのは、わめさんのご主張
のほうを正しいとおもわれるのであれば、素直に、わめさんのご主張のほうを
支持して頂きたいということです。

 先に、わたしは、「夏になったらまたここに戻ってくる予定」というような
ことを書きましたが、これはいちおう撤回しておきます(精神的負担があまり
にも大きいので)。


  [*1] 輪廻転生について
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_003.html

  [*2] 宗教はやっぱり好きになれない
     http://wame.seesaa.net/article/10650360.html

  [*3] 『スッタニパータ』第1146詩に付された註(『ブッダのことば
      スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp.430-431)
     を参照。

  [*4] 同上。

  [*5] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

61わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 08:47:17
 Libra師匠、おはようございます。

>  わたしが苦痛に感じるのは、同じことを何度も書かなければいけないことです。

 同じことを何度も書くのは苦痛ですね。(^^;; 問題は何故そのようになってしまうかだと思います。

> 「信は慧の因」の「信」は、初期仏教でいえば、「信解脱」のことです。「信は慧の因」の「慧」は、初期仏教でいえば、「慧解脱」のことです。

 「慧解脱」は「智慧をみがいて悟りに達する」ことですね?(^^;

>  今回、わたしの「シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはありませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております」との発言に対して、わめさんは「私もそのように思っております」と返答されました。これを見たとき、正直、わたしは自分の目を疑いました。もし本当にわめさんが最初からそのように思っておられたのだとすると、わたしは何も言う必要はなかったようにおもいます。

 >>45 でも書きましたが、私は仏教徒ではなく一般的見地で意見を述べておりますので、師匠の言われる「仏教的信仰」は一般的には信仰ではないものとの認識がありそれが一つの要因、後で述べますが佐倉哲氏の見解も私と同じような視点ではないかと思うところがありそれもひとつの要因なんじゃないかと思っております。私のこの件に関するコメントを抜粋してみますが、この点をご留意くださればありがたいです。

「日蓮考察」スレ98  ですので私は師匠の言われる「仏教的信仰」の意味からは、「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれないとも考えられる
「日蓮考察」スレ121  信も正信や盲信などで意味が違ってきますから、私もどのような信仰もすべて忌避すべきものとは思っておりませんし仏教的にもそうだと思います。
「日蓮考察」スレ135  「正しい理解」や「真実・真理を知ること」、知ったことや理解したことはどうあがいても捨てられないように思います。(^^;;
「日蓮考察」スレ148  私は師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”については正しい見解だと思います。
 また釈迦の「信仰を捨てよ」には、この”「仏教的信仰」の中身”は含まれていないと思いますので、捨て去るべきものではないと思います。
>>45  信仰は捨てるべきものかどうかにつきましては、師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰とするかどうかで変わってくるものと思いましたので、「仏教的信仰」を信仰とするならば捨てるべきものではなく、「仏教的信仰」を信仰とするのは不適当だとするならば捨てるべき信仰から除外され、信仰は捨てるべきものとなると思っております。ですのでこの場合の師匠と私の意見の大きな相違点は「仏教的信仰」を信仰と見るか見ないかだけではないかと思いますので、今回の根本テーマの「仏教的信仰」は捨て去るものではないという統一見解はでたものと思っております。

 以上のように「仏教的信仰」や正信については肯定的に書いておりますので、私が信(信仰)という言葉に全否定的ではないことが分かって頂けるのではないでしょうか?

62わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 08:47:50
 続きまして、私の思う佐倉哲氏の信仰に対する見解ですが『自灯明法灯明』*1で引用させてもらった箇所を改めて転記します。

ダンマパダ、97には『何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism33.html

『この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。 『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』 』
『平静なこころがまえとおもいの清らかさ、それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。 (スッタニパータ 1107) 』
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism31.html

 一応佐倉哲氏のHPの仏教に関するページはほとんど何度か読ませて頂きましたが、師匠の言われる「仏教的信仰」を除外すれば、佐倉哲氏も信仰は否定的であるように思います。また氏は師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰とは見ていないようにも感じますし、この点も私の見解と共通点があるようにも思います。

 私は自身の進もうとする道から、仏教的見地ではなく一般的見地で今後も意見を述べていきたいと思っております。

*1 『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

63Leo:2006/02/05(日) 08:55:06
Libraさん、おはようございます。

> (仏教徒ではない)わめさんが、(仏教ではない)わめさんオリジナルのお
>考えをどのように表現されようとも、それは全くの自由だとおもいます。

> ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
>りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

> わたしがいいたかったのはただそれだけのことなんです。

私の力が足りなくてわめさんにうまく説明できなくてすみませんでした。

> 「議論しませんか?」という本来のテーマでいうと、わたしが個人的に興味
>をもっているのは、「ガンジーと対立しながら民族運動を展開し、〔中略〕つ
>いにはカースト制度の元凶はヒンドゥー教にあるとして、数十万人を引きつれ
>て仏教へ集団改宗した」[*]というアンベードカルですね。曽我さんの解説を読
>む限りでは、アンベードカルの仏教理解は、わたしの仏教理解とも近そうです。

アンベードカルは知りませんでした。ご紹介ありがとうございます。


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